2009年11月 1日 (日)

川上未映子 「へヴン」

 川上さんは昨年、「乳と卵」で芥川賞を受賞した。その後、次の作品を生み出すことに苦闘する様子が報道されたりして、どんな作品が発表されるか世間の注目を浴びていた。「へヴン」の単行本は、9月1日付で発行され書店に積まれるようになった。私も注目していた一人だったが、すぐに購入せず様子をみていた。しかし、昨日旭屋書店を訪れたときに、帯の「反響続々、発売即重版!」に惹かれて買ってしまった。そして今日一気に読んでしまった。
 「乳と卵」との比較は、片方が短編であることと題材も違うことから単純にはいかないのだろうが、私には随分進歩しているように思えた。前作は、結局のところ何が言いたいのか分からず、大阪弁による親子の会話と卵をぶつけ合うエンディングの面白さが目立ったのだが、今回の作品ではより深い主題が扱われていると思った。そして、その問題に果敢にチャレンジしようとする川上さんの意欲も強く感じることができた。
 題材は中学校における「苛め」である。苛めはおおよそ集団が個人を攻撃する形をとる。しかも公然と行うことなく、見えないところで陰湿に行われる。しかし、苛める側に罪の意識はない。しかも、この小説に登場する二ノ宮と百瀬はともに成績優秀な生徒で自分の行為を正当化する理屈には驚くほど長けている。中ほどから後半にかかるところで、「僕」と百瀬の間で展開される、苛めの「罪」についての論争は、川上さんにとっても最も力の入った部分ではなかろうか。苛める側に罪があり、罰を受けるべきことは明白だが、これを当事者に分からせることは容易ではない。川上さんもそれをよく分かっていて、あえて執拗に百瀬に反論させている。善か悪かでいえば、かれらは悪であるのは間違いないが、そのことを説得しきれない今の時代が歯がゆいのである。私は、ここの行を文字通り歯ぎしりしながら読まざるを得なかった。ここは、まさに、川上さんの大いなる仕掛けだったのかもしれない。かれらは、今の時代に規範とは何かを挑戦的に問うているのである。

 私は、この小説の核心は、コジマの存在だと思う。無抵抗の抵抗は成り立つのだろうか。包み込む、マリア様のような愛は有効たりうるのだろうか。残念ながら敗北感に打ちひしがれざるをえなかった。これもまた川上さんの挑戦であるが、まだ成功していない。最後の事件のあと、コジマはどこに行ってしまったのだろうか。もはや余人の理解するところを超えてしまった彼女は、隔離装置のなかに押し込められたに違いない。もう一度、女神として復活は可能だろうか。川上さんの今後の作品にそれを期待したい。
 最後に。「僕」は「斜視」の手術を受けて、新しい風景を手に入れることができた。それが、未来への希望を象徴するかのごとく描かれているが、ここでそれは、どれだけの意味をもつのだろうか。そんなことで「僕」は解放されないのではないか。コジマが訴えていたではないか。全く本質的な問題ではなかったのだ。川上さんはどういうつもりなのだ。終わり方に不満が残った。

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2009年8月16日 (日)

文芸春秋 昭和47年3月号

 お盆に実家に帰り、蔵の中を掘り返していると古い文芸春秋誌が出てきた。昭和47年3月号である。この時私は14歳だから、兄が購入したものである。この号では、第66回の芥川賞が発表されている。形式は今と同じで、選者の寸評と作品の全文が掲載されている。この回の受賞作品は、李恢成の「砧をうつ女」と東峰夫の「オキナワの少年」であった。作品名は知っているが、両者とも読んだことはない。

 興味を惹いたのは、作品ではなく、選者の顔ぶれである。37年前だから今と全然違うのは当たり前だが、すごいビッグネームが並ぶ。井上靖、丹羽文雄、大岡昇平、吉行淳之介、安岡章太郎、中村光夫など。ここまで偉い先生たちが集まると、逆にまとめるのに苦労するのではないかと思ってしまう。スバ抜けた作品があれば一致しやすいが、差がなければ好みも出てしまう。それはそれとして、これだけの選者が選んだ作品なら、受け止める側も納得性が高まるというものだ。選者が文学賞の権威を高めていると言えるだろう。

 文学賞の権威は、先ほど書いたように選者達の権威であるが、もう一つは受賞者のその後の活躍度合だろう。受賞を機に、いい作品が続けば賞の価値が高まる。逆に、最近でもよくあるのだが、その後鳴かず飛ばずであれば、あの賞も大したことがないという評価になってしまう。そもそも文学賞の目的は、有能で将来性のある書き手に賞を与えることにより、励まし、活躍の機会を与えることにあるのではないかと考える。そういう意味では、受賞した側の努力が足りないという捉え方もできるが、しかし、力量の足りない書き手が話題性が先行して選ばれてしまった場合などは、少々気の毒に思えてしまう。川上未映子の場合も、今後が苦しいのではないかと心配してしまう。

 芥川賞など特に権威のある文学賞は、受賞者の将来まで見越した選定が必要なのではないか。新人に贈られるものは、過去の作品を多く見ることができないのだから、限られた作品のなかに才能を見出さざるをえないので難しいが、今後の発展性の芽をたくさん含んでいるかなど、着目する点はあるだろう。そう考えると、文学賞はまず、選者の力量こそが問われなければならないことになる。

 

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恩田陸 「夜のピクニック」

 ある公立進学校の恒例行事である80km歩行で展開するストーリー。主人公は、ともにこの高校の3年生、西脇融と甲田貴子。二人は異母きょうだいである。融は正妻の子で、貴子は愛人が生んだ子である。父親の葬儀の際に顔を合わせているが、互いの家庭に交流はなく、言葉も交わしたことがない。しかし、同じ町に住んでいることから、同じ高校に進学することになった。1,2年時はクラスが違ったので、お互いに意識してはいても話す機会は生まれなかったが、3年では同じクラスになってしまう。

