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2013年2月の投稿

2013年2月25日 (月)

ブログを書き始めて満6年

  2007年2月25日にブログを書き始めた。書き始めた日付は忘れてしまうので、改めて確認したのだが、もう6年も経つのである。記事の数が1400件近くあり、毎日書いているのではないからそれぐらい経っていてもおかしくないわけだ。

 始めの頃は文章が短いが、1年ほど経つと長くなってくる。長いといっても原稿用紙3枚程度だが。2010年と2011年は毎日記事を書いた。ブログには書きためておく機能があるので、土日に1週間分書いて、自動的にアップするのである。これが結構大変で、大抵は土曜日に7本書くのだが、その場で考えてもネタが浮かばない。そこで、思い浮かんだテーマだけはメモをしておき、そのテーマについて書くことにした。内容的にはこの間が充実していたと思う。2011年の後半からは徐々にそれだけの分量を書くことが苦しくなり、2012年からは週に2~3本である。

 自分の価値観、思想にしたがって書いてきたが、全体の内容に整合があるのか分からない。考えも変わるかもしれないし、その時々の世論に影響されているかもしれない。自分の文章にどこまで責任を負うかという点については、日記だと思えば責任という問題にはならないが、インターネットを通じて公にしていることを考えると無責任でもありえない。有名人や公職に就いている人は別にして、個人名はできるだけ使わないようにしているし、意見は慎重に書くようにしている。

 いつまで続くか分からないが、あまり気張らず、週2本のペースで書いていきたい。ただし、書かずにはいられない、あるいはすぐに発信したい場合はいつでも書くつもりだ。

2013年2月24日 (日)

たまに集まる会

 先日、高校時代のミニ同窓会が開かれた。関西在住の同学年の仲間が20名弱集まった。私は正規の同窓会に3度出席しているが、この会に参加したのは初めてだった。

 6年ほど前に神戸(クラウンプラザ神戸)で同窓会が開かれた時以来年賀状を交換しているF君に誘われたのがきっかけである。F君は某大手企業の取締役であり、そう遠くない時期に社長になるだろうと言われている。

 実は、私はこの高校を途中でやめ、実家に帰って地元の高校を卒業している。同窓会というのは、正確には同じ学校を卒業した者同士が集まる会であるから、本来は出る立場にはない。しかし、もう20年ほど前だと思うが、東京で会が開かれるときに幹事のD君が誘ってくれた。私も遠慮なく出て行ったものだから、名簿に名前が掲載されるようになり、その後も声がかかるようになった。そういういきさつがある。聞くところによれば、卒業アルバムにも私の写真が載っているそうだ。(アルバムは見ていないが)

 関西在住者の会は「たまに集まる会」と呼ばれている。初めて参加したが、ざっくばらんな会話で、非常に楽しかった。サラリーマンあり、大学の先生あり、お医者さんありで職業も多様だ。いろいろな話が(結構苦労話もある)聞けて面白い。

 こういう会のいいところは、現在の立場がさまざま違っていても、会った瞬間に学生時代に戻って対当の立場に立てるところである。そして、力が抜けて癒される。裏返せば、日常の生活がいかに緊張と気疲れに満ちたものであるかを物語っている。

 さて、前出のF君は遅れて参加した。そして遅れて挨拶したのだが、その時に初参加である私とO君の名前を呼んでくれた。これは彼の気遣いであろう。初参加で少々窮屈な思いをしているであろうことへの配慮である。そんなところに、大手企業の取締役になっていく要素が見て取れる。前回の同窓会でも同様であった。

 彼ばかりでなく、皆、互いを思いやる気持ちが強い。これは、この学校の特色かもしれない。誰かが、この学校には「いじめ」がないと書いていた。それは多少批判的なニュアンスで書かれたものだが、互いに人間として尊重しあい、べったりではなく適切な距離をおいて付き合っているからではないかと思われる。よく言えば、皆紳士なのである。

 さて、そういうわけで、私は次回も参加することにする。遠慮しないで来いと言われたので、遠慮せず行く。遠慮しないで過ごせる場は、全く貴重な場である。

2013年2月23日 (土)

