2009年10月12日 (月)

働くということ

 少し前だが、ブログに、学生時代には自分たちは何も生産せず消費だけを行っている階層であり、働く人たちに引け目を感じていたということを書いた。こういう感覚は当時でもかなり特殊になってきていたのかもしれない。学生運動が活発な時は、学生と労働者が運動を通じて交わる機会があり、そんな場で、働きもしないで偉そうに言うなと罵声を浴びせられることがあったと聞く。そういう経験が先輩から伝えられたので、私にも同じような感覚が身に着いたのだろう。朝まで飲んで始発で帰ることもたまにあったが、アパートがある最寄りの駅で下車し、帰り途をとぼとぼと歩いていると、出勤するサラリーマンとすれ違う。そういう時には、目を伏せて歩いたものだ。
 学生は親の脛かじり。学生は社会にもいろいろ迷惑をかけている。学生に多種多様な割引制度や補助の制度があり、進学しないで仕事をしている人には何もないのだから、ある意味、理不尽な仕組みである。それを正当づけるのは、学生は将来の社会を支えるために一所懸命に勉強するということでしかない。優遇される根拠はそこにしかない。
 学生には、親に対する負い目、社会に対する負い目が前提としてある。すなわち、負債があるのである。働き始める時には、負債を抱えている。だから、まじめに働いて借金を返していくのである。だから、最初は安い賃金で辛抱して働くのである。こういう理屈が今の若い人に通じるだろうか。

 半人前という言葉がある。就職したときには皆半人前である。いつ一人前になるかは人それぞれだが、私の基準で言えば、最低でも10年はかかる。この様な感覚が今の若者にはないのではないか。聞くところによれば、よく出来るからということで評価して責任にある仕事をやらせようとすると、なぜ自分だけがそんなことをしなければならないのだと言って受けない若者がいるらしい。それもかなりの割合だと聞く。それなら、先に給料を上げろと言う論理であろう。しかし、支度金制度じゃあるまいし、先に給料を上げる企業はない。第一、任せたからと言って出来る保証もないのである。リスクは上司がとらねばならない。また、若い社員はどれだけアウトプットを出せるかわからず、会社からすれば持ち出しになっている感覚さえある。学生時代に時給800円ぐらいだった人間が、就職したとたんに少なくとも2倍ぐらいもらう勘定になる。最初は勉強させてもらうぐらいの気持ちが必要なのだが、あまり期待できない。
 何も、若者の給料が高すぎると言っているのではない。働くことは、社会のためであり、負債を返すことであり、そのことを通じて自分が成長し、一人前になっていくのだということを知ってほしいだけである。

| コメント (0)

学ぶということ

 学ぶと言っても、その中身はいろいろだ。若者にとって学ぶとは、学校で受ける授業である。そして、その目的は短期的には定期考査でよい点をとることであり、最終的には上級の学校への入試に合格することである。実際に学校で学ぶことのなかには、その後の人生に役に立つこともあるのだが、そのことは生徒にあまり認識されることはない。進学校の生徒には入試に関係する知識が重要視されるだろうし、進学校ではない学校の生徒にしてみれば、まじめに聞いている生徒でさえ、これが何の役に立つのかという問いに対して答えを用意することができるだろうか。

 話は逸れるが、私は仏教系の私学を卒業しているが、宗教の授業と言うのも悪くはない。私がそういう話を好むからかもしれないが、物事を深く考えるきっかけを作るという意味で価値がある。宗教の道に入ってしまうのではないかと案じる方もいるだろうが、ご心配なく。宗教の世界に入って行った人は一人も知らない。そういうものとは関係なく、牧師になった人を一人知っているだけである。これは、私学だからできることで公教育でやったら憲法違反である。意義を感じる人は私学へ行ってください。感性には個人差があるのでご注意を。

 さて元に戻すと、現実的には若者の学びは受験に結びついている。私はそんなものとは関係なく勉強するのだと居直っても、落伍するだけである。そういう人をすくい上げるシステムが日本にはないからだ。まずは、受験における競争に入っていかざるをえない。確かに、自分の経験から言っても、受験勉強がその後のビジネスパーソンとしての生き方に役に立っているかと問われたら、否と答えるしかない。実際に財産として残ったのは、先生が勧めてくれた何冊かの新書本であり、頑張って志望校に合格したことへの自信と誇りである。
 しかし、それは言うほど悪いことでもないように思う。目標に向かって、自分自身の時間やその他の資源をいかにマネージメントしてよい結果を出すかということを学ぶだろう。大抵が、学校や予備校がおぜん立てをしてくれるにしても、当人が背負わなければならない部分も何割かはあるのである。その経験は仕事でも役に立つに違いない。

 大学での勉強はどうだろうか。講義に出て単位を取るだけが目的なら、目標が大学から大企業に変わったでけで受験勉強と変わらないだろう。経験から言えば、役に立つのは、まず、ある程度分野を絞って本を読み、深く考えることである。だが、考えても答えは出ない。その答えの出ないところに意味がある。仕事というものはそんなに簡単に答えが出ないからである。次に、文章を書くことである。勉強会やゼミなどでチューターを引き受け、レジュメをまとめる作業を行うと、非常に力が着く。これは、社会人になってから友人と話をすると共通の認識になっている。最後に、議論する場を持つことである。私の場合は主にサークルだったが、社会科学をやっているといろいろな意見の対立を生むが、自分の意見に対する反論に立ち向かうことがよい訓練になる。対立してもサークルのことなので一時である。気楽な中にも成果は十分ある。

 ということで大学までの学びについて書いたが、それ以降も学びは続く。長くなるので今日はこれで終わりにしたい。機会があれば、社会人にとって学びとは何かを考えてみたい。

| コメント (0)

2009年10月10日 (土)

灘高校合格者の半生 その八

 市原 「ようやく大学生ですね。」
 佐山 「2年遅れましたので。ここからはお話してもあまり面白いことはないようにも思えます。ほとんど講義には出ずに卒業しましたので、学生らしい生活ではなかったかと。」
 市原 「構いません。講義の中身を聞いても面白くはないので、返っていいですよ。講義に出ないで、何をしていたのですか。」
 佐山 「おもにサークル活動ですね。社会科学系の建て前は学習サークルです。かつて学生運動華やかなりし時代に、講義が流れて勉強できない学生たちが自主的に立ち上げたサークルです。一応、そういうことに理解のあるS教授が顧問に着いてくれていました。OB会が定期的に開かれて、結構有名な大手企業に勤めている先輩が集まりました。」
 市原 「どういった勉強をしていたのですか。」
 佐山 「普段は分科会に分かれて学習会を開いていました。政治学、国際政治学、政治思想史などです。私は政治学が主で、とはいえ古い流れがあって、マルクスやレーニンまで読みましたよ。マルクスはアカデミズムでも取り上げられるのですが、レーニンはまれでしょう。国家論や前衛党の理論などを勉強しました。他にはマックス・ウェーバーも読みました。」
 市原 「ずいぶん難しい内容ですね。結構レベルは高かったのでは。」
 佐山 「大学生としてはレベルは高かったのかもしれません。自覚はしていませんでしたが、後にゼミで普通の学生を話をしてみるとこいつら勉強していないなと思いましたから。ゼミからは、現在大学の教授、准教授になっている人がたくさんいますから、そういう意味でも人材があつまっていたのでしょう。私は違いますが。」
 市原 「学生ですから、勉強だけしていたのではないでしょう。」
 佐山 「飲み会は多かったですね。学習会のあとは必ず飲み会でした。飲むために勉強するみたいな雰囲気がありました。上級生が下級生に無理やり飲ませるのは伝統を受け継いでいました。ずいぶん飲まされました。もともと酒には弱かったのですが、この経験で強くなりました。今はまた弱くなりましたが。学生も変わって、飲み会は静かになっているようですね。それから、合宿もやりました。これは全体でテーマを決めて、学習会をやります。そして合宿先で宴会です。帰らなくていいですから、当然酒量が多くなる。乱れましたね。さぞかし、宿の方は迷惑だったでしょう。」
 市原 「他に思い出などは。」
 佐山 「実は、留年しているのですよ。講義に出なかったから、語学で単位が取れなくて。気が着いたら、周りで私だけなんですよ。みんなちゃっかり卒業していった。5年生の時は語学をいっぱいとりました。顧問のS先生の講義もとって、とにかく出席だけはしなさい。そうすれば単位は上げるからと言われました。こういう時にはありがたいですね。それからドイツ語の2人の教授には、電話で就職が決まったから通してくれと懇願して単位をもらいました。あの先生たちも迷惑だったでしょうね。そう言われるとだめだとも言えないし。勝手な言い方ですが、いい先生ばかりでした。」
 市原 「そうして今の会社に入られるのですね。」
 佐山 「就職したときは25歳でした。その後はごく普通のサラリーマンですよ。灘高との関係では、途中で転校したのに、今だに同窓会へのお誘いがあります。できるだけ出るようにしています。皆の職業を見ているとやはり医師が多いですね。ほとんどが大学病院などの大手病院の勤務医ですね。私の学年の連中は優秀で、確か東大の理科Ⅲ類に20数名合格しました。そんな学校は他にはありません。母校ではありませんが、今でも気になる学校ではあります。」

 市原 「以上、8回にわたって佐山さんに語っていただきました。紆余曲折ありましたが、現在では某企業で頑張っているようです。進学校に進んだからといって、皆が順調にいくわけではありません。しかし、それなりに能力のある人たちでしょうから、希望を失わず努力すれば再起は可能でしょう。佐山さんは、いろいろな経験ができて返って恵まれていると語っています。」

| コメント (0)

灘高校合格者の半生 その七

 市原 「どちらの大学を受験しましたか。」
 佐山 「私立の文系で、法律か経済かという感じでしたね。しかし、3年になってもやろうという気が起こりませんでした。受験への情熱が湧かないんですね。過去の経験がトラウマになっていたんです。それでもいくらかはやって入試に臨みました。しかし、絶対的に勉強の量が不足していたので、早稲田の政経は不合格。明治大学と青山学院大学は通りましたが、行きませんでした。」
 市原 「そうすると浪人生活に入ったのですね。」
 佐山 「はい。東京で勉強することにしました。ところが、また全然やる気にならず、8月までは遊んでしまったのです。夏は郷里に帰り、高校時代の友達と海へ行ったりして遊んでいました。やっとやる気になったのは、9月になってからです。高田馬場の早稲田ゼミナールという予備校に入って、まじめに授業を受けました。とにかく勉強するのは予備校のテキストだけです。結果的にはこれが功を奏しました。あれもこれもと手を出すのがまずいのです。予備校と心中するつもりがよろしい。文学史の栗山先生と英語の志賀先生が記憶に残っています。」
 市原 「順調に力がつきましたか。」
 佐山 「そうですね。予備校のテキストに絞ってやったことで、効率的に実力が向上しました。模擬試験の順位もどんどん上がって行きましたから、確信は持てましたね。だいたい上位10番ぐらいのところまで上がりました。上位の者は、名前が載るのですが、そこに灘高へ行かなかったら受けていたであろう県立高校出身の生徒が載っており、私も載っていましたから、あの二流高校の卒業生がいるのかと思ってるに違いない。負けないように頑張ろうと思いました。」
 市原 「いよいよ本番ですが、自信はありましたか。」
 佐山 「模試で合格確実圏に入っていたので自信はありました。初っ端は上智大学の法学部でした。問題の傾向は早稲田とは違います。比較的点数のとれる問題。こういう傾向は得意ではありません。記述式で、やや難問が多いのが早稲田の政経の入試です。早稲田の前に上智の発表がありましたが、不合格になってしまいました。落ち込むところですが、そこは過去の経験が力になっているのか、すぐに気持ちを入れ替えて、他校の受験の臨みました。明治大学の法学部と中央の法学部を連覇して、本命の早稲田に向かうことになりました。ちなみに日程の関係で、中央には入学金を支払いました。結局無駄になりましたが、仕方ありません。早稲田は政経と法学部を続けて受験。政経では、古典の試験で予備校の模試と同じ出典があり、問題は違ったもののクリア。これは早稲田ゼミナールに通った特典のようなものですね。他もまずまずで、発表に臨みました。合格。法学部は残念ながら不合格でしたが、政経が第一志望だったので問題なしです。」
 市原 「結果的には思い通りになったからよかったですね。」
 佐山 「とりあえず、という感じですね。確かに肩の荷は下りました。」

| コメント (0)

灘高校合格者の半生 その六

 市原 「それから、郷里の県立高校に転校されるのですね。」
 佐山 「そうです。一応、形だけ編入試験を受けました。学校には小学校の時の仲間の一部が通っていました。学年は一つ上になります。列車でとなりの町まで通学しますが、初日は緊張しました。幸いにも、その高校は進学校ではなかったので、灘高の値打ちの分かる生徒が少なかったので、逆に特別扱いされることなく、自然に溶け込めました。少しは悪い奴もいましたが、荒れる様子もなく、おおよそ平穏で、皆勉強ができないこと以外は非常にいい学校でした。」
 市原 「灘高は男子校ですが、公立だから共学ですね。」
 佐山 「そうですね。それもよかったです。自然な形で。中学は女子が少なかったし、高校は男子校で、女性との会話は本当に少なかったです。確か、担任の先生の紹介で文芸部に入部しました。そこの中心メンバーは、同じ年、ということは学年が一つ上ですが、男子も多くいて、彼らとすぐに親密になりました。そんななかで、精神的な病の方は、過去になにがあったのかと思うほど、すっかり消えてしまいました。家では家族と一緒ですから緊張感がないし、学校でもリラックスできる。勉強しなくても一番になれる。要するにストレスになる要素が皆無になってしまったのです。やはり、壁にぶつかったら頑張るよりも環境を変えることが大事なのだとつくづく思いましたね。」
 市原 「授業はどうだったのですか。灘高とは全然違う。」
 佐山 「まさに全然ですね。基本的には教科書しかやりません。数学も教科書をゆっくりやるものですから、苦手の私でも十分に分かります。基礎が身に着けば、難しい問題も解く取っ掛かりができるのでだんだん分かってくるのです。他の教科も同じですが、文系の教科はさすがに物足りませんでした。でも、不満はなかったですね。」
 市原 「とはいえ、時が過ぎれば、そろそろ次は大学進学を考えますね。」
 佐山 「そうです。でも、のんびりしていましたよ。兄が早稲田の政経学部を卒業したので、自分も早稲田に行きたいとぼんやりとですが、思っていました。理系への苦手意識があったから、最初から国立を受ける気はありませんでした。」

| コメント (0)

灘高校合格者の半生 その五

 さてこのようにして佐山さんは灘高校に通うことになりました。ここからが苦難の始まりです。何が起こったのでしょうか。

続きを読む "灘高校合格者の半生 その五"

| コメント (0)

灘高校合格者の半生 その四

 いよいよ入試の回です。合格は周囲にとっては青天の霹靂だったようですが、佐山さんにとってはどうだったのでしょうか。第4回目のインタビューです。

続きを読む "灘高校合格者の半生 その四"

| コメント (0)

灘高校合格者の半生 その三

 第3回ですが、今回は高校受験の時期の暮らしぶり、勉強ぶりについてインタビューします。

続きを読む "灘高校合格者の半生 その三"

| コメント (0)

灘高校合格者の半生 その二

 佐山さんに小学生の時代のお話を伺いました。今回は、中学受験から高校受験が始まるまでの時期についてのインタビューです。

続きを読む "灘高校合格者の半生 その二"

| コメント (0)

灘高校合格者の半生 その一

 これから数回に分けて、佐山さん(仮名)の学生時代の経験についてインタビューしたいと思います。佐山さんは灘高校に入学しましたが、途中で転校し、大学は早稲田に進まれています。少し変わった経歴をお持ちなので面白いと思います。特に受験生をお子さんにお持ちの親御さんには参考になるかもしれません。

