カテゴリー「文学」の61件の記事

2016年8月20日 (土)

コンビニ人間

 「コンビニ人間」を読んだ。マニュアル化されたコンビニ内の仕事。そこに自分の居場所を感じる主人公。とはいえ、誰もができる仕事ではない。顧客に、欲しいものを余計な手間をかけずに買い物をさせて気持ち良く帰らせるのが仕事である。そういう仕事に適性のない人間もいる。
 
 コンビニ店員の大半はアルバイトである。それを、正社員になれず30代半ばまで来てしまった男性が負け組だと軽蔑する。自分自身がそういう体制で落ちこぼれたにもかかわらず、落ちこぼれた人への共感はない。そういうことって結構ありそうだ。
 
 主人公は負け組とか落ちこぼれだという意識はない。コンビニが心地よいのである。「部品」となっていることへの心地よさである。しかし、多くの顧客に必要とされる店であり、仕事なのである。仕事が機械的になってもやはり血の通った人間なのである。
...
 そういう人間が蔑視され(30代半ばになる女性が結婚もせず、コンビニのバイトだけを十数年も続けていることがまともでないと世間から見られる)、決してよいとはいえない待遇にあるということをどう見るのか。
 
 必要とされる仕事はみな尊いのだと思う。私はこの小説の意図とは違うのかもしれないが、そう読み取ったのである。

2013年8月25日 (日)

夏の休暇中に 佐多稲子の「樹影」を読む

 前から読もうと思っていたが、講談社の文芸文庫は値段が張るので後回しになっていた。ちなみに税別で1,400円する。新潮文庫などと比べると倍ほどの値段である。とはいえ、こういう売れない小説は出さないと手に入らない。

 主人公である麻田晋は長崎に投下された原爆の閃光や爆風にやられてはいなかったし、同じように柳慶子も直接の被害は免れていた。しかし、麻田は直後に爆心地に入り、柳慶子も1週間ほどのちに放射能に侵された地域に入った。

 麻田は画家で、妻と子二人を持つ身であったが、慶子と愛し合う仲になる。慶子は中国福建省出身の柳泰明の娘であり、国籍は中国にある。いわゆる華僑と呼ばれる人々の集団に人種的にも文化的にも含まれる人である。

 二人は、慶子が新たに営む喫茶店の設計を麻田に手伝ってもらったことからその関係が出来上がった。原爆投下から3年後の夏であった。その仕事を通じて二人は深い仲になっていく。(一般的な意味での「深い仲」という内容も含まれるが、より精神的で複雑な深さを持っていた)

 麻田はそれだけで食べていけるほど絵の売れる画家ではなかった。才能はないではなかったが、中央での評価が得られる条件に不足していた。また、胸の病から始まって様々な体調不良があり、それが原爆症の恐怖を生んでいた。いい絵を描きたい、中央で認められたいという渇望が彼の生きるエネルギーを生み出していたが、それを側面で支えるのは実の妻ではなく、慶子の愛であった。

 慶子は華僑の娘である。差別と貧困のなかに育ち、不利な条件に負けまいと気丈に活きている。二人はある意味、「まともでない」境遇に生きる二人として共感し合っている。慶子の肉体も原爆症と思われる様々な症状を呈していた。それが残存放射能から来ているものかどうかは医学的に確かなものではなかったが、慶子自身の人生に大きく影響するものであったし、麻田の負った苦痛、苦悩を理解する基礎となったのである。

 彼らの運命は麻田が妻子持ちであったということ、慶子が華僑の娘であったということを抜きにして考えられないのと同時に、原爆の被害にさらされたという彼ら自身にはどうすることもできない外的な条件に左右されたのである。このような物語を読むたびに、歴史に、あるいは「政治」に翻弄される人々の不運を感じずにおれない。そんな中でもけなげに生き、愛し合い、成長を求める人々にわずかでも希望を抱くことができるのは文学の救いである。現実はもっと過酷なものであろう。

 慶子は麻田の死後、政治運動に入りこむ。中華人民共和国が成立し、米ソに対抗して核武装するが、このことへの評価を巡って在日の華僑にも分裂が生じる。慶子は親が大陸出身ということもあり、北京を支持する。しかし、運動の疲れが出たこともあるし、原爆症の影響もあり、クモ膜下出血であっけなく死んでしまう。この物語において、終盤の内容はどんな意味を持つのだろうか。これも華僑であったことの悲劇なのだろうか。

