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2011年8月25日 (木)

三木清と戸坂潤

 日本屈指の二人の哲学者が、敗戦の日を前後して獄中で死亡した。三木清は1945年9月26日に豊多摩刑務所にて獄死。戸坂潤は同年8月9日に長野刑務所で獄死している。三木清については、その死が戦争終結から40日あまりも経過しており、なぜ救えなかったかという議論がある。確かに、有能な哲学者を失うことは大きな損失であると認めたいが、知人の多くも投獄されている事実を知り得なかったというし、ましてや国民にそのような認識は皆無であったろうから、現実的には困難であった。日本の政府法務関係者は、敗戦によって自らの判断と行動の基軸を全くなくしていたのであり、とりあえずは昨日と同じことを惰性で今日も繰り返すしかなかったのだろう。占領軍が動いて初めて事態は変化した。

 三木清は戸坂潤の4年先輩である。三木が、第一高等学校から京都帝大の哲学科に入るという進路に先鞭をつけた。戸坂はその影響を間接的に受けたと書いている。私は両氏の著作に多く触れているわけではないので、その中身について意見を言うことはできない。三木清については、若いころに「人生論ノート」を少しばかり読みかじっただけである。戸坂潤については、いくつかの評論文を読んでおり、その分だけ三木よりも身近に感じる。なかでも、戦前に幅を利かせていた農本主義などの日本イデオロギー批判は面白く、柄谷行人も引用しているぐらいだからそれなりの水準にあるのだと思う。略年譜を見ると、古在由重などの哲学者にとどまらず、中野重治らの文学者とも活動を共にしている。当時の反体制インテリゲンチャは、数が限られていたこともあるが、互いに強く結びついていたことが分かる。それだけに官憲のマークも容易であったと言えるかもしれない。

 戸坂潤には三木清について論じた文章がある。甚だ辛辣な内容であり、簡単に言ってしまえば、自分と三木とは違うのだと言いたいのである。
 「三木においては歴史哲学の追求が基本テーマであり、その発展の過程でマルクスの唯物史観を取り入れた。一時期彼がマルクス主義者に見えたのはその限りにおいてであり、自分(戸坂)が唯物論者であるのと対照的に、ヒューマニストと呼ぶことができる。三木は独創家というよりは、寧ろ優れた解釈家である。彼は優れた解釈の体系を持っており、そのシステムこそ彼の思想であり、独創性なのである。新しく現れた支配的jな事情を逸早く呑み込んで解釈してしまうことが彼の優れたところであって、その意味での一貫性に注目すれば変節漢と呼ぶことはできない。彼の言論は理論というよりも解釈の表現と言った方がいい位で、事物の特色づけが得意である。科学的論文というよりは文学的な記述に近い。」以上のような趣旨で三木を論じている。

 一見その才能を認めているような書き方になっているが、実は痛烈な批判である。戸坂は三木を文化的自由主義者だと決めつけており、凡庸なるインテリ層に受ける、スケールの小さな思想家であると結論付けているように思われる。

 戸坂の見解をそのまま鵜呑みにはできない。私は三木についてあまりに知らなさすぎる。いくらかその足跡を追ってみる必要がある。別のだれかが、三木の態度や振る舞いは紳士的ではなく、周囲からずいぶん嫌われていたと書いていたが、そんな面も敵を多く作ることにつながったのかもしれない。

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