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<title>私は語りたい（失われた２０年からの反転攻勢）</title>
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<description>言います、書きます、嘆きます。相当真面目に。</description>
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<title>宮部みゆき　火車</title>
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<description>　このところ、現代を代表する作家の作品を読もうと思い、文庫を買うときには意識して...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　このところ、現代を代表する作家の作品を読もうと思い、文庫を買うときには意識して選ぶようにしている。先日ブログに書いた平野啓一郎の「顔のない裸体たち」に続いて、宮部みゆきの「火車」を読んだ。これは平成四年の作品なので、もう十七年前の作品になる。山本周五郎賞を受賞しているし、買った文庫は第六十刷になるので、評価も人気も高い本である。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　背伸びをして購入した分譲住宅のローン返済に行き詰った福島県の勤め人一家が、夜逃げをして散り散りバラバラになる。父母娘の三人家族であるが、当時高校生だった娘がこの小説が展開する事件の中心をなす。取り立て屋からひたすら逃げ回ることが彼女の人生になってしまい、身売りされたも同然の状況に追い込まれる。それでもなお逃げ続け、数年後には伊勢の旅館に住み込みで働く場所を見つける。そこで地元の裕福な不動産業者の息子と関係ができ、親の反対があったものの結婚することになる。これで逃亡生活にも終止符を打つことができると思いきや、籍を移したことで足がつき、再び取り立て屋から嫌がらせを受けることになる。彼女と夫は、債務を負っている父親が死んでいれば追い回されることがなくなり苦境から逃れられると考え、東京に行って、生き倒れになった労務者の記録を調べて歩く。しかし、どうか死んでいてくれ死んでいてくれと祈りながら記録をめくる妻の鬼のような形相に夫は失望し、離婚を求める。こうやって再び彼女は孤独となる。この後、大阪で契約社員として通信販売の会社に職を得る。当然過去の履歴は隠している。彼女は、今の境遇から完全に抜け出すには、自分を捨て他人に成り変わることしかないと考える。そしてそのために通販の顧客データベースを利用する。コンピュータはセキュリティーが固いので、入力後のシートを、同僚の男性社員をたぶらかして手に入れる。対象は、身内の少ない顧客が望ましい。何人かをリストアップする。第一の標的は姉しか身寄りのいない同年代の女性だ。ガソリンを使って放火で殺害を企てたが、一命を取り留め、病院で治療を受けることになる。計画は失敗した。だが、彼女にとっては都合がいいことに、第二の標的であった、母一人子一人の境遇にあった女性の、その母親が階段から転落し事故死したという事実を知ることになる。これで新たなターゲットを追いかけることになった。標的の女性に近づき、殺害を実行する。そしてこの女性になりすまし新たな人生をスタートさせた。東京で職を得た小さな会社で、出入りの銀行員と知り合い婚約する。そこまでは順調だったが、男性の勧めでクレジットカードを作りに行って失敗に気が付く。入れ替わった女性が信用情報機関のブラックリストに載っていてカードが作れなかったのである。このままでは入れ替わった意味がなく、また過去が暴露する恐れもある。すぐさま、婚約者のもとから逃亡する。（作品の構成ではここがスタートになっている）そして、再び第一の標的に近づく。入院中であった姉が死亡していることが分かったからである。この女性に電話で連絡をとり、銀座のイタリアンレストランで待ち合わせをすることになる。そこには、この小説で事件を追いかけてきた休職中の刑事と仲間の刑事、捜査への協力者が待ち構えているのである。ここで、この作品は終わる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　事件の社会的背景が分かりやすく書かれている。多重債務者を生みださざるをえない社会の仕組みに対する告発の書であると同時に、そういう境遇に陥らないための教育の書であるとも言うことができる。この小説が支持されているのは、ここで訴えている危険が身近に存在していることが誰にも分かるからだろう。住宅ローンになればある程度慎重にはなるものの販売会社と銀行が組んで貸しこもうとするし、カードでの割賦購入、キャッシングは手軽に行えるようになっており、コマーシャルはここかしこに溢れている。そういう環境で、一部の消費者は（といっても、極一部ではない）堅実に使いこなすことができず支払能力を上回る。その時に手を出すのが消費者金融である。この高利の攻撃を逃れる道は自己破産であるが、それさえ出来ずに逃げ回り消耗し、最後は列車に身を投げて最終逃亡を図る人も出てくる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　明日は我が身かもしれない。誰しもなんとかなると思う。しかしどこに落とし穴があるかもしれない。病気や事故で働けなくなったら？考えただけでも恐ろしい。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&amp;nbsp; おまけ：今後読む予定の小説　→　石田衣良「アキハバラ＠ＤＥＥＰ」、吉本ばなな「ＴＵＧＵＭＩ」、角田光代「対岸の彼女」&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>文学</dc:subject>

