2009年11月 8日 (日)

遺棄された死体の発見

 行方不明になっていた女子大生が死体となって発見された。大学に入って半年余りで人生を断たれ、娘の成長を見守っていたご両親はさぞかし無念であろう。ご冥福を祈るとともに、犯人が早く逮捕されることを願う。

 さて、殺人事件で、遺体が事件の発生現場から遠く離れて発見される事例が多くある。山中もあれば、河川、海岸もある。報道を聞いて思うのは、犯人の思惑に反して(意図的に発見させるという場合もないとは言えないが。)意外に早く見つかってしまうものだということだ。しかし、これを今データで示すことはできない。殺人事件に関するデータベースがあれば容易に分かるだろう。先に犯人が特定された場合を除き(この場合は、拘束して詰問すれば死体の在りかが分かる。)、死体を遺棄した場合に犯行から平均して何日後に発見されているかがはっきりする。
 前もって私の言いたいことを明かしておくと、「人間の行動範囲というものは非常に限られていて、こういう事件でさえ、あるいはこういう事件だからこそ、範囲が限定されてしまう」ということだ。過去に行ったことがなく、しかも人が足を踏み入れない場所に向かうことはなかなか難しい。行き当たりばったりでは捜査情報をまき散らすようなものだし、事前に調査して遺棄場所に見当をつけることも、よほど計画的に行われた犯行でない限り考えにくい。
 死体の運搬はもっぱら自動車によるだろう。死体はわれわれが普通運ぶ荷物に比べて大きくて重たい。したがって、運ぶ手段には車が選ばれる。また、集合住宅から運び出す場合などはあまりに目立ちすぎるので、いくつかに切断する必要がある。ここからは私の全くの想像だが、車を流して女性を漁っていた男(複数も考えられる)の目にとまり、強引に車中に引っ張り込まれ、騒ぎ出したところ手に負えなくなった男が鈍器で殴打して黙らせたという展開ではないか。当地に住んで半年余りで、生活もしっかりしていたということなので、恨みをかうこともなく、金銭トラブルもなかったと推測する。
 男は、死体の処分に困り、いくつかに切断したうえで、それを車のトランクに詰め、過去に走った山道を行く。そして最後の林道の終点に行きつく。当然深夜だから灯りはなく、物音ひとつしない。さらに山林を分け入って進む気力もなく、そこから崖下に投げ捨てたのではなかろうか。そして、数日後(翌日?)には近くの住民の発見するところとなったのである。

 人間は、冒険家でない限り、人が足を踏み入れていない場所には行かないし、行けない。人は、過去に人が歩いた道を進む。山林のなかにも道がある。少なくとも歩いた痕跡がある。そこをたどるしかないのだ。そして、その道から遠くない地点に遺棄する。そうすると土地の人間であればいつもと違った形跡に敏感に反応するだろうから、発見されてしまうのである。早く見つかれば、被害者が特定できる。最近発生した事件と関係づけて捜査が急速に進むのである。
 悪いことをしてもすぐにばれる。人間は、いいことも悪いことも、いろいろなことを考えることができる。しかし、実際の行動は非常に限られたパターンに限られてしまう。それは、身体をもった一つの個体であるからでもあり、物理的にも精神的にも他者との関係の範囲でしか活動できないからでもある。

 重ねて、ご冥福を祈る。

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2009年11月 3日 (火)

大阪府立大学を訪ねて

 先週初めて大阪府立大学を訪問した。会社で新しく取り組もうとしている事業に関連している府大のプロジェクトについて、M教授に話を聞くためである。
 地下鉄御堂筋線の終点である「なかもず駅」を下り、⑤番出口から出た後、傍にあった喫茶店で食事をとった。そこの売り物はオムライスで、同行したT君はチーズオムレツを注文したが、私はから揚げ定食にした。そのあと、旧街道らしい広くない道をしばらく歩くと、広くて交通量の多い通りにぶつかった。国道310号線である。横断歩道を渡ると、そこは正門である。キャンパスのなかには種類は判らないが背の高い樹木が整然と並んでいて、いかにも大学らしい。こういう雰囲気は久々である。その特に大きくはない正門を入ると、なかは結構広々としている。都会にある私立の大学はもっと窮屈な感じがする。国公立の雰囲気がする。生協や学生会館があったりして、それは普通にある建物だが、全体として地味な感じがする。私は私大の出身だが、私大はもっと派手で、勉学よりサークル活動が前面に出ている。T君によると府大は理系が中心なので授業への出席率がよく、結構まじめらしい。そういうことが背景にあってのこの雰囲気なのだと判った。
 M教授の研究室は、少し小さめの建物の1階にあった。少し狭い感じ。教授の部屋など、サークルの顧問教授の部屋しか入ったことがないので判断できないが、たしかあの先生の部屋は倍ぐらい広かったような気がする。部屋の広さで勝負するわけではないからどっちでもよいのだが、気の毒な気がした。先生には大変希望に満ちた話を聞き、プロジェクトへの参加も検討しようと思いつつ岐路に着いた。人柄もよく、熱意の感じられるM教授だった。

 久しぶりに大学のキャンパスに入り、学生時代が懐かしく思われた。大きく違ったのは、昔は正門付近にたくさんの「立て看板」というものが並んでいた。だいたい、それを出している組織によってお決まりの文句なのだが、あれがないと大学らしさを感じないのは骨董品的人間なのかもしれない。

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2009年10月31日 (土)

筆談ホステス 斉藤里恵

 旭屋書店で本を探していたら、「筆談ホステス」というタイトルが目にとまった。立ち読みすると、著者は生れてしばらくして病が原因で聴力を失った。そのハンデのためか非行に走り、青森では有名な不良少女になったそうだ。その彼女が水商売で接客することを仕事にし、頑張っているという話である。意地悪なママに、客との性交渉を強制されたり(危機一髪逃げ出したらしいが)盗みの罪を押し付けられたりと、まさに犯罪的ないじめを受けてきた。それでも、店を移ることはあってもホステスという仕事は今も続けている。

 言葉がうまくしゃべれないから、コミュニケーションの手段として筆談が使われる。お客の方もわざわざそのような相手を選ぶわけだから、少しばかり忍耐が必要だ。それは、同情であるかもしれない。それに写真を見て分かったのだが、彼女は可愛いのである。和服を着た姿は銀座のナンバーワンホステスと言われても違和感はない。確かにハンデがありながら、よく頑張っていると思うのだが、珍しさとともにやはりきれいであることが成功の要因になっている。障害を持つ人たちの励ましとなっているということなので、それは率直によいことだと思うが、彼女が他の人にはない特別なものを持っていることは間違いない。とはいえ、彼女自身が書いているように後から若い娘が入ってきて競争が激しい。いつまでも可愛さを売りにできない。筆談を通じてでも、相手を気分よく楽しませて帰す術を身につけなければならない。これからが彼女にとっての正念場なのだ。
 

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2009年9月26日 (土)

比較の仕方 新聞記事より

  新聞を読んでいて違和感を感じる記事があった。このシルバーウィークの列車と高速道路の利用状況を報じる記事だった。
 そこでは、単に状況を伝えるだけではなく、ゴールデンウィークとの比較をしていた。初めての秋の大型連休ということで、その影響がどれだけのものかを知るためにゴールデンウィークと比べるのは的を射た見方だと言えよう。問題は、表現の仕方である。ゴールデンウィークに比べて高速道路の通行台数は何パーセント減った、逆に列車の利用客は何パーセント増えたという言い方をしている。多い少ないを語るのはよいが、増減は無意味ではないか。もともと違うものなのであるから、減った増えたという言い方はおかしい。
 このような書き方になるのは、同じだけ休みが続けば、国民は同じように行動するはずだという前提があるのではないか。しかし、実際は時期の違いなどから同列に論ずることはできない。比較するなら前年と比べるのが一般的だが、今回初めてのことなのでそれもできない。単純に多い少ないだけ書けばよかったのではないかと思う。細かい話だが、多数の目に触れる記事は特に注しなければならない。

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2009年9月22日 (火)

積極的な思いをこそ言葉に

 消極的な感情や気分は言葉にせず、積極的な思いをこそ言葉にしたい。それが人生により多くの実りをもたらす秘訣の一つである。

 気持は言葉に表すと、その中身が鮮明になるとともに、大きく膨れ上がる。これは、悪いことでも良いことでも同じである。「ああ、仕事がうまくいかない。」「なんだか、やる気がでない。」「面白くないことばかりだ。」などという消極的な言葉を吐き続けていると、それが膨張して自分を支配し始める。逆に、「失敗したけれど、少しコツがつかめてきた。」「計画通りはいかないけれど、近い結果が出るようになった。」「相談すると、以外に協力してくれるものだ。」など、前向きな要素を言葉で表現すると、それが自分自身を後押ししてくれるようになる。現実というものは、否定的な要素で満たされているのではない。同じことであっても、見方によって変わってしまう。功利主義的な考え方になってしまうが、何が正しいかではなく、何が自分にとって意味があるかが大事なのである。自分を成長させてくれるものが善なのだという考え方は、生きる上で欠かせないものである。それは決して、他人よりも得をしようというような偏狭な考えではなく、もっと高尚なものである。

 気が滅入ると、悪い考えに取り付かれてしまって悪循環が起こる。心(脳)に傷があったりするとそれは致命傷になりかねない。深みにはまると気分を変えることさえ難しくなり、医師やカウンセラーや薬の助けを借りなくてはならない。そうなれば、積極的に人の力を借りる方がよいのだが、そうなる前に自分でコントロールできるようになりたい。それは病気にならないための対策ということよりも、もっと積極的に、成功の哲学なのだという位置づけが望ましい。

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シルバーウィークの人の動き

 今日は5連休の4日目であるが、この間の人の動きは活発であるようだ。昨日はJR新大阪駅の構内を歩いたが、非常に混雑していた。また知人の話では、高速道路が渋滞していて行楽地からの帰りが明け方の4時になったということである。日本旅行の社員の話では、観光地のホテルは満館で、休み直前になっても空きはないかとの問い合わせが多く寄せられていたらしい。
 この行楽地に向かう動きは、お盆休みが低調であったのと対照的である。お盆は行楽よりも帰省が優先されたようだ。高速道路の利用は多かったが、観光地へは向かわなかった。8月は全般的に旅行関係が振るわなかった。それは、景気の低迷で消費が促進されないという基本問題に加え、選挙があったことと、新型インフルエンザの影響があると考えられる。しばらくじっとしていたが、連休を機に少し余暇を楽しもうという判断が働いたのである。
 新型インフルエンザはなお感染が広がっているようだが、報道されている限りでは死者、重症者が少ない。従来の季節性と比べても少ない。これは、感染者が体力のある若者に集中していることと、早めにタミフルなどの薬で対処していることが功を奏しているのではないか。南半球での流行は下火に向かっているらしいので、日本での流行も冬になる前に収束に向かう可能性もある。

 ということで、休みは明日まで続くが、人出の多いのは経済にとって喜ばしいことである。とはいえ、財布の中身はさびしいものがあろうから、これから本格化する秋の行楽シーズンがどうなるのか心配である。政権が変わり(国民の力で「変えた」という言葉の方が適切か)気分的にはいくらか希望を感じている人も増えただろう。長期的には困難な問題をたくさん抱えているが、政策の進め方によっては短期的によい経済効果が出る望みはある。私自身は懐疑的であるが。

 

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2009年9月 5日 (土)

安泰ではない 第45回総選挙結果より

 落選した自民党の長老たちは、この日が来ることを予想しただろうか。投票日前の報道で苦戦を伝えられてはいても通ると信じていたのではないか。
 スタート位置に着くこと、すなわち党公認の候補者になることは容易なことではないが、とにかく候補になって当選さえすれば、それ以降はまさに安泰。代議士先生として周囲からちやほやされて時間をすごし、当選を繰り返すことにより、いつかは大臣の椅子が回ってくる。これまでは、こういう人生設計ができたのである。
 中川といい、伊吹といい、山崎といい、久間といい、落選の報を受けての表情は茫然自失であった。ただし、逃げ出さずに敗者の弁を語る姿には、最後の意地を感じさせた。それにしても、今回のような劇的な形成の逆転は何度も体験できるものではない。自民の議席と民主の議席が一気に入れ替わった形になってしまった。これは小選挙区制の罠であろう。そもそもこの選挙制度を導入したのは自民党である。思惑としては、もっとも集票能力があったので、これで議席を独占することができると考えたのである。それはしばし効果を発揮した。バランスをとるために合わせて取り入れた比例代表制の議席数は抑えて小選挙区の比重を増し、結果として多数を維持してきたのである。ところが、潮目が変わると、二者択一の図式のなかで、一気に民主へとなだれ込んだ。これを、墓穴を掘ったと言わずして、何というのだろうか。
 北海道の高齢の選挙民が言っていた。中川さんは奢っていたので、ここいらでお灸をすえないとね。自民党は長期政権の上に胡坐をかいていたのである。長期ビジョンがなかったし、個々の政局において誠実な対応を欠いた。人事があまりにお粗末だった。議員のお行儀が悪すぎた。国民はすでに諦めをもって見ていたが、今回はほとほと愛想を尽かしたのである。安倍、福田および中川の辞任はみっともないものだった。また、年金問題のごたごたで、舛添は頑張ったが、民主の議員もそれなりに論客ぶりを国民に見せたことが信頼感をいくらか高める効果をもったように思う。

 自民党の復活はないとは言えない、しかし、長老の復活はない。若返って、いつ議席がなくなっても構わないという覚悟で、政治的信条を貫いて活動に専念することが再生への必須条件である。もはや、この変化の時代に、安泰という言葉はない。

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2009年8月29日 (土)

妙見山にて

 能勢の妙見山に行ってきた。息子の夏休みの宿題である植物採集にお供した。阪急電車から能勢電に乗り換え、妙見口まで。そこから徒歩でケーブルカーの駅まで。ケーブルに乗って中腹まで上がり、そこからはリフトで上がる。しばし山道を歩くと山頂近くの広場に出る。地味な場所で、正味のお参りか散策が目的になる。植物採集では思ったほどの収穫はなかった。花の付いた植物などそんなにないことが分かった。時期も悪いのだろう。

 ところで、山道を歩いていてすれ違った二人連れがこういう会話をしていた。「こういうところに住んでいたら、クーラーいらんね。」そりゃそうだ。確かに、真昼でもひんやりと涼しい。朝晩ともなれば冷え込むだろう。しかし、住めますか。住むだけなら住めるでしょう。でも仕事がありません。大阪市内まで通うのは直接車で行くか、能勢電の駅まで車を使うかしかない。随分面倒な話である。都合のいい部分だけ取ってくるのは口では簡単だが、実際の生活では成り立たない。こういう場所は、せめて別荘ぐらいで考えないと。
 住んでみると、いいことばかりではないのです。私も能勢町内に住みましたが、夏が涼しいということは冬が寒いのです。氷点下5~6度ぐらいまで下がります。雪が降ります。最初は喜んで雪だるまを作ったりしますが、そのうち飽きます。軽油代がかかります。車が2台必要です。維持費がかかります。ガソリン代がかかります。物価が高いです。そう考えてみると、都会に住むより生活費のかかることが分かります。メリットは地価が安いことと自然がいっぱいあることです。自然はたまに触れるといいものですが、いつもそのなかにいると特別利益を生みません。喘息治療が目的なら別ですが。地価の安いことは、固定資産税に多少影響しますが、それほどの額ではありません。

 以上、たまたま耳にした会話から発想が飛躍しました。

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言い訳するな

 俺は頭が悪いからとか、俺は才能がないからとかいう言葉をたまに聞かされることがある。そう言う人を見てみると、確かに特別頭がいいわけでもないし、際だって才能に恵まれているわけでもないが、他と比べて目立って劣っているのでもない。
 こういう人は自分を本当に頭が悪い人だと思っているのではない。たいていの場合、この発言は努力しないことへの言い訳であったり、失敗への予防線だったりするのである。世の中には、著しく頭が良い、あるいは悪い人がいるのだけれども、それはごく一部であって、多くの人々については大きな開きはない。仕事など社会生活において成功失敗を左右する要素は、ものの考え方や姿勢、「努力」の度合である。だから、初めから頭が悪いなどと言ってチャレンジを怠れば、自ら可能性の芽を摘んでいることになる。
 世の中、やってみなければ分からないことが多い。とはいえ、備えなしにいきなり行動すれば失敗もしやすい。考え過ぎてもいけないが、成功までの道筋を想定して要所を押さえれば上手くいくことが多いのである。だから、頭の良しあしで人間を分けるのではなく、努力するしないを評価基準にすればいい。これは、他人の評価の問題ではなく、あくまで自分をどう生かすかの問題である。

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2009年8月23日 (日)

暑い暑いと言うけれど

 時候のあいさつとして暑いですねと言うのは分かるが、会社でいつも顔を合わせている人同士が暑い暑いと言い合うことには抵抗がある。夏だから暑いのに決まっている。しかし、今年の夏は例年に比べて気温は低めであり、特に朝晩はしのぎやすい。熱帯夜が少ないのである。私は寝る前にエアコンのスイッチを切ることにしているが、例年明け方になると顔から首筋にかけて汗が流れ落ちる。それが、今年はほとんどないのである。

 暑い暑いと言葉にして発してみても暑さが和らぐわけでもあるまい。少しはマシだと思えば、多少なりとも気分が楽になるというものだ。負の効用が生まれるような言動は避けた方がよい。これは問題から目を背けるということではない。それこそ生活の知恵の問題である。同じような事例として、疲れたとか、しんどいとか、忙しいとかいう弱音がある。弱音を吐いたからと言って問題は解決しない。解決するには原因を明らかにして、対策を講ずるしかないのだ。

 私の考え方は功利的にすぎるだろうか。弱音ぐらい、愚痴ぐらい言わせてくれよと反論を受けそうな気もする。それは、分かる、理解できる。私もこころの中では、そう思うことがある。しかし、言葉にしてしまうと、その言葉に影響を受けてしまう。自分だけではない、周囲も影響されるのだ。お互いのことを考えれば、前向きの言葉を努めて発すべきである。

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2009年8月16日 (日)

お寺のポスター

 実家の部屋の壁に、お寺からもらってきたポスターが貼ってあった。そこにこう書かれている。「鳥は飛ばねばならない。人は生きねばならない。」

 何かおかしいと思いませんか。実家は禅宗(曹洞宗)の寺の檀家である。仏教、その宗派ごとの考え方について勉強したことはないので分からないが、禅宗ではそのような考え方に立つのだろうか。鳥は放っておいても飛ぶだろう。人は説教しなくても生きるだろう。生きとし生けるものは、生きようとする本能に導かれて生きるのである。

