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2011年11月の投稿

2011年11月30日 (水)

天龍寺の紅葉 2

 写真を2枚添付します

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2011年11月29日 (火)

奄美黒糖焼酎 里の曙

 焼酎と言えば、芋か麦かという選択になるが、昨年から飲んでいるのが黒糖の焼酎だ。奄美産の「里の曙」という銘柄だ。

 一言でいえば癖がなく、飲みやすい。私は酒のみではないので、こういうタイプの酒がよい。ロックでもお湯割りでもいける。これから寒くなるので御湯割りの季節である。一杯で体が温まる。他の酒に比べて安上がりなのもよい。

 黒糖焼酎をお試しあれ。

Syoucyuu

2011年11月28日 (月)

天龍寺の紅葉

今年は紅葉の時期が遅れ傾向だが、京都の中でも嵐山の天龍寺は早い方だ。先週から見ごろとなっている。

 
 私は今日(27日)一人で嵐山に行ってきた。相当な人出で、渡月橋を渡るのも、のそりのそりのスピードである。交通規制で車を締め出していても道路いっぱい人が歩いている。「どうしてこんなに人が多いのかしら。」という声が聞こえるが、皆同じように天龍寺が見ごろと言う情報に引かれて来ているのである。

 天龍寺の境内に入り、有料の庭園に入ると混み具合が和らぐ。ここの庭は広々としてよい。確かに紅葉も見ごろである。十枚ほどデジカメに収めて早々と退散してきた。京都の紅葉はよいが、やはり人が多すぎる。行くならもっとマイナーなところが良さそうだ。

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2011年11月27日 (日)

管理職へ

 さらに厳しくなる環境のなかで競合他社に競り勝つためには、役員に始まって「長」のつく役職にあるすべての人が「長」らしい仕事をしなければなりません。そのためには、行動をどう変えるべきか、しばらく考えてみました。結論は、自分が任されている組織を一つの会社(その人数規模の中小企業)ととらえ、その社長になることです。社長であれば、社員がどんな仕事をしているか知っています。皆元気で働いているか、計画通りの出来高を確保しているか、クレームが来ていないか、心配なことばかりですね。油断すると倒産してしまうかもしれません。トップだから、いつも背水の陣です。少し頼れるものがあるとすれば、それは信頼のおける番頭さんでしょう。その人は次の社長になれる人です。

 自分の後には誰もいないという覚悟で臨みましょう。それが「長」の付く人のあるべき姿です。一国一城の主という言葉がありますが、これは自慢するための言葉ではなくて、責任を背負う意志の宣言だと思います。私も頑張ります。

2011年11月26日 (土)

大相撲の観客減少

 新聞で大相撲の写真を見ると、背景の観客席の空席に驚く。見るも無残な光景である。かつてプロ野球のパリーグは同じような状況だった。球場には閑古鳥が鳴いていた。その時期に比べるとずいぶん観衆を呼べるようになった。

 相撲はこれからが正念場である。普通に考えると、元に戻るのは相当困難なことに思える。息子を見ていると相撲などには全く興味がない。スポーツでもサッカー、野球、バレーボールなどは見る。私の子供のこれは相撲も興味深く見ていた。スポーツに限っては子供の関心事も大人の関心事も同じだった。家族で喜びも悲しみも共有していたのだ。

 高齢者の支持を背景にしばらくは生き延びるかもしれないが、衰退は免れられない。

2011年11月25日 (金)

若者の免許取得率低下

 若者の免許取得率が年々低下している。経済的な余裕がなくなっていることが背景にある。昔は親が費用を出す例が多かったが、親も楽ではなくなっている。

 免許取得には少なくとも20万円はかかる。また時間もかかる。自分で費用を捻出するにはかなりの負担である。その間は仕事をするにも制約を受ける。なくても当面支障がないなら見送ろうかという気分になるのも分かる。

 免許の保有者が減少すれば、車の保有も減少するだろう。少子高齢化および所得の低下は、高額の消費財の購入を減退させる。できるだけ長く大事に使おうとするに違いない。それは決して悪いことではない。また共同で使おうという動きにもなっていくだろう。これも悪くはない。新しい所有の形態、消費の形態が生まれてくるだろう。

 これまでのように消費してくれない人々。稼げないから使えないのだが、使わないことは企業(資本)にとって脅威である。労働者は働いて物を生産するだけではなく、稼いだお金で物を買うから必要なのである。企業(資本)は買ってくれる人々を求めて、発展の余地のある外国に向かわざるを得ないのだ。

2011年11月24日 (木)

ステキな金縛り

 三谷幸喜の新作である。典型的な娯楽作品であり、そう思ってみればそれなりの映画である。幽霊が出てきて、それがごく一部の人に見えるという設定で、それをおかしさに結び付けている。そういう意味では既存の一つのパターンに落とし込んだ作品である。

 筋に触れるのはやめておいて、専ら役者評をしたい。西田敏行はキャラクターで演技する人で、芝居は上手くない。それでも面白いのは天性のものである。深津絵里は、いつも思うのだが何の変哲もない女優さんで、幕が開いた時には普通の演技に思えるが、見ているうちにだんだん、だんだん良くなっていき、深津が演じている女性を好きになってしまう。