 貴子は私生児なので記録には残らず、またお互いの家庭も隠密裏にこの件を処理していたので、ごく限られた者にしかこの二人の関係は知られていなかった。ところが、この二人が親しくつきあっている友人たちは、二人の間に何かがあると感じていた。互いに気になる様子を見せながらも、一定の距離を置き、会話も交わさない。一部には、陰で付き合っているのではないかという疑いも持たれていたのだった。

 さてこの小説の中身は、ほとんどが80km歩行の行程における少年少女の会話であり、心の動きであり、関係の変化である。それに対し、市街地から田園地帯へ、田園地帯から海岸通りへ、そしてまた市街地へと移りゆく風景と、朝から昼、昼から夜、夜から朝へと向かう時間の流れが、背景画としての効果を上げている。甲田貴子は、この行程の中で西脇融と言葉を交わし、これまでの過剰に意識し合い遠ざけ合う関係を解消しようと心に期していた。しかし急にそれを後押しするような状況は生まれない。歩きながら語り合う中で友人たちの仲間を思いやる感性を受け留め、次第に心が解き放たれてくる。歩行の疲れが極限近くまで達して、そのことが余計な邪念を振り払ってくれる。そして最後の決め手は、アメリカの大学に進んだ親友である榊杏奈の弟順弥の登場である。わざわざアメリカから駆けつけ、二人がきょうだいであることを強く示唆するセリフを吐く。これでストーリーは急展開し、友人たちの計らいもあって二人で歩くことになり、会話し、打ち解けるのだった。

 読んでいるうちに、せっかちな私としてはストーリーのだらだら感に飽きが来はじめていたが、後半から展開に集中できるようになった。先ほど書いた、順弥が送り込まれてくる仕掛けが効いているのと、丹念に描いてきた友人達の人間性の輪郭が次第にくっきり現れてきたからではないかと思う。皆、それぞれにしなやかで、ある意味利口な少年少女である。それゆえに清々しい青春小説に仕上がっており、読んで損をしない水準に達していると思われる。ここで描かれているのは若年期の一要素、一断面にすぎないけれども、巧妙に一つのお話として完成させているために、違和感なく素直に受けとめることができる。

 この作品は、主に、主人公と同世代から少し上までの若者に読者が多いと思うが、私のような50歳を過ぎた中年にも大変面白かった。それは自分にもこういう青春があったらよかったのにという悔恨の情が、猶のことこの小説を甘美なものに仕立てているためであろうか。

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2009年8月 4日 (火)

アキハバラ@DEEP

 ドラマにも映画にもなった作品。題材とストーリーが、特別奇抜だとは思わないが面白い。特長は、登場人物がそれぞれ個性的に描かれている点で、いわゆる「おたく」の青年たちの行動や感情が非常にダイナミックである。

 ページ、ボックス、タイコ、アキラ、イズム、ダルマの6人はそれぞれ病気などのハンディキャップを抱えているが、皆秀でた才能を持っている。その才能を結合させて、新しい検索エンジン「クルーク」を開発する。しかし、精魂傾けたこの「クルーク」を、大手IT企業の強欲なオーナーに略奪されてしまう。それを仲間たちの協力を得て、奪回するまでがこの物語の中身になっている。

 秋葉原という、IT社会の象徴である場所とおたく青年を題材にしているところが新規さを感じさせるが、表現されている核心は、ハンディにも関わらず自分の才能を活かす道を真っ直ぐに追いかけ、仲間と力を合わせて大きな仕事をやり遂げるという青春小説の基本ではないだろうか。

 長編であり、内容的にも読みごたえはあるが、いくつか疑問があるので書いておきたい。ハンディがあると書いたが、アキラの場合は軽いように思う。美人なので、返って見た目でしか判断されないというコンプレックスを持っているのだが、少し贅沢かもしれない。男性から見るから余計にそう思うのだろうが、美人で、スタイルがよく、格闘技までできるのだから自分に自信が持てる条件は十分である。どういう女性なのか、想像力を逞しくして読んでいた。

 もう一つは、エンディングである。途中が面白ければ面白いほど終わり方が難しい。途中は、これからどうなるかという期待を上乗せできるので書きやすいのだが、最後の最後はもう先がないから、正味の内容で勝負しなければならない。大手IT企業の本社ビルの厳重なセキュリティーを破って侵入し、頑強な護衛を倒してプログラムを奪回するが、そのくだりがやや弱いように思う。あっさりと終わってしまったという気がする。これは多くを期待しすぎるからだろうか。

 石田衣良は現在を代表する作家のひとりであり、テレビ出演も多く、評価も高い。今回初めて読んだのだが、その良さはもっと読まないと分からない気がする。

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2009年7月26日 (日)

角田光代 「対岸の彼女」

 この小説は、ともに三十代半ばの小夜子と葵を中心に展開する。小夜子は勤務先で社内結婚し、今は三歳の女児の母親であり、専業主婦である。葵は旅行会社の下請けで生きている小さな会社の社長である。ストーリーは、小夜子の生活を軸にした現在と葵の中高生時代を行き来する形で進んでいく。

 小夜子は夫と娘のあかりの三人でマンションに暮らしている。公園デビューを果たすが、すでに出来上がった母親たちのグループに近寄りがたく、距離をおいていた。娘のあかりも同じように他の子どもたちの輪に入っていくことができない。こういう状況に耐えがたいものを感じた彼女は、再び働き始めることを決意する。なかなか採用にはならなかったが、葵から採用の電話を受け取る。ただし、旅行関係の仕事ではなく、新たに始めようとしているハウスクリーニングの作業であった。

