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2013年2月11日 (月)

立場をわきまえる

 人と人との関係が対等であることは難しい。関係は主観とは離れて、社会の構造に規定されている。社会の構造は歴史的に形成されたものであり、雇用主と被雇用者との関係のように直接経済的に結ばれるものもあるし、加えて組織や集団における文化的な伝統に影響されるものもある。

 今、上司と部下の関係にスポットを当ててみることにする。会社の職制は、組織が最高のパフォーマンスを発揮するために手段として採用されていると考えるべきだが、それは次第に固定化され、あたかも所与のものとして受けとられる。すると役職の権限は、あくまで業務にかかわる範囲で認められるものであるにも拘わらず、制限を超えて広がる。このことが、いろいろな間違いや悲劇を生むのである。

 そういう事情を上に立つ者は理解しない。業務上の権限なのに、その線引きに対し自覚的で、ストイックな行動がとれない。無意識に、必要以上の力を行使してしまう。
 部下を呑みに行こうかと誘う。本人は、上司と部下の関係は解いてフランクに会話したいと思っている。自分は、そういう関係を築いてきたし、部下には認知されていると考える。しかし、部下はそうは受け取らない。上司の誘いは、強制力という衣をまとっている。

 教師と生徒、親と子、その他様々な関係においてこのような事情が見出せる。上に立つ者は、立場をわきまえなければならない。権限の無自覚的な乱用はもってのほかだが、自覚しているつもりでも、失敗する。相手がいいと言ったとしても、客観的には「そう言わざるをえなかった」という解釈が成り立ってしまう関係なのだ。

 いつも謙虚であらねばならない。たまたま業務上この職位についているだけで、自分は偉くはないのだという意識である。

 「実るほど首を垂れる稲穂かな」と言うではないか。

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