続きを読む "灘高校合格者の半生 その一"

| コメント (0)

2009年10月 4日 (日)

最近のお母さんは・・・ 理不尽な問い

 知人のブログで、神戸花鳥園はすごく楽しめる所だと言うので、シルバーウィークに家内と三男とで出かけて行った。花鳥園とあるが、フクロウや熱帯の鳥が間近に見られて、鳥の方がメインであると感じた。
 それはよいとして、入場するときに入れ違いに出て行こうとする家族連れがいた。夫婦とまだ幼い、三~四歳ぐらいの女の子だったが、母親が「何が一番面白かった?」と娘に聞いている。娘は返事しない。母親はしつこく問い続ける。詰問調である。娘は泣きだす。母親はそれでも問い続ける。父親は黙って見ている。
 こちらは気にはなったが、すれ違って入場してしまったので、その後どうなったか分からない。そのときには、こちらもそんなやり取りを聞かされて少々不愉快に思ったが、考えてみれば随分理不尽な問いである。年端も行かぬ娘にとったら、お父さんお母さんと一緒に来れただけで十分に楽しかったのではないか。家族なんてそんなものだろう。また、一度にいろんなものを見たら、どれが一番いいなんて選択できないのではないだろうか。にも関わらず、なぜ執拗に答えを要求したのだろうか。
 朝から用意をして、お金もかけて出かけてきた。体も疲れる。せっかく出てきたのだから、それに対する見返りがなくてはならない。はっきりとここが面白かった、楽しかったという答えが必要だったのだ。それなしに自分は報われないと考えたのではないだろうか。本来、親の愛情とは見返りを求めないものである。子供が楽しそうにしていれば十分だし、親だって楽しいはずだ。きっと、あのお母さんは楽しくなかったのだ。そして、お父さんも楽しくなかったのだ。だから、せめて娘には楽しいと言わせたかったのだ。それもなかったら、何の喜びも生み出せない、あっても意味のない家族に成り下がってしまうのである。実際、そんな家族が増えているのではないだろうか。何の生産も担わない家族が。

| コメント (0)

2009年10月 3日 (土)

デブ・ブス・バカ

 最近のテレビ番組は、クイズとお笑い番組に埋め尽くされている感じがする。不況で広告収入が減り、製作費の安くつく番組に流れ、それが質の低下につながり、テレビ離れ、なかでも民放離れにつながっているという主張を読んだことがある。確かに、若手の芸人やタレントを使えばギャラは安く済むし、その他の費用もドラマなどと比べるとうんと少なく済むだろうことは業界の知識がない者にも容易に想像できる。そして、視聴率についても大外れはないだろうと思う。

 お笑いを見ていて思うのは、デブやブスで笑いを取ろうという芸人・タレントあるいは番組の企画が目立つことだ。たしかに、昔からそういう「笑い」はあった。しかし、まだ例外的、限定的であったように思う。また、その特徴を自らことさらに強調することなく、見る側に受け止め方を任せていたように思われる。
 デブ・ブスで売っているのは、森三中やハリセンボン、アジアンなどである。そう考えると、女性の方が多いのか。なぜ彼らがそういう特徴をネタにしているのか。一方、視聴者がなぜ面白がって見ているのか。いろいろな解釈が可能だと思うが、見ている側から考えると、程度の差こそあれ、自分より「劣った」ものとして見ているのではないか。自分に自信はないけれども彼らよりはましであるという安堵が生まれる。これが、美人でスタイルの良い人がお笑いをやっていたら、面白くないに違いない。姫ちゃんでも、ブスではないにしても美人とは言えず、キャバクラに勤めているからこそ身近に感じて受け入れられるのである。
 では、バカの方はどうかというと、いわゆるおバカキャラがもてはやされている。問題に対して頓珍漢な答えをして笑わせる。問題に対して窮してしまい、答えが出ないようではこのキャラは務まらない。タイミング良く、予想を外すような言葉が出なくては面白くないのだ。そういう意味では、全くのバカではない。スザンヌなどを見ているとそう感じる。とはいえ、見ている方は、自分でも分かるようなことを彼らは知らない、分からないということが面白いと感じるのだろう。
 いずれにしても、彼らがどうあろうとも、見ている方の態度が問われている。無意識に笑わされている自分に対し、今の「笑い」は何なのかという問いを発することがある。おそらく、そんなことを感じる人間はほとんどいないのだろうが、「笑い」にも社会的な要素があるから、無関心ではいられない。少なくとも、笑ってはいるけれど、多くは「笑わされている」という側面を知ってもらいたい。意図的に流される「観衆」の笑い声につられて知らず知らずに笑っていませんか。

 同じような、クイズ番組、お笑い番組を繰り返していると早晩飽きられるに違いない。そうなったらテレビ局は何を持ち出してくるのだろうか。今や、娯楽はテレビ以外にたくさんのものがある。面白くないものはあえて見る必要がない。放送時間を縮小するのか、もっと内容を薄くするのか。好循環は生まれそうにない。

| コメント (0)

2009年9月26日 (土)

学力の低下について

 もともと日本の大学生は勉強しないという定説があり、私も自らの経験から判断してそれは間違いないと思う。もう三十年も前の話だが、結果的に見ると大学院に進んだ連中は試験前に限らず普段から勉強しており、就職していった連中は試験の前だけ俄かに勉強していた。比較的水準の高いと言われる大学でもこんな有様だったから、他は推して知るべしである。今は逆に、学生がまじめに授業に出るようになったと聞く。それは本当かどうか定かではないが、そうだったとしても、大学に入るまでの勉強が足りないために学力低下が進行していることは間違いないようだ。昔は、入試を突破するために相当な時間数を費やす必要があったので、そのなかで身に着く能力もあったはずだ。大学では、議論がまともに成り立つ程度には皆の考える力や話す力はあったのだと思う。

 小中学生の学力については国際的な資料があるのでそれを見れば分かるが、以前と比べて他国との比較で順位を落としている。これには、教える中身の問題とかける時間の問題があると思われる。内容の問題については近年見直しが行われて、削除されていた分野が復活するなどして教科書も分厚くなったようだ。この効果が今後出てくるのかどうか予想できないが、しばらくの期間非常に薄い内容で現場の授業が行われてきたことは事実だ。公立の中学のカリキュラムを見て驚いたのは、数学の授業が週に3時間しかないことだった。数年前の話だが、私立では5~6時間あったから半分かよと思ったものだ。これでは差が生まれるのも当然で、そのギャップを埋めるためには公立の生徒も塾へ行かなければならなくなる。私立の授業料よりは安いだろうが、かなりの出費である。
 このように、教育の内容が貧弱になり、それがまた時間の不足にもつながっていったのである。一方、高校生の自宅での勉強時間は著しく減少している。ある本によれば、校外学習時間がゼロという高校生が全体の60%もいるらしい。私も振り返れば、ゼロの日があったけれど、宿題程度はやっていたから、少なかったと思う。それにしても60%ということは、宿題を出さないか、やるやらないは任意になっているかのどちらかだ。このように見てくると、いずれ彼らを受け入れることになる企業にとっても、広く日本という国家にとっても由々しき事態だと言わざるを得ない。

 さて、学力の低下は、学習時間の減少が主たる原因と考えるので、なぜ勉強しなくなったのかを考えてみたい。この点については多くの論者がいくつかの角度から分析を行っている。新聞の記事で読んだり、関連する本を何冊か読んでいるので、そこにある論点を記憶に頼りつつ参考にし、また引用しながら自分の意見を語ってみたい。
 まず、児童や生徒が自ら学習を放棄したのではなく、時間を奪われたという問題設定をして始めたい。彼らから時間を奪ったものとして三つのものが考えられる。①携帯電話②テレビゲーム③インターネットである。携帯電話への病的なまでの依存がこどもたちに広がっている。会話やメールの返信に時間をとられることに加え、いつ受信するか分からない不安定さが集中した学習を阻害していると考えられる。テレビゲームは携帯化し、時と場所を構わずプレイすることができるようになった。ソフトも多数開発され、購買意欲をそそる宣伝活動もすさまじい。ゲームに奪われている時間も無視できない長さであり、以前なら学習にあてていた時間に浸食していることは間違いない。三つ目はインターネットである。これはゲームとは逆に中高と進むにつれ接続している時間が長くなっていると思われる。机に座るとまずグーグルやヤフーの画面が出てきて、ニュースを眺める。それからお気に入りの動画を見たり、音楽を聴いたりで時間をつぶす。テレビを見ている時間よりはるかに長い。なかなか教科書や参考書に手が伸びないのである。
 以上三つの阻害材料をあげてみた。実際、私の生活の中でも確認できる現象である。携帯電話は二男に当てはまるし、テレビゲームは三男のこと、インターネットは他ならぬ私自身である。以上、昔にはなかった三つのものが(強いてあげればゲームはあったが、初めは喫茶店でやっていたし、その後家庭にも入り込んだが、テレビに接続して行うものだったので家族から孤立することはなかった。)学習を奪う要因になっていることを述べた。それは今や親にも浸食しているので、これをやめさせろと言っても非常に困難な課題になるだろう。せめて、使う目的を明確にして、節度ある使い方を教えるしかない。

 他に勉強しなくなった要因はないか。先ほどよりも、もっと広く社会的な要因と言えるが、90年代以降の経済環境の変化の中で、学ぶ意欲を失ったという説である。バブル経済崩壊後、産業界は様々な負債を抱えることになり、構造改革と称してリストラを推進し、また新規の採用を絞り込んだ。その祭に生まれたのがロスジェネと呼ばれる世代である。今の子供たちとその親は、この現象を目の当たりにしているので、昔に比べると学習に対する意欲を失っているのである。逆に、そういう境遇に落ち込みたくない、落ち込ませたくないという家庭では、相当な費用を投じて生き残りに熱心だ。進学塾へ行き、中高一貫の私学に進み、難関大学へ入り込む。それで安泰というほど甘い社会ではなくなったが、それでも正社員になれる確率は格段に高いのは現実だろう。この連中は、相対的にはよく勉強する。しかし、絶対的な学力は知り合いの塾の先生に聞いても落ちているということだ。全体のレベルが下がっているから、偏差値は高くなるという理屈なのである。このようにして「意欲格差社会」とか「希望格差社会」とか言われる実態が生まれている。
 どうせ就職がないのなら、どうせフリーターになるのなら勉強しても仕方ないと思うのは、やむを得ないことのようにも思える。雇用の問題を抜本的に解決しようと思えば、まずは政治の力に頼るしかない。それに対応して産業界が重い腰を上げれば雇用はいくらか生み出されるはずである。とはいえ、それを待つまでもなく、いわゆる落ちこぼれという子供たちにも頑張ってもらいたい。しかし、そこから頑張るのは大変なことだ。私も経験があるが、分からない授業を長時間聞き続けるのはまさに苦役である。昔は、それでも席を離れて歩き回る生徒は高校にもいなかったから、じっと席に座り居眠りでもしているのが最良の対処法だった。周りに迷惑をかけなければ、それほど怒られることもなかった。確かに、授業は分かれば面白いのである。面白いまでいかなくても、苦痛ではない。分かればまた次の次元に進むことができる。好循環に乗ることができるのである。先に言ったようにここに乗り損ねたら復活は難しい。何か特別なきっかけが必要だ。いい先生にめぐり会って(学校でも、塾でもよい)その先生の教科が好きになり、それが分かり始めたら他の教科にも興味が湧いて、総合力が身に付いてくる。そんなことも少ないだろうがあるに違いない。

 時間を奪う要因、意欲を削ぐ社会状況について見てきた。最後に、内田樹氏の見解を私の表現が混じるかもしれないが、紹介して終わることにしたい。
 昔は家庭に「労働」があった。農家では、作業の手伝いがあったし、個人商店ではお店の手伝いがあった。一般の家庭でも、家事を手伝ったり、買い物に行かされたりしたのである。そして、それは賃労働ではなく、特別な代償はなかった。ご苦労さんというねぎらいの言葉と家族がそれによって救われるという実利があった。彼の行為は何ものかと「交換」されるものではなく、「贈与」されるものである。
 ところが、今はそういう労働はほとんどなくなってしまった。労働を通じて社会との関わりを学び自己を確立するというプロセスを消失した。これとは逆に、子供は小さい時からお金を持ち、おもちゃやゲームのソフトなどを買うようになった。先に、消費の主体として社会と関わるようになったのである。お金を持っていれば、子供でも大人と対等に相対することができる。少しわがまま言っても許容される。本来、子供は未成熟で中途半端な存在であり、一人前とは認められない存在だった。それが大きく変わってしまったというのである。
 子供は教室でも消費主体として振る舞う。学校に入ったばかりの小学生が、勉強して何になるのかと教師に問う。自分は席に座らされてじっとしていなければならない。この自分に何をしてくれるのかと要求する。苦痛と等価のものを何のためらいもなく要求するらしいのである。内田氏は言う。それに対し、勉強すれば将来こういういいことがあるよと功利主義的に誘導するのはよくない。何のために勉強するかは、答えなくてもいい問いであると。それは、どうして人を殺してはいけないのですかという問いと同レベルである。子供には分からない。分からないから、6年、3年、3年、4年と長い時間をかけて学ばなければならないのである。何か具体的な物と交換するために勉強するのではない。頑張ったらいい点が取れたとか、先生に褒められたとか、そういうささやかな報酬のために勉強するのである。あるいは、ただ決まったように学校に通い、淡々と時間をすごしているだけでよいのである。ところが、今の子供は、自分が少しでも価値を見いだせるもの、苦痛に耐えてでも聞くべきものと認めなければ耳を傾けないものらしい。
 話はそれるが、大学生の時代は、自分たちは消費だけして、生産しない階層として認識していた。だから、労働者にはいくらか引け目を感じていた。進学率がまだ低い時代には、「学生さん」と呼ばれ、これから社会を担う人として評価され、優遇された。その代わりに先ほど言ったように学生の側にも謙虚さがあった。時代は変わり、学生は掃いて捨てるほどに増え、その延長戦には多くのフリーターやニートがいて、尊敬されるどころか、場合によっては疎んじられるようになった。学生の方も働いていないことへの後ろめたさはないようだ。どこかで大事なものが忘れ去られたのであろう。学んだり、働いたりすることが、何の疑いもなく尊重される時代がもう一度必要になる。それがなくて、日本の再生はありえないのだ。

| コメント (0)

2009年9月20日 (日)

「閉塞感」という言葉の保守性

 社会評論のなかで、「閉塞感」とか時代の「閉塞状況」とかいう言葉をよく目にするが、そういう認識は百害あって一利ぐらいしかないと思う。

 先が見えないことの憂鬱さを言いたいのだろうか。評論家や思想家と言われる人たちは、現状には悲観的であり、なかでも見かけ進歩的な人ほどその傾向が強いように思う。「見かけ」と言ったのは、現状を嘆くばかりで、この方向に行こうというビジョンを語らないからである。語れないのではなく、語らないのだと思う。彼らとて馬鹿ではないから、日本の将来についてあるべき姿を考えているであろうし見解も持っているはずだ。しかし、それを強く主張してしまうと世間が反応して賛否両論が自分に向かってくる。政治家ならば覚悟ができているだろうが、そうではないから曖昧な部分を残しておいて多くの人に聞いてもらいたい読んでもらいたい、あるいはテレビ局に呼んでもらいたい。そんな思惑が働くのではないだろうか。はっきり言う人は、大概マイナーな論者となっている。

