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2011年7月の投稿

2011年7月31日 (日)

成長するものに無駄はない 北島康介に学ぶ

 世界水泳上海で北島が4位になったとき、こういう大会があればこそまた頑張れるという意味のことを口にした。成長が止まらない人間は敗北をも力にしてしまう。負けた悔しさは彼を再び過酷な練習に向かわせるだろう。敗因の追求は、新しい泳法を生みだすかもしれない。

 失敗の中にこそ成長に必要な要素が隠れている。成功は結果でしかない。失敗は来るべき成功に必要なプロセスである。理想とするプレーと現実との落差が力を生む。弱点の自覚はまさに宝ではないか。

 北島の姿にアスリートの清々しさと同時に貪欲さも見る。あんなにギラギラした奴はいない。次の200メートルでは最後の25mで力尽き、金メダルは逃したのだが、あそこまで勝負にこだわり力を出し切れる選手がいたのかと驚かされた。レースのあと、歩くのも心もとないほど疲れ切った北島の姿に畏敬の念を抱いたのは私だけだったろうか。

2011年7月30日 (土)

2011年夏 東海大仰星対PL学園

 2011年高校野球選手権大会大阪大会準々決勝、東海大仰星対PL学園の試合を舞洲球場にて観戦した。

 投手も含めて守りに乱れが出て、大味な試合になってしまった。特にPLは持ち味であるそつのない試合運びができず、主戦の友谷が制球に苦しみ、野手も守備の乱れがあって足を引っ張ってしまった。打線はPLらしく活発で、前野の本塁打などで大差を追いかけたが、前半の失点が大きすぎて追いつけなかった。結局今年のPLは投手力に課題があったという結論になるだろう。

 東海大仰星はよく健闘した。PLの投手が不調とは言え、よく打った。反省点はPLと同じく守備の乱れがあったこと。エースの吉田は、あまり器用そうには見えないので、思い切って大胆に攻めればいいと思う。次も勝って、おそらく決勝に進出するであろう大阪桐蔭を破り甲子園に歩を進めてほしい。

東海大仰星 吉田投手

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PL学園 友谷投手

2011tomotani01

試合結果

2011gyousei01

橋下徹知事について

 大阪府知事の橋下徹は、大学の後輩にあたるが、好きにはなれない。すべてではないがその政策内容に賛成できないことに加え、あの極端に強引なやり方が理由である。しかし、多くの大阪府民には人気がある。支持されているというよりは、人気があるという言い方の方が適切なのだと思う。こう言っては失礼かもしれないが、横山ノックを指示した層と橋下を指示している層はかなりの部分重なるのではないか。

 横山ノックがあの事件を起こした時に、彼を選んだ府民にも罪があるという発言にかみついた女性の学者がいたが、大衆には罪がない、あるいは大衆は馬鹿ではないという主張は正しいであろうか。私は、大衆は馬鹿だとは思わない。しかし、馬鹿ではないと言い切る気もない。大衆は常に馬鹿になりうる危険性を持っている。橋下および維新の会は、大衆を馬鹿にする術に長けている。橋下の描く地域社会が実現したならば、彼の支持者の多くは没落するであろう。

 彼の欲するものは何であろうか。府知事と大阪市長のダブル選挙を画策しているが、もう一人の候補選びはまだ終わっていない。彼は、その候補者は中曽根康弘か小泉純一郎のような偉い人物でなければならないと言ったらしい。ということは、自分自身を中曽根や小泉並みの政治家だと認識していることにならないだろうか。
 彼にとっては派手に立ち回ることが、即目的なのではなかろうか。これまでの言動を見ているとそう思えてくる。マスコミを巧みに使い、大衆を煽動し、政敵をかく乱する。そうすることが彼にこの上ない充実感をもたらしているように思う。

 
 議会の定数を大幅に減らすと言っている。東京都と単位人口当たりの議員数を同じにするという理屈である。これはそんな単純な問題ではない。地域の特性もあろうし、少ない議員では意見の多様性を汲み取ることができない。総報酬額を減らしたいのであれば、議員一人当たりの報酬をさらに減らすことを優先すべきである。議員は己の欲を捨て、住民のために仕事をすべきであり、それに橋下も反対はしないであろう。

 反原発を打ち出したが、これは彼の未来社会像に元々あったものなのか。大前研一が事故直後に、これから30年は原発はだめでしょうねと語ったように、事態を敏感に感じ取って、大衆の原発に対する嫌悪感に乗っただけなのではないか。少なくとも、若い時から反原発のポリシーを持っていたとは思えない。したがって、ダブル選挙が終わったあとには、関電や関西財界の圧力のもとに主張をトーンダウンさせていくことが目に見えるようである。

 対立を演出して、流れを自陣営に引き込むのは小泉の手法であった。そのやり口に惑わされて、政策の中身を見失ってはならない。

2011年7月29日 (金)

あまりにくだらないテレビ番組

 くだらなくない番組を探す方が難しいほど放送の中身は劣化していると思う。そういうものしか作れないのか、そういうものでないと見てもらえないのか。両方の要素があるように思う。

 なんでこんな作り方をするのか。予算が小さくなっている事情は分かる。贅沢なセットは使えない、遠くまでロケに行けない、ギャラの高いタレントは使えないなどの制約のなかで苦労するのは業界のことを知らない人間にも想像がつく。「費用は小さく、視聴率は高く」が至上命題である。この論理の中で番組の劣化が進んでいく。

 「金をかけてでも、いいものを作れば確実に視聴率が取れる」というなら今でもそういう道はあるだろう。しかし、いいものが作れるかどうか。昔は、映画やドラマの作り手にも才能豊かな人がいた。ところが、全般的に、芸術的感性を持ち制作能力に長けた人材が少ない上に、他の分野へも人材が流れていることを考えると期待薄である。また、見る側もいいものを見分ける力がなくなっている。演技は下手でも、人気にあるタレントを使えば視聴率が上がってしまうようだ。それこそ学芸会に毛の生えたようなお芝居で、見ていて恥ずかしくなることがある。

