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2013年4月の投稿

2013年4月30日 (火)

食博2013 ゆるキャラ

  4年に一度の食博。大規模な物産展という感じ。今日はお天気がよかったこともあり、かなりの人出。
 勤務する会社が外食協の賛助会員なので、数百枚の前売り入場券を購入している。その一部は社員に配布された。それを使っての入場である。

 今日はダフ屋も出ていた。当日2000円のところ前売り価格の1500円でさばいていた。額面より高く売りつけるわけではないから罪は軽いが、あの券はどこから出回るのか。大量に引き受けた企業が現金化するために売りさばいたのか。

 アジアの民族料理や牛肉や牛タンの串焼きを食す。ドイツのビールとソーセージもよし。満腹となった。どこのイベントでも同じだろうが、腰を下ろす場所がない。足腰が疲れる。梅田まで戻ってきて喫茶店で休んだ時はホッとした。

 今日一番面白かったのは、どこでもやっているんだろうが、ゆるキャラの登場であった。

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2013年4月29日 (月)

半分・灘高生だった私 8

 灘の学園生活で記憶に残ることを書き並べると、体育祭、文化祭、修学旅行、野球部など。

 体育祭ではスエーデンリレーに出場し、半周走った。当時一学年下には幸田という生徒がおり、全国的にも有名なランナーだった。彼の走るところも見たが、並みの走りではなかった。入場行進で後ろ向きに行進したクラスがあった。規律に厳しい宗教系の学校だったら考えられないことである。

 文化祭では劇に出演した。素人のにわか芸で、とても鑑賞できたものではなかっただろう。灘の文化祭といえば、今は女子が押しかけて大賑わいだが、当時はそんなことはなかった。一部に女子と遊んでいる生徒もいたが、特に高校から入った連中にはそういうタイプはほとんどいなかった。

 修学旅行は九州。フェリーで行ったので、船酔いで苦しかった。それが一番の思い出だ。それからバスガイドさん。宮崎交通のガイドさんだ。えびの高原を歩いたが、足元が悪かったのでガイドさんに手を差し出したのだが無視された。聞くところによれば、その後文通していた生徒もいたらしい。その他の出来事では、どこかのドライブインに入ったときのことだが、他校の生徒が灘高校の生徒が珍しいらしく、バスの周りに群がってきたことがあった。見世物じゃないぞと思った。

 2年生になってから野球部に入った。しばらくして休学したので、短期間だった。当時キャプテンでその後医師になったM君は少しだけ覚えてくれていた。間もなく夏の高校野球の予選が始まる時期だったので、人数の関係で初めからベンチ入りメンバーだった私は新聞に名前が載ったのである。

 こんな断片が思い出されてくる。封印された記憶だったが、最近それが解放されつつある。

2013年4月28日 (日)

半分・灘高生だった私 7

 物理のT先生は非常にいい先生だった。私は物理が苦手だったので、そういう意味では近寄り難かったのだが、同窓会でお話をしてからは毎年年賀状を差し上げ、返事を頂戴していた。あるとき、奥様から返事をいただき亡くなったことを知った。

 T先生は戦時中戦闘機の設計をしていたらしい。授業中に軍歌を歌うのは困ったものだと、国語のM先生がぼやいていた。T先生は膝の痛みを抱えて苦しんでおられたが、あるとき思い切って膝から下を切り落とした。そうすると痛みが全くなくなりすっきりしたそうだ。もっと早くやっておけばよかったと話されていたことを思い出す。

 国語のM先生は、私が入学したときに同県の私立高校から転勤されたばかりだった。確かM先生は岐阜県の出身で、温和な性格の先生だった。数年前にお会いした時に、大阪のある新興進学校で教えていると聞いた。その前には、福井県の敦賀K高校に招かれて行っていたはずだ。K高校は、野球の方で有名になってしまったが。

 体育のY先生はラグビーが専門であった。全日本の強化合宿にはコーチとして招かれることもあったらしい。そういう先生なので、監督をしていた灘高ラグビー部は兵庫県ではそこそこのレベルのチームだったのである。授業でもラグビーをやったので、真っ赤なジャージを買わされて身に着けていたことを思い出す。先生の話で思い出すのは、灘高は狂っているという話で、1500メートル走をやらせると疲れるからという理由で父兄から苦情が入るのだという。のちにドキュメンタリーとして放映されたテレビ番組では、あれは体力のない生徒には体に悪いという発言を生徒自身がしている。

 漢文の授業は校長のK先生が行っていた。授業数も多くなかったのであまり記憶はない。宝塚ファンであり、伝説の授業として有名なH先生は当時教頭で、集会などでお話は聞いたが、授業を受けたことはない。今思い返すと優秀な先生がたが揃っていたように思う。

