« 筋トレによる体の成長と学習による成績の向上 | トップページ | 居場所のなさとインターネット »

2012年9月29日 (土)

日本と中国の行く末は

 日本と中国との関係が具体的にどう変わっていくのかを正確に予想することは難しい。予想はできないけれども、希望としては、政治的摩擦は少ない方がよいし、ましてや軍事的な衝突がないことを祈りたい。

 これは平和な内外社会であってほしいという素朴な願いであるし、中国に子会社があり、友人も何人かいるという個人的な条件に由来する感情だろう。

 国の生産力は中国が日本を上回った。いずれ、そう遠くない時期にアメリカをも抜いてしまうだろう。一人当たりではまだまだ上位にはランクしないが、国単位では巨大な経済規模を有することになる。しかし、私も上海と福州で直接自分の目で見てきたが、多くの矛盾を抱えている。

 上海には高層ビルが建ち並び、世界から優秀な商社マンや銀行マンが集まっている。リニアーモーターカーが走り、地下鉄は整備されて便利である。しかし、街なかを歩くと、それとはまったく釣り合わない光景を目にする。輪タクが営業しているし、物乞いもある。夏には地下鉄やショッピングセンターの通路に涼を求めて貧しい人たちが集まる。家族連れで集まり、シートに幼い子供を寝かせている光景は印象的だった。

 こういったまだまだ遅れた生活水準の階層を多く抱えながら成長しているのが中国の社会である。足を延ばせばすぐ近くに高価なブランド品を扱う百貨店が構えている。そして同じ中国人がそれを惜しげもなく買っていくのである。かつての東京にも同じような事情があったかもしれない。しかし、ここまでのギャップがあっただろうか。

 日本でも最初は産業の基幹部門や社会的インフラに予算が投じられた。そしてそれに遅れて民生の安定化が図られた。十分ではなかったにせよ、雇用は生まれたし、労働者の待遇も改善された。
 政治的には安保の問題があったし、労使対立があったし、公害問題があった。知識人の運動、労働者の運動、住民の運動には、体制を揺るがさない範囲ではあったかもしれないが、声を上げ集団的な行動をとる自由があった。

 中国には、そういうものがないらしい。行動は少なからずあるには違いないが、多くは封じ込めにあい、情報統制によって、政権にとって出したい、あるいは出さざるを得ない情報だけが表に出る。多くは自由ではないのだ。そんななかで、国民の意思を伝える手段となっているものはインターネットだ。しかし、これにも検閲がかかっている。

 民意を政治に活かす仕組みがないから、共産党政権の采配次第となる。確かに、経済については過去の歴史をよく勉強し、現在の情勢にも気を使っている。しかし、あまりにも中央主導であるならば、国民の知恵とエネルギーを活かした柔軟な国民経済は育たないのではなかろうか。加えて言えば、知恵と国民相互の信頼関係を育む教育を施してきたのであろうか。

 あくまで政権主導の発展を続けようとすれば、無理がくる。経済成長が中心に制度が作られる、体制の確固たる維持には警察力・軍事力が不可欠とされる。それがまさに社会の根幹の原理なのであって、それと国民の生活実態や要求とのずれが拡大すれば、維持は難しくなる。

 翻って、日本の未来はどうなのか。少子高齢化、産業の空洞化、国家財政の危機などネガティブな条件が揃っている。他国を蹴散らして発展する力には乏しいと考えるのが正しい。とはいえ、日本の得意分野はあるし、文化的にも優れた面はある。先の大戦で失敗を犯したとはいえ、日本の国民は融和的である。この優れた点を、隣国の矛盾の緩和に活かすことはできないだろうか。もちろん、隣国も聞く耳を持つべきである。国の威信云々よりも国民の生活を第一に考える本物の政治家がまだいるのなら、日本の良き点から学ぼうとする意志はあるに違いない。外交の目的は「国益」を守ることであろうが、国益というものをより幅広く、長期的な視野に立ってみれば、場当たり的でヒステリックな反応は出てこないように思う。

 日本人も中国人も、もっと先を見て行動をとるべきである。

« 筋トレによる体の成長と学習による成績の向上 | トップページ | 居場所のなさとインターネット »