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2013年3月の投稿

2013年3月31日 (日)

青空文庫

 最近知った。著作権が消滅した作家の作品をダウンロードできる。文章は本で読むものと決めつけていたので、パソコンで読むことは考えもしなかった。

 もっとも、これからも読むことはあまりないように思う。パソコンで画面を送りながら読むのは何となく落ち着かない。それならいったん紙に印刷してから読むだろう。しかし、それも手間だ。あり得るとすれば、電子辞書にコンテンツが入っているというから、それを出張中に車中やホテルで読むには適する。ただし、作品は古いものに限定されるので、たとえば夏目漱石の小説などを読むことになるだろう。意外に近いところでは坂口安吾がいる。他では、三木清や戸坂潤の論文がある。こういう分野は未だに陳腐化していないので結構読みごたえがある。

 本は本棚に並べておくだけで、その存在感において影響を受ける面がある。また、赤線を引いたり、付箋を点けたりすれば大事な個所を読み返すことができる。パソコンでそういうことができるかどうか分からないが、文学は読み流せばよいが、評論文などは繰り返し読まないと理解できないし、時間が経てば忘れてしまうことも多い。そういう問題に対応できるテクニックがパソコンにもあるのかもしれないが、それは知らない。

 現在の制度では、死亡して50年が経つと著作権は消滅する。有益なものこそ、もっと早く解放してもよかろうと思う。

2013年3月30日 (土)

日本の社会を大きく変えたのは何であったのか

 ①非正規雇用者の増大
 ②平均年収の低下
 ③自殺者の急増

 この三つは、規制緩和の流れのなかで時を同じくして起こった。日本の社会を大きく変えてしまったのは規制緩和の政策である。規制は社会の自由な発展を妨げるという宣伝が行われるが、自由な発展ではなく、社会の破壊を招くことがある。

 「規制」という呼び方は中立ではない。社会が存立するためには、何らかのルールや制度が必要である。都合の悪いルールや制度を「規制」と呼んでいるにすぎない。労働運動あるいは革新運動に勢力があった時代に、労働者の権利が守られる制度が確立された。ところが、それを良しとしない保守勢力の攻撃があり、運動の側も十分反撃できなかった。その結果、力関係が変わり、都合の悪い制度の改変が進み、構造の変化を生んだのである。

 これが90年代の後半からの出来事である。①②③のつながりは明白であろう。これはデフレの進行と無関係ではないのだ。明らかに需要を小さくしてしまったわけで、悪循環が生まれたのである。①②③を改善すれば、経済の発展が展望できるようになる。

 ちなみに、順番は明らかに①⇒②⇒③である。③は①、②の結果である。加えて言えば、③は製造業における大型リストラの結果でもある。

2013年3月24日 (日)

落涙禁じ得ず 忠臣蔵

 私は元来涙もろいタイプである。父親もそうだったから遺伝なのかもしれない。

 涙が止まらない芝居がある。芝居と言っても映画やテレビドラマだが、繰り返し制作されている「忠臣蔵」である。泣きどころ、泣かせどころというのがある。松の廊下は泣く場面ではない。涙を溜める場面である。切腹に至るすじが進むにつれて溢れだす。浅野内匠頭の無念があたかも自分の無念として沸き立ってくる。抑圧を感じながら生きているから共感するのであろう。

 次は、大石内蔵助が赤穂城で、仇を討つと宣言する場面。それまで殉死で話を進めていたが、皆が覚悟を決めて集まったところで真意を打ち明けるのである。「内蔵助の望みはただ一つ、怨敵吉良上野介の首でござる。」(主に、フジテレビ制作のドラマをイメージしながら書いているが、そこでは内蔵助は仲代達矢が演じ、内匠頭は中井貴一だった。ちなみに吉良上野介は大滝秀治。)

 その次は、内蔵助が日野家の垣見五郎兵衛を名乗って江戸に下っている途中、本人と遭遇する場面がある。ここも見どころで、先のドラマでは本物を中村梅之助が演じている。対面している間に赤穂の浪士と分かり、自分は偽ものだと引き下がる。内蔵助は、「武士は相身互い。よくよくのご事情があってのこととお察し申す。苦しき境遇にあればこそ、人の情けは身にしみてありがたきもの。」と答え、五郎兵衛は日野家の道中手形を差し出す。両人とも誠に上手い演技である。

 他にも泣ける場面はたくさんある。泣いてストレスを発散したいときは忠臣蔵に限る。

2013年3月23日 (土)

事業の拡大とは実はこういうことなのだ

 製造業にとって事業の拡大とは、たくさん物を売ることだと考えがちである。最終的には生産した商品が流れてこそ利益が生じるのだが、売ることに囚われていると容易には売れないし、売れたとしても価格の低下を招来して利益が縮小する。