 ところで、麻田の妻は何を感じ、何に生きがいを求めたのだろうか。どんな女であるかはっきりした描写がない。貧しい生活を支えるために内職をする姿が描かれている。慶子のことは知りながら、静かに夫の帰りを待つ女であった。彼女にスポットを当てるなら、これまた一つの小説が成り立つかもしれない。夫の愛を奪われ、奪った女の援助で生活しなければならない。この屈辱と原爆症の恐怖とを比較することはできないが、決して軽んずることのできないものである。

 広島には、井伏鱒二の「黒い雨」があった。そして長崎には佐多稲子の「樹影」がある。両者とも重たい作品であるが、「黒い雨」の方が分かりやすい小説であることは間違いなさそうだ。

2013年7月 6日 (土)

さよなら渓谷

 ある書店で、目立つところに積んであったので目に入った。帯に、真木よう子の写真があった。吉田修一の作品である。

 吉田修一の作品で読んだのは「東京湾景」。もしも、今の若者たちがここにあるように感じ、生きているのなら、それも悪くはないじゃないかと思わされた作品だった。その後、後輩のMさんに読むようにと無理やり渡した記憶がある。

 吉田作品では、「悪人」も上下巻買ったのだが、読むその前に映画を観てしまったので、結局原作は読まずじまいである。映画はなんといっても深津絵里の印象が圧倒的に強い。中谷美紀と並んで現代を代表する女優である。そして、この二人に割って入るのが真木よう子であると思っている。

 さて、今「さよなら渓谷」の文庫本は手元にない。家内に読むように薦めた。「けっこう、すごいよ。」が推薦の弁である。

 あらすじは書かない。まだの人は本を読んでもらいたい。新潮社の回し者ではなく、読む値打ちはあると思うからである。

 俊介と「かなこ」の関係が問題である。この設定は考えられる関係だが、二人を一つの生活の場に共存させることはいかにも難しい。また、そこに至らしめるプロセスをどう描くのか。暴行の被害によって繰り返し傷つき虐げられたぼろぼろの「かなこ」と、加害の罪を背負い込み、そこから逃れられない俊介という組み合わせが、この小説の焦点であるが、元に戻ってどんな関係で成立するのかが、読者である素人には想像がつかないのである。

 片方で、記者渡辺と妻との関係が描かれる。渡辺はサブではあったが、ラグビーの日本代表に選ばれた優秀なプレーヤーであった。しかし、怪我で人生が狂う。妻は脚光を浴びる男に惚れたのであった。二人の関係は形だけの夫婦である。

 男と女の関係は様々あり得るだろう。俊介の場合も渡辺の場合も、きれいに語られる「幸福な」家庭とは縁遠いものであるが、以外にも渡辺のような例は実は多いのではないかと思えてくる。

 そうしたら、愛などというものは、突き詰めれば、どんな状況でもあるとは言いきれないものであるし、ないとも言いきれないものだと思える。この場合は、加害者と被害者だが、加害者同士にも愛はあり得るだろう。被害者同士にももちろんあるだろう。善なる愛もない代わりに、悪なる愛もないのではないか。要するに、いいとか悪いとかの問題ではない。その状況をいかに生きるかという個別の問題である。個別の問題から、自分あるいは自分たちのことを考え直してみるのである。

 現実の感情は、なんとも希薄である。

2013年3月31日 (日)

青空文庫

 最近知った。著作権が消滅した作家の作品をダウンロードできる。文章は本で読むものと決めつけていたので、パソコンで読むことは考えもしなかった。

 もっとも、これからも読むことはあまりないように思う。パソコンで画面を送りながら読むのは何となく落ち着かない。それならいったん紙に印刷してから読むだろう。しかし、それも手間だ。あり得るとすれば、電子辞書にコンテンツが入っているというから、それを出張中に車中やホテルで読むには適する。ただし、作品は古いものに限定されるので、たとえば夏目漱石の小説などを読むことになるだろう。意外に近いところでは坂口安吾がいる。他では、三木清や戸坂潤の論文がある。こういう分野は未だに陳腐化していないので結構読みごたえがある。

