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2016年9月の投稿

2016年9月22日 (木)

「民度」という言葉、そしてそれを使う人

 「民度」という言葉をたまに耳にする。

 
 1 間違った使い方
  この言葉は、一定の数をもった集団に対して使うものである。しかしながら、「民度が低い人」というふうに、個人にむかって使っている場合がある。これは間違いである。例えば、「大阪市民の民度」という使い方が正しい。

 
 2.使う人の傾向
  これは私の見解であるが、この言葉を使う人は、概して「大衆蔑視」の傾向がある。石原慎太郎がそのよい例であろう。表現として、必ず「民度が低い」という言い方になる。


 

2016年9月19日 (月)

パラリンピックのメダル数

 リオパラリンピックも終わろうとしている。日本選手もよく頑張っている。称賛したい。
 ところで、国別にメダルが集計されていて、これは現在の数字だが、中国が金メダル107個、メダル総数では239個と他を圧倒している。これに対し、日本は金がなく、総数で24個である。
 オリンピックは国別対抗戦ではなく、あくまで個人の競技であり、金メダルをとった選手は称賛されても、国家が褒められるわけではない。日本は金がなかったことを悲観すべきではない。金が欲しかった選手、メダルが欲しかった選手たちは残念であったろうが、お疲れさまと声をかけたいし、再チャレンジする選手には捲土重来を期待したい。
 そういうわけで、スポーツと国家、スポーツと国民との関係を考えさせられたのであった。もっと深い考察は次にしたい。
 

2016年9月18日 (日)

ボディビルダーの体力測定企画

 YouTubeでボディビルダーのポージングを検索していたら、ボディビルダーの体力、身体能力を測定しようというテレビ番組が目に触れたので見てみた。
 
 内容は男性ボディビルダー3名(うち1名はお笑いタレント)女性ボディビルダー1名に、握力測定、背筋力測定、反復横飛び、走り幅跳びをやらせて一般人の平均値と比較しようというものである。
 結果はやる前からおおよそ予想ができた。それは、これまでに似たような企画を見た記憶がかすかにあったし、ビルダーの体の特性から予測できる部分があったからである。握力は一般人を大幅に上回るであろうし、背筋力はそれ以上に上回るであろう。前腕は一般人も普段の生活の中でかなりの程度使う部位であるから、あまり使わない背筋よりも差が出にくいのは道理である。実際、背筋力の測定結果は目を見張るものであった。
 一方で反復横飛びと幅跳びは一般人とさほど変わらないと思われた。ボディビルではそのような動作は行わないことが一つの理由であるし、脚力がある反面体重が重たくなっているので効果は減殺されてしまうからである。結果はほぼそれに近い内容になった。
 もう少し考えてみると、ボディビルを始める人は一般人のカテゴリーに入る人かどうかという問題もある。アスリートがボディビルに転身した場合であれば、おそらく反復横飛びと幅跳びでもよい記録が出るのではないか。しかし、実際は一般人もしくは競技経験の浅い人の割合が多いように思うのである。
 ハンマー投げの世界チャンピオン室伏は、筋骨隆々であり、ボディビルダー顔負けの肉体を誇っていたが、立ち幅跳びでは驚異的な記録を出すと聞いたことがある。彼がボディビルをやってみたら日本でも有数の選手になるのは間違いない。
 ボディビルという競技は、ある意味誰にでもできる競技であり、努力次第で一定のレベルに達するものである。私は、その人の熱意とストイックな精神を測る競技であると思う。
 ボディビルダーの幅跳びの記録が振るわなかとしても、それを笑ってみるのはそうやって熱心にトレーニングを積む者のを愚弄する行為ではないかと考える。
 

2016年9月 4日 (日)

青年の主張 あれはある種の暴力であった

 かつて、成人の日にNHKで青年の主張全国コンクールが放送されていた。これは、新成人にテーマを与え、それについて弁論、主張を行い、順位をつけようとするものであった。
 私が主に聴いたのは、中高生の時代であったように思う。当時はテレビは家族で見るものであり、この番組もそうであり、特に父親が好んで見ていたように思う。
 私の記憶にある主張は二つ。とはいっても、ごく一部の断片であるが。一つは養護施設で働く職員の話、もう一つは酪農を営む青年の話であった。詳しくは覚えていないが、いろいろな困難を抱えながらも、この仕事に誇りをもって打ち込んでいきたいというのが結論だったように思う。
 そういう主張を聴いていた私は、大層重苦しい気分になった。当時思春期にあった私は、心の中に迷いや苦しみがあって、決して楽しい時期ではなかった。そういう気分の時に、ある意味「立派な」主張を聴くと、それと比較して、自分はいかにダメな人間かを感じてしまうのだった。
 今振り返れば、主張した彼らのその後は、それを聴いていた方の若者と特別変わったものになっていないであろうと想像される。「立派な」人間は、それほど多くいるわけではない。彼らも並みの人間であったのだろう。
 一部に彼らやこの番組を揶揄して評論する人たちもいたが、私はそこまでの思いはない。若者に主張の機会を与えることはいいことだ。しかし、予選を通過して全国放送される内容は少し多様性に欠けるもので、それは主催する側の「期待」が色濃く反映したものであったろう。
 自分がどう生きるかという葛藤は、人にさらけ出すものではない。社会的な問題に対して主張し、議論を戦わせることは結構なことだ。それは確かに不足している。
 繰り返すが、立派な人はそんなにいるものではない。心配しなくてよい。

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