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2013年3月 3日 (日)

自ら考え、自ら行動することの困難さ

 つくづく思う。人間は習慣の奴隷である。それは本人の怠惰に起因するのではなく、歴史的社会的制約の故である。社会のシステムは、システムであるかぎり予測可能な反復的行動を人に要求する。日本のシステムは他国に比べてより高い規則性を帯びている。多くの人々が、日々同じ時間に目をさまし、同じ時間に家を出て、同じ電車に乗り、同じ時間に会社の門をくぐる。

 同じ時間にパソコンを立ち上げ、目にした情報に同じように反応する。同じようにアクションを起こし、同じ程度に成果を上げ、同じ程度に失敗し、同じように落胆する。そして、同じように指導を受け、同じように反省する。

 そこには、きわめて保守的で「安定した」社会がある。それは革新性の欠如と同義であって、いったん停滞に陥った社会や組織を蘇生させる力を持たない。そこに、復活の芽を見いだすことは可能であろうか。

 「変える」という言葉は、多くの企業の改革のスローガンになっている。私の勤める会社もまた同様である。しかしながら、変革は遅々として進まず、旗を振る側を焦らせる。もっとも、旗の振り方もワンパターンである場合が多い。この伸びきった生活感覚にくさびを打つことができるだろうか。

 いくつか考えるところはある。たくさんはない。ひとつは制度の変更である。外的な力で行動を変えてしまう。勤務の仕方を変える。異動を頻繁に行う。報酬制度を変える。他社と社員交流を行う。などなど。これは間違いなく意識と行動を変えることになるだろう。しかし、副作用も当然ある。生活に影響を与え、利益・不利益を生むだろう。変化に対応できず、戸惑いや精神の疲弊を産むだろう。だから程度の問題がある。ただし、倒産の危機に瀕した企業は別だ。否応なく構造改革を断行しなければならない。社員もそれに耐えなければならない。

 もうひとつは、変化の兆候の見せ方である。なかには変わろうとし、変わりつつある人間もいる。その人間をいかに浮き彫りにするか。そして評価するか。変わることの恩恵を見せつけるのである。できれば、これまで脚光を浴びてこなかった人がいればいい。自分よりも遅れていた人が自分の前を走りだしたら、うかうかしていられないと思うし、自分にもできないはずはないと思うに違いない。

 以上の二つの組み合わせになるだろう。飽きず、諦めず続けなければならない。

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