2013年4月27日 (土)

半分・灘高生だった私 6

 灘高校の生徒は優秀だと言われている。それは事実である。とはいえ、皆同じようにできるわけではない。当然ながらばらつく。

 成績で最上位の生徒は驚くほどできる。国際数学オリンピックや国際物理オリンピックなどで優勝してくる者がいる。同学年全国120万人のなかでもトップクラスの生徒である。私のいたクラスでも2~3人はすごい人がいた。こういう人の才能は異次元のものである。競い合おうと考える方が大間違いである。さらに、それに続く数十人は他校の生徒と比べてもずば抜けてできる。今年の入試で、東大理科Ⅲ類に27人の合格者を出したが、この集団のなかに入る場合が多い。文Ⅰや京大医学部に進む者もいるのだが、メインは理Ⅲである。

 そして、それ以下になると他の進学校の成績優秀者と変わらないレベルになる。そして私がそうだったように一部の科目で陥没する生徒であれば、他校の総合的にできる生徒よりも劣ることになる。だからと言って、そのことを問題視する必要もない。ばらつくのは当然だし、陥没した生徒でも一部には光る部分があるし、できないからといって仲間外れにされるのでもない。もちろん、できる生徒は周りから一目置かれるだろうが。

 前に書いたように、私は数学が苦手で、いわゆる「赤点」を取るような状態で、H先生から普通なら進級できる成績ではないがと言われた。しかし、これは灘にいるからそうなのであって、のちに転校した高校では、授業を真面目に聞くこと以外にはほとんど勉強しなかったにもかかわらず成績はトップだった。苦手の数学でもトップだった。だから、あれで進級できなかったとしたら理不尽な裁定であるとも考えられる。

 この回の要点は、灘の上位はすこぶる優秀だということ。中位以下は他校とさほど変わらないということである。ただし、すこぶる優秀な生徒と学ぶ機会を持つことは他校の生徒には経験できないことなのである。

2013年4月21日 (日)

半分・灘高生だった私 5

 高1の時の担任はO先生。すでに亡くなっている。高2の時の担任はK先生である。当時20代の若い先生だったから、まだお元気で活躍されている。私はこの先生に大変お世話になった。

 K先生は東大出身であるが、貧しい家の生まれだと言っていた。東大に入った途端に親戚の態度が変わったそうだ。大学時代は自治会の活動をしていたそうで、話の内容からくみ取れる歴史観は左翼的なものであった。そういう点でも私に少なからぬ影響を与えている。

 K先生にはいろいろ悩みを聞いてもらった。あるとき、三宮で統一教会の勧誘に誘われて教会?についていったことがあった。そこでは信仰の話ではなく政治の話を聞かされた。誘ったのは成人の女性だったが、とてもきれいな人で、それに惹かれていったようなものだった。K先生にその話をすると、行かない方がいいよと言われた。今考えると懸命なアドバイスである。

 K先生は当時、周りに雑草が茂った古びた一軒家に住んでいた。学校からそう遠くない場所にあったと思う。そこで話を聞いてもらうのだが、先生は紅茶が好きで、私にも入れてくれた。私は話を聞いてもらうとずいぶん気持ちが楽になったが、根本的な解決にはならなかった。

 私は神経を患っていたので、そのまま灘高の生活を続けられなかった。いたたまれなくなって天王寺発の夜行急行で田舎に帰ったこともあった。釣り客が多く乗る列車で満席になることが多かった。早朝に家に着くと、当然ながら両親は驚いた。後で家内を通じて聞いた話では、夫婦二人で泣いたこともあったらしい。後から考えれば申し訳ない行動だが、その時はそう考える余裕などは全くなかった。

 仕方なく、休学することにしたのである。

2013年4月20日 (土)

半分・灘高生だった私 4

  私が灘高校を受験しようと思ったのは中3の2学期以降だったと思う。それまでは当然のように公立高校に行くと思っていたのだが、学区制ができたことにより、皆が行くT高校ではなくI高校に行かざるを得なくなった。そこで、それなら難関私学へも挑戦してみようという気になったのである。

 まず候補にあがったのは東海高校だった。父の友人が名古屋にいたので、頼んで資料を送ってもらった。しかし、受けるなら最難関の灘にしようという思いが湧きたった。ちょうど神戸には親戚がたくさんいたので土地に馴染みがあった。目標が定まってからは猛烈に勉強し始めた。平均睡眠時間は3時間。朝5時までやった。人間やろうと思えば、そこまで出来るものである。その時の私の精神は尋常なものではなかったに違いない。勉強というよりは、格闘技に近いスピリットであった。