 本は本棚に並べておくだけで、その存在感において影響を受ける面がある。また、赤線を引いたり、付箋を点けたりすれば大事な個所を読み返すことができる。パソコンでそういうことができるかどうか分からないが、文学は読み流せばよいが、評論文などは繰り返し読まないと理解できないし、時間が経てば忘れてしまうことも多い。そういう問題に対応できるテクニックがパソコンにもあるのかもしれないが、それは知らない。

 現在の制度では、死亡して50年が経つと著作権は消滅する。有益なものこそ、もっと早く解放してもよかろうと思う。

2012年7月 1日 (日)

松本清張について

 「粘着質」「劣等感」「学歴コンプレックス」「出生」「貧乏」「嫉妬」「おどろおどろしい」「権威」「権力」「女の性」

 こういう言葉を松本清張の作品から感じる。

 松本清張が世に認められたのは、1953年の芥川賞受賞であり、その時すでに43歳になっていた。清張の学歴は尋常高等小学校卒である。今でいえば中卒に当たるだろうが、当時はそれが少数派であったわけではない。しかし、才能のある彼には学歴の乏しさが足かせであった。作品にはその怨念が乗り移っていると言えるだろう。実力がありながら、正統でないがゆえに評価されず、場合によっては功を掠め盗られる悲運の主人公が多く登場する。

 以前のブログにも書いたが、清張の小説には文字通りの善人が登場しない。逆に、よくこれだけ悪い人間が描けるなと感嘆するほど悪人は書けている。ここに凄さがある。そして、その悪の根源は、その出生にあったり、生まれついた環境であったり、偶然や思い込みだったりする。本人の意思に関わらず、悪は生まれいずるのである。

 清張という人は、日本の社会が生み出したのだと思う。清張自身が矛盾の集約なのである。貧乏、学歴格差、官僚支配、経済成長、腐敗・・・。そのすべてを表現しつくした。時代が彼に矛盾を語らせたのである。

 学生時代からずいぶんたくさんの作品を読んできた。人物像は大半がネガティブで、読後感は重々しい。一歩間違えば人間不信になるような気がするけれども、そこを社会批判に転化して読んでいくことができた。それは正しかったのだと思う。あくまで主題は、悪人の告発ではなくて、悪を生み出さざるをえない社会の告発だったのだから。

 こういう人はもう出ないだろう。時代が変わり、またその時代に相応しい作者を必然的に生みだすのである。

2011年10月15日 (土)

文学の二つの潮流

 本屋で加藤周一の本を立ち読みしていたら、日本の近代文学は二つの潮流に分けられると書いてあった。今手元にその本はないので、記憶を辿るが、一つは内村鑑三に始まる「人はいかに生きるべきか」を問題とする流れである。内村に続いて自然主義文学があり、白樺派があり、プロレタリア文学に至る。もう一つは、森鴎外と夏目漱石に始まる流れであり、東西文化の対立を問題とする。永井荷風、谷崎潤一郎、芥川龍之介と続く。中野重治もこのグループに入れていたと思う。

 短い文章だったので、細かいことには立ち入っていなかった。そのなかでも興味深いのは、自然主義のグループはほとんどが地方出身者であり、キリスト教に影響を受けている。西洋に訪れたことはなく、キリスト教を通じて西洋を理解した。一方で日本の古典にも親しんでいない。彼らは、出身地では封建的な関係に拘束され不自由であったが、離れた都会では自由であった。その二重の条件のなかで、いかに生きるべきかが問題となったのではないか。プロレタリア文学でも、政治的問題が前面にあったとしても、その作家本人にとっては、故郷にある「家」の問題を切り捨てることができなかった。いかに生きるべきかにこだわれば、個人的な境遇を扱わざるをえなくなるのは当然だ。

 加藤周一は、後者のグループをより高く評価しているようである。このグループの大半が江戸あるいは東京の生れであったことが共通し、日本の古典に親しむと同時に西洋文学にも深く入り込んでいた。加えて鴎外、漱石、荷風と同様に洋行の経験もある。ある意味、同じように生きたということができるだろう。

 加藤周一は死ぬ直前にカソリックの洗礼を受けた。加藤にとってキリスト教への入信は、入口ではなく、出口だったのである。

2011年10月 1日 (土)

