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2011年10月30日 (日)

抑圧された欲望

 人間は様々な欲望を持っている。社会生活を営むにおいてそれらは、法や規範によって一定の範囲内に抑え込まれている。人間の意識や行動は、所属する共同体や利益社会の構造によって規定されているが、白紙に始まって順に色が付いていくのかと言えばそうではないだろう。人間は白紙では生まれてこない。

 生活に障害をもたらす種の欲望は、まずは躾によって抑制され、続いて公教育の場で抑制される。そして、成長すれば自ら抑え込むことを覚える。生きることに今よりもずっと制約の大きかった時代には、そこに大きな葛藤が生まれ文学の素材にもなった。

 ここでは、あまり難しいことには立ち入らない。あくまで個人的なことである。私は、自分で言うのもなんだが、相当道徳心の強い子どもだった。子どもながらに葛藤があった。そういう傾向は、成長するにつれ、いくらかは持ちこしながらも徐々に薄らいでいった。といっても法や規範を無視しだしたのではない。法や規範の成り立ちを理解することで、その順守が絶対的なものではなく、状況によっては罪を問えないこともあるのだと知ったからである。

 ところで、欲望には様々あると言ったけれども、たとえば美味しいものを食べたいとか、きれいな服を着たいとかいったものがある。これは人間だれしも持つものであり、否定すべきものでもないが、それが満たされるとは限らず、逆に満たされない場合の方が多い。満たされないと分かれば、欲望が頭をもたげないように隠してしまう方が生きやすい。
 大げさな話ではないが、こどものころから贅沢はしてはいけないとか、きれいな格好をすることに囚われてはいけないとか思ってきた。親から言い聞かされていたということが大きいのかもしれないが、実際はそれができる生活の条件がなかったということである。昔は、星野哲郎が「ぼろは着てても心の錦」と書いたように、貧しさに耐えるための抑制の美学があった。

 そうやって学生時代を生き、就職したのだが、世の中が経済成長するなかで、自分で稼げるようになるにつれ、いくらか贅沢ができるようになってきた。それは抑制していた欲望の解放でもあった。「おいしいものを食べに行こうか。」という言葉が茶の間で聞かれるようになり、新しいシャツが欲しいだの、靴が買いたいだのとささやかれる。

 欲望は作られ操作されるものだという見方があり、それを私も支持するが、それがすぐに購買行動に結びつくのではない。意識の底に沈潜し、可能な条件ができた時に吹き出すのである。その他の欲望も同じだろう。政治的な欲求にしても、「自由」の記憶が、ある時に吹き出すのである。

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