 お笑い番組とお笑いタレントを使ったクイズ番組の氾濫も劣化に拍車をかけている。前にも書いたが、インテリタレントが優秀さを競うパターンと「おバカ」タレントが馬鹿さを競うパターンとがあり、いずれも差別的な社会を象徴している。こういう番組の横行が放送界全体の質低下を招くとともに、視聴者の頭を劣化させている。

 さらに、これに輪をかけてすごいのもある。先日ちらっと見えたのは、とんねるずとお笑い芸人たちの番組だった。ただプールで騒いでいるだけの内容であり、台本もないだろうし、芸人ならでは芸が活かされる場面もない。それこそ、こんなものを放送できる神経を疑うし、視聴者を馬鹿にしている。これで喜ぶと思っているから出すのだろう。

 安っぽい番組に毒されないようにしよう。安っぽい笑い、安っぽい涙。いいもので笑い、いいもので泣けば心は豊かになるのだが・・・。

2011年7月28日 (木)

物流について

 これまで仕事で物流業者と付き合うことが多かった。どうやったら運賃を中心に物流コストを下げられるか協力して考えてきた。そこでいろいろなことを学んだ。たとえば、「さしみ」という言葉を聞いた。さしみとは「3・4・3」という数字を表わしている。これは集荷に3割、移送に4割、配達に3割、それぞれコストがかかるという意味である。どこを重点にコストダウンするかが問題だ。

 物を運ぶという仕事は機械化、自動化が難しい。集荷の時に、大口顧客であればリフトを使えるとか、宅急便であれば自動仕分け機を使うとかの術はあるが、トラックの運転や荷降ろしはドライバーがやるしかないし、宅急便は戸口まで一軒一軒持って回る。本当に手間と体力の必要な大変な仕事なのである。

 それでもさまざまな工夫をして、コストを下げ、競争力を生みだそうとしている。とはいえ、各運送会社にできることは細かな施策である。費用の多くを人件費で使うから、個人で軽貨物を持つ事業主に荷物を渡して運ばせたりする。出来高払いだから、固定費にならずリスクが小さくなる。あの軽貨物の運転手は、実質の収入は厳しいだろう。車の費用と燃料費だけでも月にいくらかかるか。1個運んで100円もらえたとしても100個で1万円である。そこから経費を引いていくと残るはアルバイトの日当とあまり変わらない。年配の運転手が多いのはうなずける事実である。

 物がなければ生きていけない。物流はなくてはならない仕事である。トラックを、そしてドライバーを見かけるとご苦労さんと言いたくなる。誰かと話しているときに出た案だが、運送会社が協力して各地域に配送センターを作り、荷物はすべてそこから配送するようにする。最終の工程だけでも集約できたら随分効率化できるだろう。各企業が激しい競争を繰り返している中で、そういう思い切ったことはやりにくいが、それこそ国土交通省が音頭をとり、強制力も行使すれば、いやいやの振りをしながらも運送会社も助かるのではないか。

 走っている(文字通走っている)ドライバーを見たり、リヤカーで宅急便の荷物を運んでいる姿を見たら、彼らもまたこの社会を支える大きな力になっていることを思い返し、感謝しよう。

2011年7月27日 (水)

刑務所について

 刑務所の中の様子について詳しくは知らない。ときどき、映画で刑務所のなかの生活を撮ったシーンがあり(「塀の中の懲りない面々」など)またテレビのドキュメンタリーでごく一部であるが取材がなされ、その範囲で窺い知るのみである。

 服役は、犯した罪に対する懲罰の意味を持つと同時に、社会に適応するための規律を植え付けることを目的としていると思われる。その目的が十分に果たせていないことは、再犯の多さを見ればよく分かる。もっとも、犯罪の発生は当人の規律だけがその要因ではないから、単純に刑務所のなかのやり方だけを疑問視することはできない。

 刑務所のなかの監視は基本的には厳重であろう。テレビで紹介される塀の内部のルールはすこぶる厳格であり、そのルール以外に人間の行動を律するものはないように見える。ところが、実際はそうでもなさそうである。雑居房では、何らかの人間関係が生まれるであろう。また刑務官と服役者との間にも関係が生まれる可能性がある。
 一般社会がそうであるように、長く服役しているベテラン?ほど尊重されるだろうし、新入りは肩身が狭いに違いない。しかし、経験したことはないし、経験者から直接聞いたのでもないから想像になってしまうが、屈強な肉体をしていれば軽々しい対応をされることはないだろうし、変な理屈だが、重犯(重い罪、二度以上繰り返した罪)の場合は古い服役者も一目置いたりするのではないか。

 要するに、刑務所には刑務所特有の制度と論理があり、それに従って動いている面はあるものの、社会の現実から自由ではありえないわけだし、社会のおかしなところは刑務所にもおかしなまま持ちこまれてしまうのである。とはいえ、刑務所のなかは狭い世界だから、矛盾は小さい。娑婆には誘惑が溢れているが、矛盾も大きい。刑務所の方が暮らしやすいかもしれない。なにせ、周りの住人から、犯罪者であることで誹りを受けることはないのだから。

2011年7月26日 (火)

再びプレートナンバー8888

  大阪市内で仕事を終え、タクシーで北に向かっていたら、左前方に「8888」の白い車を見つけた。車のナンバーには興味があって、特にこの「8888」と「・・・1」に注目している。私は車を持たず、出歩く回数も多い方ではないがら、ナンバーを目にする頻度は高くないが、注意して見ていればこそ気づくことがある。

 「8888」は人気のナンバーで、私が勤める200人足らずの会社にもこのナンバーの車に乗っている者が2名いる。また、気を付けてみていると、まれに街で見かけることがある。
 「・・・1」は、一日に2台見かけたことがある。ないことではないが、単に同じナンバーにぶつかるのではなく、このナンバーに限っての重複は、確率として小さいものである。

 主な抽選ナンバーは下の表のとおり。さすがに「・・・4」や「4444」はない。

1
7
8
88
 
 
333
555
777
888
2000
3000
1111
3333
5555
7777
8888
 

 

