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2013年8月の投稿

2013年8月31日 (土)

獣害

 お盆休みに実家に帰った。久しぶりに高校時代の友人であるU君宅に他の友人2名とともに集まった。U君の実家はかつて民宿を経営しており、空き部屋がたくさんある。

 そのなかの一人であるM君とは30年ぶりの再会であった。齢はとったが、人間根本的には変わらないものである。もう一人30年以上会っていないN君も来る予定であったが、家の事情で来れなかった。これは残念だった。身内で「青砥事件」と呼ばれる災難に遭遇したのは彼との因縁である。

 さまざまな話題が飛び交ったが、そのなかで意外な事実を知ったのでここに記しておく。H君と同じ演劇部にいた岡室美奈子が、現在早稲田大学の教授になっているという事だ。それなりの立場にいる人物なので実名で上げておく。

 さて、今日書きたいのはU君の父上から聴いた話だ。それは、老人が育てた畑の作物が獣に荒らされるという話だ。猪、鹿、猿がその犯人だが、特にひどいのが猪だという。猿はいたずらする程度だが、猪は根こそぎ荒らしていくという。柵を作ったり網を張ったりしない、無防備な状態で耕作を続けることは不可能だと言っていた。

 獣が人里まで下りてきていることにはいくつかの理由があるだろう。個体数が増えれば生息地域が拡大する。人口が減少すれば人間の生活域に近づきやすくなる。人間が住む世界が獣に奪われていくのだ。これは地方の衰退の一側面でもあるのだろう。

 紀勢本線が走る東紀州地域では、列車と鹿の衝突が多発している。私の乗った列車も一度遭遇しているし、U君の父上は二度経験したらしい。これはかなりの確率である。獣に罪はないとはいえ、人間も暮らしていかねばならない。それも地方に残された老人のことである。一定の駆除は許されても然るべきである。

2013年8月27日 (火)

「風立ちぬ」

 映画ファンは、スクリーンに映し出される映像を素直に追っていればよい。製作者の意図など読む必要はないだろう。ただし、作品をどのように解釈するか考えることには面白さはある。それは作品と自分との間の問題であり、作り手は関係ない。

 この作品には雑多なものがない。描かれている時代には、様々な困難、厄介な事柄が身の回りにたくさんあったはずだ。そういうものにはほとんど触れていない。特高警察などを、説明的に少し出している程度だ。戦闘機の製作には様々な制約があり、容易なことではなかったに違いないが、それを描いているわけでもない。

 困難と言えるのは、ヒロイン菜穂子の病である。この要素があるから純愛物語が成立する。この映画の中心は二人の恋愛であり、ゼロ戦の開発は周辺にあると思う。この恋愛ストーリーに女子高生並みに私は涙を流してしまった。要はそれだけの映画なのだった。これはこの映画や制作者を批判しているのではない。いろいろ受け止めはあるだろうが、私にとってはそうだったということであり、そういう感情を持てたことで、お金を払った価値はあったと思っている。

 私は、この映画は、二郎の映画ではなく、菜穂子の映画であると思う。

2013年8月26日 (月)

誤審、誤審と騒ぐが・・・

 審判は、相当なスピードで動く体、バット、ボールを肉眼で捉え、判断している。機械がやっているのではない。ホームランの判定にビデオの使用が採用されたが、これはその限界を補うものであるし、また見方を変えれば審判の人数を減らしたことへの補てんという意味もある。

 プレーは人間がするものだ。同様に審判も人間であった方が面白い。フェンシングなど肉眼では判定できない(こんなスポーツは近代に生まれたものに違いない)ものは除いて、人間が判定するのがプレーと一体感があってよいのだ。

 技術を向上させることが必要なのは当然であるが、あまりやかましく言わない方がよい。選手がかわいそうだという主張も分からなくないが、逆に自分の側に有利な判定もあるわけである。その時は審判に文句は言わないだろう。絶対的な公平性を訴えるなら、その時も文句をつけるべきだ。

 審判の心得としては、言った瞬間に間違えたと思ったら、間髪をいれず、ミスジャッジと宣告して訂正を入れることだ。間違いは誰にもあるのだ。その後の処置の仕方で、展開は随分違ってくる。