武田泰淳 「蝮のすえ」

 武田泰淳の作品では唯一「ひかりごけ」を読んだという自覚があった。しかし、今回「蝮のすえ」を読んで、どうも以前に読んだことがあるような気がしてきた。おそらく、昔に読んだ文庫は、「ひかりけ」単独ではなく、「蝮のすえ」とセットで発行されていたのだろう。

 確か、武田泰淳は友人のY君が好きな作家ではなかったか。Y君は脳溢血で倒れ、今も体が不自由で厳しい生活を強いられている。この作品を読みながらY君を思い出した。

 さて、主人公は敗戦直後の上海にいる。それまでは日本人のための秩序であったが、一転それは瓦解して、中国人が主人となった。その危うい空気のなかで、そういう状況だからこそ必要とされる代書屋稼業に就いていた。元来役に立たぬ人間だと思っていた自分が、逆に頼られる立場にある。

 主人公は女の活き活きした肢体と言動に幻惑される。上海の町を背景に実になまめかしく、魅力的に描かれ、読者もその女に引き寄せられる。実に上手い。
 女は、人妻でありながら夫の上官である辛島という軍人のものにされてしまう。その境遇から逃げたいのだが、夫が病気であるため辛島の財布に頼らざるをえない。しかし、なんとか逃げ出し、間もなく出航する病院船に乗って帰国したい。その望みをかなえる者として主人公を選んだのだ。健康であり、生きる才も備わっている。病気の主人は早晩命を落とすだろうと、女は計算していた。

 主人公は女を守るために辛島を殺しに行く。しかし、辛島は誰かの手にかかり虫の息であった。主人公はとどめを刺した。結果的に女が仕組んだ通りの結果となった。したたかな女。しかし美しい女。この女は何者であるか。なにを象徴しているか。

 負けはしたが、次に来るであろう時代の希望か。それとも秩序もくそもなく、しぶとく生きる女の強さか。あるいは単にわがままな女を描いただけか。どう読もうと読者の勝手であるに違いないが、そう言ってしまっては身も蓋もないので、私の解釈を記しておこう。
 二番目の、秩序は壊れやすく危ういものであるが、それとの対照でしぶとく、したたかな女を描いたのである。この点は、「どですかでん」で黒沢明が描いたあばら家に住む女たちに似ている。ただし、泰淳の女のように美しくはないのだが。

2011年9月14日 (水)

中野重治 「村の家」

 この小説は扱うのが難しい作品だと思う。「転向」は、日本の文学あるいは思想において重要なテーマであるが、死や恋愛などのような普遍性に乏しい。極めて限られた人間の関心に沿う問題である。

 自己の世界観への揺らぎについて考えるが、「確固たる」世界観とはいかなるものであるか。また、そもそも世界観とはなんであるか。
 大正末期から昭和初期にかけてマルクス主義が知識人の世界を席巻した。その影響力の程度には差があれ、芥川龍之介や太宰治もマルクス主義を受け入れたのである。それは一種の流行であったといえよう。そこからさらに進んで革命運動に身を投じたものは少数であった。しかも、その少数がどれだけマルクス主義を理解したか。そのマルクス主義の理論によってどれだけ日本の社会を捉え得たか。また、革命運動の方針にどれだけ確信を持ったか。
 いずれも不十分な知識人は、早晩天皇制政府による弾圧に屈し、思想および運動の放棄を宣言しなければならなかった。直接の動機は、官憲の暴力からの逃避であったろうし、獄中での病に拠る死への恐怖でもあったろう。意外に、後者の場合が多かったのではないか。それほど衛生状態が劣悪で、病気の伝染があったらしい。

 異端者への攻撃は、政府ばかりではなく、政府によって組織された「世間」からも、そして「家」からの攻撃もあった。この「家」からの攻撃が地方出身者にとっては常に水面下に潜む敵であり、信念を貫くためには乗り越えなければならない壁であった。
 ところが、この「村の家」を読んでいると、監獄からの解放にあたって親の援助を乞うている。生きては出られないであろうぎりぎりの局面では、そのような行動も在りえる話だ。それがあながち悪いとは言えない。確かに、獄中で死ねばそれまでであり、運動の進展になんら貢献するものでもない。踏み絵を踏んででも外に出ることは戦術として在りうるだろう。そこで問題は、出た後の行動に移る。

