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2013年4月28日 (日)

半分・灘高生だった私 7

 物理のT先生は非常にいい先生だった。私は物理が苦手だったので、そういう意味では近寄り難かったのだが、同窓会でお話をしてからは毎年年賀状を差し上げ、返事を頂戴していた。あるとき、奥様から返事をいただき亡くなったことを知った。

 T先生は戦時中戦闘機の設計をしていたらしい。授業中に軍歌を歌うのは困ったものだと、国語のM先生がぼやいていた。T先生は膝の痛みを抱えて苦しんでおられたが、あるとき思い切って膝から下を切り落とした。そうすると痛みが全くなくなりすっきりしたそうだ。もっと早くやっておけばよかったと話されていたことを思い出す。

 国語のM先生は、私が入学したときに同県の私立高校から転勤されたばかりだった。確かM先生は岐阜県の出身で、温和な性格の先生だった。数年前にお会いした時に、大阪のある新興進学校で教えていると聞いた。その前には、福井県の敦賀K高校に招かれて行っていたはずだ。K高校は、野球の方で有名になってしまったが。

 体育のY先生はラグビーが専門であった。全日本の強化合宿にはコーチとして招かれることもあったらしい。そういう先生なので、監督をしていた灘高ラグビー部は兵庫県ではそこそこのレベルのチームだったのである。授業でもラグビーをやったので、真っ赤なジャージを買わされて身に着けていたことを思い出す。先生の話で思い出すのは、灘高は狂っているという話で、1500メートル走をやらせると疲れるからという理由で父兄から苦情が入るのだという。のちにドキュメンタリーとして放映されたテレビ番組では、あれは体力のない生徒には体に悪いという発言を生徒自身がしている。

 漢文の授業は校長のK先生が行っていた。授業数も多くなかったのであまり記憶はない。宝塚ファンであり、伝説の授業として有名なH先生は当時教頭で、集会などでお話は聞いたが、授業を受けたことはない。今思い返すと優秀な先生がたが揃っていたように思う。

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