2011年7月25日 (月)

AMEMIYA

 今年のR-1グランプリ準優勝のAMEMIYA。街で見かけたありふれたキャッチコピーなどの言葉から物語を展開するパターン。普通に見かける言葉とそれに続く悲惨な世界とのギャップが哀愁とともに笑いを生む。しかし、同じパターンの連続ではすぐに飽きられる。
 同じネタも2回までかな。難しいけど、でも、メッセージ性はあるね。R-1で、「東京ウォーカーに載りました」のネタを初めて耳にした時は衝撃的だったけど、あれは叫ぶ歌い方が新鮮だったのと、ネタのまとまりが良かった。決勝になると、「この売り場から一等が出ました」はちょっと冗長というか、間延びしたね。ネタが逆だったら、もしかしたかも。

 不幸なできごとを並べて、そういう現実、そういう人々を具体的にイメージします。そういう人っているな。(個々の出来事は実際にある。それが一人の人間に降りかかると大変なことになる。)でも、自分は比べてみればずっとましじゃないか。そんな気持ちが聴いている人の本音じゃないか。

 貧困の問題や環境問題を締めに持ってきてさらに落差をつけようとする。いいやり方だけれど、パターンに慣れたらくどくなるね。長くは使えない。やっぱりお笑いはお笑いなんだからあまり立派なことは言っちゃいけない。一発売れるためには、あれぐらいのインパクトは必要なんだろうけど、安定して稼ぐには、トークを磨いてバラエティーのレギュラーで定着するとか。その確率があまりに低いなら、本当に地味に芸を磨くしかない。でも、今やそんな稼ぎ方はできないし、それだったらアルバイトの方が収入としてはましかも。

 お笑いなんて、掃いて捨てるほどあるから、こいつは違うなと思わせるのは大変だね。そういう意味じゃ、AMEMIYAのパターンはよかった。もう見られる機会は少ないだろうね。また違ったパターンを作ってほしい。有吉ぐらいしゃべれたら売れるんだけどね。

 それでも頑張って欲しいね。

2011年7月24日 (日)

「花ざかりの君たちへ」の問題点

 AKB48の前田敦子主演。視聴率が低迷している。その真因は分からないが、子どもたちと観ている中年の私にとってはなんともつまらないドラマである。

 前田敦子は48の総選挙で1位に返り咲いた人気者である。しかし、48は集団で威力を発揮するものであり、ピンでの活躍は難しいのではないかという意見もある。確かに一人ひとりを見ると、美少女コンテストで優勝できるほどの素材ではないように思われる。その点では、かつてのおニャン子クラブの方が逸材を擁していた。国生さゆり、生稲晃子、渡辺美奈代、工藤静香、渡辺満里奈など。もっとも、それほどの素材ではないからこそファンの女の子達との距離感がなく、支持されやすいという側面もある。

 さて、「花ざかりの君たちへ」であるが、堀北真希主演の前作を受けたリメイクである。キャストを見ると前作より見劣りするのは否めない。それはともかく、中身があまりに浅薄であり、原作のアニメがそもそもそういうものだったのかもしれないが、シーンにつながりがなく、リアリティーに欠ける。

 すべてが結果なのである。結果にはプロセスがある。プロセスは見せない。結果は華々しくとも、プロセスは地味であり、時に苦しい。そういう苦しさを今の若者は見たくないのだろうか。あるいは、作り手がそう思い込んでいるだけかもしれない。ひょっとしたら、そういう作り手の若い視聴者への見くびりが低い視聴率を生んでいるのかもしれない。俺たち、私たちを馬鹿にしないでよというメッセージなのかもしれない。

 前田敦子の悪口を書いているのではない、彼女は真面目でいい子である。

既得権にしがみつく者は保守的にならざるをえない

 反原発の動きに対して、原発推進・肯定派から猛烈な巻き返しが入っている。私は日本経済新聞を読んでいるが、その紙面はそういう人たちの声を盛んに取り上げており、さながら原発稼働キャンペーンとでもいう様相である。

 電力使用量の削減は企業にとって厳しい要求である。私の勤める会社も同じだ。しかし、社会が不可欠と判断した施策には従わざるをえない。その条件下で他の企業と競争するしかないのだ。

 電力事業は規模の大きな事業で、競争がない。その事業で、既得権益を受けている人も多いのだ。関西電力の有価証券報告書を見てみた。役員を見ると、会長、社長がいて、続いて副社長が4人、常務取締役が8人、ただの取締役5人、常任監査役3人、監査役4人の布陣である。役員報酬は10億5千5百万円で、単純に平均すると、4千万円強である。また別途賞与として5百万円ほど支給されている。大株主には、大阪市や神戸市などの自治体、生保、銀行が名前を連ねている。売上高は連結で2兆7千7百万円、経常利益2千4百億円、純利益は1千2百億円である。原発事故問題で今後は分からないが、11年3月期には十二分な利益を出している。社員の給料も年収で平均8百万円強と高水準である。

 これだけの大所帯で、しかも利益が上がる仕組みができているから、この既得権は手放したくない。だから今の事業形態を変えたくはない。原発は動かしたいのである。原発を止めて、たとえ電気料金を上げたとしても同じだけの利益と報酬を確保できるか分からない。消費者からみれば、身を削れと言いたいところだ。

 当たり前のことだが、既得権を保有していると今の体制にすがりつきたい。自ずと保守的になるのである。

 ところで関西電力は、関西電力株式会社という民間企業である。しかし、いつも「関西電力」と名乗っている。ホームページの表記もそうなっている。企業だと思われたくないのか。公的なイメージを与えることで、独占を正当化したいのだろうか。

 

2011年7月23日 (土)

被災地における窃盗・詐欺に注意

 3月11日の東日本大震災発生から6月末までに岩手、宮城、福島の3県で確認された現金自動預け払い機(ATM)からの窃盗被害が計56件、6億8400万円に上ることが警察庁のまとめでわかった。(読売新聞)