2013年8月25日 (日)

夏の休暇中に 佐多稲子の「樹影」を読む

 前から読もうと思っていたが、講談社の文芸文庫は値段が張るので後回しになっていた。ちなみに税別で1,400円する。新潮文庫などと比べると倍ほどの値段である。とはいえ、こういう売れない小説は出さないと手に入らない。

 主人公である麻田晋は長崎に投下された原爆の閃光や爆風にやられてはいなかったし、同じように柳慶子も直接の被害は免れていた。しかし、麻田は直後に爆心地に入り、柳慶子も1週間ほどのちに放射能に侵された地域に入った。

 麻田は画家で、妻と子二人を持つ身であったが、慶子と愛し合う仲になる。慶子は中国福建省出身の柳泰明の娘であり、国籍は中国にある。いわゆる華僑と呼ばれる人々の集団に人種的にも文化的にも含まれる人である。

 二人は、慶子が新たに営む喫茶店の設計を麻田に手伝ってもらったことからその関係が出来上がった。原爆投下から3年後の夏であった。その仕事を通じて二人は深い仲になっていく。(一般的な意味での「深い仲」という内容も含まれるが、より精神的で複雑な深さを持っていた)

 麻田はそれだけで食べていけるほど絵の売れる画家ではなかった。才能はないではなかったが、中央での評価が得られる条件に不足していた。また、胸の病から始まって様々な体調不良があり、それが原爆症の恐怖を生んでいた。いい絵を描きたい、中央で認められたいという渇望が彼の生きるエネルギーを生み出していたが、それを側面で支えるのは実の妻ではなく、慶子の愛であった。

 慶子は華僑の娘である。差別と貧困のなかに育ち、不利な条件に負けまいと気丈に活きている。二人はある意味、「まともでない」境遇に生きる二人として共感し合っている。慶子の肉体も原爆症と思われる様々な症状を呈していた。それが残存放射能から来ているものかどうかは医学的に確かなものではなかったが、慶子自身の人生に大きく影響するものであったし、麻田の負った苦痛、苦悩を理解する基礎となったのである。

 彼らの運命は麻田が妻子持ちであったということ、慶子が華僑の娘であったということを抜きにして考えられないのと同時に、原爆の被害にさらされたという彼ら自身にはどうすることもできない外的な条件に左右されたのである。このような物語を読むたびに、歴史に、あるいは「政治」に翻弄される人々の不運を感じずにおれない。そんな中でもけなげに生き、愛し合い、成長を求める人々にわずかでも希望を抱くことができるのは文学の救いである。現実はもっと過酷なものであろう。

 慶子は麻田の死後、政治運動に入りこむ。中華人民共和国が成立し、米ソに対抗して核武装するが、このことへの評価を巡って在日の華僑にも分裂が生じる。慶子は親が大陸出身ということもあり、北京を支持する。しかし、運動の疲れが出たこともあるし、原爆症の影響もあり、クモ膜下出血であっけなく死んでしまう。この物語において、終盤の内容はどんな意味を持つのだろうか。これも華僑であったことの悲劇なのだろうか。

 ところで、麻田の妻は何を感じ、何に生きがいを求めたのだろうか。どんな女であるかはっきりした描写がない。貧しい生活を支えるために内職をする姿が描かれている。慶子のことは知りながら、静かに夫の帰りを待つ女であった。彼女にスポットを当てるなら、これまた一つの小説が成り立つかもしれない。夫の愛を奪われ、奪った女の援助で生活しなければならない。この屈辱と原爆症の恐怖とを比較することはできないが、決して軽んずることのできないものである。

 広島には、井伏鱒二の「黒い雨」があった。そして長崎には佐多稲子の「樹影」がある。両者とも重たい作品であるが、「黒い雨」の方が分かりやすい小説であることは間違いなさそうだ。

2013年8月24日 (土)

