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2011年9月 4日 (日)

巨匠がいなくなる

 昔は芸能、芸術の世界に巨匠と言われる人たちが多くいた。その世界に幅広い知識を持たぬので、限られたジャンルでしか意見を述べることができないが、触れられる限りで話そう。

 落語の世界には、志ん生、圓生、可楽などといった名人がいた。それぞれに、それぞれの世界があり、それぞれの芸風があった。その後の世代に彼らほどの名人は出なかった。

 ピアノの演奏家には、ラフマニノフ、ルービンシュタイン、ホロヴィッツ、リヒテルなどの巨匠がいた。その後、アシュケナージやポリーニが出ているが、巨匠と呼べるだろうか。

 才能の発掘機会が減っているかどうか。落語は、寄席が減ってしまったから活躍の場がなくなり、成り手も減少したと思われる。また大学の落研あがりが多くなり、若くからたたき上げでじっくり芸を磨くことがなくなったのではないか。もうひとつの理由は、世のなかの変化である。古典落語が描いている世界と今の世間とのギャップが大きくなってしまったので、話への共感が難しくなった。名人は、過去の封建的な世界を巧みに語っていたのだった。こう考えてくると、再び名人の登場は期待できそうにない。あるとすれば、古典とは全く違う、新作落語の名人だろう。それはもはや旧来の落語とは違うカテゴリーに属するように思う。

 ピアノを弾く人間の数は増えている。かつての欧州においてピアノを弾く人間の数は多くなかっただろう。貴族や地主などの富裕層の子弟に限られていた。しかし、今ではミドルクラスでもピアノを持つことができ、幼いころからレッスンを受けることができる。日本でも中国でも、そういう経歴を持つ、若い優秀なピアニストが誕生している。しかし、今一つ存在感が薄いように思う。私にはよくは分からないが、欧州のピアニストも技は巧みだが、重厚さを感じない。これも歴史の変化だろうか。もうクラシックな世界ではないし、レッスンを授ける側の力量も落ちているのではないか。本当に力のある教授は数少ないから、ピアノ弾きは多くても、本物のレッスンを受けられないのだ。その点、巨匠と言われる人たちは、第一級の教授に教わっていた。そういう本物の技と感受性の伝授が途中で切れてしまったのではないか。ましてや、日本では条件がそろっていない。かつて、ショパンコンクールに出場した日本のピアニストは、審査員からショパンを日本語で弾いたと評された。屈辱的な指摘のされ方だが、そういう風に聞こえたのだろう。

 古典の世界はなかなか難しい。新しい芸能、芸術の世界では巨匠が出るのかもしれない。いや、これだけ何もかもが急速に変化してしまう社会では、巨匠が出る前に、芸の形が変わってしまうのかもしれない。芸が磨かれるには、まず時間が必要である。

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