 普通の人間の判断では、こんな災害の時に混乱につけ込んで盗みを犯すやつらはとんでもないやつらであると思う。このような犯罪を企てる連中は、日常的に盗みを繰り返しているグループであり、だからこそ震災に「対応」できたわけだ。それこそ筋金入りの悪である。

 人の不幸につけ込むのは、窃盗もそうだし、詐欺もまた多い。住居が壊れた、機械が壊れたといえば、安く修理しましょうと近寄る。実際にあるのかどうか知らないが、頭金だけ振り込ませてとんずらすれば丸儲けとなる。

 被災地では、略奪が行われることなく、冷静に行動したと海外で報じられた。日本人は素晴らしいと、その報道によって認識をもった人も多いだろう。たしかに、被災した人たちはおとなしかった。それは災害があまりに想像を絶するものであったために茫然自失の状態であったのだ。そういう状況ではあったが、外部の悪党がこのエリアに入り込み、ATMの窃盗だけではなく、自販機も破られたりなどした。

 日本人はおとなしく、自制的であることを否定はしないが、外国と同じように悪人はいる。そして、悪人はグループ化している。一人で独立独歩、悪を貫く人間は少ない。そういうことができなくなっているのだろう。

 グループ化し、巧妙化している犯罪の手口があり、被災地の人々も注意をしなければならない。被害は注意していれば防げるものが大半である。自分で性急に判断せず、ひとに相談するのがよい。情報に詳しく、合理的に判断できる人物が近くにいればありがたい。相手の話していることが虚構なのか、実体のあるものなのか、質問を投げて続ければ、そのうち回答に不整合が出てくる。また、相手にしても利益が得られないと分かれば、すぐに遠ざかっていくだろう。無駄なことは早めに切り上げようとする程度の合理性は彼らだって持っているのである。

2011年7月22日 (金)

真の目的、真の動機

 政治の現象をこと細かく見ているわけではないが、政党や政治家の言動を見ていると辟易することが多い。

 菅さんの発言や行動に異論がないわけではないが、党内で上がっている批判にはうんざりする。組織としての体をなしていない。一体、政党の目的は何なのか。要には共通の理念があり、理念に基づいた目標に向かって進むよう「数」を形成しているのではないか。ところが、民主党をその現象だけから判断すると自民党とよく似ており、理念などは飾りで、実はそれに隠れたところで(あるいはあからさまに)それより次元の低い、自己や自己の所属する小社会の実利を目指して、多数派に寄生しているとしか思えない。だから、その多数派の形成には敏感で、今後の動静をどう読むかが生き残りの術となる。

 組織に所属するということは、かなりストイックなことである。意見はあっても、組織の判断には従わなければならない。従えないなら、組織の外に出るべきである。こういう組織原則がどこにもない。企業なら、その社員は、生活のために意見の違いを忍従することはあろう。しかし、食うために政党に入った政治家はいないのではないか。食うこととは次元が違う。考え方が違うなら、同じくする者と改めて組織を作ればよい。しかし、とはいえども、そんなに考え方の種類に多くのバリエーションがあるのではない。結局は、細かい、どうでもいいことにこだわっているだけなのである。

 社会を概観し、将来を見通すに十分なだけの見識を持たぬ政治家はいち早く職を辞し、被災地に出向いてボランティア活動を行い、一から勉強しなおしてはいかがか。松本さんが復興相になった時、その発言のきっぷのよさに拍手を送ったニュースキャスターがいたが、それはとんでもない間違いだった。政治家の「お里」をよく知る必要がある。

2011年7月21日 (木)

捕虜収容所

 捕虜収容所の様子が描かれている映画が少なからずある。それほど本数を見ていない私でも、「大脱走」と「明日に架ける橋」でかなり長い時間収容所のシーンを目にしている。他にも時間の長短はあっても何本か見ているように思う。それらは例で上げたように皆外国映画である。日本映画では、確か「戦場のメリークリスマス」が題材としていたと思うが、詳しい内容は分からない。日本側から描く場合は、日本軍が捕えた捕虜であり、かなり酷い扱いをしたというから取り上げにくい事情がある。

 映画とは別に小説にも描かれている。有名なのは、題名がそのままの「俘虜記」である。この作品については、別途まとまった感想文を書いてみたい。
 このなかで面白かったのは、収容所のなかでの捕虜たちの行動である。戦場という極限状況にあっても、厳しい規律が要求されているにも拘わらず利己的な行動が出てしまうのであるが、収容所に入って軍の規律から解き放たれると人間の地金が出てしまう。食事を分配する役についているものは、自分の分を多くとる。その横領したものは他の配給品と交換したり、分け与えて自分の影響力を高めることに使ったりする。
 米軍から衣料や食料を生きていくには十分なだけ与えられて、大半の捕虜は戦う意志を喪失し、「平和な」生活に慣れていく。

 もうひとつ面白かったのは、先に捕まって長く収容されている捕虜の方が、後から来た捕虜よりも大きな顔をしていることである。これは戦を中心に考えればおかしな話で、先に捕まった方は十分戦いきれなかったわけで、恥ずべきである。ところが、軍の論理などは雲散霧消し、日本の一般社会の論理が活きるようになっている。古株と新入りの関係である。

 いかに人間が自分勝手なものか、また地位の高い(高かった)者ほど我儘であり、地位を使って他人よりも多くのものを得ようとするかが描かれている。日本人ばかりがそうではなく、普遍性も認められるが、日本社会の縮図を見るように思うのである。

2011年7月19日 (火)

ワイシャツ代と株価との関係?