 主人公は郷里の福井に帰る。そして父親の重たい説諭を聞かされる。その要点は、「転向するということは、今までやってきたことが遊戯だったということだ。屁をひったも同然である。転向した後は、くどくどその言い訳を書くようなみっともない真似はやめて筆を折ってしまえ。革命運動に身を投じたからには死んで帰ってくるものだと思っていた。」ということである。大変厳しい言葉で、これは単に、天皇制政府の攻撃を代弁したと解釈できるものではない。
 ,知識人(ここに絞って言えば文学者)に覚悟を問う、いわば「天の声」である。変な言い方だが、他人でもなく、自分でもない、超越的な立場からの問いかけである。こういう問いかけを作品の中で設定できたことは、文学者中野が、負けたようで、実際は負けていなかったことの証拠である。

 主人公は、父の説諭に対して、「やはり書いていきたい。」と答える。文学者とは、書かずには生きられない人間のことである。

 

2011年8月23日 (火)

井伏鱒二 「駅前旅館」

 「黒い雨」に先立つこと9年、1957年に発表された作品である。「私、駅前の柊元(くきもと)旅館の番頭でございます。」で始まる。

 主人公の生野次平は、戦前に、継母の勤める上野近くの春木屋という旅館で育った。学校を出るとその旅館で仕事を始め、母親が亡くなるまで中番を務める。その後籾山旅館に移籍したが、東京大空襲で焼きだされ生地の輪島に疎開する。そして、終戦後しばらくして再び東京に舞い戻り、籾山旅館の旦那の紹介で柊元旅館に勤めることとあいなった。

 駅前旅館という、狭いけれども一つの業界があり、そことその周辺に生きる人々の姿をユーモアあふれるタッチで活写している。「飲む、打つ、買う」の話題があって、堅気の世界とは少々距離があるのだが、登場人物に一定の節度があるから、嫌な感じを与えない。
 特に面白いのは春木屋と水無瀬ホテルの番頭である。仲間内の慰安旅行の途上で、列車に乗り合わせたお高く留まっている風の女性たちに向かって聞かせる作り話がよい。自分たちは土木会社の幹部で、何億という額の工事を請け負っているという設定だ。話の中身がもっともらしく、またその語り口が絶妙である。
 ほかの場面でもその才能が発揮される。修学旅行に来た関西の高校生が、番頭連中が行きつけの辰巳屋に来て酔いつぶれ、おまけに悪態をついてくる。そこへ水無瀬ホテルの番頭が攻撃を入れる。その高校の校長と自分は旧知の友だというのである。旅館稼業では宿泊客の情報を事前に入手しておくも仕事の一つである。校長がどんな経歴で、どんな趣味があるかは調査済みなのだった。この話はあまり効き目はなかったが、業界の裏を知るに効果的な場面であった。

 主人公にまつわる話では、於菊(おきく)との関係がある。於菊はある旅館の豆女中だったのだが、次平が客とのトラブルを解決してやったことがあった。それが縁で、しばらくの間二人の付き合いが続くが、何せまだ子供のことなので深い関係には至らず、いつしか離れ次平の頭からも消えてしまう。
 ある日、長野の実業家が三人の芸者を引き連れて柊元旅館に宿泊する。その夜、次平が湯につかっていると、その芸者のうちの一人が湯船に入ってきて次平の体をつねった。その時はキツネにつままれたような心持だったが、あとで於菊だったことに気が付く。そして心惹かれて於菊の現在を調べたところ、旦那の世話になって紡績会社の寮長をしているのだった。
 その後、於菊は寮の女工たちを連れて柊元旅館に泊まることになる。旅行の行程の隙間を狙って二人で逢引することになるが、そこでも深い関係に至ることはなかった。