『(株)貧困大国アメリカ』より

 堤未果さんの「貧困大国アメリカ」の第3弾を買ってきた。初めての新書は読んだが、2冊目は読まずで、今回の購入となった。

 今読んでいる途中だが、プロローグの一節が重要だと思われたので、ここに抜き書きしておきたい。

 「一九九二年にカナダ・メキシコとの三国間でNAFTAを結んだとき、政府は農業生産と雇用が拡大し、経済成長で国が豊かになると宣伝した。だが、実際、安い人件費と規制緩和でうなるように儲けたのは、労働者ではなく、多国籍企業のアグリビジネス(農業複合体)と製薬業界だ。カナダでは農家の七割が米国資本に買収され、メキシコではアメリカ製の安い農産物に市場を奪われた農家が次々に倒産、大量の経済難民が国境を越えてアメリカに入国し、最低賃金労働者となりアメリカ人の職を奪った。五〇〇万人の失業者を生んだNAFTAについて、「環境や労働者を守らず、多国籍企業と投資家のみを利する愚策」だと激しく国会で批判したかつてのオバマ上院議員は、NAFTAよりさらに企業寄りの自由貿易条約であるTPPを今、強力に推進中だ。」(新書 15ページより)

 何度も書いているが、社会に変容をもたらす要因として注目すべきは規制緩和と資本行動の自由化である。何でもありにすれば強力な資本はどこへでも行き、脆弱な経営を潰してしまう。日本でも同じことが起きうるし、すでに起こっている。労働市場の自由化は非正規社員の大量発生を招いた。安い労働力を大量に生んだということだ。TPPの推進は、NAFTAで起こったことを再現するだろう。

 ところで、アメリカの農業の工場化は恐ろしいものがある。鶏をぎゅうぎゅう詰めに押し込んで、抗生物質を与え、成長剤を飲ませる。肉の量は異常に増加するが、内臓や骨の成長が追いつかない。体重を支えきれずに骨折をする鳥が多いそうだ。これはステロイドを使ったボディビルダーに似ている。また、鶏同士が互いに突っつきあうようになるので口ばしを切るそうだ。やり方が徹底している。こういうところで食の安全が確保されることはない。

 遺伝子組み換え作物も怖い話だ。安全性に問題があるかもしれない。危険性を指摘する研究論文は政治的に潰されているそうだ。政府の中枢に関連企業に関係する人物が配置されているのだから、消費者寄りの政策が実施されるはずがない。オバマも政治資金でそれまでの政治信念を売ってしまったのである。

 アメリカ産の肉類に注意しなければならない。牛肉の輸入制限も緩和されたからますます危険になる。そういえば吉野家の牛丼はアメリカ産だった。穀類は輸入品を食べざるをえないが、肉類は避けたい。しかし、経済力がないものは安いものを食べざるをえない。そうすると自ずと輸入品にぶつかるのである。安いからいいではないかという考えもあるが、安い背景には様々な犠牲や危険が横たわっているのである。

 安全、安心は食の分野でもお金で買えるものになった。中国の富裕層は自国産のものを避けているようだ。

2013年8月18日 (日)

立ち読み 新潟少女監禁事件

 9年間以上もの長い期間、監禁され続けた少女ことを覚えているだろうか。

 休日にいつものように大手の書店を訪れ、この日は文庫本のコーナーを奥から順に見ていた。しばらくすると朝日文庫の書架に至る。朝日文庫は点数としては多い方ではないが、なかにはいい本がある。
 順番にタイトルを見ていた時に目に留まったのは、「新潟少女監禁事件」であった。ああ、あの長い間男の家に監禁されていた異常な事件の事かと思いだした。手に取ってざっと目を通してみると、事件は新潟県三条市で1990年に発生し、加害者は当時28歳であり、被害者の少女は小学校4年生だった。

 立ち読みして感じた点をいくつか。

 ①加害者は1年半前に、柏崎市で別の小学生の女子にわいせつ行為を働き逮捕され、執行猶予つきの有罪判決を受けている。この情報が後の事件に活かされていたら、早期の解決が可能であっただろう。自宅に監禁していたわけだから、捜査に入ればすぐに発見できたと思われる。
 ②加害者は母親と同居してたが、その母親が監禁の事実を全く知らないというのは不思議である。しかし、本によると実際に知らなかったようだ。息子との関係が悪く、暴力も受けていたとされることから、近づけなかったのだろう。こういう状態がこれほど長く続くことは極めて異常なことである。
 ③加害者は育てられ方に問題があり、社会への適応力を欠き、いわゆる引きこもり状態だった。この事件の数年前に起こった宮崎勤事件との類似性を感じるが、よく調べていないので軽々に論じるのはやめておく。