 ある証券会社のアナリストがワイシャツ代と株価との関係という題でレポートを書いていた。この両者に強い相関があるというのである。読み物としては面白いが、ある意味分かりきったことで参考にならない。

 バルブ崩壊後、一時的な盛り返しはあったものの株価は長期的に低下をしてきた。それは、市場の縮小、物価の下落、所得の減少と軌を一にしている。ワイシャツ代への家計支出の減少について詳しい中身を見ていないが、主には購入単価の低下が影響していると思う。自分自身の経験からみても、1990年代には5~6千円程度で買っていたものが今は3~4千円での購入になった。この間で、日本製がアジア諸国からの輸入に変わっている。

 というわけで、日本経済の空洞化が株価の低下を招き、同時に所得の減少につながり購買力の低下と物価下落を招いている。株価の低下とワイシャツ代の支出減少は、共通する大きな要因からの二つの結果である。だから相関があるのは当然なのである。

2011年7月18日 (月)

相殺してはいけないこと

 先の大戦の詳しい経過、細かな内容について承知していない。限られた知識については、小説の中で史実として語られている部分や思想史や文学史を学ぶ際に、その範囲から得たものである。

 戦争に関する私自身の興味は主に次の二点にある。一つはなぜ開戦を避けることができなかったか。二つ目はなぜにもっと早く終戦を迎えることができなかったかである。前提は、戦争は多くの災禍災厄をもたらし、何一つ益はなかったという認識にある。私は歴史の研究者ではないので、自分の学習の目的はあくまで個人的な「知りたい」という欲求の充足であり、誰からの期待でもなく、強制でもない。

 ここでは、先に上げた二つの興味からは外れた話題になる。日本軍が敵軍の捕虜をどう扱ったか、また日本の兵士が敵軍から捕虜としてどう扱われたかに関わる問題である。しかし、その詳しい内容を明らかにしようというのではない。日本軍の捕虜に対する扱いは、国際法に照らして不適切であったと言われている。見方はいろいろあるだろう。人権への認識が弱く、そもそも自国の兵隊をも人間扱いしない軍隊が他国の兵士にフレンドリーに接することができたのかという疑問もあろう。また、国際法が、近代の戦争が多くの国の参加を前提としており、だからこそ捕虜の扱いもフェアにしておく必要があったという背景を、先進国の仲間として承認する余裕もなかったという解釈もできよう。

 では日本軍の捕虜はどう扱われたか。個別の事実としては一様ではなかろうが、全体としてはルールに基づいて、対応されていたようだ。実体験をもとにした戦記ものの小説にも、米軍に優しくされて戦意を喪失していく様が描かれている。これは普段優しくされるのに慣れていなかったことの反動かもしれない。
 (しかし、米軍は捕虜に対してそうであったかもしれないが、彼らの戦いそのものは、戦争だから当たり前なのだが、フレンドリーであるはずはなかった。南洋諸島や沖縄戦で大量の砲撃を加えたり、火炎放射機で地下壕に潜む兵士を焼き殺したり、B29で本土に大空襲を仕掛けたり、最後は原爆を落としたり。見えない敵への攻撃は激烈を極めたのである。殺戮を企てておいて、その生き残りには優しくするというのは、まさに偽善ではなかろうか。)

 さて一方では、戦後のシベリア抑留という問題もあった。これは帰還した人から直接聞いたこともあるし、本で読み知ったこともある。多くは、敗軍の兵士らしく戦勝国への批判は抑えがちであるが、その苦難は大変なものであった。

 ここで言いたいのはややこしい話ではない。「日本軍が行った行為への反省は大いにある。反面日本軍や日本国民の舐めた辛酸も相当なものがある。やったことは大きいが、やられたこともあるから、差し引き相殺勘定すると、われわれの罪は思っているほどひどくはないのだ。」このような考え方をしてはいけないというのが私の主張である。

 こういうものは相殺してはいけない。個々に事実を明らかにして、それぞれに判決を下すべきである。歴史は大雑把に見ない方がよい。

2011年7月17日 (日)

ああ 「やらせメール」

 九州電力の「やらせメール」が話題になった。日経ビジネス(だったと思うが)の配信記事では、共産党の機関紙である赤旗がその真相をすっぱ抜いたのが騒ぎの発端らしい。なぜそんな頓珍漢なことをするのか。メールによる賛否の表明が影響力を持つのは今の現実だとしても、それを社員を使って工作しようとする判断は、一担当の個人的な所業ならいざ知らず、組織的な行いとしては甚だ大きな過ちである。急場をしのぎたいという感情は起こるものだが、それを許さない原則的な立場、信念に依拠して自制しなければならない。

 政治でも経営でも同じだが、嘘は良くないのである。当事者が顧客を装うことは、いわゆる「やらせ広告」としてこれまでも行われ、非難されてきた。特に今回の出来事は、原発の問題だけに重たく、政治性も帯びているために、社長の辞任にまで至った。メールについては、反対派も数多く組織して送らせていると思われ、単純に数だけで世論を判断できないが、それは違法ではないし、道義的にも問題視できない。やはり、当事者がそんなことをやったというのは次元の違う話である。

 人間、追いつめられると、とんでもないことをやらかしてしまうものだ。九電をかばうつもりは毛頭ないが、今回の問題はもはや彼らでは判断できないレベルの領域に入ってきたのではないか。

 ともあれ、何事も、事実に基づいて判断し、行動したい。

2011年7月16日 (土)

今朝、蝉の初鳴き(7/16)

 マンションの前の林から、今年初の蝉の鳴き声(声と言うより音だが)が聞こえた。昨年より11日遅い。

 梅雨が早くに明け、条件的には昨年より遅いというのが不思議に思える。私の自宅前の一地点だけの現象から一般化できないのは当然のことだが、短期的な気温の上昇や雨量の変化では決まらないのだろうと想像される。もっと長期的な諸条件の変化の組み合わせで決まるように思う。ぐっと暑くなったから、そろそろ地表へ出るかな、というような人間的感覚で動いているのではないし、よくよく考えれば羽化する前の蝉は地中におり、そこは外気温の高さが上がった分だけ温度が上がる環境でもなさそうだ。

 ともあれ、クマゼミが騒々しく鳴く季節になった。それも悪くはない。

お笑い好き、コント好き

  大の「お笑い」好きである。小さいころから、どこの家庭もそうであったように、茶の間にある唯一のテレビを大人と一緒に見ていた。プロレス、プロ野球、大相撲などの中継、寄席中継、新喜劇、木下恵介などによる夜のテレビドラマ、昼メロ、「ある人生」や「新日本紀行」などのドキュメンタリー、のど自慢、などなど。思い起こすと、けっこうバラエティーに富んだ番組が放映されていた。

