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2012年8月19日 (日)

徐福の墓(新宮市徐福公園にて)

ウィキペディアより

(『史記』による記述として)

  司馬遷の『史記』の巻百十八「淮南衝山列伝」によると、始皇帝に、「東方の三神山に長生不老不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述がある。

 灯台もと暗しというか、徐福の墓があるということは知っていたがわざわざ見に行こうなどとは思わなかった。このたびは、予定の電車まで随分時間が空いていたので、時間つぶしのために立ち寄ったのである。

 きれいに清掃されたこじんまりした公園にその墓はあった。立派な墓石とは言えないが、それが逆に歴史を感じさせてよい。1736年に建てられたものらしい。徐福の伝説は日本各地にあるらしいが、ここはなかり有名なところなのだろう。徐福の子孫だという人たちがかなりの数中国からお参りに来るというのだから。

 近年開発されたニュータウンは別にして、古くから人の住みついた土地にはそれぞれ歴史がある。文書に残された歴史もあれば、建造物として残っているものもあるし、伝承としてあるものもある。それらは、普段の生活でほとんど意識されることはない。郷土史研究家を除けば。

 この新宮市などは文化の町と謳われているだけに見どころはたくさんある。東くめ、佐藤春夫、中上健次を生んだ土地だから。しかし、地元の人たちはそれをどれだけ誇りにしているだろうか。中上は生まれた土地に随分思い入れを持っていたのだが。

 この私は、熊野川を渡った三重県側の人間なので、新宮人ではない。私の生地は江戸時代には紀州藩の領地であった。しかし、明治になって三重県に組み入れられてしまった。以降、政治や文化において、三重県あるいは名古屋の影響を受けることになる。テレビやラジオは名古屋の局から流されるものであり、意識は東に向かっていた。とはいえ、伊勢の文化には馴染めない面があった。この違和感は、古くからの文化の違いに由来する。言葉も全然違うのである。一方で、和歌山県の新宮についてもいささか違う空気を感じる。これは行政の寸断によるものだろう。

 私の生地は交通の便が悪く、それが生活だけではなく、意識の孤立を招いたのであろう。

墓の入り口。中国風の線香を20円で売っています。

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徐福の墓。きれいにしています。

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