 中井貴一は、姿勢がよくセリフがしっかりしていて、上手いし安定感がある。最近あまり見なかった役者だが、画家役で山本亘がいい演技をしていた。山本三兄弟で有名だが、三人とも今なお活躍している。

 三谷作品の、あるいは娯楽映画の特徴なのかもしれないが、ほんの端役にも主役級を使っており贅沢だ。医師役の唐沢寿明などは、彼とは気が付かないぐらい一瞬である。私はファンだから見れてよかったのだが、ウエイトレス役の深田恭子はもったいないし、深津の父親役の草彅剛については、あの役は彼である必要は全くないように思う。草彅を看板として使っている。

 (私が観た劇場では、ところどころで笑いが湧き起こったが、大爆笑ではなかった。昔、寅さん映画を観た時にはどの作品でも場内から何度となく爆笑が起こった。なぜだろうか。一つには、描かれている人たちは皆一所懸命生きている。必死さの中にこそ笑いは生まれる。もう一つは、場内に一体感があったように思う。見に来る人は寅さん一家だったのだ。そこには価値観の共有があった。一方の三谷の映画になんらかの明確な価値観があるだろうか。初めから笑わせることを優先して脚本を書くと、芯のない作品になってしまうのではなかろうか。)

 夫婦がともに50歳以上だと一人千円で見られる割引がある。千円だったらペイする作品だ。

2011年11月23日 (水)

田楽(たらく)天理店

 先週末に、長谷寺経由榊原温泉の旅行を楽しんだが、途中の昼食は田楽(たらく)という店で食べた。なかなか洒落た店で、「和風創作料理」を謳っている。

 われわれ10名の一行は、田楽弁当で統一した。

Taraku

 バラエティに富んだ内容で、お昼としてはボリュームも適当である。これにきのこの吸い物と炊き込みご飯が付き、ご飯はおかわりもできる。さらにはデザートもあり、コーヒーゼリー、ごまゼリー、ようかんのなかから選べる。

 また、最初と最後に暖かい布おしぼりが出るし、お茶も同様に2回出してくれる。

 同行者が、至れり尽くせりですね、と言ったが、まったくその通りである。これで1,300円は安い!

 これを御覧になった方は、ぜひ一度行ってみてください。

http://taraku-tenri.narac.jp/2/1.html

2011年11月22日 (火)

分かち合うのではなく奪い合う

 パイが小さくなると、何が起こるか。家族なら、少なくなったものを分かち合うことができるだろう。ところが、社会は優しくない。小さくなったものをこれまで以上に激しく奪い合うようになる。

 その結果、取り分を増やすのは力の強いものである。所得の大きい者ほど社会的に高い地位にあり、所得を増やす力を持っている。だから、金持ちはさらに金を増やし、貧乏人は一層貧乏になっていく。日本でもアメリカでもそういう傾向が顕著に出ている。貧乏だって諦めずに頑張れば金持ちになれるという意見はあるだろうが、個人的なレベルでの議論はそれでいいとしても、社会的な問題が解決するわけではない。

 欲望の調整は難しい。金持ちは既得権を守ろうとするに違いないし、貧乏人は貧乏に慣れてしまって調整のプロセス(政治)に入ろうとはしない。しかし、金持ちは、あまりに金持ちになりすぎると返って自分の立場が揺るぎ始めることを予め察知し、自制すべきである。自分の所有するものは、他人の労働に由来することを理解すべきである。

2011年11月21日 (月)

長谷寺から榊原温泉へ

 この休みに、会社の同じ部門の仲間たちと小旅行を楽しんだ。しばらく前に飲み会をやった時に、榊原温泉はお湯がいいから行ってみようじゃないかということになり、紅葉の時期をねらって準備してもらった。

 19日は天気予報の通り荒れ模様の天候となり、雨脚が強かった。赤目四十八滝が観光の目玉だったが、足元が悪いだろうという判断でこれを中止し、長谷寺見物に切り替えた。傘を差しての行動は不自由な面もあったが、それなりに風情があり、よかった。法要の最中で、宗教的雰囲気が味わえた。紅葉は暖かい日が続いたため、まだほんの一部であった。宝物の見物をし、榊原温泉に向かった。(写真は長谷寺五重の塔)

 当然だが、榊原も紅葉は遅れていた。しかし、評判通りお湯はよかった。もともとが温泉目的だったので満足した。夜はゲームなどで趣向を凝らし、宴会を楽しんだ。たまにはこういう旅行もいいものである。

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2011年11月20日 (日)

ワールドカップ女子バレー

 ワールドカップ女子バレーが開催され、テレビで日本チームの試合が放映されていた。バレーボールの大会は年に何度も日本で行われている。今回はオリンピックの出場権がかかっているのでグレードの高い大会ではあったが、あまり頻繁だと見飽きてしまう。

 なぜこうも日本で開催されるのか。以前聞いた話では、日本だとスポンサーが付きやすい。テレビの放映権収入、会場の広告収入、入場料収入など、かなりの額が期待できるので大会の運営費用がそれで賄えるのだ。また、日本は運営の要領がいいとか、治安がいいとかの条件もある。宿舎もそこそこのホテルを用意しているだろうから、選手の評判もいいに違いない。国際連盟も日本での開催であれば安心できるのだろう。

