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2011年8月24日 (水)

ユーモア志向の形成

 私には、ユーモアのセンスはないけれども、ユーモアへの志向はすこぶるある。真面目な話をしていても、必要以上にジョークを口にしてしまので、さぞかし周囲のひんしゅくを買っているのではなかろうか。

 「ユーモア」イコール「ジョーク」ではない。ユーモアとはジョークよりももっと大きな範疇のものである。それは余裕の表れであり、寛容なる精神の発露である。文学の世界においても、おかしみを誘うための細かな仕掛けはないのだけれども、全体を通すとなんとなくおかしいという作品がある。人間でも同じで、とってつけたようなジョークは言わないが、なんとなく話の面白い人がいるものだ。

 そういう意味では、私のユーモアなどずいぶん底の浅いものだが、志向の強さが何に由来するのかを考えると、まずは漫才や落語に思い至る。これは何度か書いたから詳しくは省きたい。これらは、もともとが笑いを誘う芸だから、ネタもあれば話術もはっきりとある。それを真似して使うことはあるが、素人のことだからかえって滑ったりする。

 もうひとつのユーモア志向の起源は、小説家のエッセイである。前にも書いたが、高校から大学にかけて、第三の新人と呼ばれる作家群を代表する吉行淳之介、安岡章太郎、遠藤周作の三氏のエッセイをよく読んだ。特に吉行淳之介が好きで、エッセイ集だけで10冊ぐらいは読んだと思う。そこから、人生観やら恋愛観やら女性観について、かなり柔らかい見方を吸収した。
 吉行氏は、人間を、家柄や学歴や地位などに偏重してみるのではなく、「生」や「性」を切り口にすることによって余計な区別を取っ払っている。だから生の人間が出てきて面白いし、そのことが人間のおかしさを導き出している。下半身の話も頻繁に出てくるのだが、じめじめした表現はなく、さらっと読めてしまうところに吉行氏の味がある。ダンディーさは風貌だけではなく、書き方にも表れ、下世話になりやすい話題を上手く料理しているのである。
 そして、全体を通してユーモアがにじみ出ている。こういうユーモアは、寛容な人間からしか出てこないと思うのだが、氏の寛容さは大学を中退したり、肺病にかかって入院生活を送ったり、赤線の女性たちと深く付き合ったりするなかで培われたのではないかと想像される。常に“立派”な道を歩んできた人には“許す心”が欠けているように思う。

 人間、真面目すぎても面白くないし、いい加減過ぎても面白くない。基本は真面目でなければならないが、この範囲ならば許容してもよいという“緩さ”も併せ持ちたい。それも一つの良識の在り方であり、誠実さの形であろう。

 

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