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2013年1月14日 (月)

正月に手に取る本 加藤周一 「日本人とは何か」

 年末年始の休暇に手に取る倣いとなった本がある。加藤周一の八編の論文を集めた文庫本である。講談社学術文庫から出ていて、タイトルは「日本人とは何か」である。

 年の始めにあたり、日本の進む進路や自分が日本人として生きる方向を再確認するために広げてみるのだ。しかし、最初から最後まで読み通すことはしない。赤鉛筆で印を付けたり、付箋を貼ったりしているので、そこを中心にして前後を読むのである。「日本人とはなにか」「日本的なもの」「近代日本の文明史的位置」「知識人について」「戦争と知識人」、この五編が重要である。

 この本の要約をするのが目的ではない。私が大事にしている部分をいくつか抜き出して紹介したい。

 「日本人は何かという問の核心は、われわれ自身とは何かという問であり、われわれ自身とは何かという問の核心は、もはや他国民との比較の問題ではなく、われわれが何を欲するかという意志の問題である。」

 「日本的なものの概念を根本的に立て直すことは、日本の文学・思想・芸術によって育てられた尺度から出発して、外国の作品に対しても通用する普遍的な尺度をつくり出すためにどうしても必要な前提である。」

 「知識階級にとって文化的伝統との断絶をほんとうに克服する道は、第一に近代化即西洋化という考えを破ることであり、第二に大衆との意識上のつながりを回復することである。そこではじめて今後の問題が出てくるのだ。」

 「しかし、その大部分(注:知的活動を営んでいるかに見える青年たちの)は、しばらくすると特殊な専門的領域での仕事以外に、その知的活動をほとんど全面的に停止する。その根本的理由は、決して仕事が忙しいとか、付き合いがどうとかいうような外面的なことではなく、若い時代の活動そのものが、つけ焼き刃であり、なま半可であり、何一つ確かなものを捉えていなかったという事実そのものにほかならない。」

 「しかし、科学的精神の欠如は、一般に、いくさの間日本の知識人の圧倒的な多数に、めだったことである。事実と当為の問題をはっきり区別することさえ、たちまちできなくなり、論理学の初歩さえ混乱してしまった。それは論理的な思考力の薄弱ということではない。日本には学問があったし、今でもある。そういうことではなくて、科学的な、あるいは論理的な思考さえもが、日本の知識人にとっては、時と場合に応じて放棄し得るものだということである。」

 「しかし、日本の知識人のなかに、吉本流にいえば、思想的「空白」があり、そこに「生活意識」があり、意識的に反省されないその「生活意識」が、意識的に反省された「思想」よりもはるかに強力である。という点で、亀井や大熊の告白と吉本の分析は一致しているように思われる。そのような「思想」と「生活意識」の乖離を前提として、はじめて、共産主義者の多くの「転向」は行われ、「転向」を正当化するために日本浪漫派の非合理主義も発展しえたのであろう。」

 最後に
 「思想は体験から出発するものである。体験が変わらなければ、思想が変わることは決してない。その意味で思想は輸入できないものだ。」

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