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2013年1月12日 (土)

愛情がある体罰はよい? 愛情のあるなしは誰が判断するの?

 桜宮高校のバスケットボール部主将が自殺した事件に関連して、体罰の是非が議論されている。その主張のなかに、「愛情があれば体罰は許される。」とか「体罰と愛情は紙一重」などというものがある。ここで重要なのは、「愛情」のあるなしは、誰が判断するのかということである。

 指導する側(立場上、上に立つ方)が、私は愛情をもってやったと言えば、それで良しとするのか。それでは、すべてが正当化される。教育は、施す側と受ける側との共同行為である。愛情かどうかは、その共同の関係のなかで、主に双方の「主観」をもって判断される。だから一方の当事者である受け手が「愛情」と感じなければ、愛情ではないのである。

 ところで、「体罰」という言葉は使わないようにしたい。「罰」は「罪」があることを前提にしている。「暴力」という言葉を使おう。「暴力」が正当化される場合はあるのかどうかという議論をしたい。どういう状況、どういう条件で正当化されるのか?よほど狭く、限られた状況にしか当てはまらない。基本的には、ないと考えるのが正しい。

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