<dc:creator>奇人変人大魔神</dc:creator>
<dc:date>2009-07-12T19:46:14+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://mind-body-younger.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-5f12.html">
<title>置いてきぼり</title>
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<description>　世の中の変化が激しい。生まれてこの方、変化のない時代はなかった。それでも就職す...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　世の中の変化が激しい。生まれてこの方、変化のない時代はなかった。それでも就職するまでは比較的安泰だった。会社に入ってからバブル経済があり、そしてはじけた。そこが日本の苦難の始まりだった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　バブルの傷は大きかった。企業は三つの過剰を抱えた。人の過剰、設備の過剰、負債の過剰である。労働者は「余剰人員」という呼び方をされ邪魔者扱いされた。新規の採用を抑制し、資産を売り払い、負債を整理していった。政府も国債を大量に発行して財政出動し、企業を救済した。それでもまだ復興は十分でなかった。企業に安い労働者を供給するために派遣社員に対する制限が取り払われた。さらに小泉首相の規制緩和によって景気が回復したかに思われた。確かに一部の企業（自動車や電機・通信など）では業績が驚くほど向上した。しかし、それは好景気の恩恵が全国全階層に行き渡ることと同義ではなかった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ロスジェネが生み出された。大量の派遣社員が生みだされた。格差が広がった。希望が持てなくなった。恵まれた者と恵まれない者との差はますます広がっていくと皆が思っている。変化はなお続いた。サブプライムローン問題に端を発する金融危機があり、リーマンショックがあって経済危機へと発展した。その傷はしばらく癒えそうにはない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　経済の変化に合わせて会社も変わっていった。会社は変われる人材を評価する。同じ仕事を続けていたら、変化に乗り遅れる。それは間違いない。ほとんどの社員が変わろうと努力し、実際変わっていった。しかし、変われない社員もいる。世界観の問題か、性格の問題か、能力の問題か。そういう人を、次第に、悪気はなくてもお荷物と見るようになる。おれはこういう人間だからと割り切れば、雑務をしながらでも生きながらえることができるだろう。だが、それに耐えられない人もいる。なんとかついていこうと、もがくのだが、いつの間にか置いてきぼりになった自分を発見する。その戸惑いと苦悩が原因になってうつ病になる人も出てくるようになる。こういう場合、治療を受けたのち、配転させることになる。それでうまく適応し、回復すれば本人にとっても、会社にとってもひとまず安心である。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　できるならば、全員が前進して、一人の落後者も生み出さないのがよい。周りが手を差し伸べる必要があるし、本人も早く気づくべきである。厳しいけれど、のんきにしていては済まないご時世であることを伝えて、分かってもらわねばならない。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>生活雑感</dc:subject>

<dc:creator>奇人変人大魔神</dc:creator>
<dc:date>2009-07-12T00:39:42+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://mind-body-younger.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-89e9.html">
<title>目線と視線</title>