 ところで柏崎といえば、蓮池さんの拉致事件を思い出すが、それとこの事件とは何の関係もない。ただ、実際に柏崎を知らない人間にしてみれば暗いイメージとしてつながってしまう。きわめて異常な事件であるが、住民同士がお互いに関心を持たない、持てない状況が深まれば、どんな人間が何をして暮らしているか捕捉できなくなり、同様の事件を発生させる可能性を広げることになるだろう。

 最後に、不衛生で、栄養が極度に不足する状態でよく生きながらえたものだと思う。普通に考えれば、なんらかの疾病により早々に死に至っただろう。少女が希望を捨てなかったからに違いない。

2013年8月17日 (土)

各所に見える衰退の状況

 社会の矛盾は弱いところに集中的に表れるものであろう。人で言えば、生活困窮者であり、地理的に言えば大都市から遠い地方に矛盾が表れる。

 格差は確実に広がっている。非正規雇用者の増加がある。それは、バブル後の大規模なリストラ(企業行動)によって生み出されたものであり、制度的には派遣労働の自由化(政治的な側面)によって助長された。家計を支えていた夫の所得が減ることによって否応なく主婦が働きに出たという事情もある。また、企業が正社員の採用を絞り込んだことによる若者の非正規雇用者化も進んだ。

 リストラを免れた大企業の労働者はまだ恵まれている。給与所得者の平均所得を大きく下げているのは非正規雇用者である。世帯主が非正規の場合の生活困窮度は厳しいものがあるだろう。その家庭の子は十分な教育を受けることが出来ず、非正規となる可能性が高い。こういう人たちが下層を形成している。また、高齢で蓄えがなく年金も十分受け取れない人たちの困窮度は高く、下層の一角をなしている。

 幸にも正社員としてそこそこの企業に努めていると、そのような層の人たちと交わる機会がない。マスコミも特別な場合(何か事件があればカメラは入るが)を除いてはあえてそのようなところに目を向けることはない。だから格差社会だとは言われても、実感を持っていない人も多いのである。しかし、社会の矛盾はそういうところにしわ寄せとして集中する。その人たちを残して社会の再建はあり得ないだろう。

 一方で地方の問題がある。私は紀伊半島の先端に近いところの出身である。紀伊半島は日本最大の半島である。和歌山市と伊勢市を結ぶ線から南は平地が少なく、農業を除いて産業が育ちにくい。したがって住民も市町村も所得が少ない。ここに過疎化、高齢化と国からの税の分配減があって、衰退する一方である。この地域で回っているお金は、高齢者の年金や役所の職員の収入などである。これは今後増える見込みがないから、さらなる衰退は免れない。一時的に公共事業でお金が回ってくるかもしれないが、財政問題があり長くは続くまい。

 このように、都会でまずまずの生活をしている人たちからはよく見えないところで社会の矛盾の激化が進んでいる。一時期、中間層があつく、一定のゆとりのある時代はあったが、それも20年ほど前までの期間であって、それ以降は苦しくなっている。どうすればいいかというのは難しい問題ではあるが、この現状はよく認識すべきであろう。

 

2013年8月15日 (木)

精神医療のいい加減さ

 厚生労働省の情報によれば、平成20年に精神科で診療を受けた人の数は、323万人である。平成11年が204万人なので、その増え方の大きさに驚きを覚える。約120万人の増加で、約6割の増加率である。

 内訳をみると、もっとも増加しているのは「うつ病など」のカテゴリーで60万人増えている。次にアルツハイマー病が約20万人増加した。この急激な増加は不自然である。これは人間の脳自体の変化というよりも社会的な環境変化、言い方は変だが、病気以外の条件で病気になったということではないか。これは患者数であり、病院や医院に受診に訪れて診察・治療を受けた人の数であるから、「今までは行かなかった程度の人まで行くようになった」と考えれば説明がつく。また受け入れる医者の方も、あなたは病気ではないと診断して帰せば、この中には人数として入らないはずである。