 確かに、より良く生きることは人生の目標となろう。それは人間が持つ精神性のなせる業である。人は生きねばならないという意味が、より良く生きなさいという叱咤の言葉であるならば分からないではないが、それならば鳥が飛ぶことと同列で語ることはできない。鳥は皆飛ぶだろうが、人がより良く生きることは簡単ではないのだから。

 ケチを付けるわけではないが、どう生きるかという問いは、どう働くかという問いに近い意味がある。宗教があまりに現実的な課題に触れると宗教でなくなるのかもしれないが、どう働くのかを問わずして少なくとも現世の幸福を論ずることは不可能と思える。来世の幸福が現世の業の結果であるという理屈によるならば、これまた働き方が問題にならざるをえない。いや、そんなことと人の来世とは全く関係がないという教義を持つならば、それはそれでいい。念仏さえ唱えれば、誰も皆極楽へ行けると説くならば、それは宗教らしい。小難しい考え方は捨て、絶対的なものに身を委ねるだけでよいという教えは極めて宗教的である。その領域にとどめ、他の一切の分野は科学的な営為の対象とすればよいのである。

 難しい話になってしまったが、要は意味の分からないようなポスターは配るものではない。せめて解説ぐらいしてくださいと言いたいのである。

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ファンタグレープの味

 ファンタは私が生まれた1958年に発売されたらしい。ファンタを飲んだ記憶は小学生の時に始まる。ファンタはグレープ味でなければならない。

 それまでにあった清涼飲料水といえば、三ツ矢サイダーと地元のメーカーが作るラムネがあった。当時はまだ一般勤労者家庭の購買力は弱く、地方はなおのことそうであって、毎日サイダーが飲めるほどの生活ではなかった。たまに飲むサイダーとラムネは甘くておいしく、喜んで飲んでいた。さらに、そこにファンタが現れた。ぶどうの果汁は入っていないけれどもぶどうらしき味と香りがして、甘みもうんとあっておいしい。夏の暑い日には、答えられない清涼感と味だった。当時はホームサイズという大きさの瓶入りがあって、それを兄弟で分け合って飲むのだった。しかも、自分の小遣いでは買えないので、祖母から年金で受け取ったお金をせしめて買いに走ったのだった。

 それまでに世間に(とはいっても、身の回りの世間であるが)出回っていないものを初めて口にした時の感動は忘れられないものである。初めて飲んだファンタ、初めて食べた焼き豚、初めて食べたシュークリーム。他にもたくさんの記憶がある。この世にこんな美味しいものがあったとは・・・という感動である。焼き豚の時は、あまりの美味しさにご飯を食べ過ぎてお腹が痛くなった思い出がある。

 今では、それらのものは、いつでも食べられるようになった。特別高価なものではなくなった。そして当り前の味になった。大量に出回り、大量に消費すれば限界効用は逓減していくのである。これから、何が我々を満たしてくれるのか。売る側は、あの手この手で新しい商品を買わせようとするが、少し違うだけで全く新しいものはない。テレビ番組では食べ歩きで、美味しいものがあちらこちらにあるように宣伝するが、どうも無理やり美味しいと言っているように見える。

 そうだ。もはや驚くほど美味しいものなどないのだ。いい素材に適度に手を加えれば、それなりに美味しいものはできあがる。それは普通の美味しさだ。普通に美味しいと思えれば十分なのであって、タレントが目をむき出して競演するのは嘘っぱちなのである。それでは、あのファンタの味はなんだったのだろうか。新しい、未体験の消費社会の到来を象徴する味だったのだろう。それも、洪水のように新たに発売される数多の清涼飲料水に埋没し、目立たなくなってしまった。

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2009年8月11日 (火)

静岡で地震 報道の仕方

 朝早く目が覚めてごそごそしていると部屋が揺れ始めた。数日前にも関東で地震があったので、またそちらの方面だろう、だから大揺れはしないだろうと思っていたら、その通りだった。8月になっても天気は芳しくなく、台風は来るし、今度の地震といい、夏休みの気分を殺がれる現象が続いている。

 揺れが収まるのが早いか、NHKのラジオをつける。こういう時のためにNHKはある。しかし、情報はすぐには入らず、津波警報が出ているので海岸には近付かないように繰り返し注意を呼びかけている。しばらくすると、いつものように被災地の役所に電話をつなぎ様子を聞いている。特に大きな被害はなさそうな報告だった。続いて、これも地方の場合によくあるのだが、ホテルのオーナーに電話を入れて状況を聞いた。前の東北の地震でもそうだったが(その時は女将が出ていた)こういう立場の人は、無事を強調する。全然平気ですとは言わないが、心配はないということを言いたいのである。今日から夏季休暇に入る企業が多い。いわゆるお盆休みで、宿泊客は多く、いつもより高い料金が取れる。こんな時にキャンセルが続いたのでははっきりと経営に影響が出るだろう。

 報道の面白さ(こういう言い方は誤解を招くが)は、聞く方の立場と答える方の立場のギャップである。放送局は被害の情報を早く伝えたい。そうすると、何かないか何かないかとせがんでいるように聞こえてしまう。逆に、先ほどのホテルのオーナーは、何もありません何もありませんと答える。そして、少し白けた空気を残して会話は終了する。これはNHKだからまだ地味だが、民放は派手だ。昨晩は、報道ステーションが串本まで行って、台風が近づく漁港の様子を伝えていた。串本まで出かけるのもご苦労なことだが、苦労なだけに余計に仰々しく伝えたいようだ。折角こんなところまで来たのに、台風の気配もしないのでは甲斐がないとなってしまう。風が強まってきました。湿気を含んだ重たい風です。接近を感じさせます。漁師の皆さんは心配げです。とまあ、こんな感じである。伝える側の意図、その場に立たされた記者やアナウンサーの心情などで伝え方が随分変わってしまうものなのである。

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2009年8月 9日 (日)

夏休みの宿題

 夏休みには有り余るほどの時間が与えられている。アルバイトをせざるをえない状況や入試前の勉強に大半の時間を割かざるをえない状況を除けば、好きなことのできる時間があるのだ。ただし難敵である、宿題というものが控えている。そのボリュームは小中高で違うし、学校の教育方針によっても違ってくる。違いはあっても、宿題の処理の仕方で休みの過ごし方に少なからず影響を与えるだろう。

 ネットで、あなたは宿題を先にやる派か後にやる派か聞くコーナーがあった。こういうものに、「派」はないだろう。できるならば先にやってしまいたいと誰もが思っている。しかし他に優先したいものがあったり、特別やることがなくても宿題に向かいたくないという気持ちが勝って先送りするだけなのだ。かくいう私も同じだった。最後の3日間ぐらいは苦しんだものだ。そんななかにあっても、分量は大したことがなかったが、最初の1週間ぐらいで済ませたことがあった。その年は、気分も爽快で、高校野球をテレビ観戦したり、本を読んだり、ただひたすらゴロゴロしていたりだった。とはいえ、宿題を残していてもすることに大きな違いはないのだ。要するに、気にかかるものがあるとなしとでは、気分の違いが大きいということなのだ。いやいや、私はそんなことは気にしない。宿題を残していてもすっかり忘れて遊んでいるさという人もいる。どうせやらないのなら、すっかり頭から消し去ってしまう方が精神衛生上よろしいことは間違いなかろう。

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2009年8月 6日 (木)

中流幻想の崩壊

 週刊東洋経済に「相次ぐ経営破綻 高級食器クライシス」というタイトルの記事があった。欧米の高級洋食器メーカーが次々と破綻し、日本のメーカーも同様に厳しい状況にあるのだという。こういう記事を目にするのは日常茶飯事であり、特別驚かなくなった。贅沢なものには手が出なくなったのである。

 中間層の崩壊については何度となく触れてきた。収入が減少し、それが固定的となり、現実的な選択として身の丈に合った生活をせざるを得なくなったということだ。かつても、中流とはいえどもさほど「豊か」であったわけではない。しかし、「豊かさ」の幻想は持っていた。貧しさから解放され、物が十分にあり、余暇に楽しみを持つことができる。そういう境遇に満足し、これからも続くと思いこんだ。今次々と崩壊しているものは、この思い込みの産物であったのだ。

 思い込みの産物を三つ上げたい。① 百貨店・・・百貨店の売上減少は留まるところを知らない。ひどい月には前年比で10%以上の減である。稼ぎ頭の高級衣料品が売れていない。もともと高級な衣服は百貨店に買いに行くという習慣があったから、百貨店が売れなくなったというよりは、高級品が売れなくなったという方が核心を突いているように思える。一昔前なら、家族連れでデパートへ行って商品を見て回り、大食堂で食事をして帰るというのが中流家庭の幸福パターンだったのだ。しかし、もはやそういう幻想は崩れた。  ②ファミレス・・・バブルのころを思い出す。夜遅くなってもファミレスは一杯だった。ところが今は、まだ夜浅い時間でも閑古鳥が鳴いている。すかいらーくという屋号の店は今年でなくなるという。家族で出かけ、洋食を食べるという行動は急激にすたれていった。集客しているのはサイゼリヤなどのファミレスというカテゴリーからは外れた低価格店である。 ③観光ホテル(温泉旅館)・・・温泉に入り、部屋で贅沢な会席料理を食べて、また温泉に入り、くつろぐ。そういう旅行の楽しみ方は少なくなった。かつては個人だけではなく、会社や労働組合などの団体客も多かったが、そういう客の方が先に消滅していった。日観連加盟のホテルは全盛期の半数以下になってしまった。

 もはや幻想は抱かなくなった。厳しい状況に立たされれば、目の前の現実と向き合うしかないのだ。身の丈にあった消費の仕方に徹し、そのなかに少しでも幸福な生活を見出すしかない。それなりの生活、それなりの満足である。おそらくは、効用に見合ったお金しか出さないというクールな生活観が支配的になりつつあるのだ、

 

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2009年7月26日 (日)

アクセス数増加の原因②

 昨日のブログへのアクセス数が94件あり、もう少しで100件を超えるところであった。かつては1日に10件あれば多い方だったが、大きな変わりようである。昨日の件数を記事別に見ると、「思考の整理学」が圧倒的に多く、48件と過半数を占めている。それまでもアクセスは多く、グーグル検索でトップにランクされるまでになったが、そのことの影響は大きいにしても、もっと特別な理由があるはずである。現に、今日はこの時刻までで2件しかない。従って昨日特別なことがあったのだ。

 例えば、特定の学校の学生が一斉に検索したという推理はどうだろうか。予備校の講師が、この本はよく出題されるから読むとよいと薦めたとか、教師が週明けにテストがあり、そこでの出題を示唆したとか。後者の方であれば、今日もアクセスがあってよさそうなものだが、そうではないから前者の方が可能性がある。

 ちなみに、今日の日本経済新聞の広告に「思考の整理学」が掲載されていた。「2008年、東大・京大で一番読まれた本」がキャッチフレーズである。広告によると80万部を突破したらしい。毎年3万部程度はコンスタントに売れている勘定になる。確かにすぐれた本だと思う。私は、この本と同様に、加藤周一の文庫本も強く推薦したい。考え方や書き方についての方法論は書いていないが、彼の考え方そのもの、論の展開そのものが勉強になる。私は、加藤周一の本を読めば頭がよくなると勝手に思いこんでいる。

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2009年7月25日 (土)

風にゆれる朝顔の花

 7月も残り少なくなったというのに天気が愚図ついている。梅雨はもうしばらく明けそうにない。マンションンの正面にあるこんもりとした森の上に少し強めの雨が降りそそいでいる。風もあって、窓を開け放った部屋の中に冷えた空気を吹き込んでくれる。ベランダでは、朝顔の花が風に頼りなく揺れている。自然を感じることの少ない都会生活では、珍しい時間である。

 大阪という土地は天気の変化がゆるやかだ。風は強くなく、雨が少ない。平地が広がっているせいだろう。かつて住んでいた大阪府能勢町の気候と比較すると分かりやすい。能勢町は山に囲まれた町だ。こういう地形では天気が急に変わる。特に冬場は、北から風が入り始めると雲が次々に飛んできて空を覆い尽くす。そんな時でも、大阪市内に出てくると晴れあがっていることがしばしばあるのである。

 生地の三重県南部は雨の多い土地だ。南から風が入ればたちまち天気が崩れる。南の風は湿気を含んでいて、それが紀伊山地の南東斜面にぶつかることにより、雨雲が発生する。土砂降りが有名なのは尾鷲だ。私も一度、車を運転中に集中豪雨に見舞われたことがある。バケツをひっくり返したようなという表現があるが、それを上回る激しさだった。ワイパーを最速にしても前は全然見えない。危険なのでヘッドライトを点灯して徐行する。10~20kmぐらいで低速運転したが、路肩に停車した方が安全だろう。しかし、それも尾鷲市内を抜けるころには収まってしまった。あれだけ降ると、却って気持がスカッとするものだ。大阪ではあのような雨は経験がない。

 朝顔は小さい鉢の中で根を伸ばすことができず、窮屈そうだ。それでも、寿命は短いけれども美しい花を咲かせている。地べたに植えてやればどんどん大きく成長することだろう。私たちの周りの人間は鉢植えになっていないだろうか。根を張る場所は、家庭であり、学校であり、職場であり、広くは社会である。昨今の社会の状況を見ると、最低限の鉢さえも奪おうとしているように見える。

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2009年7月20日 (月)

「気分」から「自覚」へ ブログの効用

 気分・感情を言葉にする。言葉を文章に組み立てる。文章を主張として発信する。ブログには普通の日記にはない、目的意識的な行為と緊張感がある。それは、人目に触れることを前提にした表現行為であり、自分の名を明かすかどうかに関わらず、一定の責任を生じさせることになる。匿名をいいことに好き勝手な発言も流通するけれども、こういうのは「気分」の垂れ流しであって、主張ではない。

 主張を表に出すという「自覚」的行為は、自然発生的には生まれない。まれに、感性鋭く、目の前に起こっている現象に対して何かを感じ取り、言語感覚鋭く、平穏な空気にくさびを打ち込む発言をする若者がいるが、これは天性のものであるか、それでなければ余程特殊な環境にいるからであろう。通常は、自分の意見を形にするためにはトレーニングを必要とする。欧米では公教育の場でもこの訓練は行われている。日本でも最近ではその認識が広がり、小学校でもプレゼンのまねごとが行われている。

 ブログの制作は、外から押し付けられたものではなく、自主的な行為である。自分の思いを表現して形あるものにしたいという欲求からスタートした。そして続ける中で、より高い中身を求めるようになってきた。継続は力なりと言うけれども、ただ続けるだけでは大きな力を生みにくい。そこには自覚的要素が不可欠である。時々、到達点を測り、必要に応じて軌道修正が図られて質が向上していく。自分の場合、スピードは遅いにしても、書き始めたころに比べて進歩しているように思える。数をこなすことによって要領を得たという側面もあるし、自分の価値観が整理(必要なものと不要なものを区別して、不要なものを捨てること)されてきたということだろう。

 前にも書いたが、趣味は何かと問われて、ブログと答えることもあるが、決して趣味と言えるほど気楽なものではない。今では、言葉は悪いが、ノルマになっている。書きそびれたからといって誰からも誹りを受けることはない。それでも書くのは、格好よく言えば、生きている証になっているからなのだ。よって、しばらくは書き続けなければならない。次なる自己表現の手段に移る時までは。

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2009年7月19日 (日)

得るものと失うもの

 何かを得るためには何かを捨てなければならない。個人でも組織でも広くは社会においても入れ物の容量は決まっていて、入れるばかりでは溢れてしまう。確かに、個人でも組織でも社会でも少しずつ成長していてキャパも大きくはなるが、最近ではその成長さえも危うい状況にある。

 個人のレベルで考えてみよう。限られた時間のなかで自己啓発に時間を割こうと思えば、他のことに費やす時間を削らなければならない。それは家族との団欒であったり、趣味の時間であったり、時には睡眠時間であったりする。新たに優先するものが出来た場合には、有限な時間の組み換えを行い、バランスをとり直すことになる。それは価値観の修正であり、ものさしの変更だと言うことができる。家族との時間を減らすような場合は、配偶者や子の理解を取り付ける必要がある。世間の様子が分かっている配偶者ならば多くを語る必要はないだろう。しかし、このように思慮深く事を進めることは誰にでも出来ることではない。人間、新たに手に入れるものには大きな関心を抱くが、失われるものには目を向けない。長く付き合ってきた彼女がいても、身近に感じのいい子が現れたら気を奪われることもあるだろう。そして、その子とどうやってねんごろな関係になっていくのか、そこにしか関心がもてなくなる。これまでの彼女と築き上げた関係は考慮することなく、逆に鬱陶しくなるばかりである。客観的に見れば、失うことも多いはずである。得るものより大きいこともしばしばあるだろう。

 例としてはよくなかったかもしれない。恋愛の場合は、当事者たちの得心の問題であって、周りがとやかく言うことができないからである。なかには説教する人も出てきて、そういう人間関係も捨てたものではないが、最後はどうぞ好きなようにしてくださいと突き放すしかない。他方、これが社会の場合はそんな単純な問題ではない。利害関係が現にあり、状況の変化や構造の変化が新たな軋轢を生むからである。分かりやすい事例として経済成長を取り上げてみよう。高度成長は日本人の生活を大きく変えると同時に、負の爪痕もたくさん残すことになった。都市住民を大量に作り出し、生活がより欧米化し、地域社会における人間関係も大きく変えていった。高層住宅に住み、自動車を手に入れ、電気製品を使い、温泉旅行に出かけ、デパートで買い物をし、ファミレスで食事をする。これらが、得たものであり、中流家庭の豊かさの象徴であった。失ったものは何か。自然であり、遊び場であり、地域社会であり、互助の精神であり、よい意味での民族の誇りであった。これらのことを総合的に評価するならば、すでに終わってしまったことは取り返しがつかないという事実も踏まえるならば、得たものの方が大きかったという答えを出すベきなのであろう。

 では、一定のレベルに到達し、停滞が始まり、同じ夢は二度と見ることができないと悟り始めた現在においてはどう考えたらいいのだろうか。もはや、一本調子の拡大はありえず、パラダイムシフトが必要であることは、事実を冷徹に見ることによってしか生き残りを図ることができない企業人に次第に理解されてきた。しかし、まだまだ変化の途上にあり、環境という名の下に新たなバブルが発生しており、そのことは環境という名の下の量的拡大だということができる。したがって、まだ時間がかかるかもしれないが、個人のところで言った、価値の組み換えとバランスの調整が避けられないのである。

 今大事なのは、何を捨てるかである。それが決まれば、新しい社会の輪郭が明確になる。間違っても、日本の強みにつながる文化的特質まで捨てることがあってはならないが。

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2009年7月18日 (土)