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<description>　目線と視線はほぼ同じ意味で使われているようだ。ニュアンスとしては視線の方が対象...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　目線と視線はほぼ同じ意味で使われているようだ。ニュアンスとしては視線の方が対象を凝視している感じがある。ここでは視線という言葉を使うことにしよう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　先日、森昌子の「２２才の別れ」を絶賛した。歌が素晴らしかったからなのだが、加えて表情の作り方と視線の遣り方に感心したというか、ぞくぞくするものを感じたのである。彼女もプロであるから自然に出ているようなものではなく、計算された動きに違いないが、視線を落としたり、正面を見たり、視線を上げたりと、微妙に動いている。特に印象的な場面は、「17本目からは一緒に火をつけたのが&lt;strong&gt;昨日のこと&lt;/strong&gt;のように」と歌うところで、視線を上げて遠くに目を遣るシーンである。それは過去を振り返る目として実に有効であった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　本論はここからである。どこに目をやるか、何を見るか。これは人間にとって根本的に大事な問題である。なぜならば、それによって人生が変わってしまうからである。下を向いて生きている人間は、つまずくことはないが遠くに行くことはできない。前をしっかり向いて、やや視線を上げて遠くを見据えるぐらいがよい。たどり着く先はあなたが目標としている場所だ。いつ着くのか確かではなくても、確実に近づいていることは間違いない。逆に、目標を持たない人間は、よそ見しながら歩いているうちに迷子になる可能性がある。実はそんな人間が大半なのかもしれない。50年、60年生きてきて、一体自分はどこに来てしまったのだろうかと呆然とする。そしてまた、そういう人間は老いやすい。そんな人でも初志はあったのだろう。忘れてしまうのだ。不要なことは早く忘れるべきだが、肝心なことは忘れてはいけない。それこそ、朝起きた時に、自分の行先はどこなのか考えるぐらいでないと目指す方向に進むことができないだろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　先日ある工場に出かけ、朝礼に参加したが、皆の視線が落ちていたのが気になった。何かしら元気がなく見えてしまう。実際そうなのだろう。前向きな、挑戦的な気持があれば前を向くであろう。とはいえ、そういう自分もうつむいて生きているかもしれない。鏡でもないかぎり、自分の姿は見えないのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;a href=&quot;http://www.youtube.com/watch?v=ZvzmdTB-O1g&amp;amp;NR=1&quot;&gt;http://www.youtube.com/watch?v=ZvzmdTB-O1g&amp;amp;NR=1&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>生活雑感</dc:subject>

<dc:creator>奇人変人大魔神</dc:creator>
<dc:date>2009-07-11T23:43:11+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://mind-body-younger.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-2012.html">
<title>増え始めたアクセス数</title>
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<description>　私は「ココログ」でブログを書いているのだが、カウンターを付けるサービスがあって...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　私は「ココログ」でブログを書いているのだが、カウンターを付けるサービスがあって利用している。それによって、アクセス数だけではなく人数やその他いくつかの切り口で分析することが可能になっている。単にブログを書くだけではなく、他に目的があるのでああれば、そのデータを戦略的に使うこともできるのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　さて、私は主にアクセス数とアクセス人数をウォッチングしている。これまで２年４か月あまりの間の１日平均アクセス数は５．９回である。特に積極的にＰＲしているわけではないので多くもなければ少なくもない数字なのだと思っている。勤めている会社の社員、同窓生、知人・友人の類に広く案内すれば、見てみようかという人がいくらか現れるに違いないが、そこまでの目立とう精神はない。今のところは、特に親しい付き合いの範囲でお知らせしているにすぎない。したがって、固定的な読者は１０人に満たないと考えている。土日のアクセス人数は７～８人と安定しているので、そのほとんどが固定読者すなわち私の親しい知人・友人であろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　固定読者以外は検索でひっかるケースである。