カテゴリー「自分史・人生論」の105件の記事

2017年4月 1日 (土)

巡りあわせが運んでくる運もあれば、努力が引き寄せる運もある

 運には二つの種類がある。「巡りあわせが運んでくる運」と「努力が引き寄せる運」である。

 たとえば会社で与えられるポストなどは巡りあわせによることが多い。私が課長から部長に上がったのは、先の部長が病気で戦線離脱し、席が空いたからである。それをきっかけにして短期間に役員にまで駆け上がった。

 一方で努力が引き寄せる運もある。分かりやすい例として高校入試の経験を書こう。私は全国屈指の難関高校を受験しようと決意した。中学時代の成績は中の上ぐらいでとても合格できる水準ではない。中学3年になってから少しやる気が出てきて、少しずつ成績が上がりだした。そして受験3か月前になると絶対に合格すると決意し、早朝5時まで必死の形相で勉強し続けた。さすがにそこまでやると成績はうなぎ登りだ。

 それでも到底合格できるレベルではない。それでも試験日は充実していた。一発やってやろうかという気持ちである。しかし、解けない問題が多い。そもそも覚えていないことも多い。このままでは合格は無理だろう。そこで落ち着くためにトイレに行った。そして戻り、いなおって、じっくり考えていたら不思議なことに解けてくる。選択問題は勘の勝負だ。

 選択問題は、終わってから確かめてみるとほとんどが当たっていた。これはどう考えても実力ではない。運なのである。しかし、運ではあるが、あれだけ勉強したから付いてきた運であろう。

 

 とはいえ、運などに頼るものではない。人生は、自業自得である。

2016年9月 4日 (日)

青年の主張 あれはある種の暴力であった

 かつて、成人の日にNHKで青年の主張全国コンクールが放送されていた。これは、新成人にテーマを与え、それについて弁論、主張を行い、順位をつけようとするものであった。
 私が主に聴いたのは、中高生の時代であったように思う。当時はテレビは家族で見るものであり、この番組もそうであり、特に父親が好んで見ていたように思う。
 私の記憶にある主張は二つ。とはいっても、ごく一部の断片であるが。一つは養護施設で働く職員の話、もう一つは酪農を営む青年の話であった。詳しくは覚えていないが、いろいろな困難を抱えながらも、この仕事に誇りをもって打ち込んでいきたいというのが結論だったように思う。
 そういう主張を聴いていた私は、大層重苦しい気分になった。当時思春期にあった私は、心の中に迷いや苦しみがあって、決して楽しい時期ではなかった。そういう気分の時に、ある意味「立派な」主張を聴くと、それと比較して、自分はいかにダメな人間かを感じてしまうのだった。
 今振り返れば、主張した彼らのその後は、それを聴いていた方の若者と特別変わったものになっていないであろうと想像される。「立派な」人間は、それほど多くいるわけではない。彼らも並みの人間であったのだろう。
 一部に彼らやこの番組を揶揄して評論する人たちもいたが、私はそこまでの思いはない。若者に主張の機会を与えることはいいことだ。しかし、予選を通過して全国放送される内容は少し多様性に欠けるもので、それは主催する側の「期待」が色濃く反映したものであったろう。
 自分がどう生きるかという葛藤は、人にさらけ出すものではない。社会的な問題に対して主張し、議論を戦わせることは結構なことだ。それは確かに不足している。
 繰り返すが、立派な人はそんなにいるものではない。心配しなくてよい。

2014年1月24日 (金)

妻がかけがえのない存在だと気が付いた

 会社の同僚であるSさんは、昨年の夏に突然奥さんを亡くした。その後の彼の動揺は半端ではなかった。精神的ショックから、抗鬱剤、精神安定剤に頼る日々が続いている。

 そういう彼を見ていると、当たり前に同じ空間で暮らしている妻の存在を改めて確かめたい気持ちになる。ほとんど会話のなかった相手に、少し話しかけてみる。休日には、外出を誘うようになる。やはり、いなくなったら困る存在である。

