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2012年3月17日 (土)

「七人の侍」と「荒野の七人」

 特別な映画ファンでなくても、「荒野の七人」(1960年)が「七人の侍」(1954年)のリメイクであることは知られている。50年以上前のことであり、あまりに有名な話なので改めて語られることもない。

 先日、家電の量販店に行ったらDVDのセールをしていた。日本の映画ソフトはまだ値を崩していないが、洋画は随分安くなった。この日は3枚まとめて買うとお得な(余分なものまで買ってしまうという意味では本当にお得かどうかは分からないが)セールだったので、3作品購入することにした。結構な数があるので迷うが、昔観た映画をまた観てみたいという思いが強く、「荒野の七人」・「ナバロンの要塞」・「タクシードライバー」の3つにしたのだった。

 「荒野の七人」はユル・ブリンナーが企画したものだが、DVDで改めて観ると元の作品の筋書きを忠実に真似ている。しかし、当然ながら違いも多くある。その多くは文化の違いに由来するものであろう。また、207分と128分という時間の違いから生まれる要素もある。
 七人が集まる経過に違いがある。元の作品の方がその過程は複雑であり、偶然が働いており、武士にもいろいろな価値観のあることが描かれる。リメイク版は知己の者が集まり、あっさりしている。

 黒沢作品では、農民の出身は三船敏郎演ずるところの菊千代であった。これに対し、リメイクでは農民の出は「チコ」であり、この役は木村功演ずるところの勝四郎の当たる。三船の演技があまりに破天荒なので、ガンマンとしては設定できなかったのかもしれない。

 リメイク版では、村の財産を略奪する盗賊の首領に多くの登場場面とセリフが用意されている。しかし元の作品ではその姿がはっきりしない。最後に殺される場面ぐらいである。野武士の姿は戦闘場面に限られる。

 リメイク版でも、農民に武器の使い方を教えているが、教える対象は数名であり、銃の撃ち方に限られる。黒沢作品では、組織的な戦闘を前提として村の男たちを時間をかけて訓練している。
 

 ガンマンにしても農民にしても、総じてその描き方に深さが見られない。農民について言えば、その生活、特に農地と農作業が映っていない。したがって、農民の存在がどういうものであるかを感じさせる場面に乏しい。
 ガンマンの存在も分かりにくい。それは私が西部の開拓史を知らないからだろうか。「武士」の歴史は長い。戦の歴史もながい。特定の主君に仕えず、渡り歩く武士もいたのだろうが、いずれにしても組織的な闘いに身を置いたのであって、その点はガンマンとは違うのではなかろうか。ガンマンは少数であり、アウトローでしかなかった。だから農民を組織化する術はなかった。戦略を持って戦う必要性は、その存在からは導きだせないのである。

 「七人の侍」は世界的に大ヒットしたが、その解釈には様々なものがあったようだ。ここに帝国主義勢力を打倒して民族の自立と解放を勝ち取る姿を見た勢力があった。キューバは高い金を払ってフィルムを購入したという話も聞いた。
 あるいは、ここに描かれた武士と農民との関係を、革新運動における知識人と労働者の関係に置き換える見方もあったようだ。なるほどと思うところがある。勝利したのは農民だと言う最後のセリフに、知識人は自ら戒めの言葉と受け取ったに違いない。

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