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2011年10月15日 (土)

文学の二つの潮流

 本屋で加藤周一の本を立ち読みしていたら、日本の近代文学は二つの潮流に分けられると書いてあった。今手元にその本はないので、記憶を辿るが、一つは内村鑑三に始まる「人はいかに生きるべきか」を問題とする流れである。内村に続いて自然主義文学があり、白樺派があり、プロレタリア文学に至る。もう一つは、森鴎外と夏目漱石に始まる流れであり、東西文化の対立を問題とする。永井荷風、谷崎潤一郎、芥川龍之介と続く。中野重治もこのグループに入れていたと思う。

 短い文章だったので、細かいことには立ち入っていなかった。そのなかでも興味深いのは、自然主義のグループはほとんどが地方出身者であり、キリスト教に影響を受けている。西洋に訪れたことはなく、キリスト教を通じて西洋を理解した。一方で日本の古典にも親しんでいない。彼らは、出身地では封建的な関係に拘束され不自由であったが、離れた都会では自由であった。その二重の条件のなかで、いかに生きるべきかが問題となったのではないか。プロレタリア文学でも、政治的問題が前面にあったとしても、その作家本人にとっては、故郷にある「家」の問題を切り捨てることができなかった。いかに生きるべきかにこだわれば、個人的な境遇を扱わざるをえなくなるのは当然だ。

 加藤周一は、後者のグループをより高く評価しているようである。このグループの大半が江戸あるいは東京の生れであったことが共通し、日本の古典に親しむと同時に西洋文学にも深く入り込んでいた。加えて鴎外、漱石、荷風と同様に洋行の経験もある。ある意味、同じように生きたということができるだろう。

 加藤周一は死ぬ直前にカソリックの洗礼を受けた。加藤にとってキリスト教への入信は、入口ではなく、出口だったのである。

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