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2013年10月19日 (土)

教育の衰退の一断片

 先日、ある集まりがあって、中高一貫校の元教頭と国語の先生に話を伺った。ここは全国でもトップクラスの生徒を抱えている関西の学校である。(以後N高と呼ぶ)

 お二方によれば、ながく自由な校風を誇り、N高と同じ教育方針をとっていた京都のR高と神戸のK高が、細かく受験指導を行う「面倒見のよい」学校に変わったという。

 N高では未だに授業で教科書を使わず、教師の手作りの教材で進めている。(だから、ここでは教科書検定など関係ない。)昔はそういう学校は多くあったのだが、今日皆無に近づいている。マニュアル化された指導本に基づいて授業をする。これは、教師に準備をする時間がどれだけ与えられているかも考えなくてはならないが、教師自身の力量が関係している。質問をされてもまともに答えられない教師が、進学校にもいるという。

 年間、あるいは3年間、もしくは中高一貫の持ち上がりであれば6年間の授業計画を立て、それにしたがって時間ごとの内容を決めなければならない。国語のM先生は、日本では国語の教育は高校で終わってしまうので、それまでに世界に出しても恥ずかしくない人材を育てるのが目標だったと語っていた。資料は手書きだったので、次第に腕が動きにくくなり、担任を外してもらったということなので、かなりの重労働に耐えていたわけだ。それを続けたのは使命感であろう。

 ということで、多くの学校が「塾化」しているようなのだが、これも大学への合格実績が生徒を集めるための条件になっている事情があろう。だから、授業時間を増やし、毎日小テストを繰り返して高得点を得るためのトレーニングを繰り返さざるをえないのだ。これが悪循環を生む。見識は広がらず、考える力が身に付かない。

 これは教育現場における問題だが、日本の企業社会も同じではないかと思う。人を育てる余裕がない。マニュアル通り動ける人を育てる。そしてその人を評価する。だから予想外の事態が起こった時に対処できない。短期的な成果ばかりを追い求めると、じわりじわりと組織の力が弱っていく。肥料をつぎ込んで収量を上げると、土地がやせていくのである。

 たしかに時間がない、余裕がない。とはいえ、その状況のなかでも知恵を絞れば何かしらできることはあるはずだ。先ほどのN高の場合は、生徒の質自体が全国トップだという事情もあるが、それでもまわり道をさせるには信念が必要だろう。6年がすぎれば受験はするのだから、最終的にはその結果も問われるのである。

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