 考えてみれば、テレビ中心に生活が回っていたと言っても過言ではない気がする。特に土曜、日曜はそうであった。土曜には学校から帰ると、寄席中継や新喜劇を見て、それから遊びに出る。日曜は、朝に時事放談と国会討論会、昼にはのど自慢、夜はシャボン玉ホリデーから大河ドラマなどへ。テレビの下に家族が集まり、そこに団欒があった。

 さて、冒頭に言った「お笑い」の話だが、書き始めると多岐にわたるので今日は「コント」について書く。私のなかの原点は、シャボン玉ホリデーにおけるクレイジーキャッツのネタである。植木等、ハナ肇が中心になって、そこに他のメンバーやザ・ピーナッツが絡んでくる。脚本には前田武彦、青島幸男など大勢の作家が関わっていたようだ。当時はそんな舞台裏のことは考えもせず、ただ面白がって見ていた。「お呼びでない」という植木のセリフが活き活きとよみがえる。お笑いはなんでもそうだが、真面目な部分が基本にあって、そことのズレがおかしさにつながっている。

 続いて、コント55号。とにかくもの凄い勢いで出てきた。テレビへの露出度という意味では、まさに革命的であった。55号の場合は、客席を前にしてこそ活きる芸だ。あの現象は、55号がすごかったという言い方もできるし、見ていた客のエネルギーのすごさがあったからこそという言い方もできると思う。コントは面白くはあったが、私の好みではなかった。ネタの繰り返しが多く、それが「くどさ」を感じさせて厭だった。

 続いてドリフターズ。全員集合という公開番組があり、視聴率を稼いだが、これはあまり好きではなかった。それは、セットが大掛かりで、動きも大きくなってしまい、コントならではの軽妙なノリが出せなかったからだろう。コントと言うよりは、安っぽいお芝居であった。
 それに対し、スタジオ収録のコントは面白い。クレイジーキャッツよりは下品だけれども、脚本は笑いのツボを押さえていた。ただし、ふざけ過ぎのところもあり、また動きのはげしさもあって年長のいかりや長介にはきつかったのではないかと思われる。ゲストも多彩で、今でもYouTubeで見られるが、柄本明と志村けんのコントは最高に面白い。しかし、途中からドリフのメンバーが欠け始め、田代まさしや桑野信義らが出るようになり、志村の馬鹿殿が看板になり始めると面白さを無くしていった。

 その後のコントを見ていると、みな小粒になってしまった感がある。アンジャッシュと東京03がいいけれども、アンジャッシュはネタが細かすぎて笑いが小さくなってしまう。出てくる人物像も存在感が薄い。東京03の方は、特にサラリーマンやフリーターの世界を風刺しているものが多く、面白くて好きなのだが、やや斜めから見すぎているように感じる。

 以上、「コント」について。

2011年7月15日 (金)

 夢といっても、今ないものを手に入れたいという意味での夢ではなく、睡眠時に起こる現象としての夢である。

 若い時と比べると夢をみる回数が減ったように思う。加齢とともに夢の回数が減るのは一般的な現象なのか。知的活動の弱まりや感性の衰退を表わしているのか。

 昔の夢の内容はほとんど覚えていない。大抵、すぐに忘れてしまうものだ。崖から落ちる夢を何度かみた覚えがある。目覚めた瞬間の感覚は、当然不快なものである。これを単純にストレスの表れと言ってよいのか分からない。

 最近みた夢に戦争に関連するものがある。上空を数多くの飛行機が飛んでいく。大阪の空ではない。生まれ故郷の、海岸沿いの空である。飛行機はジェット機で、多くはジュラルミンの色をしており、戦闘機だけではなく、輸送機も多く含まれている。明らかに日本のものでなく、アメリカ軍のものである。かなりの高所を飛行しており、ミサイルを発射したり、爆弾を落としたりする気配はない。
 大量の軍用機が群れをなして飛んでいる光景は異様である。それも、時間をおいて次から次へと飛んでいく。何か有事があっての行動であろうが、それが何かは分からない。夢のことだから当然だ。解説付きの夢など聞いたことがない。

 こんなことが現実にあったら大変なことだ。しかし、昔戦争があったときには、このような光景を多くの人が見たのである。B29の大編隊が南から飛来してくるのを見たであろう。あるいは艦載機が低空で攻撃してくるところを目にしたであろう。

 好ましくない夢を見ることも多いが、それは警告ととらえ、現実化させない努力が必要である。

2011年7月14日 (木)

異動

 先月異動があり、別の部署の責任者となった。とはいっても、同じ本部内の部署だから、座る机は同じブロックにあり、周りにいる人は見慣れた人たちである。

 異動して仕事の直接の負荷は小さくなった。それは、前のポジションでは自分で実務を担当する機会が多かったからだ。自分で企画を考え、段取りし、資料作りまですることが多かった。それは部署の特性にもよるし、スタッフの人数の問題もあった。異動した部署では、定常的な業務が多く、各セクションの担当が実務を分担しているので、自分が直接手を付けることがない。文字通り管理をしていればいいし、意志決定を適切に行えばよいのである。

 楽かどうかというと、単純には言えない。ある意味、手を動かしている方が仕事をしている気にはなれるし、周りもそういう目で見る傾向がある。しかし、逆を言えば、あの人は管理職のくせに何事も自分でやろうとすると誹りを受けることにもなる。極力、自分では動かないようにすることが大事だ。

 自分で動かないのだから楽だろうと思うかもしれないが、観察したり、考えたりすることは決して楽なことではない。頭を使わずに、決められた時間まで、繰り返し決まった仕事をしているのは健康でありさえすれば比較的容易なことだが、今のような厳しい環境になると、管理職のみならず、どんな社員にも仕事のやり方まで考えさせるようになる。どうしたら惰性的な仕事から抜け出て、自ら業務の改革に取り組むようになるか、それを考えて手を打つのが上司の仕事である。やらせるだけではなく、考えてやらせるのである。ところが、これが難しい。