宋文洲氏を擁護したい 

 「巨大隕石は尖閣列島に落ちればよかった。そうすれば、尖閣列島が消滅し、領土問題もなくなったのに。」この宋文洲氏の発言が不穏当だとして、アナウンサーが謝罪したそうだ。これは今週の日曜日の話。

 宋文洲氏は日本で成功した人だ。だから日本への愛着はある。しかし、中国人だ。彼にとっては日中が友好関係にあることが幸福の条件だろう。領土をめぐる紛争は実に厄介だ。たしかに、尖閣列島がなければ紛争の種がなくなるわけだ。願望の吐露として、あの発言はあったのだ。

 そういう微妙な立場にある人の発言という理解は生まれないのだろう。大体が、言葉尻を捉えて非難するのである。私は、尖閣列島が中国の領土だとはいささかも思わない。歴史的に見て日本領土であるという見解に賛成である。宋文洲氏の問題はそういうことではなく、寛容な精神が失われていることの証として受け取るのである。

 放送局は誰に気を使ったのだろうか。今の政権だろうか。それとも世論か。国民の多くは、領土問題などない方がいいと思っているのではないだろうか。

2013年2月17日 (日)

全員異議なしですか?

 昼食時にテレビを観ていたら、「やしきたかじんのそこまで言って委員会」という番組をやっていた。

 国防費の増額に異議ありかなしかというテーマがあった。基本的に全員が異議なしであった。読売テレビなので、そういう論者を集めていることは予想がつくが、全員というのは偏るにもはなはだしい。ここで、国防費(軍事費)の増額の是非は論じない。偏りがあまりに気持ち悪かったことだけ書いておく。

 体罰にも触れていた。強弱はあるが、体罰を容認する主張が多かった。これも特徴的である。なかには、これまで体罰を加えてきた人物もいた。ある意味はっきりしている。自分はやらないのに体罰を擁護するのは矛盾しているが、この人には矛盾はない。ただ、間違っているだけだ。

 私は「体罰」という言葉を使わない。「暴力」ということばを使う。暴力が認められるのは、正当防衛にあたる場面だけである。

2013年2月16日 (土)

アメリカからもらった憲法?

  日本国憲法を、「アメリカからもらった憲法」と表現する勢力がある。彼らが言うには、日本の国民の多数がそう思っているのだそうだ。もしも、それが事実だとすれば、彼らの宣伝活動の成果だと言えるだろう。

 日本国憲法は、国民が勝ち取った憲法である。明治以来、自由や平等、最低限の生活や基本的な人権などを求める運動が続いてきた。しかし、特に戦争が始まる前の時期から、それらは容赦なく弾圧を受けてきた。そして、戦争においては、国民の命よりも「国体」が最優先され、軍人だけではなく一般国民にも多くの犠牲者を出した。よく言われるように、死んだ軍人の過半数が餓死したのであり、それだけ多くの餓死者を出した国家は稀有である。

 その国家は戦争に敗れた。もっと早く終結すべきだったが、とにかく終わった。憲法草案は国民主権にまだあいまいな部分があり不十分ではあったが、理不尽な国家と戦うまでには至らずとも長く忍従してきた国民が熱望するものであった。最終的には国民主権が謳われて成立した。これは長き戦いの勝利である。

 「アメリカからもらった憲法」と捉える勢力は、戦前の支配層の系譜にあたる者である。本当は、「アメリカからもらった憲法」というよりも「アメリカから押し付けられた憲法」と言いたいのである。そう言うとあまりに下品なので、もらったという言い方をしているに過ぎない。

 これから改憲に向けて動きが活発化する。首相自らやると言っているのだから間違いない。しかし、反対の世論が強ければ、彼らは動くことができない。選挙制度には問題があるが、幸いにもまだいかさまはない。選挙に勝てないとなれば強硬な主張は引っ込めるだろう。

 わたしたちは歴史から多くを学んだ。戦争の愚はもちろんのこと、多くの政治家はきれいごとは口にするが、信ずるに足る人物ではないことを知ったのである。

2013年2月11日 (月)

立場をわきまえる

 人と人との関係が対等であることは難しい。関係は主観とは離れて、社会の構造に規定されている。社会の構造は歴史的に形成されたものであり、雇用主と被雇用者との関係のように直接経済的に結ばれるものもあるし、加えて組織や集団における文化的な伝統に影響されるものもある。

