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2011年7月12日 (火)

ブログ1000回記念 井伏鱒二の「黒い雨」

 1945年の8月6日に広島で何が起きたか、この小説によって知ることができる。当然のことながら、原爆による被害のすべてがここにあるわけではないが、人類最初の核兵器の被害を理解するにこれ以上のものは必要ないであろう。

 この作品は、1965年から66年にかけて「新潮」に連載された。初めは「姪の結婚」という題名であったが、途中で「黒い雨」に改められたという。確かに、主人公の姪の結婚話を発端としてこの話は始めるが、内容はその枠を圧倒的なボリュームで突き破ってしまう。

 広島市内の様子は、主人公である閑間重松(しずましげまつ)が、被爆から数年後に過去の日記を清書する形で語られる。8月6日から15日まで、即ち原爆が投下された当日から玉音放送のあった終戦の日までの10日間である。
 
 あらすじをここで追うことはしない。印象的な部分を書きとめることで感想としたい。文章は新潮文庫版からの引用であり、ページ数は第72刷のものである。

 p49~50 ここは、主人公の閑間重松が被災直後に見た光景である。重松は、停車中の電車のデッキに乗り込んだ時に被爆した。自身は頬の片側を火傷する程度(とはいっても、それは外見上のことであり、核兵器の影響は内臓など体中の組織に及んでいるのである。)の被害だったが、駅周辺を逃げまどう被害者の姿は、まさに地獄絵のようである。
 「・・・頬が大きく脹れすぎて巾着のようにだらんと垂らし、両手を幽霊のように前に出して歩いている女もいた。・・・」

 p202~204 8月10日の市内の惨状である。主人公は、勤務する繊維工場で使用する石炭を手に入れるための交渉事で市内に向かわざるをえなかった。読んでいて気分が悪くなる内容だ。
 「・・・逆さになった女の尻から大腸が長さにして三尺あまりも噴きだして、径三寸あまりの太さに脹らんでいた。それが少し縺れを持った輪型になって水に浮かび、風船のように風に吹かれながら右に左に揺れていた。」
 「・・・その死体の山を真黒に見せるほど蠅が群がって、風のせいか何か知らないが『わあん』という声を立てて飛びたって、すぐまた死体へ群がっていった。同時に、息づまるような、嚔(くさめ)を催させるような臭気が襲ってきた。・・・」
 「・・・僕は自分の目を疑った。荷物を欄干に載せかけて、怖る怖るその屍(むくろ)の近づいて見ると、口や鼻から蛆虫がぽろぽろ転がり落ちている。眼球にもどっさりたかっている。蛆が動きまわるので、目蓋が動いているように見えるのだ。・・・」
 腐乱した死体のひどさが視覚を襲い、その臭気が嗅覚を襲うのだった。p205には主人公の言葉としてこう記されている。「戦争はいやだ。勝敗はどちらでもいい。早く済みさえすればいい。いわゆる正義の戦争よりも不正義の平和の方がいい。」それに加えて、p206にはこうある。「広島はもう無くなったのだ。」

 私は、中学の時に修学旅行で広島に行き、原爆資料館を見ている。大学生の時には広島の友人宅を訪れ、平和公園にも行っている。会社に入ってからは、労働組合から原水禁大会へも参加した。原爆の記録はかなり目にしているはずだが、それでも時間とともに記憶は薄らいでいる。全身を火傷した被爆者や黒焦げの死体の写真、熱線でよじれたガラス瓶などをうっすら覚えている程度であり、現地へ行った人間がこの程度であるなら、少しばかり話を伝え聞いただけの人の認識はいかほどのものだろうかと思ってしまう。それでも、この小説を読むと、あの夏の日に起こった事実が生々しく伝わってくる。これが文学の力なのだろうか。もちろん、井伏鱒二の才能に拠るところが大きかろう。しかし、記述は淡々としている。ことさら強調もしていない。ただ、事実が異常なのである。

 ほか、戦中戦後の暮らしの様子も描かれていて面白い。特に食生活の記録は貴重だ。また、国や軍(ほとんど国イコール軍になっていたのだろうが)による情報統制も一部記されている。p79には、隣組の宮地さんの奥さんの話がある。宮沢賢治の詩が教科書のなかで書き変えられたことに対する発言である。「一日四合というのを三合と書きかえるのは、曲学阿世の徒のすることです。」質素な食事として四合の玄米が詩にうたわれているのに、配給が減り始め三合となり、四合と書かれては面目が潰れるから書き変えたのである。

 ことしも、8月6日がやってくる。8月9日もやってくる。そして8月15日がやってくる。この小説を読んだことで、また違った夏がやってくる気がする。

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