 現状が楽観できないものであることに異論はない。しかし、具体的に問題点を掘り起こして、それに対する対策を進める必要がある。それは、政治のレベルでは政策として実行される。経済のレベルでは、企業が経営として実践する。大衆のレベルでは、生活の仕方の変更として現れる。変わろうとしない者には、働きかけが必要だ。このように社会を変えること、発展させることは日々の地道な実践の積み重ねでしかないのだ。なにか分からないが憂鬱だとか、ストレスがあるとかいって曖昧にし、この現状に対してくさびを打ち込むにはテロしかないというような物騒な発想を生まないためにも、閉塞感というような表現を使う論者は評価しないほうがよい。(言うのは自由だから、妨げないが。)

 前向きで、積極的な言葉の使い方をしたいものだ。言葉は考え方を表す。消極的な言葉は後ろ向きの考え方と行動を誘発する。

| コメント (0)

2009年9月13日 (日)

自殺考

 自殺(「自死」という言い方もある)については何度かブログで触れている。1998年以降年間の自殺者は3万人を超えており、減る気配はない。交通事故による死亡者が6千人程度であることを考えると、5倍以上の人数であり、その多さが分かる。その原因と対策については新聞紙上でもときどき見解が紹介されている。今日は日経の「今を読み解く」で東京工業大学の上田紀行准教授が論壇での代表的な主張を紹介しながら、自説も展開している。

 自殺の増加の社会的背景として経済情勢の悪化があり、原因のざっと半数が経済的理由であるらしい。他に、病気や人間関係の問題が原因としてあげられるが、これらは以前からベースとしてある原因であり、そこに経済的な理由によるものが上乗せになっていると解釈すればいいだろう。
 さて、なぜ自ら命を絶つのであろうか。経済的な理由があるからといって、すべての人が自殺するのではない。多重債務者の問題は、宮部みゆきさんの「火車」を紹介したブログでも紹介したが、弁護士など良き相談相手がいれば最悪の事態は回避することができる。身近なところに相談を受ける人や組織のあることを情報発信していれば、足はそちらに向かったかもしれない。一部には、本人の生活能力や判断力の問題に結び付けてしまうきらいもあるが、いくらかでもこの事態を解決したいと考えるのであれば、もっと広いところに目を向けるべきである。先ほどの上田准教授も、自殺問題は日本社会の根幹に関わる問題だという意見であった。私は、社会が弱者にどれだけ目を向け、すくい上げることができるか試されているのであり、いわば「救済力」が問われているのだと理解したい。

 ところで、背景にある経済問題に対して有効な対策を施し、失業者や債務者に対する応急的な対策も合わせて考えることが必要だ。当座の生活資金を給付したり、仕事を紹介したりすると同時に、先ほど述べたように自殺に向かう足を直接止める手段を講じるべきである。遠因ばかり論じていても、今死のうとしている人を救うことができないからである。

 自殺にもいろいろな中身がある。自殺サイトで知り合い、集団で自殺するようなケースもあった。若者の場合には、そういった「誘惑」めいたものに動かされることもあるのだろう。これには心理学的アプローチも必要になるだろう。また、東尋坊や樹海を死に場所に選ぶ行動の問題もある。何かしら、死に意味づけをしたいのかもしれないし、誰かに見つけてほしいという最後の防衛本能が働くのかもしれない。詳しくは分からないが、検討すべき要素ではあろう。
 電車への飛び込みが多いが、関西では私鉄よりもJRに集中しているようだ。これはなぜなのか。マスコミで報じられることが、JRを場所として選ぶ動機づけになっているのだろうか。これもはっきりとは分からない。分からないことが多いけれども、自殺防止には、その解明が欠かせない。自殺者の家族に話を聞くと、なぜもっと話を聞いてやれなかったのかと悔やむ声が聞かれる。まずは、聞くことが大事なのだと思う。家族も、社会も。

| コメント (0)

2009年9月12日 (土)

犯罪の原因をどう見るかⅡ

 先日、犯罪が起こる原因について考えてみた。それは、遺伝的な要素、育った家庭や地域の環境、今現在の職場などの身近な環境、そして広い意味での社会・経済環境の四つの条件から原因を見つけ出そうという主張だった。
 それはそれで一つの意見であり、短絡的に原因を決めつける傾向への警鐘であるが、もうひとつ目を向けるべき要素を忘れていた。それは、犯罪を誘発するに至った直接的な原因、言い換えると引き金となった条件のことである。

 例えば、身近な人間関係においてトラブルがあり気分がむしゃくしゃしている。気分を晴らそうとたくさん酒を飲む。酔っ払って繁華街を歩いている。チンピラとぶつかり口論になる。カッとして、たまたま近くに転がっていた鈍器で相手の頭を強打してしまう。こういう事態が想像できる。確か、映画「幸せの黄色いハンカチ」で高倉健が演じた男が犯した犯罪も同じような状況で発生したはずだ。こういうことは確率は小さいけれども、十分にありうる。しかし、大半はチンピラとぶつかることはないし、ぶつかっても口論で終わることが多いし、手を出すにしても何発か殴りあって終わるのである。ところが、運悪く、チンピラがナイフを持っていたりすると被害者になってしまうし、先ほど想定したようにたまたま近くに鈍器が転がっていたりして加害者になってしまうことがありうる。これはある意味、偶然であり、特殊な状況で発生していると言える。情状酌量の要素にはなるだろう。
 このように犯罪においては、直接引き金になる状況・条件がある。これも見逃せない観点である。犯罪捜査や裁判においては、ここが最も注目されるに違いない。本人が意図しなくても犯罪に巻き込まれることがままあるのだということを知るべきである。

 ところで、先ほどの例を最初から考えてみると、チンピラが歩いているような繁華街で正気を失うほど酒を浴びるという行為は、自ら犯罪の発生しやすい空間へと入り込むことである。安全で平和な生活を守りたければ、そのようなゾーンには足を踏み入れないことである。また危険な時間帯というのがあって、その間は外出しないことである。このルールに従えば、犯罪に遭遇するリスクを低く抑えることができる。もうひとつ加えると、付き合う人の選び方がある。ごく一般の市民との関係にとどめておけば安心である。危険な人間はひとところに集まっているものである。

| コメント (0)

2009年9月 6日 (日)

犯罪の原因をどう見るか

 検察の統計資料によれば、平成20年度の刑法犯罪の件数は全体では減少している。おもな減少要因は自動車による過失致死傷の大幅減であり、絶対数が大きいだけにその影響は大である。逆に、傷害や窃盗も減ってはいるものの、もっとも重罪に問われる殺人はやや増加している。
 犯罪が増えたり減ったりする原因はどこにあるのだろうか。犯罪とは、法に抵触し、法によって裁かれる行為であるから、法の定め方やその運用の仕方によって発生が左右される。これは基本的なこととして認識しておきたい。しかし、この点は当面の関心事ではないので、ここでは取り上げないことにする。問題は犯罪行為を誘発する原因である。
 犯罪の発生を説明するにあたって、いくつかの観点があることを知っておきたい。それは、個人の資質の問題から始まって社会的環境に至るまで、幅広く存在している。個人の資質の問題とは、親が乱暴者でその気質を子も受け継いでいると言った、遺伝の問題や特殊な家庭環境の問題を取り上げるものである。次は、当人が育った環境の問題、すなわち、家庭環境から学校を含む地域の環境あるいは人間関係に至る問題である。次の次元は、当人を取り巻く、狭い範囲での社会的環境である。たとえば、職場の状況、具体的には経営状態、待遇、人間関係などである。最後の次元は、広く社会的経済的環境におよぶ領域である。景気の状況、雇用の情勢、構造の変化などが考えられる。
 この四つの次元のどこに重きを置くかは、問題の扱い方にもよる。個々の事件を取り扱う場合と事件をまとまりとして広く一般化して取り扱う場合とでは、違った観点を持つことになろう。当然ながら、後者の方が社会的な見方を必要とする。また、個々の事件を扱う場合でも、その事件の性格によって見方が違ってくる。どちらもマスコミで大きく報じられたが、主婦が近所の子どもを殺害した事件と元派遣労働者が秋葉原で無差別殺人を犯した場合とではアプローチの仕方が違っていたように思われる。後者は、昨今の経済・雇用情勢を反映して社会的な観点での解釈が支配的であった。

 さて、犯罪の扱い方、原因の追求の仕方には様々な角度があることが分かった。では、犯罪はなぜ発生するのかという問いにはどう答えたらよいのだろうか。正直言って、一般化してこうだと言うのは難しい。客観性を気にせず、居直って言ってしまってよいものならば、例えば、いい大人だったらやっていいことか悪いことかぐらいは分かるだろうから、結局、こらえ性がないんだ。それは躾がなってないからだよ、と決めつけることができるだろう。一般の人は、おおよそそういう次元で判断しており、それを批判することもできない。
 問題の整理はできたが、原因について語ることができない。そこで、あえて一つの事件を取り上げて簡単に言及してみたい。それは先ほど触れた秋葉原の事件である。報道のされ方の中心は、彼が派遣労働者として職場を転々としており、そこでは他の労働者とのコミュニケーションが少なく、本人は冷遇されたと感じ、かなりの不満を抱える状況にあったという取材結果だ。これが彼に社会への不信を嵩じさせ、行き場のない怒りが無差別に通行人へと向かい、殺傷行為へとつながってしまったという解釈がなされた。場所が、秋葉原だったのは、そこがネット社会の象徴的地点であり、彼の生きる場がもはやインターネットの世界にしかなかったことの結果だったと考えられている。これらの解釈は、いくつか見なければならない要素の一つとしては妥当であると思う。もっと個人的な問題、彼の親はどういう人で、どういうふうに育てられたか。また子供のころにいじめを受けていなかったかどうか、などを見る必要もあるだろう。しかし、この事件の扱いに社会的視点が欠かせないことは間違いない。それは、彼の責任を軽くしようとする企てではない。ただただ、同じことを繰り返させないために、社会が考えるべきことはないのかを追求したいだけだ。

 犯罪者の追及は、司法に委ねざるをえない。法廷では動機の特定など一定原因の追及もされるが、それは罪の大きさを決める判断材料にされるだけだろう。再発の防止策まで司法が考えてくれるのではない。それは、アプローチの違いによって、教育研究者であったり、心理学者であったり、社会学者であったり、経済の研究者であったり、場合によっては政治家であったりするのである。犯罪者をいくら罵倒したところでその声は本人に届くことはないし、再発を防ぐ力にもならない。専門の研究者が先頭になって、かつわれわれも関心をもって事件の背景を考え、必要な措置をとることが求められるのであり、そのために事実を知ることが大事なのだ。犯罪は小さな芽のうちに摘んでおけば重大化を防ぐことができる。悪い事なら何事も、すそ野を小さくすることが大事なのだ。兆候を見逃さないこと。親も、教師も、職場の上司も、組織のリーダーも、政治家も、それぞれの立場で気をつけなければならない。陪審員制度が始まったが、一番大事なことは、人を裁くことではなく、裁かなければならない人を無くすることである。

 
 

| コメント (0)

2009年9月 5日 (土)

因果連関による説明の付け方

 今年も予測できない自然現象によって災害が何件か発生した。特に8月には、台風が影響した集中豪雨によって多数の死者が出て、ニュースでも大きく取り上げられている。
 その取り上げ方であるが、経過を追って、時間当たりの降水量や増水の状況、避難の仕方などを取材に基づいて報道している。それはいいとして、最後はキャスターが締めくくるわけであるが、このような「異常気象」を地球温暖化による現象として関係付けようとする向きがある。これについて、かなりこじ付けというか、無理を感じるのである。まず、「異常」気象というが、この異常とは人間にとっての異常であり、自然現象としては一定の頻度の範囲で発生していることである。台風が発生したり、台風の影響で前線が活発化して豪雨を生んだりするのは例年経験することであり、思い起こせば私が中学生のころに近所でも大雨による土砂崩れで死亡事故が発生している。そういう長い歴史のなかで繰り返している自然現象に対して、ダイレクトに温暖化との因果関係を見ようとするのは無理があるのではないか。
 確かに、温暖化の影響はもはや否定できないだろう。それは異常気象よりも、日々の気候の変化として、たとえば野菜などの植物の生育に影響している。こういったじりじりと迫りくる環境の変化にこそ危機が存在していると言えよう。「異常」なことをセンセーショナルに取り上げるよりも、日常に見られる変化を追いかけて、それを大衆に知らせるほうが、低炭素社会へと誘う力になるのではないだろうか。
 ところで、書いていて思ったが、豪雨の被害には社会的な原因も隠れている気がする。確かに気象の予報精度は上がり、それを知らせる媒体も進歩しているが、地域住民の高齢化は急速に進んで地域の荒廃が進んでいる。山林の手入れが行き届かず、保安の状況が悪化している。そういう背景があって豪雨に対する抵抗力が失われていると考えられないだろうか。
 こうしてみると、いろいろな角度からの解析が必要になることが分かる。単純に一本の因果関係を見るだけでは不十分である。これはあらゆる現象について言えることである。

| コメント (0)

2009年8月30日 (日)

SF映画を見て

 SFものはあまり好んで見る方ではない。現実離れした世界に興味が湧かないからだろうか。とはいえ、若いころはSF小説の方は冒険小説と並んで好んで読むジャンルであった。若いという要素もあるし、そもそも映画自体を観る機会が少なかったということもあり、文字に今の何倍もの想像力を掻き立てられたのである。
 タイトルは忘れたが、子供のころに読んだSF小説で記憶に残るものがある。どこかの天体へ探索に出かけた一隊が探索中にトラブルに巻き込まれ、故障した宇宙船一機と隊員一人を残したまま地球に帰還する。ところが、残された隊員が宇宙船を修復して先に地球に帰っていたという話である。書店でこの本が売られていないか何度か探したが分からない。ぜひ、もう一度読んでみたい小説である。

 ところで、今日の本題である。SF映画には、宇宙ステーションや天体にある基地などが舞台として描かれているが、皆立派な建造物で、コンピューター制御されていて人が少なく、全然生活感がない。建物を造るには、それなりに人手がかかるし、基地を維持するのにも労力は必要だ。しかし、労働者の姿は見えない。あるいは、見えたとしても場合によっては奴隷に働かせていたりする。随分未来の話なのに、古代の奴隷制社会を思い起こさせる。ついでに言っておくと、飽きずに戦争を繰り返している。そういう場面をメインにしないとストーリーにならないのかもしれないが、未来の物語と言っても要するに現実に縛られてしまっているのだ。小説の作者や映画の製作に携わる者は、その想像力が現実の枠の中から出ることができず、しかも現実の世界で見たくないものを削ぎ落としてしまっている。
 人類の未来は平和であってほしいが、いくら進歩しても日常の生活はきらびやかなものではなく、地味に淡々と進むのであろう。戦いも争いもないが、そこのある生活の喜びは平凡なものだろうと想像する。社会が成立する基礎には労働がなくてはならないし、個々の労働は社会の成立に不可欠のものとして評価されるし、当事者にもそのことへの誇りが持てる社会でなければならない。それでも、働くということは機械的に頭や体を動かさなくてはならない側面があるので、楽しいとか充実しているとかいう感覚は常に得られるものではないことを覚悟すべきである。とはいえ、人間はそんななかにあっても、生きるとはどういうことなのか追求することを止めないだろう。だから、芸術や信仰といったものは、易々と滅びるものではない。

 SF映画は、夢の世界を描くだけなのか。そういう作品ばかりではなかろう。あまりに現実的な見方をしてしまっては、折角お金を払って観ている映画が面白くなくなってしまうだろうが、すべてを受容するのではなく、なんかおかしいんじゃないかという感覚を持つことも大事だと思うのである。

| コメント (0)

2009年8月17日 (月)