 アウトプットには、これまでにない付加価値を付けたい。資料を作るなら、数字を表にまとめるだけではなく、こういう見方ができますよとか、こういう問題点がありますよとか、改善の方法にはこういう手がありますよとかいう意見を加えたい。そういうことのできる社員が少しでも増えれば会社のレベルはうんと上がる。

 そう書くと、私の勤務する会社の社員はレベルが低いのかと思われるが決してそうではない。社会から要求されていることが高水準なのである。同様に、私自身に求められていることも大きい。自分を変えずして、人を変えることはできない。

 

2011年7月13日 (水)

人が育つ環境と「場」を取り戻す

 人間の成長は生活の在り方に左右される。背景となる文化の違いが、意識と行動の差を生む。

 何日か前に、「影響しあう精神」というタイトルのブログがある。その中で、「西田幾多郎と鈴木大拙は四高の同級生であった。地方都市の一隅に、のちに日本を代表する哲学者と宗教家が育ったことに驚きを覚える。(なぜこんなことが起こるのか、後日あらためて考えてみたい。)」と書いた。

 しばらく考えていたら、「類は友を呼ぶ」ということわざを思い出した。ことわざの意味は、「気の合った者や似通った者は自然に寄り集まる。」ということである。もう一歩深く検討してみると、似通った者とは単に趣味や気性の類似を言うのではなくて、境遇の類似性を示している。同じ階層に属し、同じような条件で育ったものは、同じところに集まりやすい。おそらく、敗戦に至る昭和の前期までは高等教育を受ける機関は少なく、その限られた施設に同類が集まったのである。官吏を目指す者、民間の技師を目指す者、そして数は少なかろうが芸術を志す者がそこに集ったのであり、逆にそういう「場」を持たなかった、あるいは持てなかった者には、「志す」チャンスさえなかったのである。

 そのような場に集い、そしてそのなかの一部が名を成した。高い水準の思考や創造的活動は、同じく高い水準のそれとしのぎを削ることで鍛えられる。恵まれた人間の特権であり、不公平であることは間違いなかろうが、そのように人間社会の発展は現象した。だけれども、このままでよいのではない。保守的な社会は、違う条件で育った新参者を嫌うのだろうが、そういう社会は早晩崩壊する。過去はどうあろうとも、今ここにある精神と人格をもって人間を評価する組織が未来を継承するのである。

 あらゆる機会を利用し、より高い水準の精神活動に接近し、そこでさらに自分を鍛える。階層がなおも固定化していると言われる今日において、そこには相当の困難が生まれるだろうが、人材の流動性が生まれなければ社会が衰退し、国が滅びるという法則に疑問を抱く余地はない。
 制度の変更は社会の変化に後れをとることが多い。上から大きく変わることへの期待も合わせ持ちながら、部分部分の小社会で、光る才能を時代を先取りする精神へと育て上げたいものである。

2011年7月12日 (火)

ブログ1000回記念 井伏鱒二の「黒い雨」

 1945年の8月6日に広島で何が起きたか、この小説によって知ることができる。当然のことながら、原爆による被害のすべてがここにあるわけではないが、人類最初の核兵器の被害を理解するにこれ以上のものは必要ないであろう。

 この作品は、1965年から66年にかけて「新潮」に連載された。初めは「姪の結婚」という題名であったが、途中で「黒い雨」に改められたという。確かに、主人公の姪の結婚話を発端としてこの話は始めるが、内容はその枠を圧倒的なボリュームで突き破ってしまう。

 広島市内の様子は、主人公である閑間重松(しずましげまつ)が、被爆から数年後に過去の日記を清書する形で語られる。8月6日から15日まで、即ち原爆が投下された当日から玉音放送のあった終戦の日までの10日間である。
 
 あらすじをここで追うことはしない。印象的な部分を書きとめることで感想としたい。文章は新潮文庫版からの引用であり、ページ数は第72刷のものである。

 p49~50 ここは、主人公の閑間重松が被災直後に見た光景である。重松は、停車中の電車のデッキに乗り込んだ時に被爆した。自身は頬の片側を火傷する程度(とはいっても、それは外見上のことであり、核兵器の影響は内臓など体中の組織に及んでいるのである。)の被害だったが、駅周辺を逃げまどう被害者の姿は、まさに地獄絵のようである。
 「・・・頬が大きく脹れすぎて巾着のようにだらんと垂らし、両手を幽霊のように前に出して歩いている女もいた。・・・」

 p202~204 8月10日の市内の惨状である。主人公は、勤務する繊維工場で使用する石炭を手に入れるための交渉事で市内に向かわざるをえなかった。読んでいて気分が悪くなる内容だ。
 「・・・逆さになった女の尻から大腸が長さにして三尺あまりも噴きだして、径三寸あまりの太さに脹らんでいた。それが少し縺れを持った輪型になって水に浮かび、風船のように風に吹かれながら右に左に揺れていた。」
 「・・・その死体の山を真黒に見せるほど蠅が群がって、風のせいか何か知らないが『わあん』という声を立てて飛びたって、すぐまた死体へ群がっていった。同時に、息づまるような、嚔(くさめ)を催させるような臭気が襲ってきた。・・・」
 「・・・僕は自分の目を疑った。荷物を欄干に載せかけて、怖る怖るその屍(むくろ)の近づいて見ると、口や鼻から蛆虫がぽろぽろ転がり落ちている。眼球にもどっさりたかっている。蛆が動きまわるので、目蓋が動いているように見えるのだ。・・・」
 腐乱した死体のひどさが視覚を襲い、その臭気が嗅覚を襲うのだった。p205には主人公の言葉としてこう記されている。「戦争はいやだ。勝敗はどちらでもいい。早く済みさえすればいい。いわゆる正義の戦争よりも不正義の平和の方がいい。」それに加えて、p206にはこうある。「広島はもう無くなったのだ。」