アクセス回数増加の原因

 最近このブログへのアクセスが急に増えたことの原因についてさらに調べたところ、確かな事実が判明した。それは、ブログのタイトルにあった。アクセスが増えた主なブログ記事のタイトルは「思考の整理学」と「22才の別れ 森昌子」である。「思考の整理学」と「森昌子」のキーワードで検索され、ブログ記事に行きついているのである。

 グーグルで「思考の整理学」を検索すると、私のブログ記事が先頭から5番目に表示される。目につくから、見てみようと思う人が増えるのである。「森昌子」で検索すると、7番目のページにブログ記事が表示される。そこまで追っていく人は少ないかもしれないが、検索の絶対回数が多ければ行きつく人の数も増えるわけだ。

 こういうことが分かると、それが一番の目的ではないにしろ、多くの人の目に触れたいという欲求も刺激される。読まれるためのてっとり早い方策は、知人・友人にドメインを教えて回ることだが、むやみやたらに知らせたくない。文章のなかには私生活の中身が窺えるものがあるし、文章自体が私の考え方そのものであるからだ。いわば、裸を見せるようなものである。その点、私を知らない不特定多数の人に見られる分には気が楽である。

 カウンターの数字を上げるには、タイトルの付け方に工夫の妙があるようだ。あまりに一般的なものだと後方に追いやられる。逆にあまりに特殊なものだと検索そのものがない。とはいえ、いわゆる「マニアックなもの」は捨てたものではない。ブログで、ボディービルダーの「フランク・ゼーン」について書いたが、回数は多くはないものの安定して読まれている。数少ないボディービルファンのなかでも彼のファンは一部だろうが、私と同じ美的感覚を持つ人がいるということだ。一方、「思考の整理学」は本のタイトルで、長い期間安定的に読まれている。ビジネスマンや学生が多く読んでいると推測されるが、知的な関心から検索する人も一定数いるのであろう。加えて、1Q84の様な話題性はないのでブログ記事の数も多くはなかろうから、私のブログにぶつかってしまうことになる。こういう人がほぼ毎日何人かずついるのである。

 こう考えてくると、「思考の整理学」のパターンがもっとも狙い目であることが分かる。

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2009年7月11日 (土)

目線と視線

 目線と視線はほぼ同じ意味で使われているようだ。ニュアンスとしては視線の方が対象を凝視している感じがある。ここでは視線という言葉を使うことにしよう。

 先日、森昌子の「22才の別れ」を絶賛した。歌が素晴らしかったからなのだが、加えて表情の作り方と視線の遣り方に感心したというか、ぞくぞくするものを感じたのである。彼女もプロであるから自然に出ているようなものではなく、計算された動きに違いないが、視線を落としたり、正面を見たり、視線を上げたりと、微妙に動いている。特に印象的な場面は、「17本目からは一緒に火をつけたのが昨日のことのように」と歌うところで、視線を上げて遠くに目を遣るシーンである。それは過去を振り返る目として実に有効であった。

 本論はここからである。どこに目をやるか、何を見るか。これは人間にとって根本的に大事な問題である。なぜならば、それによって人生が変わってしまうからである。下を向いて生きている人間は、つまずくことはないが遠くに行くことはできない。前をしっかり向いて、やや視線を上げて遠くを見据えるぐらいがよい。たどり着く先はあなたが目標としている場所だ。いつ着くのか確かではなくても、確実に近づいていることは間違いない。逆に、目標を持たない人間は、よそ見しながら歩いているうちに迷子になる可能性がある。実はそんな人間が大半なのかもしれない。50年、60年生きてきて、一体自分はどこに来てしまったのだろうかと呆然とする。そしてまた、そういう人間は老いやすい。そんな人でも初志はあったのだろう。忘れてしまうのだ。不要なことは早く忘れるべきだが、肝心なことは忘れてはいけない。それこそ、朝起きた時に、自分の行先はどこなのか考えるぐらいでないと目指す方向に進むことができないだろう。

 先日ある工場に出かけ、朝礼に参加したが、皆の視線が落ちていたのが気になった。何かしら元気がなく見えてしまう。実際そうなのだろう。前向きな、挑戦的な気持があれば前を向くであろう。とはいえ、そういう自分もうつむいて生きているかもしれない。鏡でもないかぎり、自分の姿は見えないのである。

http://www.youtube.com/watch?v=ZvzmdTB-O1g&NR=1

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増え始めたアクセス数

 私は「ココログ」でブログを書いているのだが、カウンターを付けるサービスがあって利用している。それによって、アクセス数だけではなく人数やその他いくつかの切り口で分析することが可能になっている。単にブログを書くだけではなく、他に目的があるのでああれば、そのデータを戦略的に使うこともできるのである。

 さて、私は主にアクセス数とアクセス人数をウォッチングしている。これまで2年4か月あまりの間の1日平均アクセス数は5.9回である。特に積極的にPRしているわけではないので多くもなければ少なくもない数字なのだと思っている。勤めている会社の社員、同窓生、知人・友人の類に広く案内すれば、見てみようかという人がいくらか現れるに違いないが、そこまでの目立とう精神はない。今のところは、特に親しい付き合いの範囲でお知らせしているにすぎない。したがって、固定的な読者は10人に満たないと考えている。土日のアクセス人数は7~8人と安定しているので、そのほとんどが固定読者すなわち私の親しい知人・友人であろう。

 固定読者以外は検索でひっかるケースである。キーワードでひっかかれば見られるチャンスが生まれる。チャンスを広げたければキーワードに工夫をすればよい。グーグルのキーワードランキングを見れば、この瞬間の流行り言葉を知ることができる。以前、草薙剛が事件を起こした時に、彼の事件についての見方を「試しに」書いてみた。そうすると明らかに一時的にではあるがアクセスが増加した。概して、芸能人やスポーツ選手に対する関心が強く、事件を起こしたり、記録を作ったりした時に検索が集中することになる。キーワードとして、固有名詞が強いと言っていいだろう。

 ところで、今週の月曜日からアクセスの記録に変化が現れた。アクセス数が増えだしたのである。この1週間の一日平均アクセス数は28回である。この増え方はなにかあったに違いない。単なる偶然でないことは明らかだ。たまたまこの間に、世間での検索実行者が増えてこのブログに行きつく確率が高まったとは考えにくい。では逆に一人の人間が、ワード検索によらず私のブログに直接アクセスして、なめまわすように見ているとの想定はどうだろうか。これはありうる。ありうるが、5日間もそれを続けられるほど私の文章は魅力的ではあるまい。したがって、そういう人が混じってはいても、大半は「一見さん」だと思われる。今までの推測を総合的に考えると、何らかの方法・媒体を使って私のブログが広く知らされたのではないかという仮説にいきつく。

 しかし、今のところその検証はできない。そこを詮索してもあまり意味はないだろう。できるだけ多くの人に読んでもらいたいという欲求はある。あるが、今は自然な流れに任せようと思う。データを見ながら、あれこれ思いを巡らすことの方に意味がある。

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2009年7月 5日 (日)

蝉が鳴いた

 今年初めて蝉が鳴くのを耳にした。私が住んでいるマンションの正面に、高い樹が集まるちょっとした林があって、例年夏になると蝉の大合唱が始まる。そのスタートが今日になるのだが、朝方少し聞こえたきり後が続かなかった。小手調べということだろうか。ある資料によれば、近畿地方での蝉の初鳴きは、ミンミンゼミは7月の初旬、クマゼミが7月の中旬となっている。とすれば、今朝の蝉はミンミンか?前の林の蝉はクマゼミばかりかと思っていたが何種類かあるのだろう。そういえば、アブラゼミが道に転がっているのを見たことがある。

 子供のころも、夏休みと言えば蝉というぐらい、家の周りで騒々しく鳴き続けていた。朝は蝉が目覚まし代わりだ。早朝から恐ろしく日差しがきつく、フラッシュをたき続けているほどの照度であった。そんな状態でも裸同然で外へ飛び出し、野球をしたり、川へ水遊びに出かけたりしたものだ。当然体は真っ黒になる。昨今は、紫外線が体に悪いとかいうが、当時はそんなことを言う人は誰もいなかった。ただし、農作業をするひとは麦わら帽子をかぶり、長そでのシャツを着ていた。そうしないと暑さで倒れてしまうからだ。農民は自然の怖さを知っている。趣味で家庭菜園を始めた人などは、夏場の熱中症に要注意である。

 話は逸れてしまったが、蝉の鳴き声は夏の風物詩のひとつである。夏の終わりにはツクツクボウシが鳴く。クマゼミに比べると控えめな声で、それが余計に夏の終わりを告げているように聞こえる。少し寂しい気持ちにさせられたものだが、同時に宿題を早くやれという叱責の声にも聞こえたのである。

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2009年6月14日 (日)

あいだみつを の日めくり

 家のトイレにあいだみつをの日めくりが掛けてある。1日から31日まであって、繰り返し使えるタイプのものだ。昨日13日には、「自分が自分にならないで、誰が自分になるか」という言葉が書かれていた。これをどう解するか。結構、難しい。単純に解釈すれば、自分という人格は自分で育てるもので、人をあてにしてはいけないということだろう。

 自分は、生まれ出た時から自分である。外部から区別される、孤立した個体である。意識の上からも、ものごころが着いた時から自分になる。自分という意識(これを自意識とか自我とかいうのか)は、他者(他者の目)を意識するところから生まれると考えている。何らかの理由で周りから注目される人には、自分について考える機会が生まれる。特別な才能を持っている人。親が特別な地位に就いている人。特別な境遇にある人。などなど。それが、どういう方向に自意識の成長を導くのか、断ずることはできない。ケースバイケースと言う他はないだろう。好意的な評価に答えて順調に育つ場合もあれば、それに反発して自ら成長の芽を摘む場合もあれば、全く予想しない方向に進む場合もありうるだろう。否定的な評価に対しては、それへの反発をバネとして、多少の偏狭さも含みつつ成長を遂げる場合もあるだろうし、マイナスの評価の重圧に屈して歪んだ自意識を許してしまう場合もある。理想を言えば、それぞれの自意識、自我の成長が、社会発展の方向を向いており、発展をさらに促す力になってほしい。しかし、実際は、生身の人間は現社会の到達点を示すものであって、今ある状態を受け入れるしかないのである。

 人間の意識や心理は外からは見えないものである。感じても言葉にできるとは限らないし、言葉になってもそれを口にするとは限らない。人を教育によって成長に導くということは重要な課題ではあるが、一人ひとりの生い立ちや現在の環境、本人の特性などを踏まえて個別のプログラムを組むことは不可能であり、そんなことをやっている学校は聞いたことがない。一定の決まったパターンにしたがい教育を提供し、何か特別な事態が発生した場合に親身に対応できればいい方である。結果的には、どんな境遇に置かれるかによって人間の意識の方向性は決まるのだと思われる。ただし、このことは自らの意識的活動の可能性を否定するものではない。外的な条件が、思っている以上に桎梏となるであろうことを指摘しているだけである。

 外的な条件のなかで最も決定的なものは、家庭環境だろう。家族構成、親の職業、収入などが人格の形成に与える影響ははなはだ大きい。それは、身近な人を見ていて時々感じる時がある。事細かく観察しているわけではないので、ざっくりした想像だが、この人はきっと権威主義的な親に育てられたのだろう。権威主義的と言えば、恐らくこういう職業に就いていたのであろうと勝手に推測している。本人にもそういう自覚はあるだろう。おおよそ、自分がどういう人間かは分かっているものだ。ところが、それを自ら変えていくのは簡単なことではない。出発点は、勇気をもって自分の弱さを表に出して周囲の人にも共有してもらうことだろう。

 さて、あいだみつをに戻ろう。今、題材として使った日めくりには他に30の言葉が書かれている。そのなかには、なるほどと腑に落ちるものもあれば、合点がいかぬものもあれば、曖昧で解釈できないものもある。いずれにしても、いったい何が言いたいのだろうと考える契機になるという意味では有益である。あまりにも考えることの少ない生活の中にあっては、なおさらである。

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2009年6月13日 (土)

本末転倒

 最近、目的と手段の転倒について考えさせられることが多い。当然のことながら、目的が最初にあって、それを実現するために手段が選択され活用されるのである。論理的にその説明が正しいし、実際にもそうありたいのだが、目的が忘れ去られ、あるいは最初から曖昧なまま手段が幅を利かし、それを使うこと自体に意味があるかのような錯覚が多くの人に生まれている。

 村上龍は、その著書「無趣味のすすめ」のなかで、次のような趣旨の意見を述べている。毎年、何千万冊という手帳、スケジュール帳の類が書店に並ぶが、何のために買うのか。スケジュール管理は、やりたいことがたくさんあって、それに優先順位をつけることから始まる。やりたいことがはっきりしない人には、スケジュール管理の必要性自体生まれないのである、と。

 安田佳生は、近著「検索はするな」で訴えている。現代人は、仕事で何か分からないことがあるとすぐにインターネットで検索しようとする。仕事は、入試のように答えが用意されていない。落ちているものを探すように答えを探しても見つけることはできないのである。答えは自分で考えて作りださなければならない。インターネットの普及でますます考えることをしなくなった、と。

 野口悠紀雄は新聞紙上でこう意見を述べている。自分はパワーポイントを使わない。大事なことは、自分の言いたいことをいかにして人に伝えるかである。パワーポイントをプレゼンに使う事が多いが、そのことによって聴衆の目が画面に引き寄せられ、発言者から注意が逸れてしまう。自分は、自分の話を聴いてほしいのである。自分の伝えたいことを聴いてもらうのが目的なので、その目的に邪魔になるものは使わない、と。

 三人の意見はもっともである。とはいえ、このように広範囲に本末転倒が起こっていることには原因があるに違いない。ひとつは、先ほどから手段と呼んでいるものは、大量に商品として流通し、持っていないと時代遅れのように言われるということがある。すなわち、われわれは手段に支配されてしまっている。目的について深く考えない方が、却って商品は売れるのである。会社では、社員にインターネットが使える環境が用意される。それには、仕事に必要な情報を集めなさい、現状を知るためにニュースを見なさいという期待が込められているが、使う方は目的を自覚できないまま画面を開けてしまっている。そして、なにか画面を見ているだけで仕事をしている気になるのである。このように溢れる手段の塊から、自分に必要な物を選び出して使うには、基本に返り、目的をしっかり自覚することが必要だろう。皆、したいこと、伝えたいことがあるだろうか。結構、何も考えず、惰性で生きている人が多いのではないだろうか。いったん、パソコンのスイッチを切って、眼を閉じて考えてみようじゃありませんか。

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2009年5月31日 (日)

ベランダに溢れる音

 JR新大阪駅近くに私の住居がある。とは言っても、立派なものではなく、築三十年を超える古いマンションの一室である。休日は、ベランダ近くの窓際で、本を読んだりパソコンに向かったりする時間が多く、そのときに外から様々な音が流れ込んでくる。

 JR在来線では、何本もあるホームの中で一番近くに発着するのが、関空と京都を結ぶ特急「はるか号」と和歌山と京都・大阪を行き来する特急「くろしお号」である。発着時には案内のアナウンスが流れ、風向きによっては鮮明に聞き取ることができる。特にくろしおのアナウンスは、帰省のときに何度となく乗車したので懐かしい気分になる。ほかにJR貨物が通過するが、こちらは停車しないため音が大きく、朝早くからよく聞こえる。

 在来線の他に、新幹線の駅がある。通過する列車はなく、防音もしっかりしているので電車の音は聞こえないが、アナウンスや発車を知らせるベルの音がよく聞こえ、日本語と英語のアナウンスが入り混じる。

 自動車の音も聞こえる。西の方向に新御堂筋が走っており、風向きによってよく聞こえる日がある。大きな事故があったりすると流れが止まって、走行音も中断する。新御堂の高架下を交差して走る幹線もあり、距離としてはこちらが近い。

 最後に飛行機の音がある。伊丹に着陸する飛行機がほぼ頭上を通過するのである。回数としては、当然午前中と夕方から夜にかけてが多い。機種は様々あるが、ジェット機とプロペラ機があって、ジェット機には大小何種類かがある。どれもほぼ同じ高度を飛んでいると思われるが、大型の機種は近くを飛行しているように感じられる。エンジンが大きいから、その音もまた大きい。プロペラ機には独特の音がある。戦争映画で聞く戦闘機の音はこの種類だ。

 こういう場所に私は住んでいる。今書いた情報だけでも位置関係が推定できるだろう。

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2009年5月 9日 (土)

関関戦を初めて観戦

 甲子園球場で春の関関戦、すなわち関西学院大学対関西大学の野球の試合を観てきた。外野とアルプス席は閉鎖して、それ以外の席に観客を入れていた。応援団とチアリーダーの応援合戦があって学生野球らしい賑やかさがあってよかった。少し残念なのは学生の数が少なかったことだ。野球部関係者と応援団関係者を除くと本当に少なかった。これは過去に経験している早慶戦に比較しての話なのだが、それと同じとは言わないまでも学生の一割ぐらいは来てもいいのではないか。野球への興味がなくなったのか、大学への帰属意識が弱まったのか、関関戦そのものが早慶戦ほどは大きな行事ではないのか、理由がありそうだ。このへんの事情に詳しい方はコメントをいただけるとありがたい。

 もう30年も前のことだが、早慶戦はまとまった数の学生が見に行く行事だった。私はサークルの仲間と一緒だったが、年中行事で、一シーズン1回は行っていた。試合前は夜遅くまで、というよりは朝まで飲むものだから、疲れが出て連日はきついのだった。周辺のサークルも同じように行動していた。応援団の指揮に従い学生同士が肩を組んで校歌や応援歌を歌ったり、みんなで野次を飛ばしたり、一体となって動いていた。最近は見ていないので分からないが、そういう一体感は薄れつつあるかもしれない。振り返ると、早慶戦の伝統とは、ある種の優越感に支えられた部分があるだろう。お互いにライバル視すると同時に、共に私学の両雄としての仲間意識もあった。NHKでは必ず中継が入り、それは6大学のなかでも例外であり、優勝争いに全く関係がなくても挙行される特権的な扱いなのだった。この時間を広告料に換算したら億単位の金額になるだろう。知名度を上げ、学生を集めるには大いに役立っている。歴史があり、規模があり、名の知れた大学はますます大きくなる。お金を持っている人がますます財産を増やしていくのによく似ている。

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2009年5月 6日 (水)