小説のなかの人間

 夏目漱石の小説を読んでいると、働かないで家の財産で食っている人間が少なからず出てくる。封建制社会から資本制社会への移行期には、そういう身分の人がたくさんいたのだろう。今でも財産持ちはいるけれども、遊んで暮らしている人は見かけない。金持ちもそれなりに働き、リタイアしてからのんびり暮らそうとするのが今日のスタイルのようだ。それは、財産と言っても、放っておけばあっという間に目減りしてしまうので、人生の多くを残している段階ではまだまだ増やす努力が必要だからだろう。もっと端的に言ってしまえば、金利があまりに低く、金利では食っていけない社会になったということだ。

 ところで、働かないで食っている人達は、一般の勤労者と違って風変わりである。妙に信仰心が厚く律儀だったり、逆に女たらしだったり飲んだくれだったりで道徳心に欠けている。帝政末期のロシア文学を読んでいると、地主たちにも同じような傾向があり、そこでは日本の文学よりもはっきりした特徴を出している。それは旧体制の規律が緩んでいるから、そういう極端な個性が出てくるのだろうか。あるいは、時代の特徴をそういう個性で表現しているのだろうか。いずれにしても現代の小説には出てこない人物像には違いない。

 それに対して、今の時代の流行りの小説に登場する人たちは至って真面目である。正規であろうが非正規であろうが労働者は決められたように真面目に働き、迷ったり悩んだりしながらも、平凡に暮らしている。悪いことをするといっても、せいぜい浮気ぐらいである。しかし、人間関係は希薄で、その生活は危うい。決して活き活きと生きているわけではないのである。

 そこでは、「悪」は表に出てこない。日常の生活の場で、人に悪態をついて混乱させるような性悪な人間は描かれない。決して正味の善人で満たされているのではないが、悪の要素は、たとえば、ネット社会の匿名性の中に埋もれていたりする。それがいつ吹き出し、爆発するか。そこに目を向ける文学もある。あまり見たくない世界であるが、現実にそれはある。昔のようにはっきりした悪ではなく、強い個性ではなく、平板でありきたりに見える人間のなかに沈潜する暴力の芽として存在している。秋葉原での無差別殺人事件は、いろいろな解釈ができるけれども、現代社会に特有の悪の形式なのではないだろうか。それは人格に備わった悪というよりは、何かに動かされている感じがする。

 世につれ、人間は変わる。無論、変わらない要素もあるだろう。だから古典を読む意味があるのだが、それだけで今人間の精神に起こっている現象を説明できるものではない。作家たちが、現代に生きる人間のどこに問題点を見つけ、同時にどこに活路を見出そうとしているのか。興味深いところである。

| コメント (0)

2009年8月12日 (水)

差異と同質性

A:今の世の中を見ていると、何かにつけ差異を問題にしているように思えます。企業が生産したりサービスとして提供する商品は、とにかく差別化することが必須になっています。

B;市場で競争があるから必然的にそうなりますね。機能で差をつけたり、機能が同じなら価格で差をつけることになります。

A:人間も同じように市場に投げ込まれて、これは労働市場ですけれども、競争の結果、他者との差を意識せざるを得なくなっています。

B:現実は、そういう方向性が色濃く出ているわけですが、世の中にはそういった差異を作っていくメカニズムだけがあるのではありません。何か人間の手ではどうしようもないものに見えがちですが、そうではありません。もともと、農業をベースとする社会では共同体の中でその構成員には同類意識があって、少し変わった人間がいれば排除していったでしょう。いわば、同質性が排除の論理を生みだしていた。それが、市場社会へと移っていくと共同体は解体して、他者との同質性のよりどころが一旦失われて、徐々に意識されなくなる。

A:それは資本が求めるからです。労働力は自由であるのが原則です。資本の要請に従って労働力が流動性を持つ方が好都合だし、それによって生産力も増大したのですから。分業が徹底されると、同質性というのは意識されないでしょう。

B;ただし、労働運動や政治的な革新の動きはそれを問題視します。マルクスが、万国の労働者よ団結せよと訴えたのは、本質的に同じ条件下におかれたプロレタリアートがそこから抜け出すためには、同質性を認識して団結する他ないと考えました。大規模生産の場所においては、労働者が政治的に結びつく場が、ある意味用意されますし。ただ、使用する側はそれをよしとしないでしょうけれども。

A:労働者は、先進国ではそれなりの所得も得て経済的に進歩したためなのか、あるいは政治的に懐柔されたためなのか、とにかく組織率も落ちて大人しくなったのは確かですね。いい悪いの判断はできませんが。

B:私はそれは政治的な意味でバランスを危うくすると考えるんです。実際に現場で労働を担う人々の声が使用者や為政者や国民全体に届かなくなると、経済合理性だけが追求されて、生身の生きている「労働者」が毀損される恐れが出てくる。生きているわけだから、最低限生き続けられる条件が必要なんですよ。どれだけ必要かは、やはり当事者の声を聞くことが大事でしょう。大企業中小企業を問わず、所得の差を問わず、一定の範囲で同質性を見出して連帯しないと、声が届きません。政治も動きません。

A:私はそれほど悲観的には考えていないけれども、確かに労働者なんて言葉自体聞かなくなりました。少し前まで、寅さんの映画で聞けましたが。

B:そう言えば、そうですね。今は、どこどこの企業に勤める年収がいくらの誰々さんという認識でしょう。年収が異常なほどクローズアップされている。雑誌の特集にも目立ちますね。決していいことじゃない。

A;確かにね。人間が数値化してしまう。個性がそこに埋没しそうです。ところで、元に戻って、同質性のことですが、どこに同質性を認識して連帯する契機を見つけようとしますか。非正規労働者と正規労働者との間で利害対立が露わになっているかと。

B:それはね、単純に考えると労働者の間のパイの取り合いにしかなりません。私は、非正規と正規の双方が、とはいっても非正規もある程度組織化されていないと話し合いにはなりませんが、協議する場が必要だと思います。そこで使用者の側を入れない共通認識を作り上げる。内の関係では、ワークシェアリングの制度やそれを通じての所得の移動などを方針として決め、双方連帯して使用者側に提起すればいいんです。外に対しては、労働分配率の向上を要求すべきです。大事なのは、非正規も正規も同じ労働者であるという観点を見失わないことです。

A:論理を使い分けるということですね。なにもかもごっちゃにしてはいけないですね。他に大事なことはありますか。

B:そうですね。矛盾するようですが、一人ひとりの人間性における差異を認める懐の広さが欲しいですね。一つの固定的な尺度で持って人間を測り、そこにおける差を絶対的なものにすることとは正反対の内容がある。複数の尺度が共存する社会とでもいいましょうか。多元的な社会という言葉が論壇で使われたことがありましたが、そういう表現になりましょうか。とにかく、バランスが大事なんですよ。何と言えばいいのか、他者と自分はどう違うのかということより、過去の自分と現在の自分とがどう違うのかという比較軸の方が大切な場合だってあるわけでしょう。

A:なかなか難しい問題ですね。個性の比較なんて、いくらでも尺度がありうるでしょう。市場社会では企業の発展にどれだけ寄与したか、ものすごく機械的に判定して人間の評価を行うしかありません。基本的にはそうなる。あとは、企業がそれぞれの評価軸を作って、工夫してくださいと言うしかない。

B:少しは人間的な、一本のものさしでは測れないような生々しい部分を評価してほしい。そういう企業が伸びれば、社会も少しずつ変わるんじゃないかと期待しています。

A:そうなることに私も異論はありません。 

| コメント (0)

2009年8月 9日 (日)

犯罪防止にかけるコスト、自殺防止にかけるコスト

 凶悪犯罪を含めて犯罪の件数は目立って増えているという認識はないが、拘置所や刑務所が収容人員オーバーで難儀しているという話は聞く。正確なところは定かでないが、刑務所の収容者一人当たりにかかる費用は、月5万円から20万円ほどらしい。数字に幅があるのは考え方の違いで、直接的な費用にとどめるのか間接的な費用を含めるのかで違ってくるようだ。いずれにしても、全国で年間何百億円という単位の税金が投じられていることは間違いない。国家にしても自治体にしても法律や条例というルールを作り、統治しているので、それを破る輩が少ない方が上手く運営できていることになる。犯罪の発生は無いのが好ましいし、ゼロは難しいにしても、少なく抑えられれば、行政としては費用の面でも好都合である。

 ところで、世の中には、罰則の強化によって犯罪を抑止できるという考え方が根強くあるように思う。犯罪を犯すことは全く以て本人の責任であり、悪い人が応分の責めを負うことに何の疑問があろうかと考える。大半の市民にとっては、自分や肉親が犯罪に手を染めるという想定は皆無に近く、それによって犯罪が減るのであればどうぞ厳罰化してくださいという受け止めなのだろう。また、犯罪被害者の肉親がマスメディアに登場することで同情心が昂じているとも考えられる。しかし、それは応急処置的発想であり、より根本的な解決を追求するならば、別の方策が生まれてくるのではないか。

 犯罪の根本的解決には、まず、犯罪発生の原因の追求が必要になってくる。結果論になってしまうが、こういう手を打っていたら犯罪を犯す前に踏みとどまっていた可能性があると考えられる事例を耳にすることができる。原因が貧困や、人間関係の欠如にあるとすれば、社会政策の打ち方やボランティア活動の促進支援策によって元を断つことも可能だ。確かに、対策の範囲が広く、コストもかかることに違いない。それと犯罪者の収監に必要な費用と比べたらどちらが大きいだろうか。前者が大きいかもしれないが、犯罪発生による市民の不安感や過剰な相互監視意識などの除去を合わせて考えると、投資効果は大きいのではないだろうか。

 犯罪者を自分とは違う人間と決め付け、差別化し、排除するという方向は、犯罪に限らず、社会一般に「差別化」として強化されているのではないか。他者との間に、差ではなく、同質性を見出し、いたわり合い、保護しあい、連帯する機運は生まれてきそうにない。違うように見えても、人間なんかたいして違わないよ。みんなちょぼちょぼさという感覚は、昔には今よりもっとあった。大衆に寄り添う知識人も今よりは多くいたはずだ。とはいえ、何もなくなったわけではない。善意の市民、大衆。真面目に考えている知識人。より深く、より根本的に考えている研究者もいる。今声高に叫ばれていること、今進みつつある変化が本当に正しいのか考えなおしてみよう。

 自殺者の増加に対して、それを食い止めるための相談窓口を設置するなどの応急対策をとろうとする動きがある。私は、これは必要なことだと思う。多重債務者を発生させないための対策などやるべきことは多いが、人間は死んだら生き返ることができない。応急処置を行うべきである。

| コメント (0)

2009年7月29日 (水)

交わらない社会 格差の固定化

 格差社会という言葉はほぼ市民権を得て、ごく少数の論者を除いて保守の陣営でも認めるところとなった。すでに高度成長を経て形成されていた中間層からバブル後に相当の規模の集団が下層へと転落していった。また、ロストジェネレーションと呼ばれる若者の集団が終身雇用のエスカレーターに乗りきれず下層に合流していった。したがって、この格差社会の問題には、労働者のなかの二極化と世代間の断絶という二つの問題を含んでいる。後者について付け加えると、過去においても若者は所得水準が低く、それが青年運動の根拠となっていたが、それでもしばらく我慢すれば、終身雇用制のなかで徐々に給与が増えていき、その当人にとってみれば問題が解消してしまう構造のなかにあったのである。

 格差問題には今ある格差に加えて、その再生産という厄介な問題を含んでいる。言いかえれば、階層の固定化である。流動性に富んだ社会では富者と貧者との間に階層間の行き来があり、しかも成長期においては貧者から富者への上昇が顕著に見られた。その富者にとっては近くの貧者はかつての自分であり、自分の出自を見るという意味で忌避すると同時に懐かしき存在でもあった。どういう感情を持つかはそれぞれで違いはあるだろうが、兎に角近くにいたことは間違いないだろう。近くにいれば、いくらかでも連帯の可能性が残されていた。これに対し、階層が固定化されるとどうなるのだろうか。

 高所得の子弟は、相当の金額(それは時としてパート労働者の年収に匹敵する)を投じて進学塾に通い、名だたる進学校に進む。そして難関大学から大手企業へと昇っていく。これに対し、低所得者の子弟はそういうコースとは無縁であり、公立のなかでも底辺校と言われる学校に進む。そして将来の就職の道は厳しい。この二つの流れは途中で交わることがない。お互いに遠い存在として、特別に意識することなく生きる。生活のフィールドが全く異なっているのである。極端な対比かもしれないが、この傾向は今後ますます強まっていくのではないだろうか。ある意味、英国のようなはっきりとした階級社会になっていくのではないかという予感すらある。上流階級の子は、その階級独特の言葉を話し、独特のカルチャーを持つ。下流の子はまた上流に対しては閉じた社会を形成している。

 日本の場合はまだ格差の歴史は浅い。貧富の差がいくらかあることはやむを得ないとしても、互いに川の支流が流れ込むように混じり合う社会として在ることを期待したい。かつて、キング牧師はこう演説した私には、ある日アラバマ州が小さい黒人の少年と黒人の少女が小さい白人の少年と白人の少女の手を握って、姉妹と兄弟として親しくできる状況に変えられるという夢があります。」

 私は、日本の上流と下流の少年が、白い子と黒い子のように互いに差別の観念に囚われ、長い歴史の闘争なしには到底克服できないような深い深い溝に隔てられることを危惧する。

| コメント (0)

2009年7月18日 (土)

夢と希望

 数日前のこと、出張中のホテルでテレビを見ていたら、難民の家族が集団で生活している団地の様子をドキュメンタリーとして放映していた。そこにはアジアを中心にして多くの国の難民家族がおり、日本に来てから生まれた子供たちも多い。かれらは日本の学校に通い、皆日本語を普通に話す。一方で親たちは母国語しか話せない場合も多く、親子のコミュニケーションも問題になっていた。そのことは同時に帰属意識のギャップも生み、子供たちが自分を日本人として認識していることに対して、親たちは不本意な気持ちを抱いている。

 本国では、お国の主に政治的な理由で不自由な状態にあり、そこから逃亡してきた経緯を持つ。逃亡の過程では、相当危険な目に合っているようだ。親たちはその忌まわしい記憶を滅多なことでは子供には話さない。しかし、こども達はそのことに気づいている。逆に、思い切って過去を話すことによって、子は自分が何者かを知り、親に対する理解と愛情を深めることができるのだという。

 なかで、カンボジア難民の子である、利発そうな男の子が紹介されていた。彼の作文が印象的であった。「今の生活が好きです。夢や希望がいっぱいあるからです。」親から聞いた内戦時代のカンボジアの状況との対比でそういう感情が表現されたのであろう。それはそれで説得力がある。ウソではなかろう。しかし、今の日本の社会に、なかんずく、難民の子に夢と希望が、いっぱいあるだろうか。たまたま、彼が非常に優秀で夢を現実にする可能性はある。あえて言えば、そうなってくれたらいいと願いさえする。とはいっても、難民の子弟全体を捉えたら厳しい状況にあると言わざるをえない。義務教育は受けられたとしてもその先はどうだろうか。働き口はなくはないが、非正規雇用の可能性が高い。職業に貴賎はない。貴賎がないのなら待遇に大きな差はあろうはずがないが、現実には市場の原理によって労働力の価格が決定するのである。

 どの子供にも「夢と希望」が持てる条件を整備したい。結果には格差が生じるとしても、伸びゆく機会は与えられなければならない。教育は基本的に無償であるべきだし、企業は就職を希望する学生を門前払いせず、その人格と資質と意志を試す場を設けるべきである。理想論かもしれない。放っておいてそうなることはない。こういう問題には政治的な力が必要である。彼らを追い出したのが政治ならば、彼らを救うのもまた、政治である。

| コメント (0)

2009年7月 4日 (土)