 では、何を求めたらいいのか。実行すべきは、外部への組織拡張であり、社会的ネットワークの形成である。企業そのものの組織拡大は費用を増加させるとともに効率の低下をも招く。必要なのは外部への拡張である。別の表現をするならば、協力者の組織化である。直接組織の成員ではないが、利害関係を一にする人々を各エリアに配置して、さらに横の組織化を行うのである。そのことで企業の力は増大し、エリアにおける敵の力を抑え込むことができる。

 内容は重複するが、ネットワークの形成が重要である。それは企業の影響力を伝播するための関係性や結びつきの構築である。それは代理店網の形成であるし、企業のファンとしてのユーザーを育てることである。代理店やユーザーに、この企業の商品やサービスに対する信仰心を抱かせることだと言ってもよい。だから、営業活動は布教活動なのである。

 事業とは、あるいは営業とは、物を売り歩くことではないことを認識しなければならない。ネットワークづくりこそ事業拡大の本旨であることを理解し、そこに引き込むためには何が必要なのか、組織やその成員がどういう魅力を身に着けるべきかを戦略的に考えることが求められるのである。

 あらゆる機会を利用して、人との結びつきを形成、構築しなければならない。

2013年3月20日 (水)

ダブルスチール 走れたら走れ

 結果論である。成功していれば、監督と走者、走者と走者の呼吸がぴったり合っていたと称賛される。しかし、失敗すると采配のミスとして取り上げられる。

 高校野球ではなくプロなのだから、選手に判断をゆだねることはもちろんある。だが、走者が二人出ている状況ではどうだったのか。ここでは、行くか行かないかを明確にしておくべきだ。投手の動きを見ながらスタートのタイミングを計りつつ、一方の走者の動きも見定めなければならない。これは厳しい状況では無理な判断である。

 スチールするかどうかは監督の判断である。連打は難しいと判断したのなら、リスクを冒すことも選択の一つである。たとえ失敗しても責められるべきではない。しかし、指示を明確にしなかったのは監督のミスである。責任を選手に押し付けることになる。

 このプレーをどうのこうの言うわけではない。あいまいな指示は出してはいけないという教訓を引き出すだけだ。ビジネスの世界でもよくある話なのだ。違った解釈が可能な指示はしないこと。やるならやる、やらないならやらないである。責任は指示した者がとるべきなのだ。

2013年3月17日 (日)

人を大事にする

 「人権の擁護」は大事なことだが、その言葉は抽象的なものであり、ただ叫んでいるだけでは観念的な理解に陥って、具体的な実践が放置されることになる。人権というから難しいので、人そのものを大切にすることだと言えば分りやすい。

 それは、傷つけないということであり、正当に評価することである。相手を大事にし、大事にされる関係が信頼関係というものだろう。そういう関係の下にあることが、「よい」自分、「積極的な」自分を引き出す条件である。すなわち、互いに成長を促す、発展的な関係なのである。

 「真の全員参加」という経営方針がある。「自助自立」という社訓がある。私が勤める会社のものだ。全員が参加するためには、一人ひとりが自立していなければならない。それは、孤立ではない。自立しつつ結びついてこそ全員参加の経営が成り立つのである。そして、結びつくことは、先に述べたように発展的な関係を取り結ぶことなのである。

 元に戻るが、人権の擁護を声高に叫ぶ人物が、実際の生活ではあにはからんや差別的な態度をとっていることがある。主張は行動に裏付けを持たなければならない。

 言うは易し行うは難し。

2013年3月16日 (土)

マンネリ化は天才をも襲う

 ヤンキースに移籍したイチローが生き生きしたプレーを見せている。マリナーズの晩年は、結果が出ず、見ているファンもイライラする状況であった。彼自身は、これまでと同じように手を抜くことなく事前の準備に努め、試合でのプレーに集中していた。それでも、なぜかプレーに活力が見えないのは、気持ちの錆びつきのせいではなかろうか。

 燃えきれない状況にあったのだろう。プロとして、自分のベストのプレーを見せようとしても、チームの成績は不振で、メンバーが盛り上がらない。孤高の人となったイチローは、再びチームとして戦う喜びを求めたのである。それが、リニューアルイチローのためにはどうしても必要だった。ヤンキースでジーターらとプレーすることは、チームプレーとしてのベースボールの原点に戻ることであった。

 天才イチローにも気持ちのマンネリ化があったのである。それは肉体の瑞々しい反応をも消し去ったのだ。環境の変化が、錆びついた体や頭を蘇生することがあるのだな、と思う。こころの鍛練だけでは如何ともしがたいものがあるということを知らなければならない。

2013年3月10日 (日)

政策と階層の行く末 アベノミクスの影響は?