 外国のチームにしたら結構いい環境で試合ができるのである。ただし、日本のチームとやるときは著しいアウェーの状況で戦わなければならない。ここだけを耐え忍べば、後は何の問題もないのである。

 ところでサッカーのワールドカップ予選は北朝鮮に敗れた。勝負だから勝ちにいかなければならないが、予選突破は決まっているし、負けても大きな影響はない試合だった。負け惜しみではなく、勝っていたら帰国のときにまたまた手続きが手間取ったに違いない。あの国はなにもかもが政治的である。

2011年11月19日 (土)

ヴィルヘルム・フルトヴェングラー

 梅田の地下街で中古CD市をやっていたのでクラシックのCDを2枚購入した。ベートーヴェンの第9番とマーラーの第2番である。もともと好きな曲でYuoTubeでは頻繁に聴いていたのだが、きちんと通しで聴いてみたいと思ったのだ。

 2枚ともに輸入盤で、ベートーヴェンの方はヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler)の指揮と書いてある。私はピアノ演奏が好きなのでピアニストは少し知っているが、交響曲はあまり聴く方ではなく、従って指揮者の名もあまり知らない。日本人を除くと、カラヤンとバーンスタインぐらいか。しかし、フルトヴェングラーをネットで調べるとすごい人らしい。ランキングでは1位に選ばれている。買ったCDは1954年の8月にバイロイトで録音されているが、それは彼が亡くなる3カ月前のことである。

 これまで聴いた第9とはかなり感じが違う。録音は音質がよくないが、迫力がある。明らかにゆっくりしたテンポで指揮している。良しあしは素人には分からないが、それでもなんだかすごい演奏を聴いたような気になる。

2011年11月18日 (金)

体験は店では売っていない

 市場経済が世界中に行きわたり、お金が断然ものを言う存在になった。そして、基本的にお金で買えないものはなくなった。

 企業はM&Aで時間を買うことができる。財産のある個人は、庶民ではよほどの幸運がない限り手に入れることのできない様々のものを買うことができる。社会的な差異の根源はお金の偏在にあり、社会的な差異がさらにお金の偏在を拡大する。

 では、例外的にお金で買えないものはなんだろうか。そのなかの一つに「実体験」があるのではないか。お金をかけて条件設定すれば疑似体験することは不可能ではない。しかし、それは筋書きのある芝居のようなものだ。予想の付かない状況を、持っている自分の力で切り抜けていく生の経験は得がたいものだ。

 学生の時にしか体験できないものもあるし、ビジネスの世界でしか体験できないものもある。もちろん、お金を払わないと始められないこともあるにはあるが、意志さえあればできることも多い。こういう領域があるからこそ、個人にも組織にも形勢を逆転できる可能性が残るのである。

 とにかく、じっとしているのはもったいない。知的な活動も大事だが、物理的に体を動かし、世間の実情を見ることが重要である。

2011年11月17日 (木)

原点が存在する

 どうしたら業績が上向きになるのか。仕事の計画性を高めなければならないとか、社員同士、部署同士のコミュニケーションを高めて情報の流れをよくしなければならないとか、幹部が考えて組織全体で実行しようとする。ところが、いくらか進展したとしても大きくは動かない。指示された方は、目的を十分理解せず、あるいは思慮不足・力量不足のため期待したとおりの行動には至らない。

 仕事としてやるべきことは、製造業であれば、製品を顧客に買ってもらうことである。そのためには買っていただける製品を開発し、設計通りに製造し、提供しなければならない。どうしたら買っていただけるのか。そこに仕事の原点がある。そこで頭を使わず、言われたことをやっていればいいという姿勢では新しいものはなにも生まれないではないか。

 自分の経験は踏まえつつも、ゼロベースで考えてみることが必要だ。そんな高級な答えは出てこないが、仕事の基礎にあるものが見えてくるのではないか。今まで、ただあると思っていた物なり仕組みなり組織が、それなりに意味があるのだと分かってくる。そして、それを上手く使わないと実績が作れないのだと知る。

 そもそも論が、たまには必要だ。われわれはすべてのものを所与のものとして受け取っている。そういう状態では、自分の力で現実を変えようとするエネルギーは生まれるはずもない。

2011年11月16日 (水)

金原亭馬生 「笠碁」

 落語に「笠碁」という演目がある。金原亭馬生の笠碁が好きだ。他にも多くの噺家がこの演目を高座にかけており、可楽や小さんの噺もYouTubeで聴いているが、馬生のものが断然いい。

 YouTubeで聴いていると、声だけではなく動画で表情が見える。馬生は表情が豊かで、話し方にも起伏がある。そこがいいところだ。小さんは小さんで、可楽は可楽で独特の味があるけれども、細やかさとか艶っぽさで聴かせるタイプではない。ここは好みの問題だろう。

 暇を持て余すおたなの旦那二人がへぼな碁に興じている。一方が今日は「待ったなし」でやろうと持ちかけ、その約束で打ち始めるが、言いだした方がさっそく待ったをかけようとする。もう一方の旦那は、一度決めたことだからこれだけはやってしまおうと応えるが、言いだした方は聴き入れずこだわり続ける。昔に越年資金を貸してやったことがあり、返済の期日がきても待ってやった。それに比べたら、これぐらい待てないはずはない。言われた方は、相手が決めたルールであるうえに、昔の借金の話まで持ち出されたら面白くない。自分はお世話になったから忙しい中をわざわざ来て、へぼを相手に碁を打っているのだと言い返してしまう。