キーワードでひっかかれば見られるチャンスが生まれる。チャンスを広げたければキーワードに工夫をすればよい。グーグルのキーワードランキングを見れば、この瞬間の流行り言葉を知ることができる。以前、草薙剛が事件を起こした時に、彼の事件についての見方を「試しに」書いてみた。そうすると明らかに一時的にではあるがアクセスが増加した。概して、芸能人やスポーツ選手に対する関心が強く、事件を起こしたり、記録を作ったりした時に検索が集中することになる。キーワードとして、固有名詞が強いと言っていいだろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ところで、今週の月曜日からアクセスの記録に変化が現れた。アクセス数が増えだしたのである。この１週間の一日平均アクセス数は２８回である。この増え方はなにかあったに違いない。単なる偶然でないことは明らかだ。たまたまこの間に、世間での検索実行者が増えてこのブログに行きつく確率が高まったとは考えにくい。では逆に一人の人間が、ワード検索によらず私のブログに直接アクセスして、なめまわすように見ているとの想定はどうだろうか。これはありうる。ありうるが、５日間もそれを続けられるほど私の文章は魅力的ではあるまい。したがって、そういう人が混じってはいても、大半は「一見さん」だと思われる。今までの推測を総合的に考えると、何らかの方法・媒体を使って私のブログが広く知らされたのではないかという仮説にいきつく。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　しかし、今のところその検証はできない。そこを詮索してもあまり意味はないだろう。できるだけ多くの人に読んでもらいたいという欲求はある。あるが、今は自然な流れに任せようと思う。データを見ながら、あれこれ思いを巡らすことの方に意味がある。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>生活雑感</dc:subject>

<dc:creator>奇人変人大魔神</dc:creator>
<dc:date>2009-07-11T12:12:40+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://mind-body-younger.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-78aa.html">
<title>２２才の別れ　森昌子について</title>
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<description>　伊勢正三の作詞作曲で、１９７５年に“風”が歌ってヒットした「２２才の別れ」。私...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　伊勢正三の作詞作曲で、１９７５年に“風”が歌ってヒットした「２２才の別れ」。私が高校生の時に流行った歌で、キャンプの時に皆で歌った覚えがある。詞も曲もナイーブな感じがして、ちょうど多感な年代にはたまらない歌だった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　最近、休日の夜はＹｏｕＴｕｂｅでナツメロを聞くのが楽しみになっている。今日は、懐かしの「２２才の別れ」をかぐや姫で聞き、“風”で聞き、松山千春で聞き、村下孝蔵で聞いた。それぞれに特長があり、面白いのだが、やはりヒットした“風”の歌声がいいように思った。これは若いころの記憶が残っていて、歌声に乗って様々な情景が蘇るからなのだろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ところで、ここからが本題なのだが、そのあと、森昌子の「２２才の別れ」を聴いてしまった。そう、聴いてしまったのである。私にとってはまさに衝撃的であった。もともと森昌子の歌唱力には定評があり、私もそれは認めていたが、この歌をこれだけ繊細に歌えることが信じられなかったのである。この抒情性は、さだまさしのコスモスにつながるものである。“風”もいい味を出しているが、それはフォーク世代の感性であり、演歌を歌ってきた森はそれ以前の感性を表現してしまう結果になってしまったのだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　そういうわけで、すっかり森の歌に感動した私は、続いて「越冬つばめ」を聞いた。これは円広志が作った曲として有名であるが、社員旅行のカラオケ大会で私が歌い、優秀賞として１万円いただいた曲なので思い出深い。この曲も、森はとても上手に歌っている。元の詞もよいのであるが、彼女の歌声に乗ってしまうと、あまりに切ないのである。森昌子は決して美人ではないが、こんな歌を聞かされていると、うんといい女に見えてくる。実際いい女に違いはなかろうが、やっぱり女は怖い。女は化けるのであるから。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　これを読まれた方は是非YouＴｕｂｅで森昌子の「２２才の別れ」を聴いていただきたい。ただし、２０代の森昌子でなければならない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　&lt;a href=&quot;http://www.youtube.com/watch?v=ZvzmdTB-O1g&amp;amp;feature=related&quot;&gt;http://www.youtube.com/watch?v=ZvzmdTB-O1g&amp;amp;feature=related&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>映画・流行歌・その他芸術</dc:subject>