 この時に知ったのは、頭を使うとおなかが空くということだ。とにかく夜中に腹が減った。しかし、そこは下宿暮らしであり、小遣いも少なかったので我慢する日が多かった。夕食時には、とにかく食べられるだけ食べておくのが防衛策だった。自宅ではあのような経験はできなかっただろう。

 受験の3か月前からは、このようにして時間が過ぎて行った。これは前にも書いたことだが、入試では普通ならできないような問題ができてしまった。また、勘も冴えた。英語では発音記号を選ぶ問題があったのだが、おそらく正解はよく似た選択肢のうちの片っ方に違いないとにらみ、勘で一つに決めた。後で調べると、ことごとく的中していた。そういうことが起こるのである。

 今から考えると、成績がトップクラスでなかった者が灘を受けようと思い立つことが普通でないのだが、そういう大胆なことを考えること自体に成功の芽があったのだろう。

2013年4月13日 (土)

半分・灘高生だった私 3

 私は灘高校を受験して合格したのだが、中学の成績がずば抜けてよかったわけではない。三重県でトップの私立中学だったからそこそこのレベルはあったのだが、そのなかで2年生までは中の上ぐらい。3年に入ってから上のグループに入り、入試直前でも上の中ぐらいだった。しかし、恐るべき集中力を発揮して飛躍的に力が伸びていったことは事実である。以前にも書いたことがあるが、唯一自慢できることは、塾へも行かず、家庭教師も付けずに灘高の試験をパスしたことである。ただし、ずいぶん無理をしてしまったので、それが後の病気を生んでしまった。

  灘高で苦労したのは病気の件もあるが、数学の授業についていけなかったことが大きい。元来苦手な科目だったが、入試は幸運もあってまずまずの成績で通過した。しかし、やはり苦手科目だったので、授業のスピードについていけなかった。とにかく2年分を1年でやってしまうのだから早い。教科書など理解しているのが前提である。私は理解するのに時間がかかる方なので(いったん理解すれば応用は利くのだが)、分かる前に次に進んでしまっているのである。同様に物理も苦手だった。

 このような状況で試験を受けると10点とか20点という点数が付く。さすがに落ち込む。これまでそういう経験がなかったからである。文系の科目の場合はまあまあ人並みには理解できていたと思うのだが、ひどい科目があると勉強全体に影響を及ぼして、面白くなくなっていく。結局私は国立大学を受験しなかった。転校して遊んでしまったことも大きいが、数学と理科を勉強しようという意欲が湧かなかったからである。それでも、地方の高校は授業の進度が遅いので、基礎は十分に理解できていた。まあ、のんびりしていたから病気もすぐに快復したのだが。

 大学は私立文系一本。勉強しなかったので、志望大学には不合格。行きたいのは早稲田大学の政治経済学部だった。とはいえ、感触としては合格に近い線にはあったように思う。これは灘の時の貯金があったからだ。それからさらに半年は遊んでしまったが、9月から予備校に通い真面目にやった。すると成績も順調にあがり、次は政治経済学部政治学科に合格したのである。

 そういうわけで、灘の連中が東大、京大、その他の大学の医学部に進むのが当たり前であったのとは対照的に、私立大学に進んだ。大学在学中に、同じ学科に灘の人が入ってきたが、すぐに出てこなくなり、次の年には東大に進んでいた。早稲田に進むのは、ジャーナリストの勝谷誠彦や私のように、特定の科目が極端に弱いという場合であろう。

2013年4月 7日 (日)

半分・灘高生だった私 2

 あれはずいぶん昔の話で、結婚はしていたと思うが、子はまだ小さかったはずだ。その時期に灘高校第29回卒業生の同窓会に呼ばれた。呼んでくれたのは、同じく高校から入学した岐阜県出身で弁護士のD君であった。なぜ呼んでくれたのか理由は確認していないが、最近知ったところだが、卒業アルバムに私の写真が載っているだそうだ。この写真は、私が休学しているときに元気であることの証拠として送ったものに違いない。これを見て、呼んでみようという考えが浮かんだのではないかと推理する。

 その時は大阪に住んでいたが、東京まで出かけて行った。確か、法曹会館で行われ、結構な人数が参加していた。しかし記憶では、そこに知った顔は少なかったように思う。今になって分かることだが、同窓会への参加率は中学から入った者の方が高いようである。結びつきの深さを考えれば、これは当然のことなのである。

 その後、神戸で開かれた同窓会に二度呼んでもらい参加した。一度は、二次会にも参加している。二次会は、同じクラブに入っていた者同士が集まる傾向があるようだ。
 回を重ねると顔見知りも増えてくる。これをきっかけに年賀状のやり取りが始まることもある。そうすると、次に会ったときに「どうも」と、挨拶を交わすことになる。