個人情報の流出

 金融機関などから個人情報が大量に流出するという事件が後を絶たない。それは過失によるものもあるし、意図を持って行う犯罪行為による場合もある。いずれにしてもセキュリティーの甘さが原因であり、情報の扱いの難しさを感じる。1年近く前になるが、情報漏洩に関するセミナーに参加し、情報流出の実際にあった事例を聞いて怖さを感じた。例えば、女子大生からデジカメに使用した消去済のSDカードを集めて回った青年のケースがあった。消去しても完全には消えておらず、復元できるらしい。それを知らない女学生はデータを渡してしまい、プライベートな画像が危うく広汎に流失しそうになった。また、コンビニで宅配便を出すことの怖さを教えられた。荷物には差出人の住所、名前、電話番号が書かれている。受け付けたバイトの青年がそれをコピーして、女性のアパートに侵入する事件があった。鍵がなければ入れないと思うが、入口の周辺に合いカギを隠している場合が多く、探し出して入ったという。

 こういうことが世間で起こっている。私も過去の経験で意外に盲点になると思ったことがある。それは廃品回収である。子供会で活動資金を作ることと活動への理解を広げるために月に一度、古新聞の回収を行っていた。他に雑誌も出してもらったが、これはお金にはならない。新聞を小型トラックにいっぱい集めても5千円になるかならないかで、これじゃ一人5百円ずつ出し合った方がましだなと言い合ったものだ。とはいうものの、それはそれで意味のある活動だったが、集めているといろいろな新聞があり、雑誌に至っては見たこともないようなものが出ていた。そこで思ったのは、どういう新聞、どういう雑誌を見ているかでその家の考え方がおおよそ分かるということなのだ。特別詮索はしないのだが、聖教新聞があったり、赤旗があったりする。雑誌もアエラからサピオに至るまで種々ある。あるいは低俗な漫画雑誌が数多く出ていたりする。それでもってその家の考え方や知的水準が推測できてしまうのだ。実際、子供会ではそんなことはしないが、やろうと思えばできることなので、出す側には注意が必要である。宗教関係や政党関係の新聞は商業新聞の間に挟んで出すとか、人の目に触れさせたくないものは普通ゴミに混ぜて出すとかの配慮が必要だろう。業者に直接出す場合は、回収後に中をあさられるとお手上げなので危ないものは抜き取り、どこの家庭か特定できる情報が混ざらないことを確認のうえ、やはり一般ゴミに混ぜて出す方がよいだろう。最近ではシュレッダーを使う家庭も増えているという。

 これとは違う話だが、ごみ箱をあさればその家の暮らしが分かるといい、スーパーの出店をするときに品ぞろえの参考にしたという。この場合は地域住民の嗜好が分かればいいので個人を特定する目的はないのだが、それにしても気持ちのいいものではない。そうこう考えていると、そんなことまで気を使って暮らすのは息苦しいなあと思ってしまう。しかし、誰がどこで何を見ているかもしれない。昔なら地域社会はほとんど知っている人の集まりであったが、今は知らない人の集まりである。このままでは、ますます安心できない社会になる。

 

| コメント (0)

2009年6月28日 (日)

大局観

 ニュース番組にはコメンテイターという立場で事件、出来事に対し自分の見解を述べる役目の人が出演している。レギュラーとして置いている場合もあるし、ゲスト出演として何人かで回している場合もある。これは、司会者の見解だけでは見方が偏るということもあるし、司会者の見解は局の考え方として捉えられるので一定の制限を受けてしまうという事情もあるのではないかと考えられる。もっとも、直接的な狙いは、人気のある学者や評論家を出させて視聴率を稼ぐことにあるのだろう。

 そういう人たちのコメントを聴いていると、ありきたりで、それなら私でも言えるような中身だと思うこともあれば、なるほどそういう見方もあるのかと感心させられることもある。概して、前者の方が多い。事件に短絡的に反応するだけなら一般人でもできることで、多くの視聴者に向かって発言するなら、広い視野で、ある程度のデータも踏まえて発言すべきであると思う。例えば、殺人事件が起こり、そのやり方が凶悪で、しかも容疑者が少年だったりするとニュース性が高まり、番組で取り上げられることになるのだが、「いやあ、怖い世の中になりましたね。少年の心に何が起こったのか分かりませんが、二度と同じ悲劇を生まないために社会は真剣に考えなければなりません。」程度のコメントなら、あってもなくてもいいようなものである。もっとも、報道の中身が薄っぺらだとコメントのしようがないという事情もあってコメンテイターだけを責めるのは理不尽かもしれない。とはいえ、過去に類似した事件もあろうから、日頃から世の中の出来事に敏感であれば言い方はあるはずである。データから見れば青少年の凶悪犯罪は件数としては増えていないとか、質的にはこういう変化があるとか、社会的な背景として携帯電話やインターネットの普及が考えられるとか、地域社会における人間同士の接触の機会が減少しており原因としてはこういうことが考えられるとか、悩んでいる青少年へのカウンセリングの体制の問題があるとか、親の所得格差が少年達の生活格差を生み彼らの間に心の溝を作っているのだとか、そういう見方が加わるべきである。そういうものを付加価値という。

 近ごろ、大阪府の橋本知事や宮崎県の東国原知事の動きが頻繁に報道されている。知事たちの間で、地方に権限を委譲させるために政策連合を組み、総選挙に影響力を持つことによって政権党に圧力をかけようとする動きが強まっている。橋本と東国原は個人的な思惑も加わってか、積極的にその運動の宣伝役を買っている。これに対し、報道ステーションに出演していた日本総合研究所会長(他に多摩大学学長など多くの顔を持つ)の寺島実郎が、こういう趣旨の話をした。「中央対地方の構図を作り出し、マスコミを利用して選挙民に宣伝して、地方に権限を分捕ってくる動きを取っている。地方分権の課題はあるにしても、日本の現状を見ると中央政府が国家戦略を見失っており、国際政治の場で相対的に力を落としているので、中央の立て直しが重要課題になっている。そのような時に地方が強化されれば、さらに中央政府の弱体化が進むだろう。知事とはいえども、日本を支える政治家であるから、自分の行動が国民の将来に強い影響力を持つことを自覚して、目先の課題のために奔走することを自重すべきではないか。マスコミも彼らの行動を持てはやして、ことさら煽るようなことをしてはならない。」これを聴いて、真っ当な意見であると思った。私も、それまでは東国原らの動きを、かなり興味本位で見ていたのは確かだ。こういう指摘を受けて、司会の古舘伊知郎は少々渋い顔を見せていた。

 結論。大局的にものを見ることが大事だ。その時々の目先の課題(これそのものが意図的に作られていたり、焦点がぼけていたりする)に囚われて、基本的な方向性を誤ってはいけないのである。

 

| コメント (0)

2009年6月27日 (土)

17歳の犯罪 痴漢考

 十代の少年が六十代の女性に痴漢行為を働いて逮捕されるというニュースを見た。見過ごすような小さな記事であるが興味を引いた。(最初に断わっておくが痴漢は犯罪である。加害者を擁護するつもりはない。しかし、それを受け止める側にはいろいろな対応がありうるということは主張したい。)

 報道によれば、少年は老女ばかりを狙っており、余罪は十数件にのぼるという。少年は、老女であれば触っても騒がれないと思ったと話しているようだ。ところが、実際には騒がれて捕まってしまった。誤算があったわけだ。これだけの件数を重ねたということは、それまでは騒がれなかったか、騒いだにしてもさほど大げさではなかったということだ。しかし、最後には騒ぐ女性に当たってしまった。そのような厳しい反応をする女性の存在を予想するほど世間を知ってはいなかったということなのだ。

 私が興味を持つのは、少年がなぜ触る相手を六十代で妥協したのかという点である。本当は若い女性を触りたかったに違いない。しかし、リスクが大きすぎる。それが分かる程度には判断力を有していた。でも触りたい。とはいえ、普通はここで思いとどまる。老女を触ってどこが面白いかと普通の男性は考えるだろう。そこをやってしまったのは、少年ならではの妄想のなせる業である。彼が触ろうとしたのは、生身の女性の胸ではなく、「胸なるもの」であった。日頃の妄想が結晶したところの、胸なる観念だったのだろう。だから、老女でも妥協できたのである。何度も女性の体に触れたことのある男性なら、抱かぬ欲望の形である。少年の場合は、あまりに純化された欲望の形式であった。

 ちなみに、触られて騒いだ女性への評価であるが、女性としての自覚を失わず立派であるという受け止めもできるし、胸を触るという程度に対しては少し寛容であってもよいのではないかという受け止めも可能だろう。どちらが正しいということはできない。一方の少年に対しては、犯罪に違いなく、それなりの責めを受けるべきであるが、正直言って男性として、また少年を子に持つ父親として、寛大な処分をお願いしたい。

| コメント (0)

2009年5月10日 (日)

性同一性障害のこと

 

性同一性障害(せいどういつせいしょうがい、Gender Identity Disorder,GID)とは、生物学的には完全に正常であり、しかも自分の肉体がどちらの性に所属しているかをはっきり認知していながら、その反面で、人格的には自分が別の性に属していると確信している状態(日本精神神経学会)を指す、病名あるいは障害名である。

しばしば簡潔に「の性と身体の性が食い違った状態」と記述される。症状の度合いは、自分の持つ外性器に非常な嫌悪感を持ち外科的処置を必要とする状態から、異性装を行うことで耐えられる状態まで様々である。

同性愛と混同されることがしばしばあるが、意味合いは全く異なる。(ウィキペディアより)

 最近この障害についての認知度が高まった。それは、タレントとして活動している椿姫彩菜の存在が大きい。「わたし、男子校出身です」という著書のなかで、自らの半生を記して性同一性障害への理解を促している。私は彼女が非常に可愛いので前からファンだったが、後から事情を知った次第である。知ったからと言って、特段気持が変わったこともない。かえって、応援したくなったといえる。世間ではまだ無理解な人が多く、シャンプーのCMに彼女が出ているのは吐き気がするなどとネットで言われている。元は男のくせに、という言い方もされており、やはり性同一性障害が十分理解されていないことがうかがえる。もともと女だったのである。人格においては女だったのに、違う姓の肉体が付いてきてしまったのである。

 昔から男性なのに女性っぽい人は存在した。その逆の例も然りである。そして、そのことに対する偏見は強く、いじめられたり差別されたりしてきた。前回、吉行淳之介について書いたが、彼はそういう障害を持つ人への理解が深い人であった。「男娼」と呼ばれる人たちとのつきあいもあって、障害のせいで普通の世界から弾き飛ばされたことへの同情心があり、赤線で働いていた人たちに精神薄弱の女性が多かったことなども含めて社会的「弱者」への愛情が作品に綴られている。男娼について書かれたエッセイでは、「生まれつき」という表現を使っており、生来の障害という認識を持っていたようだ。念のための断わっておくが、性同一性障害を持つ人が皆男娼になるのではない。なかにそういう道を選択せざるをえない人がいるということである。因みに、ウィキペディアも断っているように同性愛者とは違う。自分は男であるという自覚のある人が男を好きになるのは同性愛である。性同一性障害者の場合は、自分が女だと思っているのだから異性を好きになっているのである。ゲイは男であって、男の立場から男を求めるのである。

 科学の進歩は様々な迷信を打ち破ってきた。この問題にしても、変態だと言われたり、親の育て方が悪かったからだと言われたりしてきた。ハンセン病にも誤解があった。読字障害も最近まで分かっていなかった。分かっていれば辛い人生を歩まずに済んだかもしれない。神経症や精神障害に対する偏見ももっともっとその原因が解明されれば社会的な理解が進むだろう。研究の成果を期待したいと同時に、国民全般が科学的認識を深める努力をしなければならない。そういう意味でも教育の役割は大きい。

| コメント (0)

2009年5月 6日 (水)

心を痛めること 幼児虐待

 幼児の虐待が頻繁に報道されている。いろんなケースがあるが、母親が子連れで再婚した場合の血の繋がらない父親からの虐待は考えさせられる。

 最近では離婚は珍しいことではなくなり、子連れの再婚も増えてきた。実の子でさえ育てるのが難しいのに、血の繋がらない子を育てることは大変なことだ。最も悲劇を生むのは、母親が子連れの場合である。男は子に前の夫の影を見出す。しだいに目障りになってくる。愛情は注げない。真面目な男だったら邪念を振り払おうとするだろうが、女を愛していればいるほど存在を否定したくなる。親がそう思い始めると、子もなつかない。男が虐待を始めても、女は男に逆らえないので、止めることができない。

 こういう例は全体から見ればごく一部なのだと思う。しかし、難しい問題ではある。血がつながっていようがいまいが同じように相対することができないものか。過去に、社会主義の国で、子供は社会のものだという考え方を推し進めようとした。それは結局上手くいかなかったのだと思う。動物の中には自分以外の子供も育てるものがあるらしい。それは種の保存のための本能的行動だろう。人間もそうあるべきだと思うが、現実はうまくいかない。孤児院の経営などで頑張っている人もいるから、やればできるのだとも思うが、この場合は全くの赤の他人であるから、まだ割り切れる面がある。連れ子の場合はどうしても性的な関係を引きずるから難しいのだ。養子縁組なら、夫婦ともに納得ずくで受け入れるのだからまだ救われる面がある。何度も言うが、本当に難しい。これは、文学が背負うべきテーマだと考える。

続きを読む "心を痛めること 幼児虐待"

| コメント (0)

一般化することの怖さ

 この3日の日曜日の朝に、サンデーモーニングという番組を見ていた。冒頭から新型インフルエンザに関する報道が続いた。報道の内容は私が思うに妥当なものだった。現在は弱毒性であり、恐れることはないが、備えはしておこう。高温多湿の季節がやってくるので一旦沈静化するが、秋以降のシーズンになると再び感染が広がる恐れがあるので注意。その間に、強毒性への変異がないとはいいきれない。メキシコで死者が多いのは、メキシコだけ強毒性があるというのではなく、発表されている以上に感染者が多く、分母が大きいから死者数が多いのである。また鳥インフルエンザからの新型インフルエンザへの変異と感染も危惧される状況で、こちらの方が怖いという見方もできる。こういったところが現状では正しい認識のようである。

 さて、他のニュースを挟んで後半に議論されたのは、文明の捉え方である。今回新型インフルエンザが急速に世界へ広がったのは世界がグローバル化した結果である。これは金融危機が世界に広がったのと同じく、世界の一体化であり、そのことは人類を豊かにしたが、同時にデメリットが大きくなって人類を危機に陥れようとしている。したがってこの文明の問題を人間はどう受け止めるべきか、人類はどういう道を選択すべきか真剣に考える時期に来てしまった。ついては、私たち一人ひとりが自分たちの生活の仕方について、これでいいのか考えなければならないという主張が繰り返された。

 これはこれで間違いとはいえないだろう。消費者の立場から生活を見直し、われわれはこういう生活を欲するというメッセージを製品とサービスを供給する側にぶつけていくことは力になると思う。しかし、これにしても消費者(先進国の)という立場からの行動提起である。人間とか、人類とかいう大きな括り、概念では問題は捉えられないし、少なくとも解決策は具体的に出てこないだろう。せいぜい、考え直そう、見直そうが関の山である。環境問題やエネルギー問題、食糧問題が深刻化している過程において、その動きの主体になったのはやはり企業であり、他方では国家ではなかったのか。だから、その主体が今後どういう動きに方向転換するのかが焦眉の問題である。その動きを作るにはどうしたらよいかを一人ひとり考えようというのなら、それは非常に意味のあることである。そういう前提なしに、人類は、人間は、一人ひとりはと繰り返しても、逆に問題を見えなくしてしまうだけではないだろうか。

| コメント (0)

2009年4月29日 (水)

