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2012年6月16日 (土)

順位を上げる喜び ~競争とは何か~

 先週、陸上競技の日本選手権が開かれていた。私は陸上競技に関心があるので、今大会にも注目し、2日目には長居競技場まで観戦に足を運んだ。

 陸連のホームページを見るとエントリー選手を確認することができる。そこにはそれぞれのベスト記録が付記されている。当然のことながら差がある。一位の選手と最後尾の選手では大きな開きがある。記録のよくない選手はメダルどころか入賞の可能性はまずない。陸上競技はフロックのない競技である。ハードルに引っかけたり、足が痙攣したりで先頭が入れ替わることはあっても、後方の選手が逆転することはない。

 それでも多くの選手がエントリーしてくる。全国大会の舞台に立ちたいという欲求もあろうし、少しでもいい記録を出したいという思いもあるし、全国で何番という順位にこだわる考えもあるだろう。特に上位レベルにある選手にとったら順位が目標になるだろう。伸び盛りで、5番まで来ている選手は4番、3番と高い順位を狙いたい。モチベーションを維持する力は順位への欲求である。

 私は、何度も書いてきたが、高校入試と大学入試前のそれぞれ数か月にハードな勉強をした。合格したい一心での行動であるが、短期的には順位を上げたい、あるいは偏差値を上げたいという欲求に動かされていた。そして結果が出れば、その達成感が新たなより強い欲求を生み出すのであった。これは、ある意味、偏執的な喜びであろう。ここで行われているのは、当たり前の話であるが、学問ではないし、勉強であるとさえ言えないものであり、「競争」であり「闘い」である。

 そういう競争の世界にとり込まれていたのである。それは、今思えば、決してほめられたことではないが、その時はそれで仕方がなかったのだとも思える。一方で、試験の成績などに頓着せず、知らないことを知り認識の範囲を広げることへの知的喜びを重んじる生き方もあったとは思うが、残念ながらそれはなかった。本を読むのは好きだったが、興味は雑多であった。

 科学においては何が正しいかを問うことができるだろう。しかし、人生において、その選択において何が正しいかを問うことはできない。そこには納得できるか否かの選択が在るだけである。人間は成長することができる(と信じている)。納得する基準、レベルも向上するのである。それは、より正しく生きられるようになるのではなく、より豊かに生きられるようになるのである。

 順位には、スポーツなどのように、その後公式な記録として残るものもあるが、多くは何の意味もないものとしてたちまち消え去るのである。模擬試験で順位がシングルになったということは世の中においてはただの塵のごときものである。それでも、そんなことがあったなと思いだし、それも自分の青春の一ページとして振り返ることがあり、それはそれで私という人間のとっては塵と一刀両断するわけにはいかないものである。

 個人は、そんな細かな、社会的にはなんら意味を持たないものに執着するのである。ただし、そういう個人を集団でとらえるならば、それは社会的現象であり、社会的な意味をも持ってくる。競争が、さらに強い競争社会を再生産している。

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