 葵は神奈川に住んでいた中学生時代にいじめを受け、心配した両親は母親の実家がある群馬に引っ越す。入学した高校はあまりレベルの高くない女子高だった。そこでは目立たない女子のグループに入り、他のグループからは距離を置き、大人しくしていた。それでいじめられることは免れた。そんな中でも、心を開いて話ができるのはナナコというクラスメートだった。ナナコとは放課後に、学校から離れた川の岸辺で食べたり飲んだりしながら語り合った。他の生徒がいる前でナナコとつきあうと、いじめの巻き添えになると感じていたからであり、ナナコもそれを気遣ってくれたのだ。ナナコの話は、悲観的な内容が少なく、比較的問題なく、順調に育ってきたように思えた。しかし、周囲から聞こえる噂や実際に訪問した彼女の家の様子からは、そんな順調さは何も感じることができなかった。ナナコは親も近くにおらず、妹は非行グループと行動していたために孤独であり、希望を捨て去ったのだ。

 二年生の夏に、葵は親の反対を押し切って、ナナコと熱海の民宿にアルバイトに出かける。きつかったが、他の事は忘れて仕事に集中することで楽しい夏休みになった。バイトの報酬を受け取って帰ることになったが、ナナコが帰りたくないと言い出す。葵は一見強そうで自立しているかに見えるナナコの心の中の恐ろしく深い空洞を発見した。そういう彼女に同調し、葵も放浪の旅に出ることを決意する。持ち金を節約するために、ラブホテルに泊まったり、ディスコで食べ放題の食事をとったり、男を鴨にして奢らせたりした。それでも所持金は半分以下に減ってしまう。葵は昔にいじめられた連中を思い出し、彼女たちを探し出そうとする。あるファストフードで働いている一人を見つけ、ナナコと二人でカツアゲを行う。7千円を巻き上げた二人は、葵がかつて住んでいたマンションの屋上に向かう。二人はこんな生活を続ける虚脱感から逃げ出し、別の世界へ行きたいと妄想する。明確に死にたいと思ったわけではないが、そんな気持ちに押されて屋上から飛び降りてしまったのだ。世間は、この事件の経過を曲解し、異常性愛の果ての逃避行と書きたてた。またナナコの家庭環境のひどさも報じた。二人とも大きな怪我もなく助かったが、ナナコが転居転校することで離れ離れになってしまった。

 小夜子はハウスクリーニングのトレーニングを受け、作業に自信が持てるようになった。そして自前で注文が取れるように、チラシを作成し、休日もマンションに配布して回った。それを見た住人から注文も入るようになった。しかし、夫や姑との関係は徐々に悪くなっていった。夫は妻が働くことに非協力的であり、ハウスクリーニングという仕事への理解もなかった。また、葵の会社の従業員たちも新しい事業には否定的で、葵の経営手腕にも疑いを抱いていた。結局、従業員たちは辞めてしまい、ハウスクリーニングの企みは頓挫することになり、小夜子は仕事を諦めざるをえなくなった。

 ナナコとの過去を引きずっている葵と現在の生活に確かなものを感じ取れない小夜子。ともにうまく人間関係を築けない弱さがあり、かと言って心底信用できない人間とも要領よく付き合っていく器用さもない。何か確かなものを求めて二人は、もう一度やり直そうと決意して、この作品は終わる。

 葵と小夜子のような問題を抱えた女性は多いのだろう。女性・・・そう、この小説は、小夜子の夫の「女性の労働に対する無理解」以外、男性の問題点には全く触れていない。女の世界の話である。角田光代は基本的に男性の読者は想定していないのであろう。相手の懐に入ってくことを恐れる心。孤独には耐えられないが、深い付き合いもできない。一定の距離を置いた人間関係を望み、かつ、それを失うことを極度に恐れる心性が若い女性を支配しているのではないか。この二人は、そういう状況を極端ではあるが、象徴的に表している。本質的な要素を書きだしていない限り、現代を代表する作品にはなりえない。

 なにが、そういう状況を作り出しているのか。作品のなかで解明されることはない。角田光代には見極めている部分もあるのだろうが、小説の中にその問題は持ち込んでない。示唆程度に表すことは可能であろうが、敢えて避けているように見える、それは小説家としての抑制であり、分別というものだろう。それを解明するのは、社会科学であり、ジャーナリズムの世界である。社会の構造変化とともに人間関係や個々の人間の意識も変化していく。精神は精神で、相対的に自律的ではあるが、社会の構造から自由であることはできない。そのことを認識できた人間の精神が、初めて「自由」なるものを獲得できる。

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2009年7月18日 (土)

吉本ばなな 「TUGUMI」 

 会社のHさんがよく読んでいるという吉本ばなな。私は、父親の吉本隆明の方に馴染みがある。学生時代に、「共同幻想論」や一連の政治評論集(勁草書房刊)を読み、それなりに影響を受けている。特に、その「転向論」には耳を傾けるべき中身があったように記憶している。

 ところで吉本ばななの作品は初めて読んだ。彼女も今年でもう45歳なのか。この「TUGUMI」にしても、20年前の小説なのだ。あえて避けてきた感がある。吉本と娘は違う。懐かしさはあっても、読む必然性はなにもないと。