 今、上司と部下の関係にスポットを当ててみることにする。会社の職制は、組織が最高のパフォーマンスを発揮するために手段として採用されていると考えるべきだが、それは次第に固定化され、あたかも所与のものとして受けとられる。すると役職の権限は、あくまで業務にかかわる範囲で認められるものであるにも拘わらず、制限を超えて広がる。このことが、いろいろな間違いや悲劇を生むのである。

 そういう事情を上に立つ者は理解しない。業務上の権限なのに、その線引きに対し自覚的で、ストイックな行動がとれない。無意識に、必要以上の力を行使してしまう。
 部下を呑みに行こうかと誘う。本人は、上司と部下の関係は解いてフランクに会話したいと思っている。自分は、そういう関係を築いてきたし、部下には認知されていると考える。しかし、部下はそうは受け取らない。上司の誘いは、強制力という衣をまとっている。

 教師と生徒、親と子、その他様々な関係においてこのような事情が見出せる。上に立つ者は、立場をわきまえなければならない。権限の無自覚的な乱用はもってのほかだが、自覚しているつもりでも、失敗する。相手がいいと言ったとしても、客観的には「そう言わざるをえなかった」という解釈が成り立ってしまう関係なのだ。

 いつも謙虚であらねばならない。たまたま業務上この職位についているだけで、自分は偉くはないのだという意識である。

 「実るほど首を垂れる稲穂かな」と言うではないか。

2013年2月10日 (日)

富の創出か 単なる移転か? アベノミクスの本質

 安倍政権は、「縮小均衡の分配政策」から「成長と富の創出の好循環」への転換をうたっている。言葉は大変よろしい。否定はしない。

 富の創出とはどういうことか。その前に富とは。富とは、勤労者の労働によって生み出された成果物であろう。労働を離れて富は生まれない。労働者の能力の向上、生産する機械の発展、流通・交易の発展などによって富は大きくなる。また、研究者の知的活動の成果もここに加わるだろう。

 単に株価や為替の変動によって即実体経済が変わるのではないだろう。実体を伴なわないところでの変化は、富の増大ではなく、移転にすぎないのではないか。勤労者の成果物が、(これは過去と未来の成果も含むが)かすめ取られていく過程ではないか。円安は輸出企業の利益を増やすが、それが勤労者の所得上昇を生まなければ、輸入品の価格が上昇するという負の側面だけが生まれ、生活は苦しくなる。

 はっきりと目に見える成果は、雇用の創出と賃金の上昇である。このことをもって富の増加が成し遂げられたとはっきり言える。経済学には全くの素人である私であるが、世の中を見ているとそういうことが分かってくる。私たちの生活からかけ離れたところで起こっている現象には興味が湧かないかもしれないが、そういう現象に伴って富は動いているのである。持たない者に、富は回ってこない。

2013年2月 9日 (土)

耳触りのよい言葉 本気でやる気ありますか?

 安倍首相が行った所信表明演説の全文を読んでみた。1月29日の朝刊に掲載されている。

 1、はじめに

 「・・・私の決意の源は、深き憂国の念にあります。危機的な状況にある我が国の現状を正していくために、なさなければならない使命があると信じているからです。」
 ⇒ 危機的な状況はいかにして生まれたか。戦後の大半の時期において、自民党が政権を担ってきたのではなかったか。だから、この状況は自民党に責任があるという主張にはかなりの説得力がある。もっとも、自民党を選んだのは国民ではないかという反論は予想されるが。

 「額に汗して働けば必ず報われ、未来に夢と希望を抱くことができる、まっとうな社会を築いていこうではありませんか。」
 ⇒ 働けど報われず、夢と希望を奪い去ったものは何であったか。その発端はどこにあったのか。ごまかさず、明らかにしなければ再生などできはしない。

 2、経済再生

 
 「全ての人々が生きがいを感じ、何度でもチャンスを与えられる社会」
 ⇒ これも同じだ。現実はこれとはあまりにかけ離れている。リストラされれば再雇用は難しい。非正規雇用者と流れていく。就活に失敗した若者に与えられるチャンスは極めて乏しい。過去の政権はこの現象にストップをかけることができなかった。過去の政権には第一次安倍政権も含まれる。