<dc:creator>奇人変人大魔神</dc:creator>
<dc:date>2009-07-05T23:17:34+09:00</dc:date>
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<title>蝉が鳴いた</title>
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<description>　今年初めて蝉が鳴くのを耳にした。私が住んでいるマンションの正面に、高い樹が集ま...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　今年初めて蝉が鳴くのを耳にした。私が住んでいるマンションの正面に、高い樹が集まるちょっとした林があって、例年夏になると蝉の大合唱が始まる。そのスタートが今日になるのだが、朝方少し聞こえたきり後が続かなかった。小手調べということだろうか。ある資料によれば、近畿地方での蝉の初鳴きは、ミンミンゼミは７月の初旬、クマゼミが７月の中旬となっている。とすれば、今朝の蝉はミンミンか？前の林の蝉はクマゼミばかりかと思っていたが何種類かあるのだろう。そういえば、アブラゼミが道に転がっているのを見たことがある。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　子供のころも、夏休みと言えば蝉というぐらい、家の周りで騒々しく鳴き続けていた。朝は蝉が目覚まし代わりだ。早朝から恐ろしく日差しがきつく、フラッシュをたき続けているほどの照度であった。そんな状態でも裸同然で外へ飛び出し、野球をしたり、川へ水遊びに出かけたりしたものだ。当然体は真っ黒になる。昨今は、紫外線が体に悪いとかいうが、当時はそんなことを言う人は誰もいなかった。ただし、農作業をするひとは麦わら帽子をかぶり、長そでのシャツを着ていた。そうしないと暑さで倒れてしまうからだ。農民は自然の怖さを知っている。趣味で家庭菜園を始めた人などは、夏場の熱中症に要注意である。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　話は逸れてしまったが、蝉の鳴き声は夏の風物詩のひとつである。夏の終わりにはツクツクボウシが鳴く。クマゼミに比べると控えめな声で、それが余計に夏の終わりを告げているように聞こえる。少し寂しい気持ちにさせられたものだが、同時に宿題を早くやれという叱責の声にも聞こえたのである。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>生活雑感</dc:subject>

<dc:creator>奇人変人大魔神</dc:creator>
<dc:date>2009-07-05T10:43:42+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://mind-body-younger.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-82ac.html">
<title>思考の整理学</title>
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<description>　外山滋比古さんの名著である。この本は１９８６年に筑摩から文庫で出版されたが、私...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　外山滋比古さんの名著である。この本は１９８６年に筑摩から文庫で出版されたが、私が手にしたのは１年あまり前のことである。購入のきっかけは新聞広告であった。それまでも大手書店の文庫コーナーで何度か手に取ったことはあったものの棚に戻していた。新聞では、読者の声として、もっと早くこの本に出会っていればよかったと後悔の念が語られていた。それほどのものかと思いはしたが、買ってみることにしたのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　本の中身に詳細に触れることはしないが、ひとつだけ感心した部分を取り上げてみたい。それは文庫で、１９４頁から１９６頁にかけての文章である。そこでは、外山さん自身はそういう言葉を使ってはいないが、「現場知の可能性」について論じている。それは、私の外山さんについて持っていたささやかなイメージとは少し違った印象をもつ内容だった。