 読後感は、悪くはない。彼女の作品に対する評論は一つも目にしていないので、予見はない。「つぐみ」という少女は面白い。面白いけれども、もう一つ正体がはっきりしない。病弱、細身、色白、長髪、美人・・・。病床に臥せっていることが多く、本を矢鱈たくさん読んでおり、観念の世界は常人よりも広がっている。外面よく、内面極めて悪し。病弱で、その生存が非常に危ういために逆に精神が先鋭化しており、時に恐ろしく高い電圧で持って気が放たれる。そんなイメージであるが、内輪で話されるつぐみの暴言に近いような言葉が、やや不快に感じられるのは私の受け取り方の問題だろうか。容姿と言葉とのアンバランスはこの小説の最も大事な仕掛けであるには違いないが、なにかしっくりこないところがある。全体としては、女性らしい柔らかな表現が多く、いかにも若い女性に支持されそうな内容だと思った。ところどころひっかかる表現もあるが、上手なのではないか。最後に、つぐみはてっきり死ぬものだと思って読んでいたが、持ち直してしまう。勝手に言わせてもらえば、死んだ方が返って、読者に彼女の記憶が鮮明に残ったのではないだろうか。

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2009年7月12日 (日)

宮部みゆき 「火車」

 このところ、現代を代表する作家の作品を読もうと思い、文庫を買うときには意識して選ぶようにしている。先日ブログに書いた平野啓一郎の「顔のない裸体たち」に続いて、宮部みゆきの「火車」を読んだ。これは平成四年の作品なので、もう十七年前の作品になる。山本周五郎賞を受賞しているし、買った文庫は第六十刷になるので、評価も人気も高い本である。

 背伸びをして購入した分譲住宅のローン返済に行き詰った福島県の勤め人一家が、夜逃げをして散り散りバラバラになる。父母娘の三人家族であるが、当時高校生だった娘がこの小説が展開する事件の中心をなす。取り立て屋からひたすら逃げ回ることが彼女の人生になってしまい、身売りされたも同然の状況に追い込まれる。それでもなお逃げ続け、数年後には伊勢の旅館に住み込みで働く場所を見つける。そこで地元の裕福な不動産業者の息子と関係ができ、親の反対があったものの結婚することになる。これで逃亡生活にも終止符を打つことができると思いきや、籍を移したことで足がつき、再び取り立て屋から嫌がらせを受けることになる。彼女と夫は、債務を負っている父親が死んでいれば追い回されることがなくなり苦境から逃れられると考え、東京に行って、生き倒れになった労務者の記録を調べて歩く。しかし、どうか死んでいてくれ死んでいてくれと祈りながら記録をめくる妻の鬼のような形相に夫は失望し、離婚を求める。こうやって再び彼女は孤独となる。この後、大阪で契約社員として通信販売の会社に職を得る。当然過去の履歴は隠している。彼女は、今の境遇から完全に抜け出すには、自分を捨て他人に成り変わることしかないと考える。そしてそのために通販の顧客データベースを利用する。コンピュータはセキュリティーが固いので、入力後のシートを、同僚の男性社員をたぶらかして手に入れる。対象は、身内の少ない顧客が望ましい。何人かをリストアップする。第一の標的は姉しか身寄りのいない同年代の女性だ。ガソリンを使って放火で殺害を企てたが、一命を取り留め、病院で治療を受けることになる。計画は失敗した。だが、彼女にとっては都合がいいことに、第二の標的であった、母一人子一人の境遇にあった女性の、その母親が階段から転落し事故死したという事実を知ることになる。これで新たなターゲットを追いかけることになった。標的の女性に近づき、殺害を実行する。そしてこの女性になりすまし新たな人生をスタートさせた。東京で職を得た小さな会社で、出入りの銀行員と知り合い婚約する。そこまでは順調だったが、男性の勧めでクレジットカードを作りに行って失敗に気が付く。入れ替わった女性が信用情報機関のブラックリストに載っていてカードが作れなかったのである。このままでは入れ替わった意味がなく、また過去が暴露する恐れもある。すぐさま、婚約者のもとから逃亡する。(作品の構成ではここがスタートになっている)そして、再び第一の標的に近づく。入院中であった姉が死亡していることが分かったからである。この女性に電話で連絡をとり、銀座のイタリアンレストランで待ち合わせをすることになる。そこには、この小説で事件を追いかけてきた休職中の刑事と仲間の刑事、捜査への協力者が待ち構えているのである。ここで、この作品は終わる。

 事件の社会的背景が分かりやすく書かれている。多重債務者を生みださざるをえない社会の仕組みに対する告発の書であると同時に、そういう境遇に陥らないための教育の書であるとも言うことができる。この小説が支持されているのは、ここで訴えている危険が身近に存在していることが誰にも分かるからだろう。住宅ローンになればある程度慎重にはなるものの販売会社と銀行が組んで貸しこもうとするし、カードでの割賦購入、キャッシングは手軽に行えるようになっており、コマーシャルはここかしこに溢れている。そういう環境で、一部の消費者は(といっても、極一部ではない)堅実に使いこなすことができず支払能力を上回る。その時に手を出すのが消費者金融である。この高利の攻撃を逃れる道は自己破産であるが、それさえ出来ずに逃げ回り消耗し、最後は列車に身を投げて最終逃亡を図る人も出てくる。

 明日は我が身かもしれない。誰しもなんとかなると思う。しかしどこに落とし穴があるかもしれない。病気や事故で働けなくなったら?考えただけでも恐ろしい。

  おまけ:今後読む予定の小説 → 石田衣良「アキハバラ@DEEP」、吉本ばなな「TUGUMI」、角田光代「対岸の彼女」

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2009年6月 7日 (日)

平野啓一郎 「顔のない裸体たち」

 はじめて読んだ平野啓一郎の本である。秋葉原の無差別殺人事件で、その内容がよく似ているということで反響を呼んだ「決壊」には関心があったが、今まで手に取ることもなく過ぎた。昨日紀伊国屋書店で文庫を見ている時に、たまたま新潮文庫の平野啓一郎の棚の前に立ったので、何冊かの文庫本を目にすることになった。