オンリーワンとは言うけれど・・・

 SMAPの「世界に一つだけの花」がヒットしたのが、2003年から2004年にかけて。ナンバーワンでなくてよいオンリーワンでいいじゃないかという主張が社会に広がっていった。

 今年息子が高校を卒業したが、卒業式で校長先生がこの歌について話をされた。卒業生に贈る言葉を考えている時に、SMAPのこの歌を思い出したということで、一人ひとりによい面があるのだからそれぞれの個性を大事にして頑張ってほしいという内容だった。それに加えて、この歌が小泉政権の時代(2001年から2006年)にヒットしたことが大変意味のあることだと言われた。しかし、どういう意味があるのかについては言及しなかったと記憶している。

 私が思うに、校長先生は非常に大事なことに気がついたのだが、その本質にまで行きついていなかったのではないか。小泉政権は日本にグローバリゼーションの波を一気に持ち込もうとした。内橋克人氏がいうには、グローバル化の3つの性格は①規制緩和②資本行動の自由③税制のフラット化である。民間にできることは民間に任せようじゃないか。規制緩和を進めて古い社会を壊そう。自己責任でやっていこうじゃないか。そういうことが毎日のようにテレビで訴えられた。その是非はともかく、その政策によって競争による敗者がたくさん生まれることは計算できた。そういう状況でヒットしたのが、「世界に一つだけの花」だったのである。

 一人ひとりがその個性を発揮し、社会に貢献し、正当に評価され、お互いに尊重しあうことのできる社会が理想であると私は思う。一人ひとりがオンリーワンパーソンでありたい。だが、現実はそうではない。フリーターがたくさんいる。派遣労働者がたくさんいる。そしてそういう職からも追われている。家計の不足を補うためにパートに出る主婦と自分の収入だけに頼らざるをえない非正規雇用者とでは違う。自分から求めた境遇ではなく、もっと有利な職に就きたかったが、やむを得ず非正規労働者を選ばざるをえなかった人は非常に厳しい。それでもいいじゃないか。そういう生き方も悪くはない。自分らしく生きようよ。そういうふうに思わせるために、このオンリーワンの歌が流行ったのなら、問題じゃなかろうか。なにも流行歌ごときにそんな難しい問題を持ち込まなくてもいいではないか。歌は世につれるが、世は歌にはつれないのではないか。そういう主張もある。基本的には、世は歌にはつれないと私も思う。しかし、一定の影響力は持つ。文化政策は国家にとって低い位置づけのものではない。歌の流行は市民社会の出来事だけれども、それをいろんな形で国が利用することはできるのである。この歌が実際に、具体的にどう人々の意識に働きかけ、非正規雇用に対する抵抗感を無くしていったかの過程を私は分析し、説明することができない。私は、そういう風に感じるだけである。しかし、あながち間違いではないと思っていることも事実だ。

 今の変化がすべて悪だと思っているのではない。変化にはきわめて多様な要素を含んでる。変化の過程で、これまで悪習として残っていた要素を捨て去ることができるだろう。それは一つの進歩だ。しかし、変化の全体を見ると否定的要素が目立ってしまう。私は否定されるべき要素に対して、一つひとつ対案を示せるわけではない。だから、本当の意味での革新者ではないだろう。できることは、自分の基準に従って、今を積極的に解釈し、いくらかの意思表明を行うのみである。

 ちなみに、自分の基準とは、主権は国民にあること。働く者が社会の基礎を形作っていること。労働こそが富の源泉であること。これまで働いて社会を発展させてきた人たちは手厚く処遇されるべきこと。働きたくても働けない弱者は無条件に救済されなくてはならないこと。能力ある者は、その能力を出し惜しみせず、社会のために使うべきこと。企業は財の生産、サービスの供給の場として今後も必要であるが、社会的責任を果たせなければ市場から退出すべきであること。以上である。

| コメント (0)

2009年4月 4日 (土)

死刑について

 最近マスコミに殺人の被害者家族が取り上げられることが多くなった。そこでは、彼らの、極刑を望む声を聞いたり読んだりすることができる。私は、あまりに被害者家族の生々しい姿や心情がマスコミに(特にテレビ)露出することは好ましくないと考える。昔は、そういう立場の人は表には出ず、息をひそめて暮らしていたと思われる。最近は、マスコミを媒体として自己主張したいという人が増えた。訴える心情は、自分をその立場に置いてみると理解できるけれども、当然のことであるが、死んだ人は帰ってこないし、殺人者が死刑になれば亡くなった魂が救済されるというような教義をもつ宗教は聞いたことがない。してみると、死んだ人の問題ではなく、残された者の、まさに心の問題なのだと言うことができる。

 被害者家族の心のダメージは想像を絶するものであろう。当然ながら、本人には全く責任はない。傷んだ心は、社会的にその回復を援助されなければならない。そういう問題は残る。しかし、心の救済は、殺人者を死刑にするという手段によっては果たされないのである。死刑が執行された後の被害者家族の声を、まだ聞いたことがない。いくらかでも救われたのだろうか。

 世論はマスコミに動かされやすい。家族の声に影響を受けて、死刑を容認する世論が増えても不思議ではない。世界的には死刑を廃止している国が多く、また廃止に動いている国もあると聞いている。日本の動きは少数派である。私は冷静に論議をして、国民の標準的、一般的な意思を明確にしていくプロセスが必要であると思う。裁判の判決は、法を基礎にしながらも過去の判例に従って下されるそうだ。裁判官個人には、それぞれ独自の価値観があり、それは否定されるべきものではない。(ただし、あまりに異質なものは排除されるべきである。そこの線引きも難しいが。)しかし、個人の価値観に基づいて判断したのでは、常軌を逸した判決が出る。過去の判例に従うというのは、裁判官の暴走を止める防波堤にはなるだろう。マスコミが騒ぎ始めたからと言って判決を変える必要はない。今まで通りの判決を下した裁判に対して、弱腰だとか、自己保身だとか言って攻撃するのは間違いである。

 繰り返すと、死刑をどうするのかという問題に、被害者家族の心情が影響を与えることを危惧する。被害者家族の心の救済は社会的に支援されなければならないが、それは多分に宗教的な意味合いを持ってくるであろう。殺人者の命を、公権力によって奪うことで救われるほど単純な問題ではない。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月 1日 (日)

大学浪人について

 私は一浪して大学に入った。30年も前のことである。今より狭き門であったのか、周りを見ても浪人する学生の割合はかなり大きなものであった。したがって、ごく普通のこととして受け止めていたし、元々が、現役では難しい大学を第一志望として受験し、落ちても再チャレンジするというのが基本的な考え方であった。

 ある意味、時間および経済的費用について、今より余裕があったのかもしれない。慌てることはない、急ぐことはないというのが社会の一般的な空気であり、親の意識もそれに近いものであった。しかし、今日では、何事にも、よりスピードが求められるようになった。一流大学を出たからと言って必ず大企業に就職できるわけではないし、大企業自体がいきなり赤字になってリストラを始めたり、倒産したりする状況だから、不確実性が増している。組織が個を守ってくれた時代ではなくなっている。そこで、合理的な考えとして、予備校に百~二百万円の費用を投じるくらいなら、第二志望以下の大学でも現役で入って勉強し、実力を着け、予備校にかけるはずだったお金は留学費用などに充てた方がずっと活きた金になるという考え方も生まれてくるのである。

 組織が個を守る。個の進路についても組織が媒介して、受け渡しをしてくれる。そういう機能は日本的であり、優れた機能であると思うから、形を変えてでも維持すべきであると考える。個は弱いものであり、何らかのサポートは必要である。自己責任論ばかりで人を育てることはできない。

 ちょっと話がそれてしまった。浪人のことだったが、どうしても行きたい大学があるならば頑張ればよいが、1年間は長い。早く大学に入った方がよさそうだ。受験勉強は大学に入るためだけに有用な勉強である。それ以外には何の役にも立たない。終わったらすぐに忘れてしまうし、忘れた方がいいのである。だから早く終わって、大学で、学問らしい勉強を始めた方がよい。大学でさぼっていた私が言うのもおこがましいが、そう痛切に感じる今日この頃なのだ。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月15日 (日)

大学生の学力低下

 大学生の学力低下については行政、学会、マスコミなどでかなり多くの議論がされてきたと思う。その原因はともかく、学力が低下していることは皆が認める事実のようだ。

 4年生大学への進学者数は最近横ばいのようで、60万人程度である。私が大学に進んだ30年前は40万人であった。他方、18歳人口は現在120万人程度で、30年前は160万人であった。この数字から単純に4年制大学への進学率を計算すると現在が50%で、30年前が25%である。すなわち、率では2倍になったわけであり、絶対数でも50%増加している。

 学生数が減っているということは、そのなかに占める「できる子」の絶対数も減少しているということである。また同時に、進学者数の増加は、「できない子」の増加も意味する。この両面から考えて、大学生の学力低下が進んだのは当然の結果だと考えられる。

 大学の質を決める大きな要素として、「できる子」の絶対数があると仮定すると、少子化によってその数値は低下の一途をたどっているのであるから、質の低下は当然の帰結となる。そして、教育の質を思い切って上げて、「できる子」を増やすことを考えなけれならならなくなる。国力が、人材の質によって立つと仮定すると、教育が現状のまま推移すると国が滅びるという結果が予測されてしまう。

 単純な推論であるが、これを裏付けるような話はよく聞く。たとえば、MARCH(明治、青山学院、立教、中央、法政)のレベルが下がり、昔の日東駒専(日大、東洋、駒沢、専)のレベルになったと言われる。また、国立の上位校でも、京大のレベルがこの10年間で大幅にダウンしたという話も聞いている。これらを裏付けるデータは持ち合わせていないが、社会の変化を見ている限り、うなづける話である。

 これまで、少子化と大学生数の増加をレベルの低下の原因に上げて見てきたが、これ以外にも学力低下の原因はある。進学校の教育が、簡単に言えば、今まで以上に予備校化したということだ。受験に合格するためのノウハウを教え込む機関になってしまった。以前もそういう傾向はあったに違いないが、今ほどマニュアル化されていなかっただろうし、それぞれの学校が独自性を発揮しようという気概もあったように思う。ところが、大学の合格実績を出していかないと優秀な生徒も集まらない傾向があからさまに出てきたので、そうも言っていられなくなった。また、昔は地方の公立高校でも独学で難関大学にチャレンジしていたが、今では塾や予備校に頼らないとノウハウは得られない。もう一つ言えば、大学の側もそういうノウハウでは解けないような問題は出さなくなったのではないか。高校生では解けない問題を出して、食いついてくる学生がいないか試したという昔話を聞いたことがあるが、今はそんなことをすれば逆に非難されるのかもしれない。というようなことで、本当の「考える力」、「問題解決力」と言った方がよいかもしれないが、それは育っていない。世の中で起こっている諸問題にたいして解を見つける思考作業は、いくつかの答えから正解を選び出す作業とは異なる。受験のための勉強も必要であると認めざるをえないが、合わせて考える地力を養成する教育も進めなければならない。このことは、最早、結論の出ていることであり、具体的な政策を実行しなければならない。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月21日 (日)

プレカリアートと雨宮処凛

 「プレカリアート」とは、不安定な労働者という意味であり、具体的にはフリーターなどの非正規雇用者と失業者をさしているようである。政治の世界や労働運動においては元々「プロレタリアート」という言葉があったが、最近はあまり聞くことがなくなった。高度成長期を経て労働者の生活が一定の水準に達し、同時に労働運動が低迷していったことにより先鋭的な言葉である「プロレタリアート」という言葉は、「労働者階級」という言葉と合わせて使われなくなった。

 今日では、それに代わり「非正規雇用者」という言葉が使われ始め、特にここ数年は景気の後退とともにその存在に関わる様々な問題点が指摘されている。そもそも「非正規雇用者」は雇用の形態、あるいは労働の形態を表した言葉で、これだけでは政治的な指向性を持たなかったように思う。しかし、「格差固定社会」とか「ワーキングプア」という言葉で現状に批判的な主張が行われ始め、同時に当事者であるフリーターなどが労働条件、生活条件の改善を求める運動が発生し始めた。このような共通の「要求」(「思想」というにはまだはっきりした形になっていない)をもった社会集団(現実には組織化されず、バラバラに存在しているが、インターネットでの交流が行われている)として意識され始めた。それが日本の「プレカリアート」だと思う。

 雨宮処凛さんは、「いじめ、受験の失敗、リストカット、薬物体験、右翼運動、フリーター生活」などプレカリアートにまつわる体験をフルコースで味わってきた人である。著作が多く、現場での発言は強い影響力を持っているようだ。プレカリアートメーデーがあったり、社会運動として育ちつつある。方や、一人でも入れる労働組合という形で、労働運動に取り込もうという動きもある。今後、どうなっていくか分からないが、日本のみならず、新自由主義のもとで生み出された同じ境遇の者は世界中に存在しており、無視できない勢力であるどころか、明らかに大きな影響力を持つ勢力になっている。動向を見続けるとともに、雨宮さんの発言にも注目していきたい。

雨宮処凛の発言をいくつか

・いろんなセーフティネットに少しでも引っかかっていれば、死ななくて済んだ人もいると思うんですけれども、具体的な、生きさせようとするシステム自体がありませんね。

「極限まで自由を犠牲にした果てにやっと生存が認められるような状況はおかしい、生存は自由と引き換えにされるようなものではない」と。ただ生きるだけでいいじゃないか、ただ生きていることをまず肯定しろ、誰かに「生きていい」と許可される筋合いはない・・・

新自由主義のもとで、「働かざる者食うべからず」的な一般論を何にでも機械的にあてはめて、「役に立たない奴は生きる価値がない」とか、「生産性の高くない奴は職場にいてはいけない」とかとらえる風潮が強まったと思うんですが、・・・

生存よりも市場原理が優先されてきたからこそ、働いても生活していけないという状況が現れてきたわけですから、まず生存をいちばん中心に置くという考えを据えてほしいです。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月 6日 (土)

生きる権利

 格差問題について何度か発言してきました。昨今の格差問題の核心は、働き方の違いから発生する格差の問題です。すなわち非正規雇用か正規雇用かの違いによって、賃金格差(年収格差、生涯賃金格差)が発生するということ。そして格差があるだけではなく、低いほうのレベルには貧困問題が発生しているという事実です。すなわち、生きていけるかどうかの瀬戸際まで追いつめられている。生存にかかわる問題だということです。また、現在ばかりではなく、階層が固定化することにより将来に渡って貧困から抜け出せず、賃金が上昇する正雇用者との差は広がる一方である。フリーターは結婚もできず、子も産めない。こういう現実があります。そして金融危機から連鎖した景気の後退が、非正規の職さえ奪いつつあるのです。

 近代的国家、民主的国家においては少なくともその生存は保証されなければならない。憲法はさらに進んで最低限の文化的生活を保証すると謳っています。持続的発展とは、再生産可能な社会ということです。生きるということは、命の再生産です。永く生き続けるということは家族の再生産です。社会の発展とは、広くとらえれば拡大再生産を続けることです。こどもをたくさん産み、育てることです。しかし、それがなかなか困難になってきているのです。再生産ができないということは、「死」を意味します。個人の死であり、家族の死であり、社会の死です。格差社会の解消は重要問題です。しかし焦眉の問題は、当面貧困の解消ではないでしょうか。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月 9日 (日)

最近の学園ドラマ(?)について

 テレビはあまり見ない私であるが、食事のとき家族と一緒に見ることがある。多くはお笑い番組かドラマである。ドラマでは高校を舞台にしたドラマが多いように思う。昔は、“学園もの”と呼ばれたが、今はそういう決まった言い方があるのだろうか。