 それから数年経過し、関西在住者の同窓会に参加することになる。こうやって何度か顔を出していると、あたかもOBであるかのような振る舞いが生じ、周りも特別意識しないことにより、違和感なく、その関係に入り込んでしまうことになる。これによって不利益を被る者はないだろうし、逆に特別な利益を生むことにもならない。集まる人数が一人増えたという事は、それだけ入ってくる情報の増加につながるわけで、それが集団の利益といえば言えなくもない。

 現在、こういう状況にあるのである。

2013年4月 6日 (土)

半分・灘高生だった私

 私は、アントニオ天谷という筆名でブログを書いてきた。アントニオ天谷が私だと知っている人は、会社の後輩の一部と高校と大学の同級生の一部である。

 私には、これまであまり語りたくない過去があった。どうしても書きたいときは、自分自身の過去ではない偽装を施した。しかし、年齢が五十代半ばを過ぎる、すなわち残りの人生がこれまで生きてきた時間よりもうんと短くなると、隠している必要性も徐々に薄まる。残された期間に過去の事実をさらけ出したい気持ちもある。もはや守るものがなくなりつつあるからである。できることなら、こんな人間がいたこと、こんな人生を歩んだ男がいたことを知ってもらいたいという思いがある。

 私は兵庫県にある私立灘高校に入学し、途中で転校している。転校したのは、入学から2年と2~3ヶ月経過した時期、順調であれば高3になっている時期である。私は当時神経を患っており、治療のために休学していた。復帰するまでに半年以上要したので、留年してしまった。いったん戻ることができたが、高2で再スタートとなった。そしてしばらくして転校。正味通学したのは1年半、すなわち高校時代の半分は灘高生だったのである。

 とはいえ、別の高校(三重県立K高校)を卒業しているので、灘高OBとは言い難い。にもかかわらず灘高出身者という認識を持ちうるのは、いまだに同窓会に誘われるからである。

 (明日に続く)

2013年4月 5日 (金)

黄害の国から

 この冬、中国では粒子状物質の排出による人体への影響が問題化し、それは偏西風に運ばれて日本にも飛び火した。どの程度の健康被害があるのか定かではないが、産業革命期のロンドンを思わせるような大気汚染である。

 この問題を考えているときに、自分が子どものときには日本にも数々の公害問題があったことを思い出した。四大公害病として有名なのは、水俣病、第二水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそくであった。公害物質の排出規制の甘さが指摘され、公害大国として世界に情報発信されていた。

 私の生まれ育ったところは立地の悪さから工業化が進まなかったので上記のような公害問題は発生しなかった。そんななかで、身近に感じた公害は、列車からの糞尿の垂れ流しである。(これを一部では、「黄害」と呼んでいた。)
 私の家は国鉄の線路に沿った土地に建っていたので、枕木の上などにちり紙がへばりついているのを目撃した。すぐに乾燥したり、雨で洗い流されて、臭いを感じたことはなかったが、今考えれば直接落とすというのは環境や衛生を考えないやり方であり、現在ではありえないことだ。

 日本も40年ほど前は、そんな状況であった。経済成長し、公害が社会問題化し、規制が厳しくなって、次第に改善されていったのである。中国で起こっていることは問題であり、対策を講じなければならないが、決して笑うことはできない。逆に、かつて経験しただけに、汚染物質を取り除く方法などについて助言できるのではないだろうか。もっとも、相手も聞く耳を持たばければならないが。

2013年4月 3日 (水)

浦和学院 堂々の優勝 ずば抜けた安定感 

 高校野球選抜甲子園大会で、浦和学院が優勝した。実力通りの順当な結果と言える。

 私は、この大会で一試合だけ観戦した。それは、浦和学院対土佐高校の試合だった。スコアは4対0であったが、点数以上に力の差を感じた試合だった。浦和学院のプレーは完成度が高く、土佐の選手が未熟に見えたほどである。

 この試合では打撃はまだ本調子ではなく、打ち損じも多かった。方や、守備は非常に質の高いものだった。守備練習の時から送球が正確で、たびたび逸れていた土佐とは対照的であった。選手一人一人のセンスの良さに加え、基本からよく鍛えられている印象を持った。

 投手については、左腕独特の伸びのあるまっすぐが目に付いた。この日は、まだ制球に不安定な面を残していたが、要所要所を締めていたので力を感じた。

 総じて、「負けないチーム」という印象があり、その通りの結果が出た。おそらく、夏に向けてさらに進歩するだろうが、欲を言えば、エースに過度に負担がかからないように二番手の投手の強化が必要になる。

 私は連覇も可能なチームだと見る。

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