そこまで論じられてきた内容も踏まえて、簡単にまとめると、「日本の教育は学校中心で、上から教えられる知識偏重の教育だった。たくさん記憶することが目的であり、試験もすでにある答えを貯えた知識のなかから取り出す形になっている。こういう教育では、自分で考える人、まだ答えのない問題にチャレンジできる人は育たない。このような教育の伝統のなかで、知識は本の中にしかないと思われている。学生時代には読書にいそしみ、いくらか議論を戦わせた青年も、社会へ出て本から離れると、とたんに知的でなくなり俗物と化す。しかし、これからは額に汗して働く現場から知や思考が生みだされなければならない。それはこれまでもあったのだが、価値がないと決めつけられたために育たなかったのである。仕事をしながら、普通の行動をしながら考えたことを、整理して、新しい世界を作る。これこそが主体的に生きる新しいタイプの人間像である。汗のにおいのする思考がどんどん生まれてこなくてはいけない。それを単なる着想、思いつきに終わらせないためにはシステム化を考える必要がある。」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　外山さんの主張には耳を傾けたい。現場の知がもっと重視され、体系化され、それが日本の強みになっていかねばならない。昨今の経済情勢を見ていても、その点では多くの人が同意するだろう。生産現場での技術的な知がある。組織における協働関係構築の知がある。互いの存在を認め、過度の競争を避け、共存共栄を図る知がある。そういった知を体系的に現場から組み立てる必要があるのである。心配なのは、企業が偏狭な姿勢をとって知の交流をせき止めてしまうことだ。また、労働者も企業内組合の制約の中で情報の発信に積極的にならないことである。非常に壮大な話になってしまったが、まずは、本をたくさん読んで知識を身に着け博学をめざす教養主義は捨て、「知は現場にあり」という考え方にシフトすることだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　最後に、外山さんの主張と加藤周一の主張とを比較してみると面白い。私は、基本的には矛盾しないと考えている。ともに、若い知識人の大きな部分が残念ながら見せかけにすぎないことを喝破している。社会へ出たとたんに多くの者の化けの皮が剥がれるという主張もおなじだ。ただ、これは外山さんが「知識人論」として書いていないので触れていないだけだと思うが、加藤は、「学生時代に学び、学んだことを自分の思想まで高めた者は、社会へ出ても決して揺らぐことがなく、生き続ける。」という趣旨の発言をしている。学校で学んだこと、本で学んだこと全般が無意味なのではない。言っていること、書いていることに対して真正面から立ち向かったかどうかの問題ではないか。そうやって掴んだ結論は簡単に消えはしない。職場でも同じで、起こっている現実に対峙しなければ知なぞ生まれてくるはずはない。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>思想・哲学・モラル</dc:subject>

<dc:creator>奇人変人大魔神</dc:creator>
<dc:date>2009-07-05T10:11:14+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://mind-body-younger.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-4fe9.html">
<title>個人情報の流出</title>
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<description>　金融機関などから個人情報が大量に流出するという事件が後を絶たない。それは過失に...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　金融機関などから個人情報が大量に流出するという事件が後を絶たない。それは過失によるものもあるし、意図を持って行う犯罪行為による場合もある。いずれにしてもセキュリティーの甘さが原因であり、情報の扱いの難しさを感じる。１年近く前になるが、情報漏洩に関するセミナーに参加し、情報流出の実際にあった事例を聞いて怖さを感じた。例えば、女子大生からデジカメに使用した消去済のＳＤカードを集めて回った青年のケースがあった。消去しても完全には消えておらず、復元できるらしい。それを知らない女学生はデータを渡してしまい、プライベートな画像が危うく広汎に流失しそうになった。また、コンビニで宅配便を出すことの怖さを教えられた。荷物には差出人の住所、名前、電話番号が書かれている。受け付けたバイトの青年がそれをコピーして、女性のアパートに侵入する事件があった。鍵がなければ入れないと思うが、入口の周辺に合いカギを隠している場合が多く、探し出して入ったという。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　こういうことが世間で起こっている。私も過去の経験で意外に盲点になると思ったことがある。それは廃品回収である。子供会で活動資金を作ることと活動への理解を広げるために月に一度、古新聞の回収を行っていた。