結婚について

 今さら新婚時代を思い出す年齢でもないが、角田光代さんの小説を読んでいて結婚を題材にしたものがたびたび出てくるので、結婚について少し考えてしまった。

 角田さんが描いている世界には、30代の女性で、交際している男性はいるのになかなか結婚に踏み切れないか、結婚しても長続きしない人たちが多い。女性は正社員の場合もあるし、フリーターの場合もある。何冊も読んでいないし、調査したわけでもないから断定しがたいが、フリーターの設定の方がメインなのではないか。生活が安定しなければ、結婚に踏み切れないのは客観的基礎があるから理解はできる。正社員で比較的お金がある場合でも、将来像がはっきり描けるほど未来への確信が持てないだろうことも想像できる。なにか確かなものがなくて、それでいて、現在が全く不幸というわけでもない。中途半端で、判断ができず、ぐずぐずしてしまうのである。そんなもどかしさ、やるせなさを描いているようである。これは私のような中年男には理解はできるが、共感できることではない。自分が結婚し、新婚生活を送った時代とは大きく変化しているからだ。

 今は、長く付き合って結婚するか、逆にできちゃった結婚で短期間の交際で籍を入れるかどちらかではないか。聞いているとそういう気がする。自分のことを言うのは恥ずかしいが、私と家内はつきあって2か月余りで結婚の約束をした。好きだから早急に夫婦としての関係を確立したい。それは生活の実態としても法的にもそうであったと思う。家内も異論はなかったはずだ。ある意味、衝動的な行為である。ゆっくり考えていたのでは思いきれない。現在は、生活の不安、将来への不安がそういう思い切った決断を妨げているのだ。逆に、結婚しても分かれるのはなぜかと考えてみたが、同様に生活の不安定さがあると思うし、もうひとつは無理に続けなければならない規範がなくなったからだろう。愛し続けようとする意思が弱くなった。人間は好きになろうとすればある程度はできるものである。(間違って家内が読むかもしれないから私は努力しなくても好きだと断わっておこう。)そういう意味では、男と女が引きあう力は格段に弱くなったのではないかと案じる。

 ところで、新婚旅行のことを思い出した。旅行は今から23年前の4月であった。贅沢だがハワイに行かせてもらった。これっきり定年までは海外に行くことはないと思っていたが、仕事で中国に行く機会ができた。中国に行っても楽しくはないが。結婚式の翌日、ジャンボ機に乗り込んでハワイに向かった。ここで書きたいのはその時の機内の状況なのである。大安の翌日で、新婚カップルで溢れかえっていた。前後左右皆新婚である。ご想像のごとく、熱気むんむん。息苦しいほどだ。そういう中にあって、私は少々恥ずかしい気持ちになったのを覚えている。私もそのうちの一人なのだから文句を言うわけにはいかない。しかし参った。今は結婚そのものが減っているから、さすがにそんな凄まじい光景は見られないだろうなあ。

 最後に、つまらん回顧が入ってしまった。結婚事情も社会の変化とともに様変わりしているのである。

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2009年5月 1日 (金)

昔の「必殺」は面白かった

 また必殺シリーズがテレビ放映されている。私が年をとったからなのか、社会が変わったからなのか、なぜだか昔のような面白さを感じない。

 そもそも「必殺」のおもしろさはどこにあるのか。条件として必要なのは、「悪いやつ」の存在である。悪ければ悪いほど恨みは募る。恨みを晴らすことに人は喜びを感じてしまうのである。恨みを晴らすために、自分の命や人生を犠牲にすることが、人にはできる。それが芸術の材料にもなるし、民族の記憶となって宗教の起源にもなったりする。ところが、今の「必殺」に出てくる悪い奴はたかがしれている。描き方が非常に淡白である。時間をかけ、丹念に悪人の像を作り上げることができていない。クライマックスは短時間でよい。手の込んだ道具で仕留めなくてもよい。単純に刀で仕留める主水に一番の迫力を感じたりするのだ。

 「悪」の存在がはっきりしなくなった。決して「悪」がなくなったのではない。見えにくくなっただけである。仕組みのなかに織り込まれているのである。合法化したと言ってもよいだろう。世の中で何が起こっているのか、眼を凝らそう。当り前のことは何一つない。

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新型インフルエンザ

 過剰反応が目立ってきた。マスコミは非日常性を好む。日常的なことはニュースにならないから当然と言えば当然であるが、インフルエンザにしても事が大きくなればなるほどニュース性が高まるのだから、それを期待してしまう。今回の事態を受けての基本的な対応は、心配は不要ですが、各自でできる限りの備えはしておきましょう、である。しかし、マスコミは、心配ですね、心配ですよと、心理的に追い込んでくる。

 横浜の高校生は、新型インフルには感染していなかった。それで本人も家族もほっとしたに違いないが、なんだか犯人であることの疑いが晴れたかのような報道に受け取れた。私は、いずれ日本にも感染者は現れると思うが、第一号の感染者はどの様に扱われるのだろうか。こんな時に外国へ行くのが悪いのだとか、身から出た錆のような、そんな空気が支配するのではないだろうか。インフルエンザの流行は人類の歴史のなかで何度もあった。医療や衛生についての知識が遅れていた時代には大流行した。今回も人類が生物として受けなければならない洗礼である。被害は少ないに越したことはないが、感染することにより抵抗力が育まれる側面もあるのだ。普通のインフルエンザでも老人を中心に多くの死者が出るのである。運動し、栄養を摂り、十分な休息をとれば抵抗力が維持され感染しても、あるいは発症しても軽度の被害で済むのである。

 無用な混乱は避けたい。多くの人はそう願っている。しかし少数ではあるが、この混乱で利益を得る人がいるだろう。点数を稼ごうとしている人もいるに違いない。国民の目が、そちらに行ってくれますようにと願っている人も・・・。

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2009年4月29日 (水)

笑いについて

 お笑いは大好きである。子供のころから大好きである。東京の落語、大阪の漫才と言われる。その評価は的を射ているが、東京の漫才もいいし、大阪の落語も捨てたものではない。私は学生時代に東京に住んでいたので東京の演芸にも親しみがある。新宿の末広亭には何度か足を運んだ。寄席には色ものといって、落語以外の漫才や曲芸などの出し物がある。今ではテレビで若手の漫才をイヤというほど見ることができるが、そのなかで寄席で育ったコンビは少ないと思う。ちなみに、ナイツは内海桂子師匠の弟子である。ベテランでは、あした順子・ひろしや昭和のいる・こいるがいる。かつては、コロンビアトップ・ライト、Wけんじ、青空千夜・一夜、獅子てんや瀬戸わんやなどがいた。また、ビートたけしもツービートを組んで漫才をやっていた。今日、You Tubuで、てんや・わんやを見たが、テンポが素晴らしい。昔でもあれだけのテンポがあったのだと感心する。ホントに達者な漫才師だったなと思う。しかし、大阪の人には馴染みが薄く、少し受け入れられにくいと思う。それは東京弁が大阪の人には違和感があるからだ。大阪の演芸番組にたまに東京から招待されて出演があったが、皆やりにくそうだった。テレビによく出ている芸人は全国的に馴染みがあるが、寄席の芸人は地域に密着しているので、違う文化のエリアでは厳しい面があった。

 私自身も若いころから冗談が好きである。職場でも冗談の出ない日はまずない。特別意識はしていないのだが、無意識に会話の中で冗談を思いついてしまう。そうなったら言わずにおくのが苦痛なぐらいだ。冗談は健康によい。特に精神によい。精神が病むのを防ぐ予防薬である。精神の病、最近ではうつ病が目立っている。周囲にも何人かいる。以前は、肉体と精神は別々だと考えられていた。しかし精神もまた肉体の働きである。詳しく勉強したこともないが、精神とは脳の働きである。精神的なストレスが続いたり、激しい衝撃を受けたりすると脳に物理的な「傷」ができるのだと思う。それが浅ければ、いわゆるストレスの解消というやつで癒えるのだろう。冗談も多いに役立つ。ところが傷が深くなると、長期の休養や投薬、カウンセリングなどを組み合わせないとなかなか回復しないのである。おそらく半年は裕にかかるだろう。昔は、そういう病気にかかる人は甘えているのだという言い方がされた。確かに精神的に弱い人が、「傷」を持ちやすい。しかし、一旦かかってしまった人間に強くなれと叱咤してみても始まらない。ゆっくり時間をかけて治すしかないのである。

 笑いがいちばんという番組があった。一番かどうかは分からないが、笑いの効用は大きい。職場ではなおさら必要な気がする。冗談ばかり言うなと言わないで、大目に見てもらいたいものだ。

 

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村上龍 「無趣味のすすめ」

 幻冬舎から発刊された、村上龍の「無趣味のすすめ」という本を買った。これは村上氏が「ゲーテ」という雑誌に連載した内容をまとめて単行本にしたものである。文章の量としては少なく、字も大きいので文庫本にしても薄いものになると思うが、単行本で出して数年して文庫にするのが通常のやり方である。しかし、量は少なくても中身はまずまず、1200円分は十分あると思う。一番感心するのは、書いてある中身よりも文章のまとめかたである。これはブログを書く時の参考になる。伝えたいことをだらだら書かずに短いセンテンスで表現している。結論も上手に付けて締めくくっている。

 村上龍は作家であるが、テレビでカンブリア宮殿の司会をしていることもあってかビジネスの世界にも詳しい。有名な経営者との会話から学ぶところも大きいのではないかと思う。彼の文学作品は2作しか読んでいない。随分昔の話で、「限りなく透明に近いブルー」「コインロッカーベイビーズ」である。最近では「半島を出よ」が注目を浴びたが、なぜこんなストーリーを描いたのか、その意図が分からぬこともあって買わなかった。「限りなく透明に近いブルー」は群像の新人賞を受賞した作品で、受賞は私が高校生の時だった。当時文芸部に所属していて、部費で群像を購読していたが、受賞作が載った号は顧問のK先生が持ち去ってしまった。

 さて、勝手に引用してしまうが、「無趣味のすすめ」から面白かった一くだりを紹介しよう。

 スケジュール管理について書いた文章

「・・・仕事でもプライベートでも、やるべきことがない人、またやるべきことを自身で把握できていない人は、スケジュール管理もへったくれもない。」「・・・やるべきことを複数抱えていて、それに優先順位をつけることができる人だけが、スケジュールを組む必要性がある・・・。」「年末には数千万冊のスケジュール手帳が店頭に並ぶらしいが、スケジュールを管理する、という概念を一度放棄するといいのではないかと思う。やるべきことに優先順位をつける、という方法を勧めたい。仕事とプライベートにおけるその人の優先順位が、その人の人生なのだ。」

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2009年4月27日 (月)

豚インフルエンザ

 鳥インフルエンザを警戒していたら、突然、豚が襲ってきた。一気に危機感が広まった形だが、その怖さについては専門家でも評価が分かれている。Aソ連型の亜種であることから、日本人には一定の抵抗力が備わっているとの見解もあった。実際どうなのかは時間の経過を待つしかない。

 (私の勤め先はインフルエンザの予防に使われる商品を製造販売しているので、急速な需要の高まりに備え原料を確保しなければならないという意見が出ている。たくさん売れたら儲かるという受け止めではなく、社会が必要とするものを供給する責任があるという受け止めである。一時的に売り上げが上がっても、あまりいいことはない。寒天の世界シェア80%を誇る伊那食品の社長が言っていた。寒天ブームで一気に増えた売上もブームが過ぎると吹き飛んでしまい、元のベースに戻ってしまった。少しずつでも着実に伸ばしていくことが大事だと。)

 豚インフルエンザに対しては科学的な知見を踏まえて、冷静に対応することが大事だ。しかし過剰反応がおきつつある。一部の外食チェーンではメキシコ産の豚肉を使用したメニューを販売中止にするという。熱を通せば安全であることは科学的に証明できるが、こういう措置をとることで、いたずらに危機意識をあおる作用が心配される。マスコミも冷静な報道に努めてほしい。なにかにつけ危険だ危険だと騒ぐ傾向がある。事故米を偽装転売した事件のときも、偽装した企業の刑事責任あるいは社会的責任は徹底的に追及すべきであるが、事故米の毒性自体は恐れるほどではなかった。そこは分けて考える分別が必要なのだ。

 今回の問題は、おそらく、うろたえるほどの危機ではないだろう。しかし、十分な備えはしておくべきだ。今後、同じような問題は何度となく繰り返される。その時のために訓練を始めるのだと思っておけば間違いはない。

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2009年4月26日 (日)

日本人の国民性

 日本人は粘り強い国民かという問いがある。半藤一利氏らが戦前の日本軍の特性を論じる雑誌の記事の中で、日本人は非常に淡白な国民であると指摘していた。駆逐艦で敵の潜水艦を追い回す場合、日本海軍はせいぜい半日しか粘らなかった。もうこのぐらいでいいだろうとなるのだ。それに対し英国海軍はUボートを一週間追い回したという記録があるそうだ。これにはなるほどと思う反面、スポーツで考えると、マラソンなど持久力勝負になると強みを発揮するので、粘り強さがあるようにも思える。ある人にこの件を問うと、日本人は個人では粘り強いが、集団になるとそれが失われるのではないかという意見を述べていた。それも一理かなと思う。

 国民性とは長い時間をかけて歴史的に作られたものだ。そして、それは日本に住む人種に元から備わっていたものではなくて、多くは気候や地形などの客観的な条件をベースにして、周囲の民族との関係で文化的な影響を受けながら育ってきたのではないか。色彩感覚にすぐれているのは、四季が移ろう気候条件の中で実際に色彩に富んだ自然が存在するからであり、工芸などの細工に優れているのは、多種多様な樹木が生育していたり焼き物に適した粘土が存在して素材に事欠かないからであろう。感覚は対象に規定されるのである。

 マッカーサーは、日本を占領した時期に、日本は四等国であり、日本人の精神年齢は12歳だと言ったらしい。幼稚な国民だと言われているのだが、確かに無謀な戦争に突入したという意味では幼稚であったに違いない。判断に甘さがあった。軍部の暴走を止められなかったという意味では、政治や文化の未熟さを国民の至らなさとして受け止めよう。しかし、この「幼稚さ」のなかには未来に向けて肯定すべき要素もあるのではないか。日本は憲法において戦争を放棄した。それが現実的でないという見方もあるだろう。アメリカはそう言うに違いない。けれども、その理念を素朴に力強く守り続ける幼稚さは、歴史において一級品の輝きを放っている。平和ボケなのではなく、失敗から学んだ信念なのである。

 

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2009年4月23日 (木)

草なぎ剛 寛容でなくなった日本

 草なぎ剛の事件については事実を正確に知るすべがないので論評しがたいが、簡単に言えば泥酔して素っ裸になってしまったということだろう。いいことではないのは間違いないが、そのことで人を傷つけたわけではないので、罪は軽いと言えるだろう。人気者だったから余計に気を付けてほしかったという意見は同感だが、人気者であるかないかで罪の軽重は決めることができない。実は私も酔っ払って全裸に近い姿になったことがある。早慶戦の前夜に神宮球場の周囲に泊まりこみ、大量に飲酒して大騒ぎしたのであるが、その時に泥酔して裸踊りをやった。周りには結構な人数の学生がいたが、皆同じ穴の狢であるから、咎める者もいなければ通報するものもいなかったのである。しばらくして泊まり込みが禁止になったのでそんなバカなことをする学生もいなくなったと思う。

 さて、草なぎの事件はマスコミで大きく取り上げられ話題騒然となった。今後しばらくは活動を自粛することになるだろう。一定の罪は被らざるをえないが、短期で復帰してもよいのではないか。反省しているのであればチャンスを与えてやっていい。今の日本は、失敗に対する寛容さがなくなっている。一度失敗すると二度と立ち上がれないように執拗にマスコミがたたく。罰することが最優先になり、更生させるという考え方がなくなってしまった。先日、日体大の陸上部が跳躍系選手の大麻問題で処罰され、箱根駅伝のシード権がはく奪された。処分は仕方ないにしても少し重いと感じられた。学連主催の試合への参加も3ヶ月間禁止されたが、その程度が適切だった。東洋大学部員の暴行事件では箱根駅伝の出場が認められたが、それとのバランスで考えればそういう判断ができる。

 日本の社会は次第に性悪説で動くようになってきた。日本文化のよさは性善説をベースにしてあったのだと思うのだが・・・。処分する側が、ある意味自己保身のためにあえて重い罪を科しているように思えてならない。

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2009年4月21日 (火)

死について

 人は死ぬために生きていると言った人がいたが、これは当然ながら間違いである。生の延長線上に必ず死が訪れるだけであって、死が目的で生があるのではない。一方、事実ではないけれども何か力を引き出すためのロジックになるかと言えば、それもありえない。生きていることに悲観的にさせられるだけである。

 しかし、死は生の手段だということはできる。死があること、すなわち生命の有限性が生の価値を高めている。動物も死期を感じ取ることができるのかもしれないが、人間だけが死を概念として持ち続けている。常に意識に上っているわけではないが、思い出せば一定の形をした死の概念が蘇える。死を意識して、残された時間の意味や自分にとって意義のある使い方について考えることは有益である。

 人生も半ばを過ぎると、焦りが生じる。無為に時間をすごすと、後悔も生まれる。できれば密度濃く生きたいが、それはままならない。がむしゃらに生きる体力が衰えつつあるからだ。いくつになっても目標をもって進むことが大切だが、無理はできない。着実に、地道に進むことだ。しかし、それもなかなかできるものではない。迷ってばかりもいられないが、迷いなしの人生は不可能だろう。あまり気にしない方がよさそうだ。

 これから次第に体力も知力も衰えていく。そのおかげで死への恐怖も和らいでいくだろう。これは人にとっての救いである。とすれば、考えてみれば、中年のおじさんが、一番死を意識し、生のありがたさを実感して、がんばれる年代だと言える。ああ、そう考えれば今が最高だ。

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2009年4月19日 (日)

自分は普通?