 喧嘩になってしまったこの二人、しばらく行き来が滞る。しかし、雨の日などは出掛けることもできず、暇を持て余してしまう。そして碁が打ちたくなってたまらない。碁会所へ行けばと勧められても、相手が強すぎて勝負にならない。怒って帰った相手が、その時忘れた煙草入れを取りに来るのではないかと期待してひたすら待っているのだった。
 一方の旦那も我慢ができない。煙草入れを取りに行くという口実で店を出る。雨が降っているが、傘がないので富士山に登った時に使った笠を頭にかぶって出かける。店の前に差しかかるが、わだかまりがあって入っていけず、行きすぎる。とうとう来たかと喜んだもう一方の旦那は、声も掛けられず、ただ相手の姿を目で追っていたが、通りすぎてしまったので落胆する。この時の馬生のしぐさと表情が、旦那の気持ちを上手く表現していて素晴らしい。ここは客席から拍手も湧く場面だ。

 けっきょく、引き返してきた旦那を呼びとめて店に入れ、二人で嬉々として碁を打ち始めるのだ。招きいれた方が、盤の上に雨が滴り落ちるので雨漏りかと思ったら、相手が笠を脱ぐのも忘れて打っていたという落ちであり、それが笠碁という演目の由来である。笠を脱ぐのも忘れるぐらいに碁を打ちたかったということである。

 いまどき、こんな暢気な話はなかろうが、昔はこれに近い生活があったのだろう。様子がうかがわれて面白い。

2011年11月15日 (火)

あまりに杜撰な一般化

  先日テレビ朝日の報道ステーションを見ていたら、オリンパスの不祥事に触れていた。そのなかで、古館一郎の隣に座っていたコメンテイターが、これから日本の企業はどうなるのかという感想を漏らしていた。

 オリンパスのような企業は例外である。バブルの崩壊以来、失われた20年の間、嘘をつきとおしてきたのである。社員と株主の大半は騙され続けてきた。こういう企業と同列に論じられたのでは他はたまったものではない。もちろん、厳密に言えば、公正・厳正な経営に徹している企業は少ないだろう。しかし、ものごとには程度の問題がある。

 これから罪のない人たちへの被害が広がるだろう。急降下した株価が回復しなければ株主損失は甚大である。投資にはリスクがあるとはいえ、開示されている情報が嘘の情報であれば判断のしようがない。また、今のところ問題はないようだが、失われた信用の影響で業績が悪化すれば社員の将来にも響いてくる。
 バブル期の損失は自業自得であるが、その処理の仕方にやりようはあったのだと思う。オリンパスの社員は真面目に働いて本業では利益を出してきたのであるから。一部の役員が責任逃れのために起こした行動が、一流の企業の看板を無残にも泥まみれにしてしまった。

 どこかにまだ隠し通している奴らがいるのだろうか。

2011年11月14日 (月)

興福寺南円堂(11/6)

 奈良の国立博物館まで正倉院展を見に行く。あいにくの雨模様だがけっこう人出は多い。しばらく並んで入場する。展示物は、織物や工芸品、書の類である。書には律令制のもとの行政機関が記したものが多くあり、これを読み込めば当時の暮らしがよく分かるだろう。

 続いて、興福寺の特別展示で、普段は見られない北円堂に入る。鎌倉時代に建立されたもので国宝である。中には弥勒如来坐像などが鎮座している。当然、中では写真撮影が許されていないので、外からカメラに収めた。

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2011年11月13日 (日)

世界はどうなるのか(富のシェア変動)

 世界はどうなってしまうのだろうかと考えることがある。世界の経済は全体を見れば、毎年成長を続けている。ただし国家の単位でみると、シェアの変動があるし、マイナス成長もありうる。この先人口がますます増加していくのだが、それに経済成長は追いついていくのだろうか。

 今は、中国、ブラジル、インドなどの大きな国が先進国に追いつけ追い越せとばかりに成長を続けている。世界の成長を引っ張っているのはこれらの国々である。先進国の労働者はこのあおりを食って苦境に追いやられているし、底辺の国々は未だ成長段階に入れずにいる。
 このような動きの中で、経済バランスが変化し、均衡を失う恐れがある。

 農業分野で考えると、環境問題の顕在化も相俟って人口増加に見合った増産が可能かどうか不安である。よく言われるように、途上国の人たちが肉類を食べ始めると穀物が飼料として使われるため、より多くの穀物生産が必要になる。そうすると購買力の弱い地域には回らなくなるのではないか。お金を持たない国の人々は飢え続け、そのことが不安定な政治を生み、内紛の要因になる。

 工業分野では、途上国には家電製品や自動車や住宅の需要がまだ多く潜在しており、これがけん引力になっている。輸出や海外生産を競う企業にとってはここが狙い目だ。しかし、これもいったん落ち着けば次の膨張を生む材料にはならない。
 日本のような先進国では、ソーラー発電や燃料電池、電気自動車などのエコ関連かアイホーンなどのIT関連ぐらいしか成長分野が見つからない。高齢化にともなう介護などの分野は、命という財産を守りはするが、いわゆる富を生み出すものではなく、あまり「儲からない」分野である。それでも老後に備えて蓄えた個人資産をねらって、外国人労働者を使って人件費を抑え利益を上げてやろうと考える企業の草刈り場になる可能性がある。