 そのなかに「顔のない裸体たち」という作品があり、長さも一日で読むには適当だったので買うことにした。詳細な内容は要約するだけでも際どい中身になるので避けるが、インターネットを媒介にした人間関係や自己顕示の欲望が、匿名性が背景にあって異常化していく危険性を表現している。もう少し具体的に書くと、出会い系サイトが媒介する男女関係や露骨な投稿写真の問題などである。

 その気があれば誰でもすぐに入っていける社会であり、現実の人間関係が希薄になればなるほど、また、まともな思慮を欠けば欠くほど引き込まれる危険性の高い社会であるので、注意が必要である。他ならぬ自分自身もそうであるし、自分の子供にも気をつけなければならない。

 平野啓一郎は初めて読んだが、文章は書ける人だと思った。大学在学中に投稿した作品が、いきなり芥川賞を受賞したので、並みの作家ではないのだろう。こんな表現ができるんだなあという部分がたくさんあった。現在の、若い作家の小説を読むことにより、今ある社会の問題を知ることができる。このネット社会の問題もそうであるし、フリーターの生活実態や生活感情などを知ることは大事である。

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2009年5月10日 (日)

吉行淳之介のこと

 高校生、大学生の時代に好んで読んだのが吉行淳之介だった。小説よりもエッセイの方が多く出版されており、私が読んだのもエッセイ中心だった。大半が男と女の関係にまつわる話でしかも「大人」の視点から書かれており、若者が読むに相応しい内容ではない。私には多少年寄りじみた嗜好があるのだろう。

 吉行氏は安岡章太郎や遠藤周作らと交友があり、かれらはまとめて「第三の新人」と呼ばれていた。安岡も遠藤もエッセイを書いており、お互いの行動や発言を交友録として書きあうことで飯の種にしている部分があった。彼らは皆、政治的な問題に対し直接発言することはなかったと思うし、社会的な問題から距離を置くことにより、個の内面に焦点を合わせていたと思う。やや内向的な傾向が強いと言えようか。

 吉行氏はフランス小噺をネタにすることが多かった。非常に面白いのであるが、これを面白いと思う人は日本の社会ではマイノリティーかもしれない。文学趣味のある人間、そういう意味で余裕を持った人にしか受けないように思う。ここで例を挙げることはことはできないが、私としてはお勧めである。

 先ほど男と女の関係にまつわる話と言ったが、その例を出しておこう。映画のシーンなどで、砂浜で男が女を追いかけるシーンがある。私が欲しかったらつかまえてごらんと言ってか駆けだすのである。しばらく走ると、つまずいて女が倒れる。男は女の上に覆いかぶさって結ばれてしまう。吉行氏は、これは女の策略だと言う。女は男との距離を測り、適当な場所でわざと倒れる。計算された罠だというわけだ。これは象徴的な場面であるが、男と女の関係は大概そういう風に流れていくのである。これは随分男にとっては都合のよい解釈だと女性から反撃を食らいそうだ。しかし、これは解釈の仕方であって、男も大抵は騙しているつもりなのではあるが、振り返ってみると俺が騙されていたのではないかという疑いを持つのである。現在でもまだ、女の人生は男に左右される傾向が強いが、その分男を騙せる能力を授かっているのだろう。次第に女の能力も権利も拡大し、対等になってくると関係が中性化して、駆け引きといったもののない、淡白な関係になるのではないかと案ずる。対等になることは歓迎だが、面白みはなくなると思う。それが新しい時代には必要なのだと言われたら、我慢するしかないが。というより、年齢から言えばもうそんなことはどうでもいいのかもしれない。嫁さんから捨てられないように努力するのが関の山だ。

 最後に、吉行氏は晩年に平和運動に控えめではあるが参加した。それに対して、あんな真面目な男を騙して運動に引き込んだという内容で批判をした文人がいたが、それは間違いだろうと思う。彼は、長年距離を置きつつも社会の動向に目を向けていたのであり、その結果最後になにかしたいと素朴に思って行動したのだと理解している。誠実な人であった。

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2009年4月12日 (日)

文学の役割とは何か

 難しい文学論は分からない。素人考えかもしれないが、文学は読者のためのものであり、読んだ者を励まし成長させるものでなければならない。

 励まし方はいろいろあるだろう。生きる希望を与える、前向きで、人間に対する信頼感に溢れた作品もあるだろう。また、人間の、あるいは社会の現実を生々しく描く、時には邪悪な部分を見せつける厳しい作品もあるだろう。後者の場合は、感受性の強い読者を少なからず悩みの世界に突き落とすことになるのだが、そこから自らの力で這い上がることを期待して、どこかに希望の光が差し込む裂け目を仕掛けておかねばならない。

 文学は常に読み手を意識しなければならない。書きたいから書くという次元のものではない。確かに、作者自身が多くの解決困難な問題を抱えており、書くことで今の自分を表現しなければ生きていくことさえできないという境遇もあるだろう。しかし、作品として世に問うのであれば、自分の問題から離れて社会的な意味を帯びてくるのであるから、単なる独りよがりは許されないだろう。本来、文学には十分に練られた仕掛けと細工が必要である。それは読者には意識されない方が良い。批評家は別としても。知らず知らずに、読者が、考えるヒント、生きるヒントを掴んでいるように、文学はあらねばならない。

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2008年12月 1日 (月)

夏目漱石の「こころ」

 漱石の「こころ」を読みました。昔、若い時に一度読んだ記憶がありますが、いつだったか定かではありません。読むきっかけは、姜尚中が書いて、結構売れている新書の「悩む力」に漱石が取り上げられていたからです。