 私は自分を普通の人間だと思って生きてきたが、養老猛先生に言わせると、普通だと思い込むのは危険だそうだ。世の中を見る時に、自分の考えがマジョリティだと思うと押しつけがましい意見になってしまうからだという。逆に、変わっていると思っていれば、自分を世の中に合わせようと意識するから、謙虚になれるし、他人も理解できるというのだ。

 私は、比較的、中立的に、客観的にものが見える人だと自分のことを評価していたが、これにも少し注意した方がよさそうだ。自分なりの考え方、見方、評価軸は持っていて、普通のひとよりははっきりした思想をもっていると思う。それ自体は悪いことではないだろう。主張することも悪くはない。しかし、それは絶対ではないし、同じ軸を持っている人は現実には多数ではない。そのことはもっと意識すべきだろう。そのうえで、自分に共感してくれる人を増やす努力が必要だ。ああ、あるほどなあと思ってくれる人は少ないのだ。

 結構、会社の朝礼などでも言いたいことを言っているが、分かってもらえていないし、記憶にも残っていないだろうと、ここで改めて自覚しよう。

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2009年4月12日 (日)

キャッチコピー

 電車で、ある医療専門学校の広告を目にした。そのキャッチコピーがなかなかよくできていると思った。よくできているという意味は、専門学校への進学を考えている者にアピールする力があるという意味である。内容の良しあしの評価は人によって分かれるだろう。

 「支えるのではなく、ともに闘う。」(少し違うかもしれない)というチャッチだった。これはいろいろ解釈の仕方があるだろう。医療や介護を必要としている人も自ら回復や自立を求めて努力しているので、ただ助けてほしいと願っているわけではない。また医療活動や介護活動にあたる人も、「支える」となると、自分の役目があまりに過重に感じて苦しいだろう。「ともに」という言葉には、いくらかの救いの意味がある、反面、「闘う」という言葉には、医療は甘くはないよというメッセージも含まれている。覚悟して入って来いと言っているようにも受け取れる。

 さて、これはコピーの話であるが、実態はどうなのだろうか。医療や介護の労働は、長時間で、身体的な負担も大きい。現実には、「支える」という言葉がぴったりくる場合も多いのではないか。労働自体が厳しいうえに、待遇も悪いと来てはそう簡単に耐えられるものではない。実際に、離職する人も多いと聞く。長く続くためには、まずきちんとした社会的評価が必要である。一つ、少なくとも社会的に見て標準以上の待遇が保証されること。二つ、この仕事に従事する人は、評価され、尊敬されなければならないこと。この二点である。どんな仕事も必要な仕事であるかぎり、皆尊敬されるべきであろう。飲み屋でお酒の相手をする仕事も、それを必要とする人がいるかぎり役立っているのである。ただし、売春を斡旋したり、麻薬を売りつけたりする違法な行為は評価に値しない。これらは労働ではない。何も創造しないからである。逆に破壊をもたらしている。話はそれたが、労働は皆評価されるべきであるが、その強度や役目から考えて、医療や介護はもっともっと重視されてしかるべきだと思うのである。

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2009年4月 6日 (月)

自動車のナンバープレート

 最近バスに乗ると信号待ちしている自動車とか渋滞中の自動車のナンバーに目が行く。珍しい番号がないか探すのである。縁起のよい番号に当たると、なにかいいことが起こるのではないかと期待してしまう。結局、何もいいことはないのであるが。

 先々週の土日には、続けて番号1番の自動車を見た。これは、確率的にはたいそう珍しいことではないか。しかし、これは後付けの理屈である。最初から1番を探していてそうなったのなら、奇跡的なことだろう。1番が出る確率は1万分の1。続けて出る確率は1億分の1である。とはいっても、何十台、何百台を見ての結果だから、数十万分の1程度まで確率は落ちる。適当に見て、番号に意味づけしていくから、何か特徴のある番号には行きあたるのだ。自宅の電話番号といっしょだとか、誕生日と同じだとか、ぞろ目だとか。ぞろ目で言えば、何ヶ月か前に8888番に出会った。よく見ていれば珍しい話ではない。4桁が同じ番号になる確率は1千分の1あるはずだ。

 結構暇つぶしになる。

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2009年4月 4日 (土)

視点を変えると

 テレビで、神奈川県立住吉高校のチアリーディング部が3か月の猛練習で日本一になった物語を放映していた。指導にあたった先生の、技術を教えると同時に目標を与えることでチームの団結を強固にしたことを大きく評価していた。専用の練習場もなく、条件には恵まれず、練習期間も他校と違って出場を決めてからたった3か月という短さ。常識では優勝は考えられない。奇跡に近いことではないだろうか。

 ここまでは、普通の感想であるが、視点を変えてみると、別のことに気が付く。それは審査員の目である。実際どうかわからないが、おそらく長く練習を積んできたチームのなかには技術的に住吉高校を上回るところがあったのではないか。しかし、技術を上回る気迫や勢いを感じ取った審査員が高い評価を与えたのだと思う。それを感じ取ることができる審査員のいたことが素晴らしいと感じるのだ。あの学校は強いという先入観にとらわれたり、技術的な難度にこだわり過ぎたりすることもありうるが、そうならずに新鮮な眼を持っていた審査員がいたのではないかと思ったのである。

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ユニクロについて思う

 会長の柳井さんが大学の先輩(と言っても年代が違って在籍時期はかぶっていない)ということもあってユニクロには注目してきた。フリースが大ヒットして急成長した後、しばらく低迷が続き、玉塚さんも苦労したが、その後柳井さんが復帰したことがよかったのか、時代がまたユニクロを求めたのか分からないが、最近の成長は目覚ましい。

 素材の品質は価格の割に良く、デザインも次から次へと新しいものを投入して飽きを防いでいる。売れるから、デザインの更新や新製品の投入も活発にできて、非常によい循環が生まれているのが何よりの強みではないか。地方から都市部まで、郊外から繁華街、駅中までありとあらゆるところに貪欲に出店している。売り上げが低迷している多くのアパレルチェーンを尻目に、まさしく一人勝ちの状況。かくいう私もカジュアルはユニクロで間に合わせることが多くなった。店員の応対もよく指導されていて、先日はLサイズのシャツを2着買うところ一着M寸を混ぜてしまったが、レジで見つけ、交換に行ってくれた。そこまでしてくれたらこちらも恐縮してしまうものだ。

 こういうユニクロだが、あまりに強すぎるので、他のチェーンが少し気の毒に思う面もある。しかし、柳井さんは手を抜かないだろう。国民の所得が減少している時にこそ安くてよい商品が受け入れられる条件がある。この流れが国民に豊かさをもたらすものかどうかは定かではないのだが。

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大阪のおばちゃんもここまできたか

 ある人から聞いた実話である。最近あるスーパーでの出来事。野菜売り場に小箱に詰められたトマトが売られていた。箱のなかのトマトは大きさがまちまちで、大きなものと小さなものを混ぜて同じ価格にしていた。話を聞いた人は、買おうかなと思ったらしいが、その時は通り過ごして売場を一周し、また野菜売り場に戻ってきた。その時にちょっとショックな場面に出くわしたのだという。それは何人かのおばちゃんが、トマトの箱の中身を入れ替えて、大きなトマトの箱を作っていたというのだ。大阪のおばちゃんは厚かましいので有名であるが、これは厚かましいという次元の行為ではなく、立派な犯罪ではないだろうか。

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読書感想文

 息子が読書感想文の宿題に苦戦している。思い起こせば私も中学ぐらいまでは苦手だった。苦手だったのには当然理由がある。それを考えてみた。

 三つの理由を挙げてみる。まず、「読む」能力の有無である。何が書いてあるのか、まず意味を理解できなければならない。これは基礎的な能力である。行間にある作者の意図というような高次元の解釈ではない、言葉の意味の理解である。二つ目は少しレベルが上がって、自分の考えに従って解釈する力の有無である。体験や学習によって価値観とまでは言わなくても、自分なりの考え方が出来上がっているとすれば、それに照らして評価する、判断するという行為が生まれる。それが「感想」を創る能力である。三つ目は「書く」力の有無である。思ったことを表現できなければならない。これも基礎的な能力である。志賀直哉や川端康成のような立派な文章を書く能力ではなく、事実や自分の思いを誤りなく伝えられる程度の能力である。

 この三つのうち、「読み」「書き」については、まず訓練である。数をこなすのが大事。理屈を学んだからといって、できるようになるわけではない。一定のレベルに達すれば理屈を学ぶ意味が出てくる。解釈する力の養成には、これとは違った要素がある。もともと備わっている「感性」という要素もあるだろうが、これにしても育てられないと大きくはならない。解釈する力は人から教わる部分が大きい。個人的な問題に見えても実は社会的な背景があるのだとか、心の問題には宗教的な要素が切り離せないだとか、差別の問題は昔から存在していて誰の心の中にもあるのだとかいうことは、親や教師や、あるいはそういうことを論じている哲学者や文学者などから学ばなければ自然に生まれ出るものではない。

 息子はなかなか書き進まないのでアドバイスした。1枚目はあらすじを書け。2枚目以降はこういう観点で書けと、四つの要素を示した。漂流記だったので、①生きるために必要な、水や食糧を手に入れる方法を知っていたこと②悲観せず、生き延びるために必要なことを考え計画的に進めたこと③仲間の団結を重視して、リーダーが全体をまとめていったこと④将来を見越して、知識のあるものが教室を開いて教えたことである。教え過ぎかもしれないが、時間切れになりそうだったのでそうしてしまった。

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2009年3月29日 (日)

公共の施設を利用しよう 水道記念館

 散歩がてら、柴島浄水場まで行ってきた。周辺はお花見スポットであるが、まだ咲き始めで、来週の土日が見ごろになりそうである。

 お花見はできなかったが、浄水場にある、水道記念館に寄ってきた。入場は無料である。大阪市の水道事業の歴史や現状が解説されており勉強になるし、それ以上に琵琶湖と淀川水系の淡水魚が多く展示されていて面白い。また、休憩所では無料でお茶とお菓子まで出してくれた。ここは市営の施設だから、税金で運営されているはずである。私も所得に応じた住民税を納めているのだから、こういう施設は、無駄遣いだと文句を言う前に、利用すべきではないかと思う。とはいえ、存在自体を今まで知らなかったので、こちらの不勉強もある。下水道博物館には行ったことがあるから、上水道にも博物館があって然るべきですな。

 何かにつけお金のかかる社会のなかで無料で楽しめる施設は少ない。公的な施設でも維持費を賄うために有料にしているところは多い。万博公園がそうだし、夏のプールも結構な料金をとる。いまどき、ただは希少である。高校野球で、甲子園の外野が入場無料なのは、いまや奇跡的なことである。お弁当でも持参して2試合でも観戦すれば本当に得した気分である。

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2009年3月15日 (日)

定額給付金について思うこと

 補正予算案が可決されて、定額給付金の支給が決まった。私の住む大阪市では5月下旬の支給になるという。

 この給付には7割の国民が反対であった。そこには、もっと別のところに使い道があるのではないかという考えがあると思う。また、ただ単に今の政権の政策に与したくないという単純な思いも含まれているだろう。

 とはいえ、予算は可決した。まさか与党側は、多くの人が反対したというが、もらう段になると皆いつもらえるかという話題で盛り上がっているのはおかしいじゃないかという下品な批判はしまい。もらえると決まったからには自分の権利を放棄することはあるまい。元々は国民の税金が財源になる話であるのだから。

 私としては、給付は、現金ではなく、商品券がよかったと思う。現金であれば、貯蓄に回るかもしれないし、借金の返済に使うかもしれない。期限付きの商品券ならば、必ず消費されるだろう。できれば、食事券がよかったのではないか。

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KGセミナーという塾に注目

 その塾の塾長のブログで知ったのだが、和歌山市にKGセミナーという名の塾がある。現役高校生と浪人生を教える進学塾である。塾長と講師の先生二人で教えているらしく、生徒も近隣の公立高校が中心で人数も多くはない。駿台、河合塾、代ゼミなど大手が目立つ予備校の世界では、目立たないローカルな存在である。和歌山には智弁学園和歌山高校という屈指の進学校があるが、そこの卒業生はこのゼミにはやってこない。

 ホームページにはいろいろな情報が載っているが、一番面白いのは塾長の日記である。そこには一人ひとりの生徒への目配りと愛情が感じられて、大きな資本の予備校にはない人間関係を垣間見ることができる。また、ホームページの冒頭に掲載されている、体に障害を持つ生徒を励まし励まされた経験を綴った文章には感動させられる。

 ローカルな塾で、東大や京大を狙うような生徒はいないが、和歌山県立医科大学をはじめ、関西の国公立、私大に実績を残している。しっかり指導し、本人のやる気を引き出せば、1年間で実力を大きく伸ばすことができるという実例である。もともと出来る子は、大手予備校の講義でも伸びるだろうが、力のない子は放ったらかしにされると伸びにくいだろう。そういった点では本人の現状をよく踏まえた上で、進むべき予備校を検討し、選択すべきである。名前にごまかされてはいけないと思う。また、ローカルな塾は生徒同士の結びつきが強く、上手く運べば連帯感を生み、相乗効果を生むことができる。

 改めて考えると、この塾が一定の成功を収めているのは、塾長と講師の先生の考え方がしっかりしていることが大きい。また、二人の先生ですべての教科を賄っているので、その実力も基盤となっている。改めて教育における指導者の重要性を感じた次第である。

http://www.kg-seminar.school-info.jp/

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2009年3月 1日 (日)

子を持つことの効用について

 教育にお金がかかることを書いたが、子を持つことは悪いことばかりではない。確かに、子がなければ出費は大幅に減り、夫婦の生活にいくらかの余裕が生まれるだろう。しばしば二人で旅行に出かけるという夫婦を何組か知っていて、羨ましく思うし、そのこと以外にも自分の趣味などにたっぷり時間が使えるという利点もある。また、子の成長に思い悩むこともない。しかしながら、子を持つことによって生まれるプラスの面も確かに大きい。

 一つは、子を媒介とした、新しい人間関係の創出。二つ目は子との直接の関わりから発生する親としての責任感の醸成。三つ目は子の成長を契機とする社会的視野の広がりである。

 公園デビューから始まって、幼稚園、小学校と教育機関を通じての人との関わりあいなどから新たな人間関係が生まれる。また、地域の子供会活動などから発生する関係もある。煩わしい面も併せ持つが、上手く関係を築けば、いい意味で家庭に出来事をたくさん持ち込んでくれる。情報量は大きく増加する。

 子の成長は親自身の刺激となる。子供とはいえ、目標を持ち、そこに向かって努力している姿が見られる。自分も同じように育ってきており、子以上に努力したという認識もあるが、すでに遠い昔のことであり、立場の違いもあってか、子の頑張りは刺激的である。親が励まされる場面もしばしばある。そういう風に受け止められれば、一方で親の頑張りが子を育てるという良き循環が生まれるのではないか。

 子が存在するお陰で、教育問題、若者の雇用の問題、格差問題などに強い関心を抱くことができる。子がなくとも、社会的な関心の強い人であれば一定の注意はそこに向かうに違いないが、子の進路や将来の生活のことを考えると、当事者として無関心ではいられないというのが正直なところである。

 私も子を持つ親であり、これはすでに起こってしまった現実であるから、起こったことは否定的にとらえるのではなく、肯定的な面を積極的に摂取すべきであろう。

 

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2009年2月15日 (日)

教育にお金がかかる

 前にもこの件については意見を書かせてもらったが、教育にお金がかかる、いや、かかりすぎる状況はなお一層深刻化しているのだ。これは学費の値上がりと同時に、生活費の上昇が追い打ちをかけていることがあり、また親の収入の減少がさらに深刻さを増す要因になっている。

 進む大学の選定にあって地元志向が鮮明になっている。これはデータでも裏付けがある。昔は地方から東京の大学へ進むのが普通だった。学問は東京でするものという考え方があったように思う。それが地元の大学で我慢するようになったのは、お金がかかりすぎるからだ。国を離れて東京で生活するためには、家賃がかかるし、生活レベルも他の学生に合わせなければならない。昔は安アパートでもよかったが、今ではバストイレ、エアコン付きのワンルームが標準なのではないか。仕送りする親の負担は非常に大きい。一人っ子ならまだよいが二人三人となったらとても持たない。奨学金制度もあるにはあるが、十分ではない。必要な人に行き渡るほどの枠がないのだ。

 こういう状況だから、学生もアルバイトで費用を補わざるをえなくなる。こうして、受験勉強で疲れ果て、学習意欲をなくした学生が、さらに勉強する機会をなくしていくのだ。何のために大学に行くのか分からなくなってしまう。こんな有様なので、有能な学生が育たないのも至極当然のことなのだ。

 有能な人材には一定の費用を投じるべきだろう。その代り、学生には勉強してもらう。勉強して、力を付け、その後の業績で社会に還元してもらうのだ。そういう仕組みと考え方やモラルを育てなければならないのではないか。

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2009年2月 1日 (日)

うますぎる儲け話には注意を

 ある主婦が15億円を預かって運用していたが失敗し、責任追及を逃れて逃亡生活をしているという。読売新聞の報道では、20年ほど前から個人的に株で運用を始め利益を上げた。バブルの頃だから儲かったのもうなずける。羽振りが良くなったのを見て、周りも運用を依頼することになる。違法な点は、元本保証をしたことであるが、個人にそれだけの保証能力はないと見るのが常識だと考えられるので、預けた方も欲に目がくらんだと言えるのではないか。私には余裕のある資金など一文もないから株などはやらないので運用の仕方など詳しくは知らないが、個人で勝ち続けることなどは無理な話であって、穴を開けた分は他の資金で埋め合わせていけば、次第に全体の資金が縮小していき、いずれはショートしてしまう。実際、リーマンショックでどうにもならなくなったらしい。

 銀行預金でさえ100%保障されているわけではない。国債でさえ完全ではない。リスクは常に存在している。あまりにハイリスクな商品取引が横行した果てが金融危機である。リスク分散を行ったと言っても、リスクの総体が巨大だったために、火がついたら一気に爆発した。リスクの大きすぎる社会、リスクの大きすぎる人生は好ましいとは思えない。急激に発展する社会、成功へと一気に駆け上がる人生こそが幸福の源泉であると考える人もいるだろうが、大半は堅実で安心できる社会、人生を求めているのではないだろうか。

 そんな社会が思い通りに作れるかって?確かに、社会は建築物と違って設計図にそって部品を組み合わせて作れるようなものではない。あまりに特定の人間のイメージにしたがって恣意的に社会が構成されれば好ましくないが、あるべきビジョンを示し、基本的な柱部分は明確にして、国民の合意を得て、そこを目ざして政策を行使すべきである。無策で流されるのと比べれば、結果は大きく違ってくるはずである。

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お墓参りをする人は霊を信じているか

 早稲田大学の大槻教授は霊魂を信じておらず、お墓参りをしないと言っているらしい。私は、霊魂は信じないが、お墓参りはする。お墓参りをするのは習慣である。盆と正月にお寺へ行き、墓参りをするのは年中行事である。

 お墓に霊魂が宿っているのではない。墓に向かって手を合わせる。父や祖母の記憶がよみがえる。そしてよみがえったイメージに向かって、心のなかで言葉を投げかける。当然、返事は返ってこない。生前、心配をかけ、十分に親孝行できなかった自分への戒めの行為が、墓参りである。すべては生きている者の、より良い生き方を求めるのが儀式の目的である。死んだ人を蘇らせることもできないし、過ぎた過去を変えることもできない。過去に対する解釈の変更は、これからどう生きるかを決める際の前提の見直しにすぎない。

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2009年1月25日 (日)

