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2011年10月11日 (火)

映画「猿の惑星:創世記(ジェネシス)」

  猿の惑星というと圧倒的に第1作が印象的で、2作目までは覚えているが、それ以降は見たのかどうかも定かではない。

 今日見た作品は、それとはまったく別の話。

 アルツハイマーの新薬を開発中に猿(チンパンジー)を使った実験を行っている。するとそのなかの一匹が著しい知能の発達を示した。壊れた神経の修復だけではなく、神経の発達を促したのだ。次に人体実験に進むことになり、承認を得るための会議が開かれた。しかし、ちょうどその時に、効果を証明するはずだった猿が暴れだす。妊娠していたため過敏になっていたのだ。結果承認の話どころか新薬の開発も中止になってしまう。そして、実験に使われた猿たちは処分されることになる。

 開発に携わった主人公の研究者ウィルは、騒ぎを起こしたチンパンジーが身ごもっていた子猿を家に連れて帰り、シーザーと名付けて育てることにした。また、アルツハイマーの症状が出ていた父親に会社から持ち出した新薬を投与する。父親は目覚ましい回復を示す。回復どころか以前の能力を超えるようになった。一方でシーザーの知能も普通の猿をはるかに超えた発達を示す。母親から脳細胞の発達因子を受け継いでいたのだ。

 平和な生活だったが、父親の様子がおかしい。再びアルツハイマーの症状を示す。ある日、家の前に駐車してある隣家の自動車を動かし、損傷させて事件になる。そこに父親を助けようとしてシーザーが飛び出し、父親を責め立てる隣家の主人に襲いかかる。警察沙汰になり、訴訟を起こされると同時に、シーザーは危険な猿たちを「隔離」する施設に入れられてしまう。

 ウィルは新薬の研究を続けた。父親の病を再度悪化させた副作用を克服するためだ。そして処方が完成し、まだ席を置いている医薬品会社の責任者に報告する。父親での実験結果を聞いたその責任者は欲に駆られ、ふたたび動物実験を開始し、実験用の猿をかき集める。そして効果を確認する。
 一方、施設に追いやられたシーザーは、監視担当者の暴力的な扱いと収容された猿たちからのいじめに苦しむ。しかし、知能を持った彼は、その境遇を諦めるのではなく、次の行動を考え始める。檻の鍵を開け、夜間に行動して猿たちを自分の指揮下に置いていく。また、施設を抜け出し、ウィルの家に行き新薬を持ち出す。そして、持ち帰った新薬を施設内に散布して猿たちに吸引させる。

 ある日、シーザー率いる猿の軍団が行動を開始する。彼らの標的は新薬を開発した製薬会社であり、その責任者だ。軍団は指揮官の下、事前に打ち合わせ通りに組織的な行動をとる。移動の途中で動物園を襲い、新たな猿を軍団に加える。勢力を増した彼らは、易々と製薬会社に乗り込み、開発施設を破壊する。そして、次に責任者を追い詰めていく。
 後半は、軍団と市警との戦闘シーンだ。猿たちの標的はあくまで製薬会社の責任者だったが、行く手を阻まれたため交戦せざるをえなかった。最後は、仲間のゴリラが責任者の乗るヘリコプターに襲い掛かり墜落させる。

 目的を果たした猿たちは市の近くにある森に移動する。ウィルはシーザーを探して森に入り再会を果たし、ふたたび一緒に暮らそうと説得するが、シーザーはその道を選ばない。この森で「仲間の」猿たちと暮らすことを選択したのだ。シーザーは巨木の頂点に立ち、遠くを見渡す。これからの物語を暗示するように。

 
 以上が、話の概要である。私がもっとも印象的だったのは、シーザーが初めて発した「NO(ノー)」という言葉である。これはネガティブな面で、もっとも意志的な言葉だと言えるだろう。何に対する「NO」なのか。そこには猿と人間の対立関係がある。広く言えば、動物と人間の対立である。自分たちの運命が人間の手にあることに対する「NO」なのである。

 この作品には次作を期待させる要素がたくさんある。新薬の試験中に副作用から生じた感染症をもらい亡くなったスタッフがおり、その感染症はウィルの隣人にうつった。隣人はパイロットであり、病状を悪化させながらサンフランシスコからニューヨークへのフライトに就くのだった。この感染症の拡散との戦いがストーリーになりうるだろう。
 また、森に帰っていった猿たちがそこで繁殖し、数を増やすとともに知能を向上させ人間に立ち向かってくるストーリーが予想される。これが次作の軸になるに違いない。

 ところで、これはフィクションなので突き詰めると疑問の湧くことがらもある。医薬品の会社の責任者だけが狙われたのか。研究がどのような目的で始まったのか、途中の経緯がどうだったのかを詳しく知るすべをシーザーは持たなかったろう。あるいは、ウィルの日常の会話から理解したのかもしれないが。

 最後に二点。隣人のパイロットは気の毒である。隣家から突然猿が現れたり、車を壊された上に猿に襲われたり、感染症までうつされてしまう。普通の市民にもいろいろなリスクがあるという警鐘と受け取ればいいのだろうか。
 シーザーを守り、ヘリコプターに飛びかかっていったゴリラに「義」を感じた。ゴリラは、長年閉じ込められていた檻からシーザーによって解放されたのだった。その恩義に報いる行動であると私の心情が反応したのである。この作品においては、人間と猿との転倒が起こっている。猿が人のあるべき姿を体現し、その分だけ人間が愚かに見えている。

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