 江藤淳は、新潮文庫の「こころ」の解説で、漱石が今なお広く愛読されている理由として二つの点を挙げています。ひとつは、漱石が伝統的な価値観・趣味を持っていたこと。もう一つは、それゆえに近代的な社会状況や価値観と真っ向から衝突せざるをえなかったことです。伝統的なものを持っていたがゆえに、近代の否定的な面をいち早く認識できたという逆説なのです。多くの明治の文人たちは、過去の価値観を捨て去り、西欧的なものを無批判的に受け入れたのですが、漱石はそうではなかった。これは彼の経歴に由来するところが大きいと言っています。すなわち、江戸以来の有力な名主の家に生まれ育ったということです。明治に入り没落していきますが、価値観や趣味は根付いていますからそのまま受け継がれます。そういう彼が、イギリスに留学することで近代とぶつかります。孤独な自我、孤立した個人を実感します。その体験は象徴的なものですが、これは現代に生きるものにもそのまま当てはまることで、そういう意味で姜尚中は漱石を取り上げたのです。

 近代は人間を共同体からの束縛(庇護)から解き放つが、孤立化させ、不安に陥れる。これは、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」で説かれている現象ですね。姜尚中は現代に生きる人間の宿命であり、その運命に耐えざるをえないと言います。悩みは尽きず、それを避けるよりは悩みぬいて突き抜けよと説きます。これは、私が学生の頃に、マックス・ウェーバーを学んだ時にも出てきた議論で、万人に当てはまるというよりは知識人の心境として共感できるものでした。

 近代人の孤立化は、経済学的に言えば、資本制生産の広がる過程で、農村から都市へ労働者が流れ込み、共同体的な紐帯を失うということでしょうか。しかし、この先永遠に孤立したまま、信頼関係を喪失したまま生きていかなければならないのでしょうか。姜尚中に言わせれば永遠なのでしょう。ウェーバーには次の答えがありません。しかし、人間を結合させる契機として、何か考えられるのではないでしょうか。マルクスは、「協働」という行為だったように思います。他に、労働の場を離れたNPO的な活動もあります。そういう集団的な活動に知識人は「宗教的」な臭いを感じたりして抵抗感を感じるもので、なかなか中に入っていけません。しかし、抵抗なく入っていける人たちも多くいます。したがって、経済学的には孤立化は普遍的な現象として正しいとしても、それは別の次元で克服されうるということではないでしょうか。マルクスは同じ経済学的次元で開放させようとしましたが、別の道もあります。どちらが正しいということではないと思いますが、姜尚中のように言ってしまえば、孤立化を克服する道を閉ざしてしまうのではないでしょうか。とはいえ、姜尚中の言っていることも心情的には分からないではありません。かくいう私も現実には孤立感が強いのです。

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2008年10月26日 (日)

村上春樹 「ノルウェイの森」

 今読みつつあるのは、村上春樹の「ノルウェイの森」(講談社文庫、、上下巻)である。この小説は20年余り前に刊行され、ベストセラーになった。この文庫版でさえ、4年で20刷を超えている。村上はここ数年ノーベル文学賞候補にあがっている世界的に有名な作家である。

 実は、村上春樹の作品を読むのは初めてである。同じ村上でも、村上龍の作品は、「限りなく透明に近いブルー」と「コインロッカーベイビーズ」を学生時代に読んでいる。方や、春樹は作品の名前や、彼の活躍の様子は知っていたが、本を手に取ることはなかった。これは、大学を卒業してから、小説を読む機会がグンと減ったことにもよるが、勝手な思い込みがあって読む気を削いでいたのだった。それは言うのも恥ずかしいが、「ノルウェイの森」は北欧のノルウェイが舞台で、そこで若い男女が恋愛を繰り広げる、若い女性が好むような物語だと思っていたのだ。

 今年も村上春樹がノーベル文学賞を逃したと聞き、ここらでひとつ読んでおくかという気になった。賞を取った時に一冊も読んでないようでは会話に参加できないからである。化学賞や物理学賞は畑違いだから知らなくて当然。少しでも知っていればプラスの点が付く。ところが文学は、文系の私にとっては知らないと減点である。さて、「ノルウェイの森」の上巻を読み終えたところである。タイトルは、ビートルズの曲の名前だと分かった。ビートルズの曲もヒットしたものは大抵知っているはずであるが、これは知らなかった。

 まだ読み終えていないので、全体を評価することはできない。もっとも、「小説」一般を深く読み説く力量は私にはない。一文学ファンとして、いくつか感想程度のものを言いたいだけの話である。まず、優劣はさておき、確かに面白い。なかなか思いつかないような話が展開される。主人公の恋人が精神の病で療養している施設で展開される話は時間を忘れるほどであったし、恋人と同室で療養しているレイコさんという女性が、そこに来る前にピアノを教えていた中学生の少女からレズビアンを仕掛けられる場面は面白かった。次に登場人物も存在感があって面白い。先輩の永沢さん、特攻隊と呼ばれる同僚は、居そうであるが実際は居ないだろう。でもひょっとしたら居るのではないかと思わせる。それだけ興味をそそられる存在に書けている。最初に言ったように全体はまだ読み終えていないので分からないが、着想としてはよくある、精神の在り方が世間には適合せず別の小世界に退避している人たちが実はまともで、世間で正常者として暮らしている俗物たちの方がまともでないという構図がうまく描かれていると思う。まともでない主人公たちの感性があまりにもみずみずしく、愛らしいので、自分の感性もまともでない方に位置づけ、彼らに同調しようとしているのかもしれない。

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2008年10月 4日 (土)