 いつ死が訪れるかもしれない。それは自分の方かもしれない。当たり前のように生きている感覚があるが、「当たり前」はないのである。命とは尊いものであり、連れ合いはかけがえのないものである。大事にしたい。

2014年1月 4日 (土)

若者のコミュニケーション

 恒例ですが、お正月は三重の実家で過ごしました。

 「行き」は一人でしたので、ゆっくりと各駅停車の旅でした。途中の駅で制服を着た高校生の塊が乗ってきました。自分の高校生の時代を思い出し、さぞかし騒々しくなるだろうと覚悟したのですが、誠に静かなもの。ずいぶんお行儀がよくなったと感心したのもつかの間、実は皆スマホに目を落としているのでした。

 友達同士のコミュニケーションはどうなったのでしょうか。もしかして目の前の友達とスマホで会話していたりして・・・。

2013年6月30日 (日)

残念な「死」、もったいない命

 先日高校の同級生であるK君に会い、数学の授業が難しく(数Ⅰと数ⅡBを並行して進めるのだから難しくないわけがない)、お互いにひどい点をとっていたなという話になった。

 しかし、ひどいままだった私とは違い、K君は一念発起して夏休みにチャート式の参考書をボロボロになるまで集中して学び理解できるまでに至った。

 そのボロボロの参考書で思い出したが、大学の同期の別のK君の高校時代のクラスメートに秀才が一人いた。彼の家はひどい貧乏で、参考書もろくに買えないほどだった。あるとき、K君が教室の掃除をしていて、たまたまその秀才君の机を覗いて見たら文字通りボロボロになった参考書が見えた。こいつはこんなになるまで勉強しているのかと感心したという。

 彼の成績では東大の理科Ⅲ類も不可能ではなかったが、浪人できないので京大の医学部を受験し、合格した。しかし、数年後に精神を患って自ら命を絶ったという。こんなに努力をして結果を出したのに、その報いを十分に味わうことなく死んでいった秀才君の命はもったいないと思う。医者になれば幸福になれる保証はないのだが、人一倍努力したことは間違いのない事実だし、報いがあってしかるべきなのだ。残念な「死」である。

 私の友人のI君も自ら命を絶った。彼も秀才だった。息子も優秀で、将来が楽しみだったに違いない。それが、なんで?幸福などというものは、どこにあるものなのかよく分からない。

2013年5月26日 (日)

老後のことばかり考えて生きていては・・・

 自分はまだまだ若いと思っている。様々な分野に興味があるし、筋トレも続けていて還暦までは若い体型を維持しようと思っているし、異性にもまだまだ関心がある。

 それでも少しは老後のことを考えるようになった。65歳まで働けるとしても、その後はいくばくかの蓄えと目減りしているであろう年金収入に頼らざるを得ない。財産は無いに等しいから、家賃収入はないし株の配当もない。とはいえ、長くサラリーマンをしてきたので、相対的にはまだましな方であろう。

 子どもが一人二人と手が離れていくに従い(まだ終わってはいないのだが)、最近湧きだしたのは、「今・現在」を楽しみたいという欲求である。なぜか。一つは、周囲に病気で倒れたり、亡くなったりする人が目立ってきたからである。そのことで、自分自身の寿命も非常に不確かなものに感じ始めたのである。老後のことばかり考えて、いつまでにいくら貯めなければならないというような心配を抱いていたら、毎日が鬱陶しいものになってしまう。私は元来そういう点では楽観的なので、あまり心配はしていなかったけれども、生活を楽しむという感覚は薄い方だった。

 もう一つは、最近交際範囲が広がって、仕事以外に趣味を持って楽しんでいる人たちを多く目にするようになったからである。私も好奇心は旺盛なのでやってみたいことはある。そして実際にやっている人を見ることで大いに触発を受けたのである。

