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2012年9月30日 (日)

居場所のなさとインターネット

 居場所のない人は昔からいた。犯罪であったり、病気であったり、そのような理由で故郷を後にして流浪の旅に出る。

 今はそういう事情の人は少ないだろう。ある定まった場所に住んでいても、人知れず暮らすことができるからだ。しかし、定住しているとはいえ、居場所がないのである。それは、人のつながりを得ることができないという意味である。

 特定の集団に継続的に帰属することのない人たちが増えている。戦後数十年の間はそうではなかった。企業に就職し、終身雇用制のもとで、変化のない(言い方を変えれば安定的な)人間関係下に置かれる。もちろん、そこにはデメリットもあろうが、個を守る働きもしてきたのである。一方では居住地における人間関係もしっかりとあった。

 ところが、まず地縁が薄れ始めた。核家族化し、新興の団地住まい、マンション住まいが主流になると関係は希薄化する。会社の人間関係はその後も日本的な経営の特徴として継続したが、非正規雇用者が増えるにつれ、その関係に入り込む人間の数は減少した。特に若者がその関係から大勢こぼれた。

 数少ない友人と、バイト先(外食の店舗など小人数の職場が多い)の人間関係程度が自分の生活の範囲となる。それだけあればまだましで、文字通り孤独に暮らす若者も少なくないに違いない。

 本人はその環境に不自由を感じないかもしれないし、かえって煩わしい人間関係のないことを快適に思うかもしれない。それは主観的にありうることだが、何かあったときに相互扶助の関係を持たないことは大きなリスクである。行政も捕捉できないだろう。

 そういう実生活の面で孤立した人間が、内容はどうであれ、コミュニケーションできるのがネットの社会だ。「言葉」(文字と言う方が適当か)を交わすことができる。感情をぶつけることができる。同類の存在を確かめることができる。しかし、そこまでだ。なかには、実名でのつきあいに発展し、そして実際に顔を合わせ、関係を深めていく例もあるには違いないが、あくまで例外的なことのように思う。

 ネットは素晴らしい道具だが、創造的な人間関係を作りうるルール形成が必要だろう。そしてそれを破壊する者には断固として弾劾の声を上げるだけの、ポリシーを持った先導者群が必要だと思う。

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