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2011年7月13日 (水)

人が育つ環境と「場」を取り戻す

 人間の成長は生活の在り方に左右される。背景となる文化の違いが、意識と行動の差を生む。

 何日か前に、「影響しあう精神」というタイトルのブログがある。その中で、「西田幾多郎と鈴木大拙は四高の同級生であった。地方都市の一隅に、のちに日本を代表する哲学者と宗教家が育ったことに驚きを覚える。(なぜこんなことが起こるのか、後日あらためて考えてみたい。)」と書いた。

 しばらく考えていたら、「類は友を呼ぶ」ということわざを思い出した。ことわざの意味は、「気の合った者や似通った者は自然に寄り集まる。」ということである。もう一歩深く検討してみると、似通った者とは単に趣味や気性の類似を言うのではなくて、境遇の類似性を示している。同じ階層に属し、同じような条件で育ったものは、同じところに集まりやすい。おそらく、敗戦に至る昭和の前期までは高等教育を受ける機関は少なく、その限られた施設に同類が集まったのである。官吏を目指す者、民間の技師を目指す者、そして数は少なかろうが芸術を志す者がそこに集ったのであり、逆にそういう「場」を持たなかった、あるいは持てなかった者には、「志す」チャンスさえなかったのである。

 そのような場に集い、そしてそのなかの一部が名を成した。高い水準の思考や創造的活動は、同じく高い水準のそれとしのぎを削ることで鍛えられる。恵まれた人間の特権であり、不公平であることは間違いなかろうが、そのように人間社会の発展は現象した。だけれども、このままでよいのではない。保守的な社会は、違う条件で育った新参者を嫌うのだろうが、そういう社会は早晩崩壊する。過去はどうあろうとも、今ここにある精神と人格をもって人間を評価する組織が未来を継承するのである。

 あらゆる機会を利用し、より高い水準の精神活動に接近し、そこでさらに自分を鍛える。階層がなおも固定化していると言われる今日において、そこには相当の困難が生まれるだろうが、人材の流動性が生まれなければ社会が衰退し、国が滅びるという法則に疑問を抱く余地はない。
 制度の変更は社会の変化に後れをとることが多い。上から大きく変わることへの期待も合わせ持ちながら、部分部分の小社会で、光る才能を時代を先取りする精神へと育て上げたいものである。

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