 なぜ高校が舞台に選ばれるのか。①役者がそろう。中学生というのは子供と大人の中間で、その時期も短いから演じられる役者の絶対数が少ない。高校生なら20代の大人でもなんとかごまかせる。②あつかう題材が多様である。恋愛もあれば暴力もある。受験もある。③したがって見る層の幅が広がり、視聴率につながる。若者と同時にその年代の子供を持つ親が一緒に見るのである。

 見ていて思うこと。生徒と教師を対立的に描いている。これは確かに昔も同じだった。生徒の側に対して甘い視線がある。すなわちひいきしている。これは傾向としては昔もあった。子供の気持ちを大人は分かってくれない。体裁ばかり気にして本気で心配してくれない。そういう見方は昔も表現されていた。どこが違うかというと、教師の無能さを突くような内容が出てきた。何か、教育のまずさ(本当にまずいかどうかも検証されつくしていない。もっぱら「学力」に議論は集中している。)の原因が教師の無能さにあるかのごとき描き方であり、製作者がそこまで意図しているかどうかは別にして、客観的には攻撃キャンペーンになっているのではないか。

 強く教員を弁護する気はない。しかし気の毒だと思うことはある。能力のバラバラな生徒を相手に一つの教材で教えるのは大変だ。いろいろな家庭環境で育っている子供たちを一つに束ねるにはそれなりの能力が必要だ。また昔ほど教師の権威がない。すなわち、世間の目が厳しいのである。

 教育は国の政策の文字通り柱でなければならない。よって重点的に予算を配分しなければならない。教員の地位を社会的に高いものにすれば、優秀な人材が集まり、父兄の見る目も違ってくる。このような政策は軽視され、人材育成が遅れただけではなく、教育自体への失望感を蔓延させた。

 教師に問題がないとは言わない。しかし考えてみれば、同じ教師といえども、千差万別。教科に対する理解力にも差があれば、指導力にも差がある。使命感の強さにも差があるだろう。何事も一様ではない。そんな中で、大事な仕事を託さなければならないとしたら、いずれの要素においても一定の水準をクリアする素質と努力を要求しなければならない。だが、要求するならば、誇りを持てる立場を保証してやらなければならないのではないか。

 いつの時代でも、社会的な問題は存在する。その要因は単純ではなく、複数の要因が絡み合っている。しかもその要因を担っている勢力が多数あれば、意図的に他の一勢力に集中的に押し付けるのだ。しかも一番弱いところに。これが政治のリアルな力学である。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月 8日 (土)

危ない社会

 今の世の中は、いろいろな意味で便利になった。昔は情報の大半が書籍などの紙ベースの資料であり、図書館や資料館など特定の場所まで足を運ばなければ手に入らなかった。ところが、現在はインターネットでグーグルやヤフーで検索すれば容易に入手することができる。しかし、インターネットの便利さの裏には、不確かさと危険性が潜んでいる。

 情報は文字通り膨大にあり、そこから良質のものを選び出さなければならない。データや意見・主張の類は目を通しきれないほどあるのだが、出所の分からないものがある。データは政府や公的機関から出ているものや名のある民間の調査機関のものはある程度信用できるだろう。意見・主張は自分の考え方に照らして判断するしかない。何の判断基準も持たない者は最初に目に触れた情報を受容する確率が高いだろうから、まさに運次第である。誤ったものの見方が急速に広がっていく恐れがある。

 インターネットには様々な落とし穴が仕掛けられている。情報を検索したり、データをダウンロードしたりすると、知らない先から請求書が届いたりする。私は経験していないが、経験者に言わせると無視するに限るらしい。また、インターネット懸賞というものがあるが、これには本物と偽物がある。偽物は応募しても絶対に当選しないのであるから、正味犯罪である。しかも、応募の時に書き込む氏名、年齢、住所、電話番号、メールアドレスなどの個人情報は高値で売買される。この個人情報の流出は非常に恐ろしい。しっかりした実体のある企業の懸賞であっても、どこから漏れるか分からないのである。

 もう一つ便利なものがある。コンビニで24時間買い物ができるし、様々なサービスが揃っている。買い忘れた物があったり、夜遅くに急に必要なものができたりしたら非常に便利だ。しかし、ここにも危険が潜んでいる。たとえば、宅急便の送付だ。送り状には個人情報がたくさん記載されている。受け付けたアルバイトの店員がそれを書きうつしたり、コピーするのは容易である。深夜に、若い女性が荷物を送るのはいかにも危険であり、無防備と言わざるをえない。ストーカー事件などの犯罪につながる恐れがある。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月19日 (日)

1998年という年

 1998年というと今から10年前ですが、日本の社会が大きく変わってしまった年だと言えるのではないでしょうか。「変わってしまった」ということは、それまで毎年変化が続いていたが、それが一定の段階に達し、構造的な変貌を遂げたという理解です。

 1995年から金融危機の状況が続きました。1995年には木津信用金庫の取り付け騒ぎがありました。また住宅ローンの焦げ付きが急増していきます。1996年には日栄ファイナンスの経営破たんがありました。1997年には拓銀と山一證券の倒産がありました。1998年には長銀と日債銀が一時国有化されました。このような危機はいわゆる公的資金の投入でしのがれることになりましたが、この間に同様に体力を弱めていた金融機関以外の企業を救済するために多くの政策が実行されましたし、企業自身もそういう後押しを力にして今までにない激しいリストラを断行しました。ちなみに、ここで言うリストラは、狭い意味で従業員の首切りを意味します。

 1998年のトピックスは、自殺者が3万人を超えたということです。警察庁のデータでみると、前年の24391人から一気に32863人まで急増しました。そしてその後3万人を下回ることはありません。ちなみに最高を記録したのは2003年の34427人です。この自殺者の増加の原因は生活苦だと考えられます。他の原因としては、病気や人間関係の悩みなどがありますが、そういうものは大きく変化しないと思われるので、増えた部分の大半は経済的困窮なのではないでしょうか。

 企業はバブル崩壊後、三つの過剰を背負うことになりました。負債の過剰、設備の過剰、人の過剰です。順番から言うと、負債を減らすために、工場を閉鎖するなどして生産設備を縮小し、人員整理を進めたのです。ちなみに、「整理」とは、要るものと要らないものを分け、要らないものを捨てることです。人が捨てられたのです。1998年ごろになると、それまでリストラの対象だったブルーカラーに加え、ホワイトカラーも整理され始めました。企業は整理した上で、業務をアウトソースしたり、派遣労働者に置き換えていきました。そして、政府はそれが進めやすいように法整備を行っていきました。こうやって所得水準を大きく下げる労働者が増えました。これが、自殺者の増加に結びついていると考えられます。そして、労働者にとって過酷な状況は今日もなお続いており、さらに悪化する恐れもあるのです。

 思い返せば、人身事故で電車が止まるというニュースが毎日のように報じられた時期がありました。今でもあるようですが、ニュースとしての価値がなくなったのか、違う死に方を選ぶようになったのか、前ほど聞かなくなりました、それでも統計資料を見ると3万人以上が自ら命を絶っています。もう一度1998年を振り返ると、1993年に住宅ローンのゆとりローンが創設されていて、5年経過した後、金利が大きく上がった年でした。前年の1997年には消費税が3%から5%に上がっています。私の仕事の関係で目立つ現象として、外食産業の市場規模(売上げ)が縮小に向かい出した年でもあります。

 このように見てくると、1998年は構造調整の仕上げの年だったと言えるのかもしれません。それ以降も変化の傾向は変わらずにいますが、変化の度合いは少し小さくなったように思います。これ以上労働者を追い詰めると、社会が持たなくなるという認識を官僚や政治家が持ち始めたということでしょう。しかし、アメリカ発の金融危機が日本の実体経済に悪影響を及ぼしています。さらなるリストラが進められる恐れもあるのではないでしょうか。しかし、日本の国民が長くそれに耐えられるとは思いません。結果として、自殺者が減少するような、政策こそが求められるのです。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月13日 (月)

親の収入と学歴

 親の収入と進学する大学の偏差値とは強い相関があるようだ。東京大学の学生の親の収入は平均で1千万円を超えるとも言われ、貧乏人の行く大学ではなくなっている。この事実に対し、東京大学は親の年収が4百万円以下の学生の授業料を免除すると発表した。

 何もしないよりはましであるが、どうもおかしいのではないか。問題は入るまでの経済的負担なのである。それを軽減することが教育に公平さを取り戻す根幹なのである。東大に入れば、家庭教師などで学費を稼ぐこともできるだろう。奨学金を借りても、就職してから返すことができるだろう。本末転倒ではないだろうか。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月14日 (日)

「ルポ貧困大国アメリカ」 堤未果

 アメリカの貧困の実態を伝えるルポである。

① 貧困が肥満を生み出している。アフリカ系米国人とヒスパニック系米国人は所得が低く、食事は低価格高カロリーのジャンクフードに頼らざるをえない。

② 防災事業が民営化されたために、防災対策の質が低下し、災害の被害が拡大した。ハリケーン「カトリーナ」で被災した住民の多数が貧困層であった。

③ 国民皆保険制度がないアメリカでは、民間の保険会社の医療保険に頼らざるをえない。しかも、保険料がすこぶる高く、貧困層にはとても支払える金額ではない。したがって具合が悪くなっても市販の薬で我慢し、いよいよひどくなってから病院へ駆け込む。医療費は高額になり、以後多額の借金を背負うことになる。

④ 兵隊の供給源として貧しい若者が狙われている。移民の子である若者は将来の生活改善のために大学進学を目指すが、高額の学費を支払うことができない。あるいは、学資ローンの返済に困っている。これを肩代わりする代わりに兵隊への志願を勧誘するのである。教育予算が削減されたことにより、大学の学費が高騰し、若者の借金が膨れていることがこの事態に拍車をかけている。

⑤ 軍まで民営化されている。軍事費を抑えると同時に、戦争への批判を弱める働きをしている。戦地(イラク)で補給活動にあたる要員が派遣会社によって集められ、送り込まれている。募集するときに説明を受けた条件と現地での実態とは大きくかけ離れている。米国だけではなく、貧困な世界の地域から送り込まれている。また、補給要員だけではなく、民兵が派遣会社に雇用されて送り込まれている。彼らのなかにも戦死者はいるが、統計には上がってこない。

⑥ 不法入国者を含む移民たちはアメリカ社会の最底辺に押し込まれている。新自由主義の名の下、規制緩和、税制のフラット化、資本行動の自由化がすすめられ、結果富裕層と貧困層への二極化が劇的に進行した。ある意味、低賃金労働者が底辺で社会を支えているのである。学生がアルバイトをする場合、マクドナルドの時給は5ドルでこれも低いが、移民の子が違法に就労する場合2ドルということもあるようだ。①に書いたジャンフードも貧困層をターゲットにした商品であるが、いわゆる貧困ビジネスの典型はサブプライムローンである。本来返済能力のない貧困者に貸し付けを行うことは常軌を逸した経済行為であるが、住宅の価格が上昇していたがゆえに、形として担保としての体をなしていた。ところが、一部の識者が警告を発していたように下落をはじめ、大量の焦げ付きを発生させたのである。経済的な悪影響も大きいが、差し押さえを食らった貧困者たちは過去に大きな負債を負うことにより、もはや未来に希望を持つことを禁じられた。

⑦ 何もかもが民営化された。医療など、人の命にかかわる事業は国が責任をもって行うべき領域であり、民営化にそぐわない。民営化は利益を最優先し、徹底的な合理化、コスト削減が行われる。最終的にはサービスの低下が起こり、ここでも貧困者が切り捨てられる事態が発生する。

 これらの事例は、日本でも起こりつつある事態であり、未来を予想させるに十分な内容である。小泉的手法による規制緩和の道は、確実にこの結果を引き寄せるだろう。何か手を打たなければ、この恐ろしい現実がもはや一歩先には待っているのである。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月 7日 (日)

フリーターの反乱

 小林多喜二の「蟹工船」が売れている。少し前に40万部を超えたという話を聞いたので、今では50万部ぐらい売れているかもしれない。自然発生的にこれほど売れるわけはないから、ネットなどの媒体を使ってどこかで仕掛けられたのは間違いないが、本の数よりも、こういう本を購入する層が今の社会に形成されているという事実の方が衝撃的なのである。

 購入者のなかには、いわゆるインテリ層も多いと思われるが、今社会問題化している「フリーター」たちが多く含まれているようだ。詳しい調査がないので、その割合は分からない。また購入の動機についても詳しくは分からないが、貧困や隷従に対する共感があることは間違いない上に、自分を、「蟹工船」の労働者たちと似通った「層」としてとらえ始めていることが大事なポイントである。それは「階級意識」と呼ぶほどはっきりしたものではないが、彼らの境遇に社会的物質的基盤があることを自覚し始めたことは間違いない。それでなければ「蟹工船」などという特殊な文学が、今の社会に受け入れられるとは思えないのだ。私も二十歳前後の青年期にこの文庫を読み、それなりに考えるところはあったが、当時でも政治や文学に興味を持つやや左翼に傾いた青年達か、本物の労働運動あるいは革新的な政治戦線に身を投じる者に限って読まれる、発行部数の少ない小説であっただろう。

 さて、このように自分たちを「層」あるいは「集団」として意識し始めたフリーターたちは、今後どのように組織化されていくのであろうか。ひとりひとりはバラバラに雇用されており、元々組織化の基盤を持たない。したがって非常に不安定な身分に繋がれている。そんな中にあっても、ボランティア組織を通じて連帯の輪が広がり始めている。数百名単位の集会やデモ行進はテレビでも取り上げられるようになった。格差問題は何年も前から社会問題化していたが、非正規雇用者が層として立ち上がり始めたのはある意味、かなり遅れてやってきた現象だと言える。

 元来、かれらを組織化する能力をもったものとして、労働組合、革新政党、宗教団体などがあるが、どれもまだ十分な結果を出せていない。かつて高度成長の時代は、人口の増加も相俟って、それらの組織も大きくなっていった。しかし、今では、それらは十分機能していない。誰が、どのようにして一つの大きな運動体へと導いていくのであろうか。それとも危機感を抱いた政府によって、形式的に雇用主との雇用契約を変え、名ばかりの「正社員」として体制に取り込まれていくのであろうか。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2008年8月12日 (火)

携帯電話の会話

 固定電話は屋内でかけるものであったが、携帯電話が登場してから屋内屋外のいたるところでかけ、会話することになった。したがって、今まで他人の通話を耳にすることはなかったが、特に聞こうと意識しなくても聞こえてしまう、あるいは聞きたくなくても聞こえてしまう状況が生まれた。

 携帯電話で会話している人は、その間、周囲に人がいることを忘れたかのように、相手との二人の世界に没入する。したがって、相当大きな話し声があたりに響くのである。これは、最近の話であるが、徒歩で通勤中にマンションの隅から携帯電話での話し声が聞こえてきた。「帰る金が稼がれへんから、家におるわ・・・。」想像であるが、同郷の友人から田舎に帰らないか聞かれたのであろう。言葉通りであれば、収入が不十分で帰省の費用が捻出できないということになる。帰らない理由付けで、そういう言い方をする場合もあろうが、口ぶりが非常に親しい相手に対するものに感じたので、事実をそのまま語ったと思われる。

 そうすると、昨年後半からはっきりしてきた景気の後退がこんなところにも表れているのか。たった一つの現象を取り上げて言うことではないかもしれないが、こういうことを通じて世の変化を感じることはあるのだ。盗み聞きはよくないが、周囲の変化に聞き耳を立てていることは大事なことである。

| コメント (0) | トラックバック (0)

文部科学大臣の言葉

 ラジオの放送が耳に入った。今の文部科学大臣の発言で、人に優しく自分に厳しくできる人を育て、秋葉原で起こったような事件を二度と起こさせないような教育を進めたいとの内容だった。