他に雑誌も出してもらったが、これはお金にはならない。新聞を小型トラックにいっぱい集めても５千円になるかならないかで、これじゃ一人５百円ずつ出し合った方がましだなと言い合ったものだ。とはいうものの、それはそれで意味のある活動だったが、集めているといろいろな新聞があり、雑誌に至っては見たこともないようなものが出ていた。そこで思ったのは、どういう新聞、どういう雑誌を見ているかでその家の考え方がおおよそ分かるということなのだ。特別詮索はしないのだが、聖教新聞があったり、赤旗があったりする。雑誌もアエラからサピオに至るまで種々ある。あるいは低俗な漫画雑誌が数多く出ていたりする。それでもってその家の考え方や知的水準が推測できてしまうのだ。実際、子供会ではそんなことはしないが、やろうと思えばできることなので、出す側には注意が必要である。宗教関係や政党関係の新聞は商業新聞の間に挟んで出すとか、人の目に触れさせたくないものは普通ゴミに混ぜて出すとかの配慮が必要だろう。業者に直接出す場合は、回収後に中をあさられるとお手上げなので危ないものは抜き取り、どこの家庭か特定できる情報が混ざらないことを確認のうえ、やはり一般ゴミに混ぜて出す方がよいだろう。最近ではシュレッダーを使う家庭も増えているという。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　これとは違う話だが、ごみ箱をあさればその家の暮らしが分かるといい、スーパーの出店をするときに品ぞろえの参考にしたという。この場合は地域住民の嗜好が分かればいいので個人を特定する目的はないのだが、それにしても気持ちのいいものではない。そうこう考えていると、そんなことまで気を使って暮らすのは息苦しいなあと思ってしまう。しかし、誰がどこで何を見ているかもしれない。昔なら地域社会はほとんど知っている人の集まりであったが、今は知らない人の集まりである。このままでは、ますます安心できない社会になる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>現代社会論</dc:subject>

<dc:creator>奇人変人大魔神</dc:creator>
<dc:date>2009-07-04T23:34:40+09:00</dc:date>
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<title>本当にすごいやつ</title>
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<description>　スポーツの世界に限るが、想像を超えたすごい結果を出すアスリートがいる。異なる種...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　スポーツの世界に限るが、想像を超えたすごい結果を出すアスリートがいる。異なる種類の競技で選手を比較することは難しいが、二番手三番手の選手との力の開きや一つひとつのプレーの水準の高さによって判断することが可能である。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　本当にすごいと思うのは、プロゴルフのタイガーウッズである。これまでもニクラウスのように強い選手はいたが、ウッズのプレーは神がかり的である。素人目に見ても、ショットの正確性は抜群であり、そのことが時として驚く結果を招くことになる。ショットがよければ当然ピンに絡んでくる。そこまではプロであれば当然のプレーとして見られるレベルであるが、ウッズの場合はチップインしてしまったり、長いパットが入ってしまったりするのである。こういうプレーは、たとえプロの選手でもそうそう出るものではない。おそらく、推測ではあるが、精度が一定の域を超えると、こういう現象が起こりだすのである。仮にそれを黄金領域と呼ぼう。この黄金領域を持った選手が何十年に一度の天才と言われるプレイヤーなのだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ゴルフ界では、ウッズには及ばないが、石川遼が天才の片りんを見せている。今日のミズノオープンで優勝した彼の１６番にそのプレーが出た。連続ＯＢでミドルホールを９打として首位に並ばれた彼だったが、１６番でチップインイーグルで再度引き離し優勝を飾った。普通は並ばれたところで崩れるのであるが、そこからまた劇的なプレーがでることを考えると、やはり只者ではないということなのだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　他のスポーツでもそういう選手はあるだろう。私はサッカーには詳しくはないが、マラドーナは奇跡的なプレーをする選手だったと記憶している。バスケットの世界にはマイケル・ジョーダンがいた。プロ野球ではどうだろうか。大リーグの歴史には詳しくないが、ベーブ・ルースはすごかったのだろう。イチローはどうだろうか。すごいには違いないが、ぶっちぎりだろうか。現在絶好調で、私の限界説を吹き飛ばしているが、なお限界説を取り下げていない私の鼻を明かすなら、是非来期も「．350」を超えてほしい。3割そこそこに終われば、やはり人並みに衰える人なのである。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>スポーツ</dc:subject>

