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2011年9月15日 (木)

「偉い」と思った瞬間から始まる転落

 ものの見方はフェアでなければならないと思う。しかも、自分自身への評価はあえて厳しく、謙虚であるべきだ。どうしても自分には甘くなってしまうので、ストイックな見方が必要である。最後の最後に拠って立つところは自分でしかないという意味において、自愛の心は持ってしかるべきだが、それ以上のプライドは邪魔になるだけである。

 私は偉いのだと主張して、誰が同調してくれるだろうか。人間の価値は本人が決めるものではない。世間(身近な世間から広い世間まで)、社会の評価がすべてである。人間とはそういう存在である。しかし、だからといって、評価を受けることに縛られて生きるのも窮屈であるし、世間の評価自体に定まった基準があるのでもなく、概してあやふやなものである。

 自分の信ずるところに従って、まっすぐに生きるしかない。そうやって生きること、あるいは生きた結果に対して評価は付与されるものだ。直属の上司やさらに上の上司の評価を得ることが動機として働く場合があり、あながち悪いとは言いきれないが、その評価がフェアである保証はない。狭い世界で高評価の人物が、もっと広い世界では全く評価されないという事態も在りうるだろう。そう考えると、フェアな評価のできる同僚、先輩、上司がそばにいることは大いなる幸運である。よきアドバイスによって生き方の修正が可能になる。

 自分が偉いと思うことは、相対的に自分の周囲を蔑むことになる。そのことはすぐさま周囲に察知される。信頼を失くし、自己の評価を下げる。また、自己に対するフェアな評価の喪失は成長の機会を奪うことになるだろう。そういう意味で、転落の始まりなのである。

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