 話の筋から離れても面白いネタが散りばめられている。一つは業界で使われる符牒。「バッタ」とはご祝儀のことをいうらしい。よく知られているバッタは、バッタもんという言い方をされ、正規外のルートで仕入れて投げ売りされる商品という意味なので、ここでの使い方はあまり知られていない。
 次に、遊郭で働く、各地方出身の女性の特徴についてである。東北地方・北陸地方の女性は、「貞淑で、根深い堅実性があって純朴。」千葉県の女性は、「ざっくばらんで、純で、男に熱し易く、また冷めやすい。」山梨、埼玉、静岡以西の女性は、「気がきいて賢くて、身を守ることが上手、金を溜めることも上手。」新潟の女性は、「男にかしずく要領が誠に堂に入っておりまして、・・・そのくせ、だんだんと男が窮して来て、最後というときに立ち至ると、うまいこと逃げを打つ。」男と心中した女で、新潟県出身は一度も聞いたことがないと言い、心中する女性の多くは東北・北陸出身であったと次平に語らせている。本当かどうか分からないが、たくさんの人を見る中で業界の定説として語られていることには一定の信ぴょう性がある。その傾向は土地の歴史・風土が生み出しているに違いない。

 この小説は、あっという間に読み終えてしまうが、読後感は決して軽くはない。登場人物に傲慢さはなく、分別があり、つつましい中にも奔放さもあって、実に愛すべき人たちに仕上がっている。井伏鱒二の力量が見て取れる。

 

2011年8月18日 (木)

梅崎春生「日の果て」

 梅崎春生は小説を読む前に名前だけ知っていた。いわゆる第三の新人達にとっては先輩の年代であり、彼らの交友録に梅崎氏のことがしばしば取り上げられていたのである。大変ないたずら好きであったそうだが、彼の経歴と作品の故に一目置かれていたように思う。

 今年の夏、終戦記念日(敗戦と言わずに終戦と言うようになった。占領軍ではなく、進駐軍である。)までに3冊の小説を読むことに決めていた。井伏鱒二の「黒い雨」、大岡昇平の「俘虜記」、梅崎春生の「日の果て」である。戦争文学という言い方でまとめてしまうと返って薄っぺらくなってしまうので好まないが、戦争との関わりで評価の高い3作品を選んだのである。そして、すでにはじめの2作品については感想文を書き終えた。

 さて「日の果て」であるが、敗色濃厚なフィリッピン戦線で、主人公の宇治中尉は上官から花田軍医を銃殺するように命令を受ける。花田は医薬品を持って戦線を離脱し、戦地の女と暮らしている。宇治は高城伍長を伴って花田の住処を襲うことになった。

 目的地に向かって熱帯の森を歩く。宇治は戦線を離脱する覚悟を決めていた。そして高城にそのことを告げる。すると彼は自分は隊に戻ると言い、踵を返す。宇治は、背後から高城を撃とうか迷ったが、結局撃鉄を引くことがなかった。高城は再び戻ってくるのである。

 花田のいる場所へ向かう。そこから東海岸への逃亡が可能だ。途中で、病に倒れて虫の息の日本兵に会う。助けを乞われるが如何ともしがたくその場を離れる。目的地に到着するがすでに花田はいない。その代わり、花田と一緒にいたという日本人の男と気のふれた日本人の女に出会う。「あんたも逃げて来た口じゃないのか。」と言われ、胸に感情が泡立ちたぎり立った。
 二人を残し、宇治と高城はインタアルへ歩を進める。そこからは東海岸まで一本道である。宇治は先ほどの男の言葉を不快に思い、ウイスキーの酔いも手伝って高城に殺して来いと命ずる。しかし、後から確かめると、高城が殺してきたのは気の狂った女の方だったのだ。そういう取り違えが起こりうることを示した点で、ここは面白い。

 今ならまだ本隊に戻ることができる。花田は寸前で逃亡したと報告すればよかったのであるし、高城も一緒だったのである。しかし、インタアルに向かう。花田を追うという名目が残っているのである。戻っても、何ら事態の進展は期待できなく、自己への抵抗、障害が増すばかりだ。

 そして、途上で花田の女を目撃する。彼らが近づくと、女は花田軍医を呼び出す。姿を現した花田は、宇治に銃口を向け撃鉄を引いた。しかし、不発だった。今度は宇治が花田を狙う。花田はうつ伏せに倒れた。
 これで終わらない。次は、花田の女が宇治を狙う。左胸を撃ち抜かれた。堤の下に転げ落ちる。宇治中尉の最期となり、物語も終わる。

 主題はなにか。戦況が行き詰まり、戦う意味が見えにくくなった時、兵は何を思うか。展望の喪失、軍紀の緩み、死への恐怖と生への渇望。生の人間を動かすものは、欲望であり、嫉妬であり、自惚れであろうか。 

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