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2012年3月11日 (日)

あれから1年、3・11に思う

 昨年の3月11日、私は茨城県の龍ヶ崎市にいた。大阪から出張で会社の工場に行き、会議を行っていた。プレハブ建ての2階の会議室は始めはゆっくり、そして次第に激しく、長い振幅で揺れだした。すぐに立ち上がったが、動きがとれず、机に手を置いて倒れそうになるのを我慢していた。途中で外に目をやったが、電線が激しく上下している様子が目に焼き付いている。

 揺れが収まると、工場の人たちが入り口近くの広場に集まってきた。恐怖で腰を抜かした女性従業員がいたが、幸いにも怪我人はいなかった。無事を確認した後、余震に気を付けながらも設備の被害状況を確認するため再び持ち場に帰って行った。会議に参加していた出張者は、プレハブの1階にある休憩室でNHKのテレビに見入った。津波の恐れがあり、最大で6mを超える可能性があるという。この揺れだと、その数字も大げさには感じなかったが、これまでの経験で言えば、結果は予想より小さくなるのではないかとも思われた。

 しかし、しばらくして東北地方の海岸線が上空のヘリから映し出された。沖合から高く盛り上がった大波が押し寄せてくる。海岸線が危ない。誰でもそう思う。ヘリのカメラは陸地を映す。自動車で移動しようとしているが、津波に気付いているのかどうか。早く、海とは逆の方向に向かった方がよい。
 波が押し寄せてきた。陸地を駆け上ってくる。勢いは衰えない。家も田畑も樹木もなぎ倒していく。車は浮かんだまま運ばれる。どれだけの時間、どれだけの距離、それが続いただろうか。テレビを茫然と見つめるしかなかった。

 こういう場面をリアルタイムで見る経験は初めてである。ただ、これから先は分からない。カメラを通して見る現実も、現実には違いない。しかし、想像力を刺激されたにせよ、自分の身は安全なところにある。先ほど経験した揺れは体感として残り、極めてリアルであるが、テレビには距離感を拒めない抽象性がある。

 その日は龍ヶ崎市内のホテルに頼み込んで部屋を空けてもらい、余震に眠れぬ夜を過ごした後、翌朝満員の常磐線に乗って東京駅にたどり着き、しばらく並んで新幹線に乗りこんで大阪に帰ってきた。

 その後は社員の無事を確認し、生活支援の物資を送ったり、被災地に救援物資を送り込んだりした。生産を通常に戻すために、取引会社に無理を言って茨城まで行ってもらったりもした。おかげで1週間ほどで回復した。原料も1ヶ月ほどで揃うようになった。全般的に順調だった。組織が力を合わせ努力したこともあるが、運に恵まれたこともあったのだろう。

 あれから1年が経過した。あっという間だったとは思わない。いろいろなことがあったから。

 会社では、1年を経過したことを機に、福島県の孤児・遺児育英基金に寄付をした。

 復興は道半ばというより、緒に就いたばかりと言えるだろう。誰もが、遅すぎると言う。確かに遅いのだ。まずできることを早く。急ぐものは審査を緩くして手を付けるべきである。

 大阪にいると離れている分、東北の現状を忘れがちだ。生活の不便さ、放射能への恐怖などへの共感は薄い。だから、意識して報道番組に目を向けるとか、写真集を見直すとか、そんな行動が必要だ。会社でも、東北まで足を運んだ社員もいたが、それは例外的だ。そこまでできたらよいが、そこまでしなくても先ほど書いたぐらいのことはできる。

 とりとめのない文章になったが、あまりに大きく衝撃的な出来事だったので、容易に風化はしないだろうが、それでも時間の経過が風化を進めることは間違いない。風化にブレーキをかけよう。

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