 平均余命というものがあるが、それはあくまで平均であり、確率の大小は別にしても、明日にも命を落とす可能性はある。そうすると、今にうちに少しでも楽しんでおかなければもったいないと思うようになった。もちろん、後先考えずに無謀な享楽に走っては品格を疑われるし、立場上仕事にもエネルギーを注がなければならないが、それでもほぼ土日は休みなのだから、時間はたっぷりある。あまりにお金のかかる趣味では困るが、そうでないものもたくさんある。選択の基準としてあるのは、「人とのつながり」である。一人で孤独に走っているとか、盆栽に凝るとか、本ばかり読んでいるとか、それはそれで悪くはないが、楽しみの幅が狭くなってしまう。

 最近、そんなふうに考えるようになった。

2013年5月 4日 (土)

半分・灘高生だった私 10

 けっきょく、灘高とは私にとって何だったのだろうか。都会からはずいぶんと離れた地方に育った私が、兄と同じように県庁所在地にある私立中学に進み、親から離れた孤独感と戦いながら3年間生きた。そこそこの成績で、代わり映えのしない毎日の平穏を破ったのは灘高合格という目標だった。思いっきり飛び上がっても届くかどうか分からないような無謀な挑戦だったが、それが逆に火をつけた格好になった。これ以上無理だという次元まで追い込んで合格した。

 さて入ったところは、場所としては居心地の悪いところではなかった。ただし、あまりの無理が神経をすり減らし、また苦手な科目の陥没が苦痛に感じられたことで、憂鬱な時間と空間に入り込んでしまったのだ。それがなければ十二分に楽しい学園生活であったろう。互いによい刺激を与えられる仲間がおり、水準の高い先生がいた。難関を突破したという充足感もあった。

 しかし、全うできなかった。転校して、引き続き高校生活はあったのだが、単なる連続ではなく、そこには空白があった。あるいは、見えない空間があったというべきかもしれない。それは「恐れ」であっただろう。空間を埋めてしまえば、過去を見ざるをえなくなる。過去を透視できないように暗闇を設ける必要があったのである。気持ち次第で過去の解釈を変えてしまえば、それまでだったのかもしれない。が、そういう時間を長く過ごさねばならなかった。

 それを救ってくれたのは、同窓会に誘ってくれた弁護士のD君だったのだと、今から考えればそう理解できる。それ以降は、これまで書いた通りである。

 振り返ると灘高は私にとっては決して軽んずることのできない存在であり、記憶である。在籍は2年と数か月。通学したのは正味1年半。50代半ばの私には人生のうちのほんの一部ではあるが、それを除いて自身を考えることができない必須の要素であることは間違いないのだ。

 光と影が混在し、視界不良であった時代。あのことをきっかけに一気に解放されたが、それは真の解放ではなかった。

2013年5月 3日 (金)

半分・灘高生だった私 9

 休みの日には六甲道のおばの家に行き、食事をごちそうになった。おばの主人は三宮の北長狭通りでクリーニング店を営んでおり、いとこもおじと一緒に仕事をしていた。震災の時には三宮の仕事場にいて建物が倒壊したが、幸いにおじもおばも無事だった。六甲道にいたいとこ家族も家が潰れたにもかかわらず皆無事だった。

 私が灘に合格した時には、おばが発表についてきたが、たいそう喜んでくれた。他の神戸在住の親戚筋は受かったら逆立ちして神戸の街を歩くと言ったそうだが、それも無理からぬことであったろう。

  次第に神経を患った私は学校へも行くのも億劫になり、たまに欠席するようになった。親元から連絡がいったのであろう、いとこが「なにしてるの!」と訪ねてきた。迷惑をかけたが、正直、人への迷惑など考える余裕もなかった。その時はたしか「平和荘」というアパートに住んでおり、1階はオーナーが経営する大衆食堂だった。そこでもすごくお世話になった。いつか当時のお礼に伺おうと思っていたが、行けなかった。もうご存命ではあるまい。

 賄い付き下宿 ⇒ アパート ⇒ (休学) ⇒ 賄い付き下宿 ⇒ 転校 これが私のたどった道である。転校の時は文字通りバタバタの状態で、下宿のおばさんには本当に迷惑をかけた。後からでもお詫びにうかがうべきだが、思い出したくないことが多く、神戸に足が向かわなかった。もう他界されているだろう。

