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2012年4月 7日 (土)

復刻記事 「私の祖母について」

 

 2009年10月に書いた記事に少し手を加えてアップしたい。今振り返ると、祖母から教わったことの大きさに驚くばかりだ。

 祖母は明治の人である。確か明治31年生まれである。干支が戌だったので、間違いないだろう。同じ町内の石工を生業とする男性と結婚した。祖父にあたる人だが、早くに亡くなったので写真で知るのみである。

 祖母にはもともと息子が一人いた。しかし、小学生の時に自転車に乗ったまま橋から転落し、若い命を落としてしまった。その代わりといえば語弊があるかもしれないが、養子に入ったのが父であった。そして、ここがややこしいところであるが、それ以前に養女として入っていたのが母なのである。

 祖母は当時の田舎には珍しく、開明的な女性であった。町内で最初に自転車に乗ったのが彼女だったという話を聞いた。また後に営むことになる商人宿に町内の若者を集めて酒を振る舞っていたという話もある。
 亡くした息子は優秀な子どもだったらしい。さぞかし残念無念であったろうが、 そのあとを受けて父が養子に入った。父は大工の息子で、男女6人ずつの12人きょうだいの7番目で、四男である。祖母は、父の母(私にとったらこの人も祖母)から一番いいと思う子を持って行ってくれと言われたらしい。それで選んだのが父。一番やんちゃだったらしいが、そこが祖母の性格からすれば気に入った点だったに違いない。このようにして養子に入った父は、先に養女になっていた母と後に夫婦になる。その間の経過は詳しく聞いていないので知らない。

 祖母は、しばらく商人宿を経営していた。一時は繁盛したようで、何人か人も雇っていたらしい。そのころの常連さんは廃業してからも賀状をくれたり、たまに立ち寄ってくれたりしていた。また、廃業してからも二階の二部屋だけは、置き薬の営業で回る人たちに貸していた。祖母が亡くなった時には、その人たちも葬儀に来てくれたことを覚えている。

 私は祖母に可愛がられて育った。私の兄弟は皆そうだった。記憶にはないが、「偉くなれよ、偉くなれよ。」と言いながら、頭をなでていたそうである。また、これも覚えていないが、たまにはきつく叱られたそうだ。三つ子の魂というが、物心つく前の話なのだろう。そういう祖母だったが、鮮明に覚えている事件がいくつかある。この一部は前にブログに書いたことがある。重なるけれども、祖母の人となりを知る上で貴重な出来事であるので、もう一度書いてみたい。

 ①へびと蛙
 あれはある休日の午後だったと思う。父が、家の北側にある柿の木の前で、しま蛇に体を巻きつけられた殿様蛙を見つけた。そういう光景を私は初めて見たのだったが、父は蛙が可哀想と思ったのだろう、そばにあった石を手にとって、蛇めがけて投げつけようとした。その時、その場に居合わせた祖母が、「投げたらあかん。放っておけ。」と叫んだのである。しかし、石は父の手を離れ、蛇の近くに飛んで行った。おそらく体のどこかに当たったのだろう。蛇は蛙を離し、西側の草むらへ逃げて行った。解き放たれた蛙は息を吹き返し、礼も言わずに、なぜだか蛇と同じ方向に跳んで逃げて行った。
 こういう話だが、今でも鮮明に目に焼き付いている。これを私はどう解釈したか。父は、単純に、素朴に、蛙が可哀想だと思ったのだが、祖母は違った。蛙が蛇に食われるのは自然なのだ。そこに人間が立ち入ってはならないという考え方だ。どちらの行動にも理はある。父は単純に、弱い者、劣勢にある者、苦しんでいる者への憐憫の情に従って動いたのである。祖母は自然の摂理に対して、一歩距離を置いてこれを眺めたのである。
 私は、なぜ祖母がそういう視点を持つようになったのか、学生時代に考えてみたことがある。その時の結論は、夫を早く亡くし、息子も事故で亡くした経験から、宇宙には人間には抗い得ない流れがあって、それはどうもがいても微動だにしない運命なのだという諦念だったのではないだろうか。私は今でもそう解釈している。

 ②飼い犬に手を噛まれた母
 これは先ほどの話に比べたら、大したことではないが、母が飼っていた犬に噛まれたことがあった。人を噛むような犬ではなかったが、何かが気に障ったのであろう。その時に、祖母は母に言った。「犬を怒るな。噛まれたのはおまえが悪い。」と。祖母と母の関係が特別に悪かったのではない。犬畜生に責任があろうか、それを御せない人が悪いのだという考えである。厳しい人だった。

 ③乞食への愛情
 私が子どものころはまだ世間一般に貧しい人がたくさんいた。今でもいるのだろうが、乞食と言われる人たちもいた。家に入り込んで来て、どんぶりを差し出し、飯を食わせろと嘆願するのである。私の家にも来た。昔に宿屋をやっていたから間口が広く、入り易かったのかもしれない。
 祖母は、どんぶりに、冷や飯だったろうが大盛りにして食わせてやった。そしてそこから説教が始まる。いつまでもこんなことをしていてはいけない。自分で働いて食えるようになれ、と諭すのである。この乞食がその後一念発起して自立したという話は聞かなかったから、馬の耳に念仏だったのだろうが、そう言って聞かせる気骨には感心させられる。
 乞食ではないが、町内に「お夏」という名の老婆が住んでいた。身寄りがおらず、いつもみすぼらしい格好をして歩いていた。祖母はお夏さんにいつも声を掛けていた。いまでもその光景を思い出すことができる。
 

 

 代表的な出来事は以上である。明治の人だと言ってしまえばそれまでだが、今の人間にはない、大きく安定感のある精神だと思う。私など、それに比べたらあまりに小さいと思うが、いくらかでも受け継いでいる部分があると思う。福沢諭吉の「福翁自伝」に、貧しくみすぼらしい老女に親身になる母親が出てくるが、祖母がそれによく似ているのは、なんらかの歴史的な背景があるに違いない。

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