 「うつ病」は企業で働く人たちのなかで非常に目立つようになり、珍しくなくなった。したがって病気の表明に対する抵抗感は減少した。そうすると自分に本に書いてあるような傾向が出た場合に医者へ行こうとする。会社もまた、症状が重くなったら困るので医者へ行くように勧める。このような流れで「患者」が増えたのではないか。患者が増えだすと、心療内科の看板を上げる医者が増える。心療内科は設備投資がいらず、気軽に始められる特徴がある。医者の方は、症状を訴えられるととりあえず「うつ状態」という診断を下し、薬を処方する。

 このようにして精神疾患の患者数が増え、心療内科医も増え、投薬の量も増え、医療費が増えていく。これは医者や製薬会社にはおいしい話である。誰でも彼でも患者に仕立て上げていないだろうか。先も言ったように、適切な診断をして、「あなたは病気ではない。心の持ち方を変え、生活を改善すれば自力で改善できる。」と言い切れる医者は少ないのだろう。かなりの部分は、まわりの人の援助や本人の意志で改善が可能なものではないだろうか。つまらない医者にかかってしまうと、ろくに診察もせず投薬だけして、定期的な診断を指示される。そんな状況で薬への依存が生まれる。長期化すると副作用が現れる。もともと薬なしで治る者が、薬がもとで社会に復帰できない体になってしまうのだ。

 社会が窮屈になると、環境さえ変えればすぐによくなる精神的な傾向に対して手が打てなくなる。住む場所を変えるとか、勤め先を変えるという事が大きなリスクを伴い容易ではない、そうすると、薬で、ということになる。病気を生産する社会なのである。

2013年8月14日 (水)

府営プールにて

 子供が大きくなると、一緒にプールに出かける機会はなくなる。この齢になってプールなど行かなくてもいいと思われるかもしれないが(確かに私の年代の人はこの府営プールにはほとんどいない)、お盆に田舎に帰った時に未だにきれいさを保った砂浜で海水浴をしたいがための準備として体を焼いておく必要があるのだ。

 府営プールに来ているのは、小さい子供のいる家族か、中学生、高校生のグループが大半である。結構な人数が集まり、広い駐車場も満車になるほどだ。プールは広めだが、これだけの人が入るとかなり汚れているだろう。鳥の毛や虫が浮いていたりする。塩素消毒はしているが、大丈夫なのだろうか。

 私は泳ぐのが目的ではないから、ほとんど水に入らない。足を浸す程度である。坊主頭で筋肉質のおじさんがプルサイドでじっとしていたら異様なものがあるだろう。ちょっと変なおじさんなのかもしれない。

 遅めの時間に行くので、帰るころには人が少なくなり、駐車場も空きが目立たなくなっている。帰り道に公園内のベンチで休む。さすがに周りが緑だけあって吹く風が涼しい。近くに家があれば、散歩には最適な場所である。子どもたちが小さいころ、ここへ何度も連れてきて遊ばせたことを思い出した。

2013年8月13日 (火)

薬は、やはり、「毒」である

 私は結構薬を飲む方ではないだろうか。睡眠の質が悪く、昼間に眠気を生じるので、自宅近くにあるK病院の睡眠外来に掛かった。そこで、リタリンとモディオダールを処方された。リタリンは安いが、モディオダールは高価な薬だ。高価なだけに確かに眠気がとれる。2錠飲むと確実に効く。しかし、続けて服用すると湿疹が発生するし、夜さらに眠れなくなる。

 夜眠れない時があるので、会社近くの医院で睡眠薬を処方してもらった。ドラールとマイスリーという薬だ。ドラールは長時間持続するタイプ。マイスリーは即効性があるタイプだ。私は寝つきはよく、途中で目が覚めるタイプなので、ドラールの方が合っていると思うが、血中濃度が半減するのに30時間かかるという薬だから、翌日まで眠い状態が続く。そして最近では睡眠薬を飲んだ翌日は軽い頭痛が起こる。

 モディオダールを飲む ⇒ 眠れなくなる ⇒ マイスリーを呑む ⇒ 頭痛がする ⇒ セデスを飲む  最悪の循環である。

 薬は基本的に毒なのである。少量服用することで辛うじて薬の役割を果たす。規定以上の量を飲むと副作用が出る。また長期間服用すると、依存性が生まれたり、体を破壊したりする。何かで読んだことがあるが、精神病院では薬の過剰投与が常習化しており、それが原因で死亡する人が多いという。それでも問題化しないのは、精神病患者が世間から疎んじられているからだろうか。