息子の大学受験

 息子が大学を受験する。できれば現役で合格してほしいと親は願っているし、本人も浪人はしたくないようだ。複数の大学を受験するが、その中には、合格しても行く気のない大学もある。本番初日は受かりやすい大学を選んであり、さしずめ予行演習と言ったところだ。受験料は3万円が相場の様だ。1万人受験する大学では、それだけで3億円の収入。大きな大学では10万人受けるから、30億円である。経費を差し引いても大金が手元に残る。大学にとっては大きな資金源である。これに加えて、入学金がある。水増しで合格者を出した分の入学金も相当な金額になる。30万円程度が相場であるから、仮に千人辞退すれば3億円になる。大学のブランド価値を維持しておけば、これらの収入は安定して見込めるわけだ。これを支払う方も非常に大きな負担で苦しいのだが、リスクを軽減するためには仕方のない選択である。

 ところで、気になるので、インターネットで入試のデータを調べてみる。そうするといろいろなことが分かってくる。志願者数の変化、合格最低点・最高点・平均点の変化などなど。合格者の科目別最低点を見ると、2~3割ぐらいしか取れていない科目がある。そこで不足した分は得意科目で挽回していることになる。総合点の勝負だからそういうことはある。稼げる科目を持っていると有利なのだ。失敗しても取り戻せるということ。

 東大のデータを見ていて気付いたが、合格最低点がやたら高い。最低点は他の大学並みに7割程度で普通なのだが、最高点はもう満点に近い。これは他の大学にはない。特別に優秀な学生は東大に集中しているという証である。彼らには解けない問題はないのであろう。ある意味、出題者に近いレベルの能力があるということだろう。

 さて息子の受験はどうなるのだろうか。しばらく落ち着かない日々が続く。

 

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2009年1月18日 (日)

猫以下になった人間

 先日テレビ朝日の報道ステーションで生活困窮者の生活を報じていた。収入がなく、糖尿病を患っており、一日200円から300円の食費で暮らしている男性が取り上げられていた。それはそれで厳しい状況であり、そこから抜け出すには自力をもってしては最早不可能である。しかし、この日感じたのはそういうことではない。この話題が終わった後のCMである。ネコ用のいかにも贅沢なペットフードである。それは肉の缶詰であり、買ったことがないので分からないが、200~300円はするのではないか。明らかに、先ほど紹介された男性より贅沢な食生活を行っているのである。

 猫以下の人間が、この日本にたくさん生きているのである。いや、生きていると言っていいのだろうか。猫以下の人間は生きているとは言わない。

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2009年1月 3日 (土)

2008年を振り返って その2

1 経済の変動に翻弄された一年

 経済の停滞、利潤の縮小を埋め合わせる切り札として、金融商品および金融派生商品が重視されるようになり、巨大な資金を抱える投資家や機関投資家が、最も有利な商品に、最も有利なタイミングで投資することに熱中した。こういう新たな投資活動には定石はなく、常に他の投資家の動き自体が変動要因になることを踏まえて、より有利な方向へ瞬時に資金を移動させるべく、神経質な動きを取らざるをえない。とはいえ、今まではうまく立ち回っていればそれなりに利益を生み出すことができた。先見性のないもの、資金力のないものへ損失をかぶせておけばよかったのだ。ところが、今年爆発した金融危機は、システム全体の破たんであり、誰かが儲かって誰かが損をしたという問題ではない。銀行、証券会社、投資家、機関投資家、政府系ファンドなど文字通り世界的な規模で損失を被ったのである。

 最も大きな要因は、サブプライムローンの証券化であった。単にローンを証券化したのではなく、他の商品を混ぜこぜにした。リスクが見えなくなり、証券化を加速させ、同時にサブプライムローンを膨張させた。結果、恐ろしい額の資金が流入した。この投資活動に参加しないものは、古い資本主義の信望者と思われ、たとえば日本の個人資産家でさえ、貯蓄をしているのはバカだ、金融商品に投資をして資産を増やすのがこれからの時代の運用だと扇動されたのである。

 結果どうなったか。ただ一つ信用の拠り所となっていた住宅価格が上昇を止めると、焦げ付きが表面化した。あとは、連鎖的に信用が崩壊していった。日本の銀行も欧米の銀行ほどにはつぎ込んではいなかったものの、一行数千億円単位の損失を被った。大きかったのは海外の資本の日本市場からの引き上げであった。株は売られ暴落した。日本の企業への資金が引き揚げられた。このことで銀行は資産を目減りさせた。直接の損失と合わせ、資本金が縮小し、そのことが貸し渋り、貸しはがしへとつながる。

 また、ドルの信用低下が進み、円が高くなった。それまで外需に支えられて好業績を残していたトヨタなどの自動車メーカーあるいは電機メーカーが一気に業績を落とすことになったのである。そのことの国内産業への影響はあまりに大きく、未曾有の事態を招くことになった。

 もう一つ、国内経済を歪ませた要因として、商品への投機があった。原油、穀物市場がある意味活況を呈したわけだが、これは値上がりが値上がりを生むという連鎖であり、誰しもいつかはその循環が途切れることを予想しながら、当然ながら、だれも手を引くことができなかった。そして金融危機と軌を一にして暴落していった。原油の値上がりは、燃料の値上がりや化成品の値上がりとなって、穀物の値上がりは様々な食品の値上がりとなって国内経済を疲弊させることとなった。そして、秋以降、逆の回転が始り、それはそれでまた、弱い部分にしわ寄せをもたらしたのであった。

2 政治の混乱があった

 日本の政治、特に保守政治は末期的状況にある。小泉政権は、日本の政治あるいは行政の古い体質をぶっ壊すといいながら、それは不十分なまま残して、経済だけはグローバル化を推し進めた。グローバル化とは、資本行動の自由であり、規制緩和であり、税制のフラット化である。その結果、大量の非正規雇用を生み出し、そのことがまた原因となって社会不安をも惹き起こした。そして、先ほど述べた金融危機に煽りを受けた日本経済の惨状に対しても効き目のある手を打てずにいるのである。

 これだけ対処すべき課題があるのに、政治はまともな対応をしていない。そもそも、国民の福祉や年金や教育などを根本的にどう考えるのかというビジョンが示されない。そういうメッセージは届いてこない。阿倍、福田、そして麻生も何もせぬまま短命政権に終わりそうである。これからどうなるかは予想もできないが、明るさが見えないことだけは国民の多数に一致した感慨であろう。

3 必死に生きるひとの姿と生かす仕組

 年末にかけて失業者が増大している。自殺者は3万人を超える状態が続いているので、今後ますます増加するのではないかと案じられる。また将来に希望が持てない若者、フリーターだけではなく現役の学生も同じであるが、決して諦めているわけではなかろう。人間は生きろと言われなくても生きる。生きたいのである。しかし生きるには条件が必要だ。すべて自分の責任だと言われれば、逃げ場はなくなる。すべて自分の責任だと言われれば、自分を責めるしかない。自傷するに至る。人生がうまくいかなくても、失敗しても、最低限、生きられるように、生きる場を残してほしい。困ったら、相談する場所を、目に付く所に置いてほしい。親兄弟、親類縁者にさえ捨てられた人たちもいる。それは決して良いことではないが、現実として起こっている事態なのである。救えなければ、自暴自棄に走る人間が出てくる恐れがある。実際に事件となっている。一番悪いのは、無責任だとか、性格が悪いだとか、甘えているだとか、モラルが低いだとか、そういうところに原因をもっていくことである。そんなことをいくら言ったところで問題は解決しない。なぜ事前に思いとどまらせることができなかったのか。なぜ思いを伝える機会、場がなかったのか。いくらかでも自分の存在価値を自分自身が認める機会はなかったのか。少なくとも、生きていくことだけでも保障される態勢があったなら、誰でもいいから殺したいとは思わないのではないか。

 しばらくは不安定な状況が続く。しかし、いつまでもそうであってはならない。いくら格差固定社会とは言え、「勝ち組」になったとは言え、そういう人のポジションも危うい。不安を抱えながら生きる勝者も不幸であるならば、最低限の保障がある社会が好ましいのではないだろうか。医療、教育、住宅、この三つは最低限の条件を国が保障すべきである。その上での、競争はあってもよい。稼いだ人は海外旅行へ行けばよいし、ブランド商品を買えばよい。稼げない人は、別のことに喜びを感じればよい。生きていれば、どこかに幸福はあり得る。

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2008年12月28日 (日)

2008年を振り返って その1

 今年も残り3日となった。振り返ると、今年は50歳になったということもあって、これまでになく記憶に残る一年になった。とにかく経済環境が厳しい方向に急激に変わり、仕事では例年以上に大きな課題を背負うことになった。幸いにも経営トップから一般社員に至るまで、苦しい中でも踏ん張って努力し、最低限の実績は残せたのではないかと思う。仕事をしたという実感の残る一年になったと言える。

 環境の変化は著しかった。景気の後退は当初から予測されたが、原油の想像を絶する高騰は原材料価格を引き上げて、利益を奪っていった。続いて秋以降に発生した米国発の金融危機は日本の実体経済にも影響を及ぼし、われわれの市場をも委縮させている。最高に利益を出していたトヨタが通期で赤字に転落するであろうとの報道は、今回の危機を象徴する出来事としてショッキングに受け止められた。

 その他、あまり好ましくないニュースが目立った。非正規雇用の増大を背景とする格差の拡大と固定化は景気の後退とともに克服すべき課題として広く国民に認識されるようになった。秋葉原での無差別殺人はそのような社会的背景をもって語られることが多く、記憶に刻まれる事件になった。全体にモラルの低下をひしひしと感じられる事件が頻発したが、モラルの低下は原因ではなく、結果として起こっている現象であり、その原因を探ることは広く社会科学の課題であり、それを踏まえて政治が解決すべき課題となるだろう。

 2009年は引き続き厳しい年になるだろう。世界の動きは自分の力では如何ともし難いものである。そのなかにあっても、自助努力によって会社の経営とプライベートの生活面では充実した一年にしたいし、なるものと信じている。

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お葬式

 今日、親類の葬儀に参列した。大手B社の会館で行われ、いつものことであるが手際よく進行された。餅は餅屋と言うように、独特のノウハウがあり、マニュアル化もされている。しかし、演出の仕方は葬儀社によって違いがあるようである。今日の場合は、故人の生前の足跡をまるでこれまで見てきたかのように上手く表現していた。聞きながら、こういう文章は事前にいくらか聞き取りした内容に、これまで蓄積した情報を加味してライターが作成しているのだろうと推測した。故人は若い時からクリーニング業の修行を積み、自分の店を出して経営してきた。そういう人は全国に少なからずいる。すでに亡くなって、この葬儀社で葬儀を行った人も相当数いることだろう。そういう事例から、たくさんの文章の蓄積がある。こういう場合は、このように故人の人生を讃えるのがよいというつぼがあるのだろう。出棺の時には司会者が、胡蝶蘭の花びらを白いシャツにたとえ、再度仕事の苦労をねぎらった。これは用意をしてきたセリフなのか、アドリブであるか、分からないが、なかなか巧妙であった。しかし、あまりにも「きれいすぎて」、こちらは乗せられている気がしてしまう。考え過ぎだろうか。

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2008年11月24日 (月)

観光地の食堂はなぜまずいか

 今日、近くへ行ったついでに法隆寺を訪れました。確か、前回行った時も晩秋だったと記憶しています。生憎の雨模様で、観光客も少なかったです。お天気がよく、暖かければもっと人は多かったに違いありません。ただ、ちょうど紅葉のシーズンでもあり、大半の観光客は京都方面に流れると思います。

 訪れたのはお昼時だったので、拝観後お腹が空いて周辺の食堂で食べようと思いましたが、結局食べませんでした。そういう場所の食堂は高くてまずいという認識があります。これは偏見かというと、あながち間違いではなかろうと思うのです。とはいえ、お店の方も、一元さんだから、少し高くても金を出すだろう、まずくても食べるだろうと、居直っているわけではないでしょう。そうなるには、お店の人の考え方ではなく、そういう場所での商売に共通の条件があるのではないでしょうか。このことに特別興味をもって調べたことはないので、今日の思い付きですが、ちょっと考えてみましょう。

 どういう特徴があるか。お客さんは、特定の日に集中しますね。暇な時期の方が多いのではないでしょうか。繁華街であれば、週末に人が多いだろうし、ビジネス街はウィークデーの人出が多い。観光地は大概春と秋の行楽シーズンが繁盛します。バラツキが大きいと利益を出すのが難しいのではないか。固定費は同じようにかかるが、年を通しての売り上げは大きくはない。繁忙期だけに人手を集めるのも手間でしょう。そう考えると、コストは高くなるし、上乗せする利益が大きくなるから、自ずと高くなりますね。客の足元を見ているわけでもなさそうです。それから味の方ですが、お客が常時来るわけではないから、新鮮な食材は調達しづらいでしょう。どうしても日持ちのする食材になるし、冷凍ものも多くなる。それから、これは考え過ぎかもしれませんが、いろいろな地方から人が来るので、味が一般的になるのではないでしょうか。大体無難な味付けになる。素材と味付けの両面から、おいしくない理由が考えられます。

 かなり経験に基づいた、主観的な部分の多い推測ですが、いかがでしょうか。

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2008年11月16日 (日)

あやふやな発言

 推測でものを言っちゃいけないと言いますが、推測であればまだましなのです。推測というのはいくつかの事実を根拠にして何らかの結論を出そうとしているので、何の根拠もなしにどこかで聞いてきたような主張をする人に比べれば格段にレベルの高い行為なのです。

 日常の会話だけではなく、仕事場でも同じことが言えます。資料は見ていないし、現場も見ていないのに、「こう思う」と言う。過去の経験、それも不確かな経験を思い出して口にする。私にも身に覚えがありますが、事実を確かめるのが面倒だったり、リスクを取りたくないので言い訳のようにして発言しているだけです。

 仕事場でのことは置いといて、日常の会話でも、いわゆる俗説が多くの人の頭のなかに入っていて、繰り返し言葉にされています。たくさんありますが、ひとつ例を出すと、勉強ばかりしていると頭がおかしくなる。受験勉強ばかりしていると、自分勝手な人間になる。視野が狭くなる。こんなことがよく「常識的に」語られます。しかし、真面目に考えてみると、そもそも「勉強ばかり」とは言っても、一日に何時間以上勉強すると、「勉強ばかり」になるのでしょうか。仮に、学校の授業以外に5時間以上すれば該当すると決めても、進学校の生徒でさえそんな子はたくさんいないでしょう。あるとき、無料のコンサートに行った時に、有名なピアニストに対して、いつもピアノの練習をしているのかという質問がされましたが、そのピアニストは「そんなわけないでしょう。家でゲームしたり外へ遊びに行ったりしてますよ。」と答えていました。ピアニストは四六時中ピアノを弾いているという思い込みがあるのですね。同じように、進学校の生徒は家に帰ってからも大半の時間を勉強に費やしているという思い込みがあるのでしょう。

 実際に、そんなに勉強ばかりできるものではありません。学校でクラブ活動をやっている子も多いだろうし、家でも食事や入浴など必要なものを除いた時間の半分以上を勉強にあてることは難しい。休日の時間も合わせて半分以上となると普通の子にはありえないことです。特定のテーマに限って追究している研究者ならば、没頭することはあるでしょうが、一般の学生は本を読んだり、音楽を聴いたり、外出したりしてバランスをとって生活しています。

 また視点を変えると、勉強時間が相対的に長い進学校出身者の考え方が常識外れで、自分勝手な人間が多いかというとこれも言えそうにありません。私は、進学校出身者をたくさん知っていますが、彼らを見ていると、それぞれ個性があって、たまに変わった人もいますが、その程度は一般的なバラツキと変わらないように思います。逆に全体としては、お人好しが多く、それは比較的生活に余裕があるのでものの見方が素直になるからでしょう。加えて言えば、難関大学にチャレンジして合格したという成功体験があることが人生における大きな自信になるようです。

 これと逆に、勉強時間の少ないグループが、多いグループよりも他人を思いやる気持ちが強いかというと、それは言えないと思いますし、その逆も言えない。ただ、言えることは、勉強をする余裕もないような生活条件を余儀なくされている層の生徒は、生活全体に余裕がなく、視野が狭くなりがちだということです。また、格差社会論に戻ってしまいますが、貧困層に対する社会からの援助をどう考えるかということと、高学歴で高所得の層が自分たちの立場をどう考えるかといことが重要です。両社の対立が先鋭化してしまうと全体が不安定になり、誰にとってもよい社会ではなくなってしまいます。

 最後に話をまとめますと、勉強ばかりしている子供は実際には多くはない。進学校に通っている生徒を勉強ばかりしている子だと想定しても、そういう子が特別歪んだ人格を持つのではないといこと。歪みが生じるとすれば、それは勉強するとかしないとかの問題ではなく、生活の条件の違いが根拠になるということです。そして、元に戻り、俗説になっていることを疑問を持たずに正しいことと思いこんでいる場合が多く、そのことが真実を知ることを妨げているという事実があります。

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大学の価値

 仕事柄、経済雑誌を見ることが多いが、時々大学のランキングをやっている。切り口は主に財務状況、就職に有利かどうか、出身者の年収、社長になりやすいかなどである。こういった内容には、わざわざ買ってまで読もうというほど興味はない。偏見かもしれないが、研究機関としての実力評価はあまりされていないのではないか。

 大学の機能には、学生に有用な情報を与え、また論理的な思考、発言、文書作成などの実力を付けさせて社会(企業や公的機関など)に出すこと以外に、有能な研究者候補を選別し、研究の水準を上げ、中長期的に社会の発展に資するということがある。それが研究機関としての価値ではないかと思うのである。

 ところで、グーグルにユニバーシティという機能があって、大学関係者からWebに流れている情報を検索できる。大学別にも検索できるので、特定のキーワードでやってみると大学別の情報量を知ることができた。情報量は研究水準の一つの尺度になるだろう。「格差社会」と「金融危機」の二つのワードを使った。著名な大学に限ったということと、量だけでは質の判断まで踏み込めないという制約はあるが、結果は非常に面白いものだった。おおよそ、日頃思っているイメージと一致したのであった。早稲田大学は大阪大学と同じ程度の情報量。京都大学はその2倍程度。東京大学は京都と大差はないものの、何割かは多い。立命館大学と名古屋大学は、早大・阪大よりやや少ない。地方の国公立大学は早大・阪大の5分の1から20分の1である。地方の私立大学は総じて少ない、ゼロに近いところもある。

 以上、非常に限られた情報で判断するのはよろしくないが、あまりに日頃の感覚と一致するので驚いたほどである。ただし、例外はあって、たとえば滋賀大学は非常に多くの件数が引っ掛かってくる。これは、積極的に情報発信していると受け取れるし、あるいは大学独特の仕組みがあるのではないかと想像される。

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2008年10月13日 (月)