中国文学

 仕事でたまに話をする日本経済新聞社のA氏は、学生時代に中国文学を専攻していた。そのことは先日取材を受けた時に知ったのだが、私の知っている中国の作家と言えば、魯迅ぐらいのものであった。そこで、私は魯迅が好きだというと、そうなんですかという話になり、少しだけ盛り上がった。A氏は中国の近代文学が専門で、あとでネットで調べたところによると卒論が巴金(バキン)の研究になっていた。巴金とは、1904年に生まれ2005年に亡くなった、魯迅と並び中国近代を代表する作家である。後で、メールで巴金の本を紹介してほしいとお願いすると、「家」という作品を教えてくれた。岩波文庫で出ているとのこと。しかし、アマゾンで見ると取扱いしていない。絶版状態だ。そうすると古本屋で探すか、図書館で借りるしかない。

 考えてみれば中国のことに対しては無知である。特に文化に対しては無知で、大半の日本人がそうだ。逆に、欧米については文学作品も知っているし、音楽もよく聴いている。日本は地理的に言えば、アジアの国だが、文化的には欧米の国ではないかと思われる。中国だけではなく、韓国についても同じで、作家の名前など一人も知らない。かろうじて、詩人の金芝河を知っているだけである。魯迅と金芝河を知っているだけでもましな方かもしれない。人間の関心は、国家による外交や教育と言ったものに制約され、情報産業の動きがそれに追随するものだから非常に偏ってしまう。今回のA氏との話で、隣国の勉強もしなければならないと感じた次第である。

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2008年9月13日 (土)

東野圭吾

 「分身」「容疑者Xの献身」に続き、「手紙」「変身」を読んだ。非常に読み易い文体で、ストーリーにも強引さがなく、流れるように展開している。最近のミステリーものには手を出さなかったが、東野の作品に触れることで読む機会が増えそうだ。彼の作品を読んで特に感心するのは、人物像の輪郭が非常にはっきりしていることである。特に、若い女性の描き方が素晴らしい。極めて意志的で、曖昧なところがない。困難があっても決してひるむことなく、立ち向かう姿が鮮烈である。生き方に迷う男性とは対照的なのである。そしてすこぶる可愛い。なぜ、異性の、しかも違う年代の女性をこれほどまでに生き生きと、描けるのか。また、セリフが出てくるのか。不思議であるが、逆に、男だからできるとも考えられる。女性は同性に厳しい。冷たい。だから、このように肯定的に、美しく、可愛く、描くことができないのかもしれない。

 矢口敦子の「償い」を読んだが、60万部売れたという宣伝文句とは違い、さほど面白いと思わなかった。ストーリーがよどむ部分があって、少し飽きがきてしまう。パーツがあまり沢山ありすぎると、全体の統制がとれなくなって、読んでいる側で整理がつかなくなってしまうのだ。

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2008年8月17日 (日)

夏季休暇に読書

 まとまった休暇は、年末年始の休暇、お盆の休暇、ゴールデンウィークの休暇の3回ある。こういうときには帰省も含め、行楽に時間を使うか、読書に時間をとるかいずれかである場合が多い。今回の休暇では、普段は読まない娯楽小説を読むことにした。

 最初に、東野圭吾の「分身」を読んだ。これは帰省前に駅の本屋に積んであった文庫本のなかから選んだのだった。東野は売れっ子作家であるが、これまで一冊も読んだことはない。15年前に書かれたサスペンスであったが、率直に言って飽きさせない面白いストーリーであった。クローン人間として誕生させられた「姉妹」の運命がその内容であるが、全く同じ遺伝子をもつ二人が、それぞれ違った個性として描かれ面白く、最後に二人が初めて対面するシーンは感動的であった。

 2冊目は、水上勉の「眼」という小説である。これは昭和30年代に出されたいわゆる社会派推理小説というジャンルのものである。婦人向けの既製服メーカーの社長が業績不振を乗り切るため、在庫品の取り込み詐欺の被害者を装い、会社を整理し、在庫品を処分した金で事業を再興しようと企てた。そこには仲間が何人かいて、巧妙に仕組んだはずであったが、刑事の追手を振り切ることができなかった。その過程で仲間が一人殺害され、この偽装詐欺にはかかわっていなかった専務が、証拠隠滅のため最後に殺害される。最後の落ちで、この専務の義眼が、詐欺仲間の女性事業家の邸宅に飼われていたシェパードの糞のなかから出てくる場面はギョッとさせるものがあった。義眼はこの終幕への振りであったわけだ。面白く読んだが、在庫品を横流しする時の価格が1着平均3千円であったものが、テキ屋に現金でさばかれ、露店で売られるときには5百円になっており、これだけの金額では事業の立て直しもあったものではないと思った。また、仲間を牛久沼近くで殺害したときに、釣りざおを持たせて川岸に座らせ発見を遅らせる工作をしているが、それなら草むらのなかに放置した方がよほど人目につかぬように思ったりした。

 3冊目は、東野圭吾にかえり、「容疑者Xの献身」である。これはテレビドラマ化された「探偵ガリレオ」シリーズの元になった作品であり、直木賞受賞作でもある。数学に天才的な才能を持ちながらも職に恵まれず、高校の教師をしている独身男が、アパートの隣室に住む女性と娘が犯した殺人の身代りになろうとする。これは女性に対する男の純粋な愛情がさせた業であるが、その巧妙なトリックにも関わらず、大学時代の友人であるガリレオこと物理学者の湯川学に見破られてしまう。松本清張を愛読してきた者にとっては、今風で読みやすく新鮮な感じはした。かつての社会派推理小説は、犯罪を犯すにいたった社会的背景に重きが置かれていて、それはそれで重厚さを感じさせる作風になっていたが、読んでいて重苦しさにつながっていた。それに比して、たくさん読んでいるわけではないが、最近のものは個人的動機に重きが置かれているようである。