 あまり思い出したくない過去であっても、一度一から棚卸をする必要があるだろう。

2013年4月29日 (月)

半分・灘高生だった私 8

 灘の学園生活で記憶に残ることを書き並べると、体育祭、文化祭、修学旅行、野球部など。

 体育祭ではスエーデンリレーに出場し、半周走った。当時一学年下には幸田という生徒がおり、全国的にも有名なランナーだった。彼の走るところも見たが、並みの走りではなかった。入場行進で後ろ向きに行進したクラスがあった。規律に厳しい宗教系の学校だったら考えられないことである。

 文化祭では劇に出演した。素人のにわか芸で、とても鑑賞できたものではなかっただろう。灘の文化祭といえば、今は女子が押しかけて大賑わいだが、当時はそんなことはなかった。一部に女子と遊んでいる生徒もいたが、特に高校から入った連中にはそういうタイプはほとんどいなかった。

 修学旅行は九州。フェリーで行ったので、船酔いで苦しかった。それが一番の思い出だ。それからバスガイドさん。宮崎交通のガイドさんだ。えびの高原を歩いたが、足元が悪かったのでガイドさんに手を差し出したのだが無視された。聞くところによれば、その後文通していた生徒もいたらしい。その他の出来事では、どこかのドライブインに入ったときのことだが、他校の生徒が灘高校の生徒が珍しいらしく、バスの周りに群がってきたことがあった。見世物じゃないぞと思った。

 2年生になってから野球部に入った。しばらくして休学したので、短期間だった。当時キャプテンでその後医師になったM君は少しだけ覚えてくれていた。間もなく夏の高校野球の予選が始まる時期だったので、人数の関係で初めからベンチ入りメンバーだった私は新聞に名前が載ったのである。

 こんな断片が思い出されてくる。封印された記憶だったが、最近それが解放されつつある。

2013年4月28日 (日)

半分・灘高生だった私 7

 物理のT先生は非常にいい先生だった。私は物理が苦手だったので、そういう意味では近寄り難かったのだが、同窓会でお話をしてからは毎年年賀状を差し上げ、返事を頂戴していた。あるとき、奥様から返事をいただき亡くなったことを知った。

 T先生は戦時中戦闘機の設計をしていたらしい。授業中に軍歌を歌うのは困ったものだと、国語のM先生がぼやいていた。T先生は膝の痛みを抱えて苦しんでおられたが、あるとき思い切って膝から下を切り落とした。そうすると痛みが全くなくなりすっきりしたそうだ。もっと早くやっておけばよかったと話されていたことを思い出す。

 国語のM先生は、私が入学したときに同県の私立高校から転勤されたばかりだった。確かM先生は岐阜県の出身で、温和な性格の先生だった。数年前にお会いした時に、大阪のある新興進学校で教えていると聞いた。その前には、福井県の敦賀K高校に招かれて行っていたはずだ。K高校は、野球の方で有名になってしまったが。

 体育のY先生はラグビーが専門であった。全日本の強化合宿にはコーチとして招かれることもあったらしい。そういう先生なので、監督をしていた灘高ラグビー部は兵庫県ではそこそこのレベルのチームだったのである。授業でもラグビーをやったので、真っ赤なジャージを買わされて身に着けていたことを思い出す。先生の話で思い出すのは、灘高は狂っているという話で、1500メートル走をやらせると疲れるからという理由で父兄から苦情が入るのだという。のちにドキュメンタリーとして放映されたテレビ番組では、あれは体力のない生徒には体に悪いという発言を生徒自身がしている。

 漢文の授業は校長のK先生が行っていた。授業数も多くなかったのであまり記憶はない。宝塚ファンであり、伝説の授業として有名なH先生は当時教頭で、集会などでお話は聞いたが、授業を受けたことはない。今思い返すと優秀な先生がたが揃っていたように思う。

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