、「中小企業・小規模事業者が躍動し、農山漁村の豊かな資源が成長の糧となる地域の魅力があふれる社会」
 ⇒ なんと耳触りのよい言葉だろうか。これを実現させるには、これまでの保守政治を大転換させなければならない。しかし安倍政権の大目的は、保守体制の再構築である。不利益を得る層に対しても、真意を覆い隠すために言葉を弄する必要があるのである。

 3、震災復興

 特に言うことなし。この通り、やっていただきたい。

 4、外交・安保

 「・・・自由、民主主義、基本的人権、法の支配といった、基本的価値に立脚し・・・」
 ⇒ 民主主義を重んじるならば、勤労者の生活を重視しなければならない。民意を反映しない選挙制度を見直さなければならない。基本的人権を大事にするなら戦争などできないことだ。日米同盟の強化、軍備の増強は人権を抑圧する。

 5、おわりに

 「我が国が直面する最大の危機は、日本人が自信を失ってしまったことにあります。」
 ⇒ しばらくの間、日本はアメリカに次ぐ経済大国であった。しかし、量的にいつまでも世界2位であり続けることは不可能だ。遅れていた国も必死で成長しようとする。それはよいよい生活を求める生のエネルギーである。単に量的な尺度だけではない、こうありたいと願う意志を持たなければならない。通り一遍のヴィジョンしか提示できなかった過去の政府に問題があった。

 「『強い日本』を創るのは、他の誰でもありません。私たち自身です。」
 ⇒ 「強い日本」、ここに安倍さんの思想が表れている。「強い」とはどういうことか。表向きは経済に力点があるが、実は、政治的、軍事的な優位性が頭にあるのではないだろうか。「豊か」という表現がほしかった。

2013年2月 3日 (日)

柔道の世界も暴力か

 こちらの記事にははっきりと「暴力」と表記されていましたね。平手打ちしたり竹刀で叩いたりするのは暴力と言わざるをえませんね。プロの相撲でさえ問題になったぐらいですから、いけません。S監督は、結果を出すために焦ってしまったという趣旨のことを述べています。確かに、それは事実でしょう。監督の責任を果たそうと必死にあったのは分かるが、暴力の正当化にはなりません。結果も出ていないのだから、指導力を疑われても仕方がありません。選手は結果を問われますが、監督も同様です。

 柔道連盟はS監督を戒告にとどめ、解任しませんでした。この判断によって連盟もその体質をあらわにしてしまいました。S監督は事実を認めたのですから、選手にも確認したうえで解任すべきでした。結局、辞任することにしたそうですが、世論を恐れてのことで、自主的な判断ではありませんでした。

 国際柔道連盟はこの事件を厳しく非難したそうです。嘉納治五郎の精神ではないと。なぜ、そういう非難を聞かなければならないのか。日本柔道の権威と地位は、すでに大きく陥没しているが、今後ますます落ち込むのではないでしょうか。それは決して嬉しいことではありませんね。柔道を産んだ国として、誇りを持ちたいものです。

 一度、勝つことは棚に上げて、柔道とは何かを考えてはいかがでしょうか。柔よく剛を制すという言葉がありますが、「柔」の精神とはいかなるものなのか。「精力善用、自他共栄」の思想に立ち返って選手を育てるべきだと思います。

2013年2月 2日 (土)

「友情出演」とは

 映画やテレビドラマが終わった後に、出演した俳優の名前が画面に流れます。その時に、括弧書きで「友情出演」と書いてある時がありますね。

 これについて、なんとなく、いわゆる商売抜きで出演しているのだろうと思っていましたが、今日思いついて、その意味を確かめてみることにしました。ネットで調べてみると、その内容は、「スタッフや主演の俳優に頼まれて、ノーギャラもしくはわずかのギャラで出演すること」のようです。頼む側の意図は、自分の映画に箔をつけたいということでしょう。端役であっても、大物俳優が出ていれば値打ちは上がりますから。

 友情出演を依頼される側も、それだけ役者としての価値を認められたわけですから薄いギャラでも納得をするのでしょう。

 なんとなく意味は分かっているが、念を入れて確かめていないことがらがたくさんあるのです。できれば、あやふやなことはすぐに調べておく方がよいですね。

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