 先進国では財政破綻が起こりつつある。経済成長が止まって収入が増えないのに、国を維持する費用は増え続ける。社会保障費を減額したり、間接税を増やす政策が全般的な傾向である。国民の不満は増す方向にあるし、先進国においても様々な矛盾が噴き出しつつあることから、結果として国内だけではなく、国際的な緊張を生む要因にもなるだろう。
 

 今後いくらかでも希望が持てるのは、①途上国の資本②そのおこぼれを頂戴できる途上国の一部の労働者③世界中を自由に動き回れる多国籍企業の三者ではないだろうか。残念ながら、先進国の大半の労働者にとっては厳しい状況だ。ここから少しでも形勢を変えられるとしたら、予算の編成や税制などの制度変更で、パイを労働者側にシフトすることだろう。

 国の成長の原動力は国民の労働である。中国人の仕事に対する姿勢が問題になることはあるが、とにもかくにもよく働いているから成長しているという事実には変わりなかろう。中間層が増えていることも歓迎できる。しかし、日本にも増して急速に衰退過程に入る可能性もある。折角形成された中間層が早くに解体すれば政治的安定はすぐさま崩れ去るだろう。

 逆に日本の労働者もまだ諦めてはいけない。失業者や隠れ失業者を活かす道がある。もっと労働者の潜在能力を見いだし、伸ばし、使う道もあるだろう。大事なことは、日本の労働者が自らそれを欲することである。敗北感に沈んでいたら、この先何もいいことはない。

 次に必要なのは、自分たちを応援する政府を樹立することである。

2011年11月12日 (土)

宗教を見る基準

 宗教に深く触れたことはないが、いくつかの宗教および宗教団体に接触したことはある。そのなかには世間を騒がせた宗教団体もあるし、今なお力を持つ新興の団体もある。ここでは、特定の宗教団体の評価はしない。理屈から言えば、比較的好意的に見ても構わない団体もあれば、そうでない団体もあるだろう。もっとも後者の方が多い気はするが。

 経験から言えるのは、次の二つのことだ。

1 自分の幸福やご利益のことが前面に出て、他者や社会の幸福を考えない宗教はいい宗教ではない。他者の幸福と自己の幸福が両立しない教義を持つならば、それは似非宗教である。

2 お金のことばかり言う宗教は宗教ではない。何かにつけ、お布施を出せ、寄付をしろという団体は、教祖様の利益もしくは名声が目的である。それ以外のものはない。

2011年11月11日 (金)

パターンを崩す

 プロの領域に至ると、技が完成の域に入る。それは積み重ねてきた他のプロとは違う型の技である。これは当然ながら素人にはできないことで、人のまねをしながらもできたりできなかったりの繰り返しであり、いつまでも仕上がることはない。

 ところが、歌舞伎のように変化を求められないものは別にして、スポーツのように相手がいたり、常に進歩を求められるような分野においては、いったん完成させた技もいつかは通用しなくなる。しばらくは過去の権威で誤魔化せはしても、いずれは陳腐化する。
 そこで、あらためて技の再構築が必要になる。舞台から消えていく人は、始めから完成度が甘くてすぐにバランスを崩してしまった人か、変化に対応できなかった人である。私は何についてもプロだと自覚できる領域のものはないから評論家的になってしまうが、観察していると分かる部分はある。再構築はある意味過去の否定だから苦しい選択である。しかし、やらばければ短命で終わる。長くその世界で活躍し名を残す人は、それを何度となく行ってきた人たちである。

 それは、たとえばベースボールの世界のイチローである。あれだけのハイレベルの数字を残せば、しばらくは同じ型でやり続けたらいいのにと思ってしまうが、毎年何かを変えようとしている。今シーズンは数字を落としたので、なおさらのこと来シーズンは新しい技に挑戦してくるに違いない。年齢とともに身体能力の低下は避けられないが、それを埋め合わせる方法がありえないことはないのである。
 石川遼は、次のステージに上がっていくために苦労している。彼は常にナンバーワンを目指す運命を背負ってしまった。今の実力でもシードに入り飯を食っていけるレベルにはあるのだから、なぜあそこまで自分を厳しく追いつめるのか不思議に思うのだが、彼はスタッフ、スポンサーの期待は言うに及ばず、多くのゴルフファンから国民までもの期待を一身に背負ってしまった。だから脱皮を繰り返して、無敵の大蛇に成長しなければならない。

 われわれ凡人は、仕事において武器になる型を持たない。逆に、弱みとなる悪習と呼べるような悪いパターンを身につけてしまっている。課題はそのパターンの破壊である。難しいが、それを自分の型まで昇華できれば、できるビジネスマンになれる。

2011年11月10日 (木)

しっぺ返し

 いつの映像か分からないが、おそらく二十年近く前のものだろう。柳家小三冶の落語のまくらで、彼の考え方が語られている。その中身は、「近頃若い女の子がこぞって海外旅行に行っている。少しアルバイトをしてお金を貯めては行っている。いい世の中になったもので結構だが、こういうものはいつまでも続くものではない。いつか仕返しが来ますよ。どこへも行けなくなりますよ。」と、こういう話だ。