 薬は怖いと思わなければならない。使っても、必要最小限にとどめるべきだ。薬品メーカーは必死に売ろうとするが、薬品メーカーが大儲けする社会は幸福な社会ではない気がする。難病を持つものにすれば特効薬の開発は神の助けのようなものだが、病人でもないのに病人扱いをされ、薬を大量に投与されている場合も多いのだという事を知ろう。

2013年8月11日 (日)

関心を向ける

  人間は直接見たり聞いたりしたことに反応する。生活の現場だけではなく、テレビやインターネットから得た「情報」や「刺激」に反応して、考えたり、感じたりしているのだ。そういうきっかけなしに考えることは皆無に近い。だから、受動的な「受信」態度だと、当然ながら情報の傾向に人間の考えることは流されていく。これは恐ろしいことである。

 大事なことは、自分から情報を取りに行くことであり、それは流行とかそういうことではなく、自身の長く持ち続けている興味や関心によるものでありたい。そうしないと、報道されない大事なことに誰も目を向けることがなくなってしまう。

 人間は考えているようで、ほとんど考えていない。あるいは「思考」していないといった方がいいかもしれない。生活に余裕がないせいだろうか、教育のせいだろうか、思想が育たないせいだろうか。

 もともと無意識に行動している人間がどうしたら思考するようになるのだろうか。まずは、世の中で起こっていること(起こっていると報じられていること)を信じないことである。少なくとも丸呑みしない。見えているのは全体のごく一部であること。一部は全体を表さないこと。必ずしも真実ではないこと、などを前提にして見つめる必要がある。信念を持てば、自ずと「思考」するようになる。

 見えない部分に思いを巡らせることが、心の狭隘化を防止する。また人間や組織の成長によく効く肥やしになるに違いない。

2013年8月10日 (土)

ねじれ解消で案じられる、アベノミクスと国民生活との「ねじれ」

 参院選で自民党が圧勝し、衆参のねじれが解消された。この結果を、好意的に報道するマスコミが大半であるように見える。ねじれていると衆院で決めたことが参院で否決され差し戻しになる。そういうことでは時間がかかりすぎ、国政が前に動かないという捉え方がされてきた。

 確かに安倍政権の政権運営は一つの障害を乗り越えたと言えるだろう。安倍首相の考えていることが前に進み始めるだろう。

 経済面ではどうか。アベノミクスはどうなるのか。為替や株価についてはすでに動いており、今後はアメリカの金融政策や経済実態、また新興国の経済成長の具合によって上下するのではないか。安倍政権が主導できるわけではないだろう。「デフレ」からの脱却を金融政策と財政出動に大きく依存してしまうと財政への信任をなくす結果となる。それが経済全体への波及効果を持てなかったらマイナスの効果を生んでしまう。

 そこで、次の矢である「民間投資を喚起する成長戦略」が重要になる。この中身は、基本的には「規制緩和」であると思う。規制緩和と言えば、橋本内閣と小泉内閣が進めた政策である。この結果、雇用形態が大きく変化し、低所得の勤労者が増加して格差が増大した。これをデフレの結果だと捉える人もおれば、デフレの原因であるという人もいる。また、そもそもデフレなど起こってはおらず、物価の下落はわずかなもので、ただ所得が大きく下がっただけであるという主張もある。

 このままでは、TPP交渉が進んでいく。労働法制においても解雇の自由化が進む恐れがある。日本が再び成長を始めるには、成長産業にとって有利な貿易環境や資本が自由に移動できる環境を作る必要があるし、成長できる産業に労働者が移動しやすい条件を作る必要があるということである。

 しかし、実際はどういう結果を招くのだろうか。経済指標などの報道を見てみると若干消費が活発化したようだが、それは株高による富裕層の消費であったり、夏の賞与の増加による大手企業の労働者による消費に依存しているのではないか。まだまだそれは一部の現象だと思われる。タクシーの運転手に聞いてみると売り上げは以前と全く変わらないと言っている。