NHKスペシャルは面白い

 10月12日夜のNHKスペシャルは、読字障害についての特集だった。読字障害は欧米で十人に一人、日本では二十人に一人いると言われている。うまく文字が読めないのは、本人の努力の不足ではなく、脳の働き方の違いによる。人間は文字をいったん音に変えて理解する。その変換の働きを、脳の第39野と第40野が担っている。この部分の働き方が、他の人と違うのが読字障害をもつ人の特徴なのである。その反面、右脳の働きが活発で、空間の処理能力が高いという。こういうことを知ると、普通ではないからと言って低く評価してはいけないことがわかってくる。怠けているのではなく、他の人と違うだけなのだ。違うことは悪いことではなく、新たな可能性を秘めていると捉えることができる。

 人類の歴史のなかで、文字を使うようになったのは数千年前からであり、ごく最近のことである。言葉を使った会話は、原始的なレベルで言えば数百万年前に始まっている。ずっと音で判断してきたのだ。それが文明の発達とともに文字による情報伝達が急速に発展してきた。これに人間の脳が付いていっていないのである。読字障害は、それを引き受けている個々人の問題なのではなく、人間の発達に内在した、普遍的課題だと言えるだろう。

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2008年9月20日 (土)

古本

 今日、難波に出たら、ブックオフがあったので立ち寄って古本を見、2冊購入した。今は亡き今村仁司さんの「アルチュセールの思想」(講談社学術文庫)と松下幸之助の「指導者の条件」(PHP研究所)である。こんな組み合わせで購入する人はあまりいないのではないかと思う。どちらも定価の55%の値付けで、高い方だろう。安いものは文庫でも単行本でも1冊100円である。どうやって値段を決めているのだろうか。ずっと見て回ってみると、安い本は、出版はしたけれどあまり売れなかっただろうと推測されるものである。かつ、一般向けというか、大衆向けというか、対象がぼんやりしている。逆に、ビジネス書だったり、学術書だったり、特定の層が、値段以上にその一冊の価値を知っているような場合は高くなるようだ。基本的には需要と供給の関係で価格は決まるのであるが、本の場合は、需要(効用という方が適切か)の大きさが関係するようだ。つまり、娯楽小説などはどうしてもそれでなければならないわけではないが、学術書であればある人にとってはどうしても欲しい本なのである。私も、たとえ文庫本であっても、本当に自分に必要だと思った時は、1万円ぐらい出してもいいという気になる。(実際には出さないが)それほど、物によっては、値打ちがあるのである。情報というものは、物理的には、紙の上に書かれた文字でしかないが、その知的内容においては恐ろしいほどの価値を含んでいるということだ。

 ところで私はブックオフに古本を売ったことはないが、買取り価格はどれほどだろうか。学生時代に個人経営(昔は皆そうだった)の古本屋に売ったことはあるが、二束三文で買いたたかれた。希少価値のある本(お宝的な)は別にして、大体が安く買われて、そのうちの一部が高く売れるので、それで飯が食えたということだろう。いくらで値を付けるかが古本屋のノウハウなのだろう。

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2008年8月 2日 (土)

中国旅行その3

 中国は模造品の天国である。旅行中に、日本人と知ってであろう、時計や財布を売りつけに来る。売り言葉は、「安いよ。」「A級、A級。」である。さすがに情報が流れているので本物だと思う日本人はいない。偽物のなかでも質はいいというアピールである。偽物のランクとしてA級、B級、C級があるのだ。

 ガイドさんによれば、売っている人はいわゆる文革の時代に教育を受けられなかった人達で、職につけないのでこういう商売に走るしかないらしいのだ。そういう事情があるので、黙認されているのだろう。ちなみに、ガイドの王さんはSEIKOの偽物を身に付けていたが、これはA級だそうで、時間もよく合うと自慢していた。

 

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2008年7月26日 (土)

中国旅行その2

 これも王さんから聞いた話だが、毛沢東の時代に育った人たちは平等を良しとし、働かなくても一定の生活が保障される社会がよいと思っている。改革・開放政策を推し進めた鄧小平以降の人は、競争のなかで頑張った人が、応分の報酬を得るべきだと考えている。

 人間の考え方は、社会の構造変化によって大きく変わる。その構造変化は、資本が主体で変える場合もあるし、国家による政治主体で変わる場合もある。中国の場合は後者のケースである。かくも急激な変化は類を見ないものではないか。したがって、当然ながら取り残される人々が発生する。彼らは、教育の機会を持たなかった人たちである。もはや這い上がることができない。貧困の再生産過程に入り込むのである。前にも書いたが、そういう下層の人々を組織する勢力がない。政党、宗教団体、労働組合など。民主主義のプロセスが存在せず、再配分が行われにくい。

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2008年7月21日 (月)

中国旅行その1

 合弁企業の工場建設を視察するため中国旅行に出かけ、今日帰ってきた。その間に、考えたことを数回にわたり書いてみたい。

 上海を案内してくれた旅行社の王さんからいろいろ話を聞いた。中国の社会は急激に変化しているが、生活実感として変化が強く意識されたのは1998年ごろだという。生活といえば衣食住であるが、これが豊かになってきたのである。これは、日本の社会の変化とも大きなつながりがあるのではないか。1998年といえば、日本の企業が思い切ったリストラを開始した時期であり、その影響で、一気に自殺者が増加し、年間3万人を超えたのである。それ以来10年にわたって3万人を下回っていない。

 日本の凋落が中国の発展を誘発したのか、中国の発展が日本の凋落を招いたのか。あるいは関係がないのか。不勉強で、うまく説明はできないが、日本の経済が停滞した時期に、中国は成長に弾みをつけているように思える。日本に投資する魅力がなくなって、その分が中国に回るという図式が成り立たないだろうか。13億人の生活が向上すれば市場は自ずと拡大する。日本の資本も進出し、中国に移転した利益を再び取り戻そうとしている。しかし、それはごく一部の大手企業である。

 全体が均等に発展することはない。良いところがあれば悪いところが出てくる。あるいは、悪いところがあるからこそ発展する企業や地域や国家がありうるのではないか。それは好ましいことだと思わないが、今ある発展の力学である。

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2008年7月13日 (日)

ホームレス中学生

 昨晩テレビで「ホームレス中学生」を見た。これは多くの人が知っている漫才コンビ麒麟の田村が書いた原作をテレビドラマにしたものだ。久々に清々しいドラマを見た気がする。

 いろいろ面白いというか、参考になる点がある。ひとつは、だれもがホームレスに陥る可能性があるということ。父親が癌になって入院中に勤め先でリストラが進み、彼もタイミング悪く対象にされてしまう。療養中は収入がなく、新しい勤め先を探すのも難しい。家のローンが残っていたらなおさらだ。まず一戸建ての持家からアパートに転居する。次に借金を返せないので差し押さえにあってしまう。住むところがなくなる。

 そんな厳しい状況のなかでも、家族愛と地域の人たちの互助精神は救われる要素である。家族愛は別(これはそんなに簡単になくなりはしないであろう)にしても、地域社会がまだ残っているのは救いである。現実には急速に崩壊しつつあり、消滅しそうな状態であるが、社会の大きな変動のなかで新しい社会的関係、新しい人間関係が形成されるときに、再生の胞子となるのではないか。少なくとの互助の記憶が残っていおれば絶滅を避けられるのではないか。

 話はそれるが、見ていて涙が何回も流れた。私は元来涙もろく、安っぽいドラマでも泣けることがある。泣けるドラマや映画だけがいい作品とは限らないが、心の肥やしにはなると思っている。最近見た映画では(DVDであるが)「壬生義士伝」がよかった。これは浅田次郎の原作で、テレビで10時間ドラマにもなったが、映画の中井貴一と佐藤浩市の演技が素晴らしく良さが際立っている。他に泣けるものを挙げると、今は見る機会がなくなってしまったが、藤山寛美の新喜劇があるし、落語の人情話もよい。

 最近はお笑いの番組が多く、若者は好んで見ているようであるが、人生は泣き笑い。涙なくして、人生はない。不幸な人間に、涙はない。

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2008年7月 6日 (日)

弱者に厳しい

 今朝のテレビで、財政破綻した夕張市のその後の様子が報じられていた。3百億円を超える借金のうち、前年度に11億円返済したそうである。とった策は、職員の半減、市民病院の診療所への縮小、事業の中止などである。その多くは住民へのサービスの低下や負担増につながっており、借金のつけは住民へという図式が当たり前のように受取れた。地元の産業は疲弊しており、働き手は転出していき、残るのは高齢者である。高齢者にとっては厳しい実態がある。これは夕張だけの問題ではない。一部の例外を除いて大半の自治体は大赤字なのである。夕張のようになりたくなかったら早めに住民に負担をもとめて手を打ちなさいというメッセージである。

 これは国のミニチュア版である。国の財政危機もはなはだしい。それは事実。そして同じく解決策は国民の負担を大きくして、これ以上の借金は抑えようというのである。前にも書いたが、なぜ借金が増えたのか、だれに責任があるのかという点はなかなか表に出ない。とにかく大変だという宣伝がなされるだけなのだ。いまある国家、いまある体制が大事なのであって、それを守らなければ未来はないという主張である。しかし、いまある体制がなくなって一番こまるのは官僚ではないか。彼らの活動するフィールドを失いたくないのである。

 杜甫の有名な詩の一節に「国破れて山河あり」というのがある。これに代えて国破れて生活あり、と歌いたい。戦後、市街地を破壊され、交通網が寸断されたなかでも復興を遂げてきた。今、国家が破たんしても、社会資本がそのまま残れば、新しい仕組みは作ることができる。生活者の営みは変わらず、続けられるのである。

 国の施策は弱者に厳しい。かつて、知人のAさんが難病にかかり、付き添って市役所に相談に行ったことがある。事前に申し込んであったので、医師も同席し、簡単に問診もしたが、結局は病院にいって診断してもらったらよいという結論しか出なかった。それを受けて今度は病院に行ったが、治療はできても生活のことは役所へ行ってもらうしかないという。いわゆるタライ回しというやつである。近所の馴染みの医者にも聞いてみたが、生活保護の書類は書いてあげることはできるが、少しでも財産や預金があると保護は難しいねよ言うことであった。Aさんにできることは、貯えを切り崩しながら、投薬とリハビリを続けることである。しかしいずれ蓄えは切れる。そうなったとき、だれが面倒をみるというのだろうか。

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2008年6月21日 (土)

お葬式

 親戚関係で、一週間に、結婚式と葬式との両方を経験した。楽しいのはもちろん結婚式であるが、印象深いのは葬式の方だ。いずれ自分にも死が訪れ、遺言を残さぬ限り葬式が行われるはずだ。無理だと分かっていても、自分の葬式を見てみたいものである。かつてジェームズ三木が、どっきりテレビで、妻をだまして自分の葬式をやった。悪い冗談であるが、やってみたい気持ちはよく分かる。

 人が、死んだ後に何を残したか。その人生の評価は様々な角度から可能であるが、葬式にどれだけの人が集まったのかも一つの基準になるだろう。ただし、多ければいいという単純なものではない。大きな組織に属していれば大勢集まる条件がある。要は、仕方なく行くという形式だけの参列者を除いた人数の多さである。

 自分の死を惜しんでくれる人が大勢いる、そういう生き方をしたい。誰も来なければ、何も残さなかったということになる。

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2008年6月 1日 (日)

本探し

 趣味と同時に、情報を得るという実利のために書店通いが週末の日課になっている。梅田周辺の、旭屋、紀伊国屋、ジュンク堂が訪れる先である。

 一回出ると本屋のはしごはなく、2時間は留まる。文庫もしくは新書のコーナーでずっと過ごすか、ビジネス書を見てから文庫に移動するか、どちらかの場合が多い。本の見方は、例えばちくま文庫ならちくま文庫に集中して立ち読みし、そのなかで面白く、その分野ではそれなりの水準があると思う本を選び購入するのである。最近は文庫を出版する出版社の数も増えたが、それぞれ特徴がある。いい本が多いと思うのは、ちくまの文庫と発行冊数は少ないが中央公論の文庫である。新書も同じ、ちくま新書と中公新書が多い。

 本は何を読んでも勉強になるというものではない。いや、読み方によっては読む価値ゼロはないだろうが、限られた時間を使うのであるから質は大事である。読み手の価値観や問題意識に合致するものを選び出すには立ち読みでパラパラめくるのが一番効率がよい。インターネットの販売では中身の吟味は難しい。書店を回ると足や腰がくたびれることが多いが、家でじっとしていることに比べれば圧倒的に得るものが多いのである。集中力が切れる夕刻から夕食までの時間帯がもっともよい時間帯である。

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2008年4月26日 (土)

心地よい範囲の狭さ

 暑さ寒さも彼岸までというが、多少のずれはあってもおおよそはそう言えそうである。ここしばらくは「いい気候が続く」はずである。しかし、この時期でも晴天で風がなければ暑いぐらいの日を経験する。そうこうしているうちに日々暑い日が続くようになる。考えてみれば、過ごしやすい時期は極めて短いのだ。

 大阪の気温は0℃から35℃の幅で変動する。このなかで過ごしやすい気温は、15℃から25℃の間だろうか。心地よい気温となればもっと狭まるのである。人間の快楽を感じられる幅は気温に限らず狭いのではないかと思う。したがって、大なり小なり不快な状況に生きているわけで、物理的にあるいはメンタルな面で策を講じて生きやすくしているのである。生活の知恵とはそういうところから生まれるものであろう。

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2008年3月 9日 (日)

誤解の活用

 ある事実を示して、それをどうとるかは相手の判断によるが、意図して相手の誤解や錯覚を誘うことは可能である。ある状況、ある話の文脈において、ひとつの情報を投げた時に、相手はこう解釈すると推測して仕掛けをするのである。嘘を言うのではないが、ある種の引っかけであって、結果として相手に経済的損失を与えれば詐欺にあたるのだろう。

 悪意でそれを行うことはいけないが、たとえば男女の恋愛における駆け引きのなかで、もちろん悪意ではないが、利用されているのではないか。デートの時、女性が弁当を持ってきて男性に食べてという。男性は感激して、おいしいと言って食べる。それは実は母親が作った弁当だった。女性はとくに断らなかっただけで、嘘をついたのではない。男性が自分のために本人が作ってきたと思いたかっただけのことである。結婚してから味の違いに愕然とするかもしれないが、結婚するまでにバレてしまうことだろう。できてからバレたところで大した問題はないのである。断わっておくが、これはわたくしの経験ではない。家内は自分で作ってきた。

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2008年2月11日 (月)

クリティカルマスについて

 「クリティカルマス」は臨界量と訳され、ある一定量を超えると、急に認知されたり普及し始める量のことをいう。

 ビジネスの世界でどこまで投資すれば効果が出始めるかを考えるときの概念になっているのだが、個人の能力開発にかける時間と結果とを考える際の概念とも考えられる。よくスポーツで化けるということをいうが、地道に努力を続けてきてあるとき一気に花開くことがある。ただし、いつまで経ってもクリティカルマスに達しない場合がある。これは練習の密度が低い場合もあるし、才能が影響しているということもある。また、スポーツの場合は周りにライバルがたくさんいるのでストレートには結果が出ない。しかし、ビジネスの能力を身につける場合は特に周りの影響を受けることはないので、マイペースで行える。

 注意すべきは、一人の人間がもっている時間には限りがあるので、あれもこれもやろうとすると力が分散し、いつまでもクリティカルマスに達しないことである。私も気が多いというかいろいろな方面に興味があるので、本もいろんなジャンルのものを読む。それはそれで悪くはないのだが、どの知識も中途半端で、これはプロ級だというものは一つもない。ここらで絞って集中的に勉強して、クリティカルマスを超えたいものだ。

続きを読む "クリティカルマスについて"

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2008年2月 2日 (土)

お金が動くところ

 当り前の話かもしれないが、お金が動くところに「儲ける機会」がある。儲ける機会は損をする機会でもあるが、人はそこに群れてくる。まっとうな人はリスクがあっても自分のお金を投資して利益を上げる。損をしても自己責任である。面倒なのは他人の金にへばりついて甘い汁を吸おうという輩だ。自分の金でもないのに国や地方の予算(すなわち税金)を動かして、そこから利益を抜き取るのは政治家や役人のすることだ。権限と不正は密接に結びついている。また、裏社会の人間もその悪巧みに入り込んでいく。おそらく、最初に仕掛けるのはそういう連中だろう。政治家や役人は最初はそういうつもりはないのであろう。誘惑に負けてしまうのだ。誘惑に負けない毅然とした態度あるいはポリシーが権限のあるものに求められる所以である。

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2008年1月26日 (土)

スタイルを変えるとき

 今までのやり方を変えるときには思い切りが必要だ。すぐに成果は出ないかもしれない。しかし、だからと言って安易に元に戻してはいけない。そこは辛抱。新しい形ができるまではある程度の犠牲が必要なのだ。新しい力が育つまでは我慢しよう。

 ところで、全く話題が変わってしまうが、「果報は寝て待て」ということわざがある。これをどう解釈するか。できるだけのことをやったあとの結果は吉とでるはずだから落ち着いて待とうという意味だ。ほぼ、「人事を尽くして天命を待つ」に等しい。何もしないで待っていればいいこともあるさという意味ではない。世の中にそんなことは滅多に起こり得ないからだ。永く、ことわざとして伝わっていることには根拠があるはずなのである。

 とにかく、やるだけのことはやってから結果を待つことにしよう。

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2008年1月20日 (日)

人生にはいくつかの勝負時

 昨日今日と大学入試センター試験が実施されたが、人生にはいくつかの勝負時があると考えた。学生にとっては受験が一回目の勝負であろう。特に大学入試は。

 入試でその後の人生がすべて決まることはないが大きな影響は与える。受験勉強でどれだけ真の学力が身に付くかということよりも、合格不合格がはっきり結果として出る勝負で勝つか負けるかということは、その後経験するであろういくつかの勝負に向けて、勝ち癖がつくかどうかという点で意味がある。

 その後、就職、結婚、昇進昇格、転職などの機会が勝負の機会になるだろう。そういう時には行動・判断の人生における位置づけをしっかりして力を集中すべきである。

 

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2007年12月24日 (月)

アシックスの靴

 アシックスはスポーツシューズのメーカーであるが、ビジネスシューズの分野にも進出していて、「歩人館」という店を出している。売り上げは好調らしい。

 アシックスに友人が勤めていることもあってアシックスのビジネスシューズを履いている。初代の靴がかなりくたびれてきたので今日は二代目を購入した。値段は少し高い気もするが履き心地は抜群である。同時に今まで履いていたものを捨てるのはもったいないので、底の張り替えを頼んできた。代金は安い店の靴本体ほどかかるが、それでまた2~3年履けるのだから靴も喜ぶだろう。

 ちょっとアシックスのコマーシャルになってしまった今日のブログでした。

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2007年12月 8日 (土)