 「しっぺ返し」という言葉がある。また、盛者必衰という言葉もある。調子のいい時は浮かれているが、それはいつまでも続くものではなく、いつか反動で衰退期が訪れる。いい時と悪い時が交互に現れるというだけではあまりに単純な捉え方だが、現象を見ていると素朴にそう言えるところがある。また、処世訓としても一定の意味を持つものであろう。

 そういえば、バブル経済の真っただ中で、こんなことがいつまでも続くはずはないとほとんどの人が思っていた。だからバルブがはじけても、驚きはしなかった。しかし、自分の負ってしまった負担には驚きを超えて茫然自失となったのである。

 いつかは崩れることは明らかだが、いつ崩れるのかは分からない。ここに難しさがあるのである。だから単純な処世訓では対応しきれない。上手い話には乗らないのが得策だが、世の中全体が上手い話に乗ってしまったら、自分だけ下車するわけにもいかないのである。

 いつか激しいインフレに見舞われると随分前から言われている。必ずそうなる。しかし、いつかは分からない。

2011年11月 9日 (水)

社会の分裂、分断(日本の危機)

 世の中が分裂し、まとまりを欠いていないか。

 その選択が正しかったかどうかは別にして、高度成長期には国民に一体感があった。政治的には安全保障の問題を中心に国論を二分する動きがあったが、経済の成長についてはある種の合意があったように思う。それは実現した富を、一定の割合、労働者にも分配したからである。それは労働運動によって獲得したという解釈も成り立つとともに、経済の拡大の条件として必要であったという解釈もありうるだろう。組合の要求に譲歩することは、資本の側が主観的に敗北と受け取ったとしても、結果的には資本の側にも利益をもたらすということはありえた。

 今はどうか。労働分配率は順次低下している。一時トヨタが大儲けをして世界中の注目を浴びたが、そのころから低下しつつあったのである。輸出企業を支える政策は政府によって最優先され、大規模な為替介入も行われた。また、雇用者数を必要に応じて自由に増減できるように雇用にかかわる法令を企業にとって都合のいいように改正してきた。

 働く者は疲弊し、大企業が栄えるという図式がある。また、大企業と中小企業の格差、正規雇用者と非正規雇用者の格差、地方と都市の格差があり、なお拡大している。このような状態で、変革への世論が盛り上がったりデモが行われたりしないのが不思議なぐらいだ。欧米ではかなり厳しい大衆の行動が発生している。これを日本の美徳と解するか、口封じをされた結果と受け取るかは立場によって違ってくるが、美徳にも限界があろう。

 私はなにも暴動をそそのかそうとしているのではない。ただ、現実を反映した民意が必要であり、政治は民意に応えるべきことを言いたいのである。こういう議論は日経新聞を読んでいても出てこない。テレビでも滅多に出てこない。しかしたまにはある。まったく無視することはできないからだろう。書籍にはこのような意見は数多くある。ただ、どれだけ読まれているかは分からない。この場合に注意すべきは、危機は煽るが先ほど書いたような基本的図式を書かないことである。指摘するのは、いかに自分だけが生き残るかという方法論である。

 仲間は売っても、国を売っても、自分だけがよければいいらしい。

2011年11月 8日 (火)

気持ちを持ち上げる

 よい一日を過ごすため、あるいはよい仕事をするためには良好な精神状態で望みたいものだ。もともと精神が充実しており、安定して高いモチベーションを維持していれば理想的だが、現実はそうもいかない。自分の今日のコンディションを改めて自覚することなく、惰性で一日を過ごしてしまうのが日常と言うものだ。

 気持ち次第で結果の良しあしが決まることがある。明るく前向きな気分は、表情、言葉の数とニュアンス、行動の量などに影響を与える。勢い余って口が過ぎてしまうこともあるが、悪い影響よりもよい影響の方が上回るだろうことは容易に想像できる。

 気持ちの切り替えのタイミングとしては、朝家を出る時が望ましいように思う。私の知っている経営者は、車で家を出て会社の近くの大橋を渡った時に気持ちを切り替えるのだと言っていた。帰りもまた同じである。そういった気持ちのモードチェンジをする方法を自分なりに考えられたら、意外に強力な武器になるのではないかと思う。

 流されるのではなく、自分の生活を律することのできる人は強い。

2011年11月 7日 (月)

鳥瞰する

 人間は考える葦である、と誰かが言ったそうだが、実際はそれほど考えていない。意識も行動も習慣化していて、おおよそ決まったように変わり映えしない意識や行動が反復されている。このようにブログを書いているといくらか頭を使うものだが、こういうものがなかったら何に頭を使ってるだろうか。
 
 

 仕事がある。仕事のなかには、ほとんど考えなくてもできる仕事と、考えずにはとんと進まない仕事とがある。たとえば、報告書の作成のように考える仕事の範疇に入るものであっても、振り返ってみると本当に考えて書いているのだろうかと反省する。内容が前例に倣ったものであり、書き方だけではなく仕事の中身自体が同じレベルのところをぐるぐる回っている感じがする。