 日本の社会はこれからどうなるのか。安倍政権の政策によって、どのような変化が起こるのか。それは自分にとって得か損か。

 最下級の人々・・・財産はおろか、安定した仕事にも就けない人々。失うものは何もない。まずは、たとえ日雇いであっても毎日仕事があることが生きる条件である。アベノミクスが、彼らに出来る仕事を正味増やすのであれば有益であろう。また、彼らに対してなんらかの形で一定額の給付が行われたら、生活安定化の助けとなるだろう。現状は最悪であり、株が上がるとか円が安くなるとか、そういう現象は直接的には全く関係ない話ではあるが、派生的に生活条件が改善されたら今よりはましになる。

 低所得者(非正規雇用者)・・・とにかくぎりぎりの生活である。過去に正社員であった人も多いが、蓄えを切り崩しながらやっているのでいずれ貯蓄はゼロになる。家のローンが残っていたら大変だ。耐えきれないと家を手放すことになり、安い賃貸住宅に入ることになる。ぎりぎりの生活は変わらない。非正規であるかぎりこの状態は抜け出せないだろう。ポイントはアベノミクスによって正社員の雇用が増えるかどうかである。彼らにとっては現在の正社員の待遇改善よりも、直接的には雇用の増大が望ましい。消費増税はこたえるだろう。

 低所得者(正社員の下層)・・・低所得であっても、現在は非正規よりは安定感がある。しかし、この層は中小零細企業に勤務する人たちだから、明日はどうなるか分からない。アベノミクスは基本的には大企業に恩恵をもたらすだろう。それが中小まで波及するのかどうか。バブルかそうでないかは、この層にとって非常に重大である。消費増税はこたえる。

 中所得層(正社員、公務員など)・・・一部に資産を保有している人たちがいる。自ら蓄えた場合もあるし、親から受け継いだ場合もある。資産価値の上昇はプラスだが、得る利益は高額ではないだろう。安倍政権は所得の上昇にも言及しているが、いくらかあったとしても大幅ではない。これまで下がり続けている傾向が抑えられる程度と考えた方がよさそうだ。この層は、当然ながら所得に見合った支出もしているわけで、物価の上昇と増税はかなり影響する。いい悪いで言えば、悪い方が大きいのではないだろうか。

 高所得者層(年収1千万円超)・・・一部にアベノミクスの恩恵を受ける人たちがいる。所得は多いが、その所得水準に合わせて、たとえば高額の住宅をローンで購入したり、子どもを私学に通わせていると出費が多くなり、実態は中所得者と変わらない場合がある。消費増税はそれなりに負担になるし、所得税の引き上げが加われば決して安泰ではない。とはいえ、持てる者には一定の恩恵があることは間違いない。

 最上級の人々・・・恩恵は大きいだろう。これまでも減税によって恩恵を受けてきた。この人たちのために政策が歪んでしまったと言えば言い過ぎだろうか。余裕資金の運用においては、アベノミクスの株バブルは様々な金融商品を通じて利益をもたらす。お金は元手があってこそ増えると言うことをつくづく感じさせる。

 所得の再分配を上手にしなければならない。

2013年3月 9日 (土)

精根尽き果てるまで 命がけの仕事

 仕事にはいろいろな種類のものがある。われわれの行っている仕事は形が決まっていて反復するものが多く、かける時間が決められており、求められるレベルも予め想定されている。だから、特定の仕事に必要以上の力を注ぐことはしない。あまり凝り過ぎるとかえって効率が悪いとネガティブに評価される。また定年というものがあり、それを超えてまで無理をして働くことはふつうしない。病気にもかかわらず生活のために働かざるを得ない場合もあろうが、これは自ら好んでするものではない。

 一方で、芸術・芸能などの世界では、一般人の常識を超えた仕事が行われる。今は亡き流行歌手の水原弘が再起を期した曲「君こそわが命」(川内康範作詞、猪俣公章作曲)をスタジオで録音した時のことである。曲の作者もスタッフも水原自身も、この曲に賭けていた。だから、何度も何度も歌い直し、結局収録には12時間余り要したという。歌い終わった時に水原は暑さのためパンツ1枚になっており、疲れのために床に座り込んだという。妥協は許されなかったのである。

 黒沢明が監督した「七人の侍」の撮影現場での話。有名な雨中の決戦の場面である。撮り終えた時に木村功は、あまりの寒さと疲労で泥沼と化した地面にへたり込んだという。あの場面は見るからに厳しい条件で行われていた。映画作りのためには妥協を許さない監督の姿勢といい映画を作りたいというスタッフ、役者の思いと矜持があったのである。

 最後に美空ひばり。晩年は病と闘い続けながら歌っていた。控室では点滴を打ちながら横たわっていたが、楽屋から出てステージに立つとしゃきっとして、堂々と持ち歌を披露する。そして、幕の後ろに下がった時にばったりと倒れ込んだという。どうしてそこまでやらねばならぬのか。われわれには理解ができない。観客の喝さいが堪えられない喜びだからなのか。歌うことが自分の務めだからなのか。自分の歌は誰にも負けないというプライドからなのか。いずれにしても命がけの仕事も厭わない強い動機があるからである。