 多くの国民にとっては恩恵のない政策が進むだろう。逆にますます苦しくなる。女性の活用が有用だと言われており、それ自体悪いことではないが、正社員と同じ、あるいは男性と同じ給与を前提としているわけではなく、低賃金労働者としての期待が含まれているように思われる。

 所得の減少と社会福祉の後退が進むだろう。アベノミクスと国民の利益との「ねじれ」が生じる。これが実態ではなかろうか。それなのになぜ自民党はこれだけ多くの議席を獲得したか。円安、株高の演出に一部の国民が幻想を抱いた。確かにその演出はうまく、マスコミも好意的に報じたという事がある。民主党への失望がそれを助長したとも言える

 経済政策について触れたが、次は純粋に政治的な問題が残されている。改憲問題である。今日はここで終えるが、この問題も国民との間で「ねじれ」がある。誰も戦争をしたいとは思っていない。平和を希求しているのである。

2013年8月 4日 (日)

富士山頂で迷い犬を保護

 ネットに以下の記事が流れていた。

 富士山頂で目撃情報が相次いでいた迷い犬とみられる犬が29日未明、保護された。関係者は「とりあえず保護できて良かった」と胸をなで下ろしている
 県御殿場保健所によると、同日午前3時ごろ、山岳ガイドが、民間団体「RJAV被災動物ネットワーク」(東京都)と保健所が須走口山頂付近に設置した捕獲器の中に犬がいるのを発見し、関係者に連絡した。29日午後にブルドーザーで5合目まで犬を下ろした後、病院で健康状態を調べる。保健所は犬の情報を公示し、犬の飼い主が名乗り出るのを待つという。
 犬は茶色の中型犬で、やせ細っている。7月の開山以降、山腹や山頂で登山者らに頻繁に目撃されるようになり、ネット上で話題になった。捕獲器はRJAVの要請で24日に設置されていた。
 (静岡新聞社)

 この手の記事を読むといつも思うのだが、動物を大事にすることに異論はないが、それに比較し、人間の扱いはどうなのだろうか。

 この犬以下の扱いを受けている人たちがおびただしい数いるのではないか。日本にもいる。食えない人がいる。病気でも看てもらえない人もいる。気にかけてもらえない人がいる。外国では自由を奪われている人たちがいる、内戦で命を失った多くの人たちがいる。犬以下である。高級な缶詰などの食事を提供される犬は全く幸せな境遇にいると言わざるをえない。

 

2013年8月 3日 (土)

あれでも首相経験者ですからね

 あの人は福岡の出身ですね。弱い人たちを危険な場所でさんざん働かせて財を成した家のご出身です。

 人間、つい本音が出てしまうものです。馬脚を現すという言葉がありますが、すでに何度もやってしまっているからこの表現は使えませんね。

 お金に不自由なく育って、良家のご子息が多く通う学校を出ているのに、なぜあんなに品がないのでしょうか。

 品が良ければいいというものではありませんが、誠実さは態度に出るものでしょう。I知事やH市長もほとんど品を感じさせませんよね。市民、都民、国民のために汗を流してくれるだろうとは思えない。

 これだけ政治家の失言が頻発すると、正体は変えずとも、そこから少しは学習しそうなものですが、それもできません。嘘をつかれるよりは正体が見えた方が有権者にとってはいいのですが、あまりに気を使わないというのは馬鹿にされているように思います。

 地位や名誉やお金のために政治家をやっている人を国会から追い出そうではありませんか。贅沢な生活をし、先生先生と呼ばれていたら、国民の気持ちなど理解できないし、下層の方には目が行かなくなります。極貧の生活をしろとは言いませんが、中の上ぐらいの生活でいいのではと思います。

 国会の定数削減を言いますが、それよりも私は俸給を下げればいいと思っています。議員は多い方がより多くの国民の声を聴くことができます。安月給がいやなら議員にならなければいいのです。活動に必要なお金は支持者からのカンパに頼ればいいのです。カンパもしてもらえないような人なら当選しなくてもいいのです。

 韓国の民度が低いと言った大臣がいましたが、政治家の程度が低いことを恥じるべきではないでしょうか。こういう人たちを私たちが選んでいることを恥じましょう。直接こういう人たちに投票していなくても。

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