 まず間違いなく、多くの人がこのような傾向に陥っている。ここから脱して、少しずつでも螺旋状の階段を上るためには、生活の全体を点検してみる必要がある。冷静にものごとを捉える事の出来る人は、個々の出来事に対するチェックはできる。しかし、一日を、一週間を、一か月を振り返ることまではしない。ここまでできる人は稀であり、そういう人はかなりの確率で有能な人であろう。

 大きく飛躍するためには、「鳥瞰する」ことが欠かせない。ただし、鳥の目は魚の目とは違って本人の意思にかかわらず出現するものではない。

2011年11月 6日 (日)

憑かれたように

 今まで生きてきて、何かに憑かれたようにして頑張ったことが一度だけある。それは15歳の時、高校入試の前の三ヶ月間ほどの期間である。

 当時の私の学力では到底合格は不可能だと思われる私立高校を受験することに決めた。そのことを心に秘めて猛勉強を始める。経済的余裕がないから塾へは行かず、自前の参考書と問題集をひたすら消化した。毎日朝5時まで頑張っていた。常に睡魔に襲われていたが、気合いを入れるとすぐに姿を消した。体にだるさは残ったが、体力のある時期だから持ちこたえた。自分の力がどれだけ伸びたかを計ることができなかった。それ用の模擬試験などなかった。ただただ、参考書と問題集に向かって格闘していたのだ。

 試験当日はまさに挑戦者の気分であった。周りはおそらく塾へ通い、散々対策を施されてきた連中である。しかし、周りは相手ではなく、試験問題が相手だった。当然ながら難しい。あまりに難しいものは最初から捨てた。すべてに答える必要はなかった。これは解いておきたいと思う問題は粘った。数学でそういう問題があった。解く道筋が見えなかった。トイレに行かせてもらい、気を落ち着けた。戻ってしばらくしたら解けた。どうやって解いたのか自分でも自覚できなかったが、結果的に答えが出た。答えが合っていればいいのである。

 合格した。その後、順調にいかず転校したが、独学でその水準まで到達したことは、内心私の自慢である。また、やればできるのだという自信につながっている。しかし、あのような、憑かれたような、あるいは狂ったような行動を再び繰り返したいとは思わない。その時は無理が効くが、無理には必ず見返りが来る。無理が度を超すと、反動も度を超えてやってくる。これは私の人生訓だが、あの経験が私をして過度に慎重な人間に成らしめたようにも思う。

 集中と継続。どちらも必要な要素だ。コツコツと、コツコツと努力をする。これが人生の基本である。しかし、気が付いた時に他に後れをとっていたら、飛び起きて追いかけなければならない時がある。個人にとどまらず、組織においても同様の事態がありうるだろう。日本という国もまた先を急ぎ過ぎたのかもしれない。

2011年11月 5日 (土)

ステークホルダー主義

 新聞に書籍の広告が掲載されるが、ハーバードビジネスレビューという月刊誌の広告に「ステークホルダー主義」という言葉があった。買って読んだわけではないので想像になるが、その言葉の意味するところは、「企業はこれまで経営者の利益と株主の利益を最優先し、短期的な利益を追求してきたが、そのような活動は継続的に社会に受け入れられることはない。これからは従業員、取引先、周りの社会との関係を重視し、共存共栄という考えを掲げるべきである。」ということではないか。

 私の勤める会社は、四者共栄という経営理念を持っている。ここでいう四者とは、「会社と株主、従業員とその家族、取引先、近隣社会」を意味している。最近では、「近隣社会」をより広く「社会」と読み替えている。このような考え方は日本では特殊なものではなく、近江商人の「三方よし」の考えのように昔からあったし、現在でも同類の理念を掲げる企業が数多くある。しかし、だからと言って、多くの企業がその理念の実現に最大の価値を置いているとは言い難い。しばしば一部の利益を優先する行動が見られる。

 とはいえ、企業が社会を構成するもっとも影響力のある組織体であるかぎり、その社会的責任は追及される。アメリカの企業もそのことを考えざるをえなくなったのだ。ステークホルダー主義という言葉がハーバードのビジネススクールでも語られるようになったのである。

 外圧によらず、自らの理念に基づいた行動が大事なのだが、それでも自分に甘くなる傾向はあるので外圧も必要である。消費者の声や地域住民の声は、なくてはならないものである。

2011年11月 4日 (金)

小さな失敗から学ぶ

 失敗に学ぶことが重要だ。なぜことさらこんな当たり前のことを言うかというと、現実には学ばないことが多いからだ。大抵の場合は応急処置だけで済ませてしまう。よく考えて教訓を引き出し、次に活かせるように策を講じておくことは滅多にしない。考えることには苦痛を伴い、対策には手間がかかる。毎日決まったように生きるのが楽であり、自ずと易きに流れる。

 これが一般であるが、流れに任せておくと改善・改革は遅々として進まない。人生なるようにしかならないのだと居直ってしまうのも本人の勝手だが、人生それでおしまいである。何か願望とか目標があるならば、無為無策であってよいはずはない。前進にとって欠かせないのは、失敗に学ぶことである。

