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2011年9月 3日 (土)

人と社会の成長を制約する諸条件およびその克服

 私たちの生活のあり方を決めるものは何だろうか。学問のレベルを離れて、素朴に考えてみると、まず私たちがどれだけ働くかという問題が出てくる。労働には量ばかりではなく質もあるから、単純には言えないが、豊かさを保障する要素として労働の大きさを上げないわけにはいかない。ただし、働くと言っても、働き方にはさまざまな形がある。自分が事業主として働くのか、それとも雇われて働くのか。社会の発展水準によって、どういう働き方が支配的であるかが決まる。

 私たちの祖先は、約10万年前に北部アフリカを出発し、世界中のおよそ住める所には隅々にまで広がっていった。そして、その地理的条件と気象条件とに強く制約を受けながら生きてきたのだ。私たちは、その条件を日ごろは実際よりはるかに軽く見ているが、何か事あるごとに再認識させられている。

 砂漠に住む人々がいる。水がない。激しい寒暖の差。厳しい条件だ。熱帯雨林に住む人々がいる。恵みもあるが、危険も大きい。寒冷地にも住む人々がいる。冷えとの戦い。農業は困難だ。肥沃な土地に恵まれた人々がいる。時に自然は牙をむくが、母なる大地は食物を育てる。
 文明は大河の流域を中心に生まれた。肥えた土地が多くの人間を育てた。この条件は圧倒的に有利であった。要するに定住する場所によって大きな差が生まれるのである。民族には始めから不平等が付いて回る。
 一方で、むかしはそうではなかったが、科学の発達とともに、地下資源が価値を持つようになった。金、銀、石油、石炭、鉄鉱石、レアメタル等々。痩せた土地にも鉱物が眠っていた。これも自然の恵みと言えよう。掘り出すのには労働が必要であるが、とにかく掘れば売れる。この資源は大きな武器になる。資源の偏在は第二の不平等であった。

 このように大いなる不平等を前提として多くの民族が世界に共存している。そしてまた、ここに人為による科学技術の差や軍事力の差が加わって、不平等のバランスがさらに崩れ、混沌が生まれる。これが現実ではなかろうか。しかし、あまりに当たり前のことだからか、あらためて論じられることがないように思う。

 差異、不平等が歴然とあるにしても、それが富の形成に過度に影響を与えないシステムはないものだろうか。金融商品、金融派生商品と呼ばれるものの市場変動によって、労働を原初的な条件として蓄えられた富が、一瞬にして減価してしまうような仕組みが世界に安定をもたらすはずはない。それはおそるべき紛争のリスクとなるだろう。システムそのものに代替物がないのであれば、国際的な再分配の仕組みを再構築する必要がある。しかし、それにしても各国が自らの利益のために富の供与を行うとすれば、薄まった投資という意味合いにしかならない。フェアな調整が可能な、国際的かつ公的な意志が必要とされる。

 新しいシステムを模索したい。社会の発展は、ホッブズからルソーへと社会観を進歩させたが、現実はふたたびホッブズの世界に逆戻りした観がある。再びルソーの世界へと理念を進めなくてはならないように思う。
 市民社会の限界を乗り越える論理は再び可能になるのだろうか。ともかく、いったんすべてをご破算にして、構想を練り直す必要がある。抽象的な議論で現実は進まないが、現実の延長線上に光は見えない。

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