泣いて馬しょくを切る

 中日の落合監督が日本シリーズで8回までパーフェクトの投球をしていた山井を岩瀬に代えた件について、石原東京都知事が組織の責任者として素晴らしい判断だったと褒めている。そのことに異論はないが、たとえで「泣いて馬しょくを切った」という言い方をしたのには違和感を覚えた。

 泣いて馬しょくを切るとは、かわいい部下でも失敗すれば全体の統制のために組織から切り捨てなければならないという意味である。山井はミスをしたわけでもないし、降板しただけで次の登板の機会を奪われたわけでもない。意味が違うように思うが、広くとらえれば使えるのかもしれない。

 言葉の意味は、ひとによって幅の違いがあるのだ。

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2007年12月 2日 (日)

考えること

 数日前に書店でハーバードビジネスレビュー誌の別冊で「プロフェッショナル養成講座」という雑誌を買った。日経の広告に載っており、書店でも山積みにしてあったので買ってしまった。価格は980円で、この手の雑誌としては普通かなと思うが、本誌が2000円なだけに安いのかなという気がした。

 なぜ980円なのかと考えてみた。山積みしてあるぐらいだから売れるのを見込んで大量に印刷したのは間違いない。内容は今一般受けするプロフェッショナルになるにはどうすればいいかという特集である。本誌はアメリカの経営学者の論文が載せてあるので専門的で読者が限られる。発行部数が少ないので高くなるのは当然だ。逆にこの本は一般受けする内容にして読者層を広げ、部数を増やし手頃な値段で発売したというわけだ。

 普段疑問を感じないことでも考えればそれなりの理由があるものだ。

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2007年11月26日 (月)

三人寄れば文殊の知恵

 ことわざには文字通りの解釈を超えた奥深い意味がある。それは長い時間をかけて成り立ってきた過程で日本人にその示すところの意味が共有されているからである。

 三人寄れば文殊の知恵は、同じ問題意識、同じ悩みを抱えた人が集まれば、一人では思いもつかなかった解決策が生まれるという意味に理解している。何の前提もなく人が三人集まったからと言って何かが生まれるわけはない。同じベクトルをもった人間が集まってこそ知恵が生まれるのである。

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2007年11月23日 (金)

カエルの写真

デジカメの画像を整理していたら福井に旅行に行った時の写真があった。東尋坊に立ち寄ったが、その時に水族館に入った。メインはイルカやペンギンであるが、おまけ程度のにカメとカエルの館があった。その時に緑色のカエルを撮っているが、それがよく撮れている。偶然であるが、素人でもたまたま上手く撮れる時がある。プロはかなり高い確率でいいのを撮る。それがプロの腕である。

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2007年9月17日 (月)

あまりに暑い9月

 昨日(9月16日)は34度を超え、今日もそれぐらいはあるだろう。9月も半ばを過ぎたというのに真夏と同じ暑さである。今が8月だと言われても違和感はないだろう。

 地球温暖化とCO2との関係はまだ検証されていないという主張もあるが、温暖化してることは体をもって理解することができる。むかし、ロシアの科学者は日本を亜熱帯の気候に分類していると聞いたが、ここまでくればそれも正しかろうと思ってしまう。

 このままいけば夏場の電力消費は間違いなく増大するだろう。冬場の燃料消費は減るだろう。年間通してどうなるのかわからないが、温暖化が温暖化を生むという悪循環は生活の知恵で避けたいものだ。

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2007年8月16日 (木)

海水浴

 海水浴は年に一度あるかないかの事である。こどもが小さい頃にはプールより海が主流で、須磨海岸に数度通った。今はあの喧騒に耐えられず、服部緑地のプールで済ませるのである。こどももそれで満足である。

 海へは田舎に帰った時に行く。大泊海岸である。海は透き通るようにきれいで、海水浴客も少ない。都会から見れば贅沢な場所である。しかし、都会からはあまりにも遠い。大阪からは電車で5時間近くかかる。海の美しさは遠さの代償である。

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2007年8月11日 (土)

年に2度の帰省

 電車で盆と正月に帰省するのがパターン。墓参りに加え、海水浴が夏の恒例行事である。私の行動はパターン化しやすいので、海水浴は同じ海岸の同じ場所に陣取り、同じ浜茶屋で食事をする。

 大泊海岸という海水浴場で遊ぶが、時期と地形の関係であろう、午後になると空がゴロゴロ言い出す。落雷まではいかないが、毎年の現象なのである。

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2007年8月 8日 (水)

再開します

 パソコンを修理するためメーカーに返していましたが、部品がないので修理不能とのこと。代わりにVista搭載の同機種を送ってきました。XPでよかったのに。動きが悪くなってしまった。

 ブログ、再開します。

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2007年7月17日 (火)

お休み

パソコンを修理に出すので、しばらくお休みです。返ってきたらすぐに再開します。

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2007年7月14日 (土)

台風

 この時期には珍しく台風4号が近づいてきている。紀伊半島に上陸しそうである。大阪に住んでいると台風が直撃するということは珍しいことである。

 生まれが今で言う東紀州なので子供のころから台風は何度も経験している。強い風、激しい雨、高い波。決して歓迎すべきことではないが、なにかわくわくした気分になるのだった。非日常に対する気持ちの高ぶりであった。

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2007年6月30日 (土)

ニュース性

 ここ数年今ぐらいの時期になるとダムの貯水率が下がり、取水制限が行われるというニュースを聞くようになる。しかししばらくすると聞かなくなる。どうなったのだろうかと気になることがある。インターネットで調べてみると各ダムを管理している事務所がホームページで最新の貯水率を発表しているので分かるが、ニュースにでなくなると大体が回復しているのである。もう心配がなくなるとニュース性がなくなるからであろう。水が干上がってダムの底が見えていると不安をあおるので、見る人の注目を浴びるのである。放映時間に限りがあるので、殺人事件が起こると報道されるが、その後犯人が逮捕されたがどうか、ましてや逮捕されたあとの裁判がどうなったかについては特別なものを除いて報道はされない。いつの間にか消えてしまうのである。

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2007年6月24日 (日)

疲れについて

 慢性的に疲れがあるが、一口に「疲れ」と言ってもいろいろあるようだ。短期的な疲れ、慢性的な疲れ、精神的な疲れを伴うものなど。

 短期的な疲れは休息をとれば回復する。年齢によって時間に差はある。慢性的な疲れはなかなか取れない。これは生活のパターンを変えないと簡単には治まらないだろう。タクシーの運転手や二交替三交替の変則勤務をしている労働者はそれをやめろと言われても生活がかかっているのでやめられない。辛いところである。

 慢性的な疲れは精神的な疲れも伴う。心は沈み、決して明るい気分になれない。毎日が楽しくない。大きく生活パターンを変えられないとしたら、意識的に短時間でもよいから気分転換をはかれる楽しみを作るしかない。そこに救われる要素が生まれるだろう。兎に角何かしら転換をはかる行動が必要なのだ。

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2007年6月21日 (木)

神の手

 しばらく前のことだったが、神の手を持つと言われた考古学者がいた。次々に歴史を塗り替える旧石器を掘り出していったのである。それが毎日新聞の調査で、自分で埋めて自分で掘り出していたことがばれてしまった。同じ考古学者の間ではおかしいと思われていたに違いない。例えば、くっつけると一つの石器になる片割れ同士が何キロも離れた場所で発見されたことがあったが、これなどは実際ありえないことである。ところがマスコミで報道されるとロマンにあふれた話として受け取られてしまうのである。マスコミは怖い。安易に信じてはいけない。

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2007年6月13日 (水)

 日頃何かを美しいと感じることはまずない。美と言っても、視覚に訴える美もあれば観念に訴える美もある。前者は風景であったり芸術作品であったりする。後者は、潔い行動、正義の行動に対する賞賛の観念であろう。

 いずれにしても日常のなかで感じることが少なくなった。いろいろ理由はあるだろう。自然に触れる機会が著しく少なくなった。映画も見なくなった。美術館へはもともと行かない。偉いと思える人間が少なくなった。自分の感性も鈍くなった。

 美的感覚の回復は可能だろうか。これは意識的に対象物を追求するしかないだろう。それなしに感覚だけを再生させることはできない。できる事ならヨーロッパの自然や歴史遺産に触れたいが、そんな余裕はないし、せいぜい京都の散策ぐらいで何かを見つけるしかなかろう。

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2007年6月 8日 (金)

老後を過ごすなら

 老後だからといって何もせずボーっとしてすごしたいとは思わない。適度に運動して体力を維持しつつ、知的な生産活動を行いたい。それが何らかの社会貢献につながれば最高なのだが。

 住む場所は海辺の潮の香りのする土地がいい。また都会まで公共交通機関を使って2時以内でいける地域がよい。本を買いに行ったり、映画を観たりするためである。

 ちょっと贅沢すぎるだろうか。

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2007年5月28日 (月)

電話ボックス

 最近電話ボックスの数が減ったし、その中で電話をしている人は滅多に見ない。かつては空いているボックスがなくて困ったときもあったというのに。

 東京高田の馬場のビッグボックス横には正確には分からないが20台ぐらいの電話ボックスがあった。ここは待ち合わせ場所として有名なところだったので電話連絡を取る人が多かったのであろう。とはいえ、20年以上前のことなので携帯がない時代であり、もう家を出たかどうかを確かめる程度のことしかできなかっただろう。

 ビッグボックス前で合コンの待ち合わせをしたことがあった。相手は聖心女子大の人で文字通りお嬢さんたちであったはずなのだが、待っても一向に現れない。おそらく遠くから我々を観察して、異常に汚らしい連中なので逃亡したのだろうと判断した。こういうときは怒りたくもなるのだが、自分たちの汚さは自覚していたので妙に納得してしまったのだ。相手が悪過ぎた。

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2007年5月22日 (火)

交通の要所

 私のマンションのベランダからは新幹線のホームが見える。また在来線の新大阪駅のホームも見える。ベランダから見て右側に新御堂筋と地下鉄御堂筋線が走っている。それから、上空を伊丹空港に向かう飛行機がかなり低空で飛んでいく。

 つまり交通機関の集中する場所であり、便利はすこぶるよい。京都へ行くにも、神戸へ行くにも、大阪市内へ向かうにも、東京や福岡に行くのにも便利なのである。特に出張には都合がよい。朝早い出発、夜遅い帰着時は移動時間が少なくて済むのである。疲れも少なくて済むのである。

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2007年5月17日 (木)

予備校

 私は浪人したので予備校に通った。9月に入学して入試までいたから、正味5ヶ月間であった。大学の近くにあったWゼミナールだったのだが、どの予備校も同じであろうが専任講師とともに小遣い稼ぎに大学の先生も来ていた。

 予備校は目的がはっきりしているから行くのにも躊躇がない。とりあえず入試に合格することだけを考えていればよいのだ。こんな単純な世界はない。

 企業に勤めていると、そうは簡単にはいかない。他人を動かさないと業績は上がらない。他人を動かすことは難しい。何かの「力」が必要だ。権威とか権力とかいうものだ。人徳は権威であり、権力は地位の力である。とにかく社会は単純ではない。そういうところで業績を残してこそ真の実力である。

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2007年5月16日 (水)

雨の降る音

 雨の降る音を聞きながらぬる目のお湯につかること。子供のころから好きだったことである。なぜかしら心が落ち着くのであった。しかしマンションに住んでいるとバスに外へつながる窓がない。入浴している時間に天気を感じることは出来ないのだ。

 私は部屋の中のベランダに一番近いポジションにいつもいるので、その位置で天気や季節を感じることができる。ちょうど今も雨が降っていて、しかも気温も適温なので非常に心地よい。これが梅雨の時期に入ると蒸し暑く不快感が襲う。それを過ぎて夏の時期の夕立はまたそれなりに気持ちのよいものである。

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2007年5月15日 (火)

住めば都

 「住めば都」という言葉の意味は、どんなところであっても長く住んでいると土地になじんできて住みやすくなるということだ。ところが間違った使い方をする人がいる。

 今は与党となっているK党の選挙候補者がテレビで演説をしていたのだが、この時、この○○区を文字通り住めば都にするために私は頑張りたいと訴えたのである。これを何人かのサークル仲間で見ていたのだが、一斉に笑いが漏れた。なぜ公党であるK党の演説原稿にこんな間違いがチェックされず残されたのだろうか。疑問であった。

 これ以外にも間違った使い方が多くされる言葉、ことわざがある。「情けは他人の為ならず」はその代表的な例であろう。

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2007年5月11日 (金)

横山ノック

 横山ノックが逝去した。芸人としては見るべきものがあったが、政治家として、あるいはまた一人の人間として見た場合には、決して敬意を払える人ではなかった。

 芸は、漫画トリオ時代のフィルムを観ると若いせいもあるのだろうが、表情やせりふがみずみずしく、素晴らしいものがある。しかし参議院議員になってからは私の知る限り大した業績もなく、大阪府知事時代には例の事件を起こしてしまった。議員時代にもたまにテレビ出演をしていたが、芸人仲間からも馬鹿にされていたような気がする。死んだ人の悪口は言わないという文化があって批判的なコメントは聞かれなかったが、あんなことを起こしてしまった人間は淋しく消えていくしかないのだと思う。

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2007年5月 4日 (金)

過剰な集中

 ゴールデンウィークに行楽地に人が押し寄せる。道路は渋滞するし、駐車場は空き待ちで列ができる。遊園地などでは自分の番がまわってくるまで長い間立って待たなければならない。休暇が同時にやってくるのだから当たり前であるように思うが、あまりに極端である。普段は閑古鳥が鳴いているようなところでも混んでいる。キャパが小さいから溢れ出るのである。

 観光地、行楽地に集中するのにも程度がある。皆混雑は予想しているのである。それでも行くのは日本人が我慢強いからであろう。休暇であるのに疲れて帰ってくる。それでもいくらかはストレスの解消になっているのであろうか?

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2007年4月29日 (日)

休暇

 休みはうれしいものである。特に長期の休暇は。前からあれをしよう、これをしようと考えるが、結果は思っていたことが消化できず、あっという間に時間は過ぎ去るのである。

 学生時代は一ヶ月以上の休みがあった。もっとも講義があってもほとんど出なかったので年中休みのようなものであった。今思うとどれだけの時間を無駄にしたか分からない。だが終わった過去のことである。残りの人生は普通に考えて30年程度である。光陰矢の如し。時間ほど貴重なものはない。その限られた時間のなかで、まだまだ知りたいことは多い。

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2007年4月22日 (日)

若葉の季節

 「若葉が街に急に萌え出した」で始まる天地真理の歌があった。ちょうど今がそういう時季なのだろうか。桜の花が散って、若葉が一気に噴き出している。

 私が住んでるマンションの前の私有地には森というにはやや狭いが、林というと一本一本の樹木が立派過ぎる一角がある。落葉樹は少なく、冬場は葉が濃い緑色をしているが、ここにきて黄緑色の葉に変わっている。窓を開いてそこを眺めていると気が落ち着く。清涼感もある。目の前に高いビルがあればそういった気分も味わえないし、夏場は暑苦しいことだろう。都会の一角にこういう場所があることは幸運なことである。伐採され、ビルが建たない様に祈るばかりである。

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2007年4月21日 (土)

整理整頓

 整理整頓は生活の基本であると同時に仕事の基本でもある。仕事の棚卸しを行い、やるべき仕事とやめるべき仕事を分ける。やるべき仕事は出来るだけ効率的なやり方を考える。またそうして出来た余裕時間に今まで出来なかった仕事をはめ込んでいく。理屈からいえばそういうことになる。

 生活も同じである。物は必要な最低限のものが揃っていればよい。長く使えて、飽きが来ない良質のものを、高くても購入するのがよいと思う。これが西欧の合理的な生活のあり方だが、日本の場合事情が違う。余計なものがありすぎる。安いことはいいことだとばかりにディスカウントショップが大流行で、要らないものまで買って(買わされて)帰るのである。それが日本の経済を支えているのかもしれないが、もう少し合理的で落ち着いた世の中を望みたい。

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2007年4月11日 (水)

葬式のインチキ

 最近の葬式と言えば、葬儀社の会館で行われることが多い。何から何までやってくれて、葬儀を出す側も参列する側も便利なのだろう。

 葬儀社の手順は大抵決まっていて、進行役の話し方もどこで聞いても同じである。非常に金儲けの匂いが漂っていて、インチキくさい。最近に始まったことではないが、葬式の祭壇などに格差をつけて(松竹梅とは言わないだろうが)選ばせたりする。概して中ぐらいを選ぶことになる。お寺もお寺である。戒名に差をつける。居士と信士では値段が違う。居士が20万円で信士が10万円だったりする。大体宗教は信者に差をつけてはいけない。神や仏の前では皆平等なのが宗教ではないか。なおのこと、死者に差をつけたりしてはいけない。大体本当の信仰を持っている坊主がどれだけいるだろうか。葬儀の時に説教をのたまう坊主がいるが、あれも顧客サービスであろうか。

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2007年4月 9日 (月)

春の海

 「春の海ひねもすのたりのたりかな」という句がある。私は熊野灘に面したある町の出身で、家も海沿いだったので海岸には頻繁に足を運んでいた。春の暖かな空気に包まれた海岸はゆっくりとした時間の流れで、打ち寄せる波も柔らかに砕けていた。心の緊張も解けて、まるでその空間に自分が溶け込むような感覚であった。爾来、あのような感覚を覚えたことがない。滅多にその時期に郷里を訪れることがないから当然であろうが、気象条件が同一だとしても同じ感覚はもてないだろう。自然をあるがままに受け入れる原始的感性はなく、もはや文明人になりきってしまった。

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2007年4月 2日 (月)

ストレス解消法

 ストレスは感じやすい性格であるが、少しずつ抜けているのであろう、パンクすることはない。

 ストレス解消法は何か。基本は毎日行っているホームトレーニング。いわゆる筋トレである。体を動かし、少しばかりの汗をかくこと。また、その間は無心になれることが効果を生むのであろう。

 もう一つは、たまに行う自分の部屋(というよりは、自分の「空間」)の整理整頓である。本棚(というほど立派なものではなく、カラーボックスというもの)の位置をかえ、本を整頓する。これだけで気分がすっきりする。会社の机周りの整理整頓も同様に気分を一新させる。それだけ普段は散らかしているということの裏返しでもあるが・・・。

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2007年3月28日 (水)

家族の有難み

 勤めているといやなこともある。会社を辞めたくなるときもある。そういう時にそういう思いを踏み留まらせてくれるのは家族の存在である。特に幼い子供の寝顔は特効薬である。何度救われているか知れない。

 家族はお互いに励ましあう存在である。子供が学業やスポーツで頑張っていると、俺もやらねばという気持ちを吹き込んでくれる。そう思うと子供は宝だという意味がよく分かってくるのだ。

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