 人によって仕事の大きさは違う。実力や立場の違いで異なる。会社を興して、大企業まで発展させた経営者などは各種各様、大小様々な失敗を経験し、それを糧にしている。自伝などを読むと、大変立派な生き方をしている。立派と言うのは、失敗をしないということではない。失敗があっても諦めず、それを知恵と力に換えている。
 しかし並みの人間はそもそも大きな仕事を請け負うことができないから、失敗のスケールも小さい。身の丈に応じた失敗だ。立場が違うのだから仕方がない。大事なのは、自分の抱える現実である。そこで一つひとつ、愚直に対応するしかない。偉大な人物も、結局そこから始まっているのである。

 大きなことに当たらねば、大きな飛躍はないように思いがちだが、戦乱の世の中ならいざ知らず、社会の構造が固まっている状況では、一つずつ駒を進めるしかない。

2011年11月 3日 (木)

リスクをとって生きる

 自分の置かれている状況を客観的に理解することが必要だ。何か問題が発生しているのであれば、その原因を付きとめなければならない。何か達成しなければならない課題があるのであれば、有効な手段を導き出さなければならない。自分だけの問題や課題でなければ、考えをもっと広い範囲に及ばせる必要がある。さらに社会的な問題や課題になると、分析し、理解するはできても、その対策にまで足を踏み出すことは難しい。

 問題があったとしても、解決するまで自分の人生を棚上げしておくことができない。生きていかねばならない。解決できる問題であれば、しばらくの辛抱だが、そうでなければ我慢も長期化する。障害や危険が待ち受けているかもしれない。ある確率での危険は承知でも、自己責任でリスクを背負い生きていくのだ。そこに覚悟と決断がある。

 客観的な認識の上に、まったく次元を異にする主体的な決断がある。リスクを負うことの裏側に、「自由」が存在している。

2011年11月 2日 (水)

勉強しなさい

 人形劇ひょっこりひょうたん島のなかで、中山千夏らが「勉強なさい、勉強なさい。大人は子どもに命令するよ。」と歌っていた。その影響でもなかろうが、世の中、勉強せよとあまりガミガミ言わない方がかえって自ら学ぶ子に育つのではないかと考えるようになっていった。

 しかし、今思うにその考えもまた一面的ではないだろうか。勉強はいずれしなければならないのである。なぜ勉強するのか考えることは重要だが、その理由付けが自分でできるようになってから勉強を始めたのでは実際は手遅れである。昔の人は論語の意味も分からないのに論語を覚えさせられた。勉強の基礎はそのようにして身に付くものである。外圧に拠らずして勉強は習慣化しない。

 だから、勉強なさい、勉強なさいと口やかましく言うのも親の仕事かもしれない。私自身あまり言ってこなかった。塾へ通わせることによって、塾の先生が代わりに言ってくれたのだが、塾へ行かなくなると勉強しなくなった。

 人間、すべての行為が明確な目的意識のもとに行われているのではない。大抵があまり考えずに行動している。文字通り主体的に勉強できる人は、よほど才能豊かな人であろう。普通の人はある意味仕方なく勉強している。本人にもっと早くやっておけばよかったと後悔させないために、親は口やかましさを避けてはいけないのだろう。

2011年11月 1日 (火)

たった一つのヒット曲

 多くのヒット曲を持つ歌手は極めてまれである。いや、一つのヒット曲を持つことすら難しい。昔は一曲当たれば、あとは営業で飯が食えると言われたものだが、今はどうなのだろうか。

 唯一のヒット曲(勢いで次の歌も少しは売れるのだが)と思われるものを、思いつくまま上げてみよう。なぜか最初に出てきたのは一節太郎の「浪曲子守唄」である。この人は確か遠藤実の一番弟子だったと記憶しているが、あまりにこの歌がぴったりはまりすぎていて発展性がなかった。次に、これも演歌の竜鉄也「奥飛騨慕情」。自作であるが、曲がよくできていて声質にもあっていた。盲目の演歌歌手として大ヒットした。次は歌謡曲、高田恭子の「みんな夢の中」である。浜口庫之助の作品で、子どもながらによく口ずさんでいた記憶がある。次は、雅夢の「愛はかげろう」と伊丹哲也とサイドバイサイドの「街が泣いてた」である。両方ともすごく好きな歌で、スナックのカラオケにも入っていたが、「愛はかげろう」はキーが高すぎて歌いきれなかった。
 以上5曲上げたが、皆その後も歌手としての活動は続けていたのだと思う。懐かしのメロディーなどで、姿を見ることがあった。

 当たり前のことだが、売れる曲にはどこかに魅力的な要素がある。詞に伝わってくるメッセージがあるとか、耳に残るメロディーがあるとか。しかし、結果的に売れたから、何度も聴いているうちにいい曲に思えてくるという面もある。すでに売れっ子になっている歌手は別にして、これはかならず売れるという確証を得るのは難しい。B面で売り出したらそちらの方が評判がよく差し替えたとか、LPのなかの一曲が評判になってシングルカットされるという例はたくさんあった。

 たまたまというか、幸運というか、そういう要素がある。売れた歌手が必ずしも上手い歌手だと限ったものではない。もらった歌が、作詞家作曲家にとって素晴らしい出来だったとも限らない。歌と歌手のマッチングや、世相との関係なども考えられる。理由は何であれ、ヒット曲を持つことは流行歌手にとって最大の喜びに違いない。

 奥飛騨慕情は、竜鉄也の歌なのである。この曲なしに竜鉄也はありえない。

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