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2008年7月13日 (日)

天野節子 「氷の華」

 久しぶりにミステリーを読んだ。昔風に言えば、推理小説の範疇に入るのだろうか。この作品は天野節子という人のデビュー作である。デビューしたといってもこの人昭和21年生まれだから驚きである。

 文庫で5百ページ(昔に比べて字が大きい。中高年にはやさしい作りです。)の大作であるが飽きずに読みとおせた。全体にバランスがよいのだろう。構成要素のひとつひとつには新奇なものは感じないが、うまく組み立てているという印象があった。

 こういうサスペンスものは、特に「偶然」がものをいう。たとえば、この話のなかで、殺害される女性が帰省中にたまたま勤め先の上司のひき逃げ現場に居合わせるのであるが、こういうことが起こる確率はゼロに近い。しかし、これがなければ話はつながらない。そんなことありえないという思いにとらわれないのは、読者がそういう前提をあらかじめ持っているからだろう。私にしても松本清張や佐野洋をけっこう読んできたので、この場面はつぎにどこにつながるのかという関心をもって読み進むことになる。

 刑事の追及の執拗さという点では、松本清張ほどのすごみはない。清張はしつこい。犯人の「悪さ」加減も尋常ではない。とはいっても、犯行に及ばざるを得なかった事情の説明は念入りである。その事情にこそ、主題があるように見える。

 清張との比較はあまりに厳しい話である。62歳で初めて出版した(初めて書いたかどうかは分からない)ということには意味がある。関心があり、技量もあるのに書く機会がなかった人も数多いであろう。そういう人のなかから書き手が出現する可能性は、まだまだあるのではないか。

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2008年2月17日 (日)

川上未映子 「乳と卵」

 今年の芥川賞である川上未映子の「乳と卵」を文芸春秋誌で読んだ。いち早く読める。安くつく。選評が載っているなどメリットが多いので。

 選評を先に見てしまったため、石原慎太郎の酷評が頭に残って若干先入観を形成したかもしれない。「乳と卵」は、大阪弁を巧妙に使っており、言葉と生活実態との距離を詰めることに有効に働いていると思った。本音が伝わりやすい言葉だが、それにしても登場人物達は言葉にできずに苦悶する。このあたりが作者自身の苦悶であることはよくわかる。

 しかし、ここで扱っているテーマが何なのかよく分からない。特殊現代的なメッセージがあるのか。必ずしも女性に普遍的なテーマではなさそうだし、よく分からない。どうも、そんなものは感じられない。

 最後の場面で、母と娘が生卵を自分の頭にぶつけながら叫びあうシーンは、よく思いついたなと思うアイデアで、そこは感心したが、それがなかったらどんな終わり方があったのだろうと心配になる内容だった。

 いずれにしても本質でない部分で評価されている気がして、川上未映子の核になる部分は分からない。まあ、これから見てみたいとは思うが。石原慎太郎ほど酷評しようとは思わないが、高くは評価できず、そもそもそういうレベルの作品は無理なのではないか。石原は、評価しなかったことで将来慙愧することは恐らくあり得まいと書いているが、もう年なのだから将来はもう残り少ない。

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2007年6月12日 (火)

今月の文芸春秋

 この雑誌は私の嗜好に合わず、芥川賞の作品が掲載されているとき以外は購入したことがない。しかし今月は新聞広告で執筆者を見て、買うことにした。

 塩野七生、新藤兼人、山崎正和、城山三郎、そしてカルロス・ゴーンである。塩野七生さんはローマ史の研究家であり、その見識から今の日本の状況に言及している。カエサルに比べたら安倍晋三はなんとも頼りない政治家ということになろう。新藤兼人は尊敬する人の一人である。95歳でなお矍鑠としている。日野原重明さんと同い年だったと思う。ここでは家族関係の喪失を嘆いている。長い間眼に見える世界を鋭く観察してきた人だけに説得力があり、同感するところが多い。

 その他のひとの文章はまだ読んでいないが、お得な一冊といえよう。

 

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2007年5月13日 (日)

推理小説

 今は読まなくなったが嘗ては推理小説というジャンルのものをたくさん読んだ。高校から大学にかけての時期である。読み始めは松本清張の「点と線」であった。作品としてはあまり高い評価ではないようだが、面白かった。そこではまってしまって、以来数十冊読んだ。山の中の別邸に置いてあるので正確に何冊かは分からない。内容までは忘れてしまったが、面白かったのは、「眼の壁」「渡された場面」「Dの複合」などである。清張は社会派推理小説と言われるジャンルを開拓し、政界の闇を暴いたりしたが、私が面白いと感じたのはそれとは違う内容のものだったかもしれない。いずれにしてもバラバラに見える事象が徐々につながっていく面白みがあった。

 続いて読み漁ったのは、佐野洋であった。これも20冊程度は読んだ。こちらは清張よりは柔らかい内容で、男女の絡みもあって読みやすかった。

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2007年3月 7日 (水)

読書

 子供のころから読書家というほどではないが、本は読んでいた方だろう。読んだ本の名前は比較的覚えているが、内容、それから読んだときの年齢あるいは学年は記憶が薄れている。

 少年探偵団、怪人二十面相、怪盗ルパン、名探偵シャーロックホームズのシリーズ。十五少年漂流記、宝島、ロビンソンクルーソー、トムソーヤーの冒険、海底二万里、地底探検、八十日間世界一周、次郎物語、路傍の石などが小学生の時に読んだ主な本である。特に十五少年漂流記が好きで、3回か4回読んだと思う。これらの本も私のものの考え方を形作る上で大きな影響を与えたと思う。

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