<dc:creator>奇人変人大魔神</dc:creator>
<dc:date>2009-06-28T23:43:26+09:00</dc:date>
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<title>大局観</title>
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<description>　ニュース番組にはコメンテイターという立場で事件、出来事に対し自分の見解を述べる...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　ニュース番組にはコメンテイターという立場で事件、出来事に対し自分の見解を述べる役目の人が出演している。レギュラーとして置いている場合もあるし、ゲスト出演として何人かで回している場合もある。これは、司会者の見解だけでは見方が偏るということもあるし、司会者の見解は局の考え方として捉えられるので一定の制限を受けてしまうという事情もあるのではないかと考えられる。もっとも、直接的な狙いは、人気のある学者や評論家を出させて視聴率を稼ぐことにあるのだろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　そういう人たちのコメントを聴いていると、ありきたりで、それなら私でも言えるような中身だと思うこともあれば、なるほどそういう見方もあるのかと感心させられることもある。概して、前者の方が多い。事件に短絡的に反応するだけなら一般人でもできることで、多くの視聴者に向かって発言するなら、広い視野で、ある程度のデータも踏まえて発言すべきであると思う。例えば、殺人事件が起こり、そのやり方が凶悪で、しかも容疑者が少年だったりするとニュース性が高まり、番組で取り上げられることになるのだが、「いやあ、怖い世の中になりましたね。少年の心に何が起こったのか分かりませんが、二度と同じ悲劇を生まないために社会は真剣に考えなければなりません。」程度のコメントなら、あってもなくてもいいようなものである。もっとも、報道の中身が薄っぺらだとコメントのしようがないという事情もあってコメンテイターだけを責めるのは理不尽かもしれない。とはいえ、過去に類似した事件もあろうから、日頃から世の中の出来事に敏感であれば言い方はあるはずである。データから見れば青少年の凶悪犯罪は件数としては増えていないとか、質的にはこういう変化があるとか、社会的な背景として携帯電話やインターネットの普及が考えられるとか、地域社会における人間同士の接触の機会が減少しており原因としてはこういうことが考えられるとか、悩んでいる青少年へのカウンセリングの体制の問題があるとか、親の所得格差が少年達の生活格差を生み彼らの間に心の溝を作っているのだとか、そういう見方が加わるべきである。そういうものを付加価値という。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　近ごろ、大阪府の橋本知事や宮崎県の東国原知事の動きが頻繁に報道されている。知事たちの間で、地方に権限を委譲させるために政策連合を組み、総選挙に影響力を持つことによって政権党に圧力をかけようとする動きが強まっている。橋本と東国原は個人的な思惑も加わってか、積極的にその運動の宣伝役を買っている。これに対し、報道ステーションに出演していた日本総合研究所会長（他に多摩大学学長など多くの顔を持つ）の寺島実郎が、こういう趣旨の話をした。「中央対地方の構図を作り出し、マスコミを利用して選挙民に宣伝して、地方に権限を分捕ってくる動きを取っている。地方分権の課題はあるにしても、日本の現状を見ると中央政府が国家戦略を見失っており、国際政治の場で相対的に力を落としているので、中央の立て直しが重要課題になっている。そのような時に地方が強化されれば、さらに中央政府の弱体化が進むだろう。知事とはいえども、日本を支える政治家であるから、自分の行動が国民の将来に強い影響力を持つことを自覚して、目先の課題のために奔走することを自重すべきではないか。マスコミも彼らの行動を持てはやして、ことさら煽るようなことをしてはならない。」これを聴いて、真っ当な意見であると思った。私も、それまでは東国原らの動きを、かなり興味本位で見ていたのは確かだ。こういう指摘を受けて、司会の古舘伊知郎は少々渋い顔を見せていた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　結論。大局的にものを見ることが大事だ。その時々の目先の課題（これそのものが意図的に作られていたり、焦点がぼけていたりする）に囚われて、基本的な方向性を誤ってはいけないのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>現代社会論</dc:subject>

<dc:creator>奇人変人大魔神</dc:creator>
<dc:date>2009-06-28T13:32:15+09:00</dc:date>
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