 精根尽き果てるまで仕事に打ち込むことを一般の人間は経験しない。あえてする必要もないが、そういうことに憧れないではない。燃え尽き願望はある。

2013年3月 3日 (日)

自ら考え、自ら行動することの困難さ

 つくづく思う。人間は習慣の奴隷である。それは本人の怠惰に起因するのではなく、歴史的社会的制約の故である。社会のシステムは、システムであるかぎり予測可能な反復的行動を人に要求する。日本のシステムは他国に比べてより高い規則性を帯びている。多くの人々が、日々同じ時間に目をさまし、同じ時間に家を出て、同じ電車に乗り、同じ時間に会社の門をくぐる。

 同じ時間にパソコンを立ち上げ、目にした情報に同じように反応する。同じようにアクションを起こし、同じ程度に成果を上げ、同じ程度に失敗し、同じように落胆する。そして、同じように指導を受け、同じように反省する。

 そこには、きわめて保守的で「安定した」社会がある。それは革新性の欠如と同義であって、いったん停滞に陥った社会や組織を蘇生させる力を持たない。そこに、復活の芽を見いだすことは可能であろうか。

 「変える」という言葉は、多くの企業の改革のスローガンになっている。私の勤める会社もまた同様である。しかしながら、変革は遅々として進まず、旗を振る側を焦らせる。もっとも、旗の振り方もワンパターンである場合が多い。この伸びきった生活感覚にくさびを打つことができるだろうか。

 いくつか考えるところはある。たくさんはない。ひとつは制度の変更である。外的な力で行動を変えてしまう。勤務の仕方を変える。異動を頻繁に行う。報酬制度を変える。他社と社員交流を行う。などなど。これは間違いなく意識と行動を変えることになるだろう。しかし、副作用も当然ある。生活に影響を与え、利益・不利益を生むだろう。変化に対応できず、戸惑いや精神の疲弊を産むだろう。だから程度の問題がある。ただし、倒産の危機に瀕した企業は別だ。否応なく構造改革を断行しなければならない。社員もそれに耐えなければならない。

 もうひとつは、変化の兆候の見せ方である。なかには変わろうとし、変わりつつある人間もいる。その人間をいかに浮き彫りにするか。そして評価するか。変わることの恩恵を見せつけるのである。できれば、これまで脚光を浴びてこなかった人がいればいい。自分よりも遅れていた人が自分の前を走りだしたら、うかうかしていられないと思うし、自分にもできないはずはないと思うに違いない。

 以上の二つの組み合わせになるだろう。飽きず、諦めず続けなければならない。

2013年3月 2日 (土)

真に未来を欲する者たち

 若くして定職を失うと、元のレールに戻ることが難しくなる。正社員への採用には高いハードルがそびえている。採用する側に立っているからよく分かるが、履歴書に切れ目があることは大きなハンデキャップである。履歴書の中身が「スカスカ」の状態では、面接に至る前に書類選考でふるい落とされる。

 生活するにかつかつの収入では、蓄えはできない。過去の蓄えがあったとしても、それを切り崩しながら生きていくことになる。いずれその蓄えはなくなる。そして、「その日暮らし」が始まる。

 住む家がない。ホームレスである。冬は寒さに震え、夏は藪蚊の襲来に耐えなければならない。その日の稼ぎにありつけたら、ネットカフェに逃げ込むことができるだろう。シャワーで身ぎれいにして、いくらか明日への生気を養うものの稼ぎはほとんど使い尽くしている。あした仕事がなければ路上生活に逆戻りだ。

 どうしたら抜け出せるか。やはり少しずつでもお金が貯まらなければならない。もしも無料の宿泊施設が供与されたら、立ち直りのきっかけになるだろう。私は以前から、住む家、教育の機会、医療の三つは国から提供されるべきだと思っている。それ以外は本人の努力によればいい。条件がそろえば、意欲次第で自活が可能になるだろう。

 しかし、これは容易に実現しそうにない。現在の日本では、一度負の循環に陥った者は浮かび上がらないのである。若者に限ったことではない。自殺者(「自死」という言い方もある)の数が高止まりしているのは、社会的、経済的背景による。決して、気持ちの弱さなどから説明できるものではない。

 このような立場の人たちにこそ、「未来」が必要なのである。今この境遇を抜け出すことができないとすれば、未来に託すしかない。豊かな人たち(実は一握りではあるが)にとって未来が持つ価値は小さい。守るべきは「今」である。失うものがあるのである。

 北原ミレイが歌ったうたを思い出す。そのタイトルは「捨てるものがあるうちはいい」であった。

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