 意気込みはよしとしても、教育で秋葉原のような無差別殺人がなくなるのだろうか。まず、犯罪の原因は何なのか。私は、生活の窮屈さが背景としてあると思う。人間関係の窮屈さと経済的な窮屈さである。この窮屈さを回避する手段として教育があるという主張は可能だ。

 人間関係の窮屈さは、経済的な窮屈さから来ている場合も多い。収入が少ないことにより周囲の人々と同じように生活することができない。借金などすれば途端に関係が悪化する。うまく人と付き合えないということは、教育の不足も一因ではあるが、人間の置かれた物質的条件が大きいと思う。

 人間は「衣食足りて礼節を知る」。衣食が足りるように働いて収入を得なければならない。働く能力を身につけるために教育が必要だ。国家は、教育を受ける機会を等しく国民に与えなければならない。それが文部科学省の仕事の根幹であろう。他方で、雇用を創出することも国家の責務である。それは経済産業省の仕事であったり、厚生労働省の仕事であったりするわけだ。

 犯罪者の服役後の再犯率も問題にされているが、これを単に犯罪者の「性質・性格」から判断したのでは対策は見えてこない。一度犯罪者になれば前科者のレッテルを貼られる。仕事には容易にはつけない。生活があまりに窮屈なのである。そこを自力で切り抜けよというのは厳しい対応である。環境が再犯に追いやっている側面を重視しなければならない。

 われわれが、幸福であるかどうかは、まさしく「生活実態」に依るのである。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月 5日 (月)

ホームレス

 ホームレスはホープレスだと言った人がいる。うまく表現したものだ。

 ホームレスが発生した要因は、基本的には経済的なものである。要は収入がなくなってしまい、それまでの生活を維持できなくなった。そしてさしあたり住むところがなくなってしまったのである。収入がなくなったら、即住むところがなくなるわけではない。親、配偶者、兄弟などが援助してくれるケースはたくさんある。それがなかったら。助け合える場、それが「ホーム」であるならば、そういう場の喪失がホームレスである。ハウスレスとは言わない理由がそこにある。

 見捨てられた人がホームレスである。ホームレスが増える社会は、人を見捨てる社会なのである。行政が支援することはなく、またボランティア活動が生まれる風土のない日本は生活困窮者に非常に冷たい社会である。欧米では教会がホームレスの支援を行っているが、日本のお寺がそういう活動をしているという話は聞いたことがない。僧侶であっても信仰をもっていないと言われるほどだから、お経をあげることだけが業務上の行為になってしまっている。そもそも仏教の教えのなかに貧民を救済するという考えはないのではないか。研究してみなければわからないが、現世利益を含め、自分の人生がどうなるか、来世がどうかなるかが関心事であって他人は考慮しないのではないか。炊き出しをするより、托鉢をするほうが大事なのである。

 元に戻り、弱者に冷たい社会だと言った。それは日本に限らず、国家というものはそういうものかもしれない。アメリカの国家も冷酷である。しかし、国家はそうであっても、社会が自らセーフティーネットを張っている場合がある。それがある社会は懐の深い社会であり、成熟した社会だと言える。現状からみれば、日本は未熟な社会だと思うが、昔からそうだったのではあるまい。相互扶助の行き届いた時代があったはずである。これは政府、政党、宗教団体などの怠惰の賜物以外の何物でもないと思うが、いかがであろうか。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月30日 (日)

考えるということ

 自分を対象にしてもそうであるが、一日のうちで本当に「考えている」時間はわずかである。仕事でも、全く初めてのことは別にしても、前例のあるものは過去の事例に従って進めるので考えることをしない。多くの人は同じであろう。考えることができるのは、ごく一部の「できる」人たちである。

 自分で学び、考える人が育っていない。しかし現状では多くを期待するほうが無理なのではないか。教育は義務化され、大衆化した。学びたくないものにも教えなければならない。一人の教師が40人も50人も教えなければならない。自ずと最低限のことを“覚えさせる”ことになる。考える力を身につけさせるには時間も労力もかかるのだ。

 学校教育のなかで抜群に成績のよい集団が形成される。この集団のなかには本当にできる人も含まれているが、「覚える」ことに長けた人が多い。こういう人たちが高級官僚になって国策を推進してきたのだ。先を見通せないのも必定というべきか。

 逆に、この集団から外れた人たちのなかに多くの逸材が埋もれている。惜しい限りであるが、まずは考えられる自分作りと部下の指導を進めるしかなかろう。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月28日 (日)

格差社会論

 ゼミでの報告内容。「格差」とは第一義的には所得の格差である。ジニ係数の推移から見ても格差は広がっている。しかし所得格差は前からあった。企業間格差。産業間格差。地域間格差。市場経済のなかで必然的に発生する格差である。

 今問題になっているのは、雇用形態の差による格差である。非正規雇用が急激に増えていまや全雇用者の3分の1が非正規である。これはバブル経済崩壊後の構造調整の結果生じた。さらに問題なのは、一旦非正規に転落すると正規には容易には這いあがれないことである。

 階層の固定化は意欲の喪失を生む。「希望」格差社会論を生んだ背景である。就職にあぶれた大量の若者たちをどうやって掬いあげるか。この先は長いのであるから、結婚し子供をもうけるだけの所得が確保できる雇用をどうやって創出するか。国家的課題である。少子化も、将来の労働力不足とも強く関係する課題なのである。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月27日 (日)

格差社会再考

 三浦展氏の「格差が遺伝する」(宝島新書)を読んだ。書名は出版社が興味を引くようにつけたもので、格差が固定化すると言ったほうが内容を正しく伝えていると思う。

 この本の内容は、アンケートを行い、それを分析していくつかの結論(推論)を示している。読んだ感想としては、おおよそ予想できる内容で、三浦氏の推論もほぼ常識的な線で終わっている。ただアンケート調査を行っているので説得力があるということか。

 いくつかの結論。父親の所得が高いほど、子供の成績がよい。(ただし成績は親の申告による)。父親の所得が高いほど、子供は私立中学へ進む。父親の所得が高いほど、子供の躾ができている。父親の読書時間が長いほど、子供の成績がよい。親が土日に休みがとれる家庭ほど、こどもの成績がよい。こういうものである。

 想像できる範囲内であろう。所得の高い父親は、高学歴が多く、子供も同じように育てたいと思う。学歴と所得の相関が高い事を父親は知っており、子供の将来を考えて教育に投資するのである。所得の高い父親ほど読書をすることは自明のことであろう。若い頃から読書の習慣があり、会社での立場上読まなければならない本も多いのである。

 こういう流れは今に始まったことではないように思うが、より程度がひどくなっている。最近は超難関大学の高校別ランキングは上位を私学が占めている。これは公教育がゆとり教育の考えの下、受験指導に力を入れなかったからである。しかし、公立校も盛り返しつつあり、私学全盛の時代は変わりつつあるのかもしれない。とはいえ、公立高のなかにも序列があり、一部に優秀な子が集中するだろう。いずれにしても高学歴=高所得の図式が変わらないと大きな流れは変わることはなかろう。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月24日 (木)

ランキング

 週刊東洋経済や週刊ダイアモンドなどの経済誌には特集記事があって、いくつかのテーマを順番に回している感がある。

 たびたび見かける特集は、企業別年収あるいは生涯賃金ランキング、職業別年収ランキング、就職に強い大学、学部ランキング等々であって何でもランク付けしたがる。これを何十万人という他人が喜んで(かどうか)読んでいるのである。

 自分の位置を知りたいという欲求からであろうか。位置を知って何を満たすのか。上位ではないが、俺の下にはまだまだたくさんのサラリーマンがいることを知って安心するのではないだろうか。何とかしてもっと上へ行きたいと思ったり、こんな格差はおかしいと思って憤る人は例外である。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月23日 (水)

医学部

 出来る生徒は医学部を目指す。この医学部志向は今も昔も変わらぬようだ。進学校のなかでも飛び切りできるやつは東大の理Ⅲに行ってしまう。こういうやつは研究者肌で金儲けはあまり考えないと思うが、どれだけ社会の役に立つかを考えると首を傾げたくなる。画期的な治療法を発見することにより数多くの患者を救うこともありうる話であるが、まれであろう。他方一般の開業医になったとしたら相対する患者の数は多くはない。

 何が言いたいかというと、優秀な人間が医学部に集中しすぎて、社会の進歩に必要な人材として育ってほしい政治や経済の分野が手薄になることなのである。教師や親はもっと社会に貢献することの価値を教えるべきである。優秀な頭脳にポリシーが結びつけば大きな力を発揮することだろう。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月 6日 (日)

少子化の原因

 少子化が問題となってる。経済界でも政治の世界でも非常に大きな問題とされている。少子化がもたらす悪影響としては、①労働人口の減少②技術力が低下し国際競争力がなくなる③消費の減少④若者が減ることにより、高齢者の年金を支えることができない。以上のことが言われている。その対策としてはそれぞれ、①外国人労働者を受け入れる。②ゆとり教育の見直しを行う。③これはあまり聞かれない。④支給年齢の引き上げ。減額等。がある。

 以上は少子化が今後も続くという前提での対策であるが、根本的に大事なのは少子化の原因は何であって、それを改善するための対策のとり方である。ある政党は、子供を儲ける世代の経済力の乏しさに原因を見出し、第二子以降に無償の養育費の提供を訴えた。これが有効な対策になるかどうかは原因を正しく捉えているかどうかによる。十分に捉えきれていなければ、ただ単にお金だけばら撒く結果に終わる。

 さて原因であるが、これは多産だった時代との比較。また同じように少子化している他国の分析が有効であろう。ただし、私はこの問題に特化して研究しているわけではないので、限られた情報から推論するしかない。特に前者の切り口から考えてみたい。

 嘗ては、うちは二人まで、うちは三人までという風に、子供の人数をあらかじめ決め、計画的に生んでいくことは少なかった。子供は天からの授かり物であって、出来れば産むのが自然な行為であった。また専業主婦が多く、大家族であったので養育の負荷も小さかった。このように生める環境があったといえるだろう。

 さて今日であるが、核家族化し、妻も働きに出ているケースが多い。女性の学歴が高くなり、家庭に居座っているよりも仕事をしたいという欲求は高くなっている。また主人だけの所得ではかつかつの生活であり、趣味や旅行やブランド品の購入などを実現するには二人分の所得が必要になる。一旦そういう生活に慣れると捨てがたくなる。子供がほしいという欲求もあるには違いないが、失うものも大きいので妊娠への恐怖が生まれる。また、仕事をしてると帰宅が遅くなり、セックスの機会も減少する。

 以上が考えられる一つのパターンである。これに対する対策は、産む期間は別として、それ以外は仕事が続けれれる環境を作ることである。企業によっては子育て支援の施策をとってる。政府も財政出動および行政指導の実施によってバックアップすべきであろう。

 もう一つのパターンは、低学歴者同士の夫婦の場合である。二人とも正社員になれない場合は共稼ぎであっても正社員一人分の所得に満たない場合が多い。この場合は将来を考えると産む意欲は起こらないだろう。出来てしまった場合はかなり厳しい生活を強いられるであろう。児童虐待が起こるのはこのようなペアにおいてではないかと想像される。

 このパターンにおいては、雇用政策の推進がなければならない。月に数万円支給したからといって解決できるようなレベルではない。まず第一子も難しい。

 以上が簡単ながら私の推論である。きっちり対策を打てば、フランスのように出生率を上げる事ができる。根本的な分析が必要なのである。単に生き方に対するものの考え方が変わったからだというような問題ではない。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月18日 (水)

銃撃事件

 長崎市の市長が撃たれた。かつて同じく長崎市の市長が銃撃に倒れるという事件があった。いずれも暴力団・右翼がらみの事件である。

 今回の事件は個人的恨みが背景の様であるが、公共事業の入札に関する市長の改革に不満を持っていたようで、そういう意味では政治的背景がある。政治的にいろいろな立場があり、意見を持つのは自由であるが、自分の主張を実現するのに手段を選ばないのは野蛮である。手段を選ぶのが良識というものであろう。

 江川紹子が、こういった事件に対する政府の指導者やマスコミの反応があまりに鈍いと怒っていたが、私も同感である。ただしマスコミの一部にはきっちり報道しているところもあると思う。重要なのは、社会が全体として、すなわち保守も革新もなく、この様な暴挙は絶対に許さないという毅然とした態度を示すことである。たとえ殺された人が自分と立場を異にする場合でも、その人の存在は否定すべきではない。これは民主的な社会の基本原則である。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月25日 (日)

格差社会をもたらしたもの

 自分なりに考えてみると以下の3点があげられる。

①もっとも底流にあるもの・・・高度成長が終焉して、低成長時代に入りパイが大きくならなくなった。したがって全体が所得アップする状態から、伸びの不均衡が生まれる時代に入った。また、製造業からサービス業に構造移動していったこと。そのことにより付加価値の小さなサービス業で所得の小さな階層を生むことになった。

②グローバル化の進展。たとえば中国においては中国政府の政策転換に誘導されて先進国が資本投下していった。その生産物が日本にも大量に入ってきて、製造業に大きな影響を与えた。特殊技術をもっている企業は別だが、品質で差をつけられない企業は原価を抑えるために賃金を抑える対応を迫られた。またマネーゲームが世界中で展開されるようになり、日本の国民も巻き込まれるようになった。持つ国民はうまく運用し、資産を増やして行った。

③バブル経済とその破綻。これで3つの過剰を抱えた企業がリストラに乗り出した。結果、大規模な構造調整が行われた。この間、労働者がサービス業に流れたり、非正規労働者へと転落していったりした。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月19日 (月)

競争と格差

 スポーツならゼロのポジションからよーいドンでスタートであるが、人生は3合目ぐらいからのよーいドンであるべきだ。すなわち最低限度の生活が保証されていること。働かざるもの食うべからずには一定の説得力はある。しかし様ざまな理由で働けない人がいる。一見して働けないと分かる身障者はよいとして、見た目には何の問題もなさそうに見える心の病をもった人の場合は判断が難しい。しかし実際には社会に適応するのは難しく、周りが支えざるを得ないのである。3合目までは社会が持っていってやらねばならぬ。

 機会の均等は生まれたときから与えられなければならない。大学は高卒の資格さえあれば誰でも受験はできるが、そこまで育つ間の生活条件が違う。教育に競争が足りないというが、十分すぎるほど競争はある。確かに、公教育の場では競争が抑制さえているが、塾があり、中学受験を目指しての競争はすさまじいものがある。そして大学受験へ。難関校へは志願者が集中する。

 機会の均等はない。格差が格差を生んでいるのだ。スパイラルである。せめて敗者にも一定の賞金と賞賛を。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月28日 (水)

ものの見え方

  依って立つ立場によってものの見え方が変わってくる。多くの人は立場がはっきりせず、考え方が定まらないでいる。「多様な働き方」と「多様な働かせ方」とは違う。前者は労働者から見た表現、後者は使用者から見た表現である。しかし実際には後者の言い方は聞かない。いつも「多様な働き方」である。労働者が主導的に(被)雇用形態を選択しているかに見える。現実には使う側がさまざまな雇用の形態を作り出したのである。

 働く側に立てば、企業の行動がよく見てくる。社会の公器と称しつつ、「私的」な行為に終始している企業も多い。近代的な工場であることを訴えかけるコマーシャルを流しているS社の工場にワーキングプアがあふれていることはよく知られている。企業家の精神を問いただしたい。自動車のT社を見ているといくら儲けたら気が済むのだと言いたくなる。下請け、孫請けに働く人々。多くの外国人労働者。

 立場を明確にして世の中を見る。前提があることを自覚しよう。

| コメント (0) | トラックバック (0)