 私は、中学の時に修学旅行で広島に行き、原爆資料館を見ている。大学生の時には広島の友人宅を訪れ、平和公園にも行っている。会社に入ってからは、労働組合から原水禁大会へも参加した。原爆の記録はかなり目にしているはずだが、それでも時間とともに記憶は薄らいでいる。全身を火傷した被爆者や黒焦げの死体の写真、熱線でよじれたガラス瓶などをうっすら覚えている程度であり、現地へ行った人間がこの程度であるなら、少しばかり話を伝え聞いただけの人の認識はいかほどのものだろうかと思ってしまう。それでも、この小説を読むと、あの夏の日に起こった事実が生々しく伝わってくる。これが文学の力なのだろうか。もちろん、井伏鱒二の才能に拠るところが大きかろう。しかし、記述は淡々としている。ことさら強調もしていない。ただ、事実が異常なのである。

 ほか、戦中戦後の暮らしの様子も描かれていて面白い。特に食生活の記録は貴重だ。また、国や軍(ほとんど国イコール軍になっていたのだろうが)による情報統制も一部記されている。p79には、隣組の宮地さんの奥さんの話がある。宮沢賢治の詩が教科書のなかで書き変えられたことに対する発言である。「一日四合というのを三合と書きかえるのは、曲学阿世の徒のすることです。」質素な食事として四合の玄米が詩にうたわれているのに、配給が減り始め三合となり、四合と書かれては面目が潰れるから書き変えたのである。

 ことしも、8月6日がやってくる。8月9日もやってくる。そして8月15日がやってくる。この小説を読んだことで、また違った夏がやってくる気がする。

2011年7月11日 (月)

舌禍

 舌禍とは
自分の言論が法律・道徳などに反していたり、他人を怒らせたりしたために受けるわざわい。「―事件」
他人の中傷や悪口などによって受けるわざわい。
 口は禍の元という。不用意な発言には注意しなければならないが、ほとんどの場合が本音の吐露であり、出るべくして出たものである。名のある人の言葉ほどマスコミで取り上げられ広く影響を及ぼすが、世の常識に抵触するものであれば世論によって非難を受けるし、特定の人物を中傷するものであれば本人もしくはその関係筋から抗議を受けるだろう。
 「舌禍」という言葉でグーグル検索すると、倖田來未と北野誠の舌禍事件が最初のページに現れる。失言の内容はともかく、倖田來未はこれでしばらく活動を自粛したし、北野誠は圧力がかかって番組を降り、他の芸能活動もできなくなった。
 倖田の場合は、たしかに発言が不穏当であったが、彼女ほどの売れっ子でなければ問題にもならなかっただろうし、女性にファンが多いタレントだからこそ問題が大きくなる発言内容でもあった。結果をみれば、自業自得と言えるが、人気者は言葉を選ばなければならない。それにしても、すぐに謝罪し、活動を自粛したために致命的な過ちには至らなかった。
 北野の場合は、非難した相手が別のタレントであればあんなことにはならなかっただろう。相手を間違えたのである。発言内容はたしかに下品なものであるが、お笑いタレントであればしばしば口にする程度のものではなかったか。タブーと言われていた“Y”に対する誹謗だったためにある団体から攻撃されたのである。
 最近では、復興大臣であった松本龍氏があいつぐ失言で辞任した。内容を聞くと、そんなことを口にすれば批判されるのは間違いないと予想されるものだが、本人はそう思わなかったわけだ。突然無神経になったのでもないだろうから、もともとそんな人だったのだ。だから、選んだ方も間違いなく悪いと思うと同時に、こんな人材しか残っていなかったことを残念に思う。菅さんは、松本氏に対して、何事も決めつける人だから復興に関する意志決定と実行も早くやってくれると期待したのだろうか。
 
 言葉は思想である。言葉の使い方で、その人の中身がおおよそ分かる。

2011年7月10日 (日)

ワンクリック詐欺&被害相談詐欺にご注意

 インターネットに慣れ親しんでいる人なら、アダルトサイトへの入り口を目にしたことがあるだろう。特に意図しなくてもそういう画面に行きついてしまうように仕組みが出来上がっている。18歳以上ですか、未満ですかと聞いてくるやつだ。見本だけでも見てみるかなどと安易に考えてクリックしてしまうと、契約が完了しましたので料金をお支払いくださいと表示される。そして、何日以内に振り込む(現金書留で送るケースもある)と割引になるという誘い文句もある。加えて、あなたのIPアドレスは何番であり、振り込まないと身元調査を行い、その調査費用も上乗せして請求すると書いてある。元に戻り、入口の画面の下の方には目立たないように規約を示している。見えるのは第1条だけであり、それ以下は画面を動かさないと見えないようになっている。

 こういうものに初めて引っかかると、うろたえてしまう人が多い。契約が有効に成立してしまったのではないかとか、IPアドレスから身元がばれてしまうのではないかという心配である。なかには、間違えて契約してしまったのでキャンセルしたいと電話をかけてしまう人もいる。そうすると逆に身元が明らかになってしまい、脅されて支払ってしまうことになる。

 実際は正当な手続きをとっておらず、契約は成立していないので、支払う義務はない。また、IPアドレスから身元がばれることもない。詐欺師の方は、楽をして儲けたいからやっているので、手間や費用をかけて何万円単位の金を稼ごうとはしない。また、無用なリスクはとらない。一番のカモは、うっかり振り込んでしまう人なのだ。それだけでも、けっこうな稼ぎになっているのではないかと想像される。とにかく、放置するのが最善だ。

 もうひとつ、便乗商売として、この手の問題に相談すると称して、高額の相談料を取る商売がある。実際に相談にのって、それに対する対価を得るのは詐欺とはいえないが、それも相場の何倍もの金額を要求すると悪質であるとは言えるだろう。○○解決センターなどという看板を出している業者だ。ひっかかった人が狼狽して助けを求める心理につけ込む、なんとも卑劣な商売である。

 電車に、債務を軽くする方法があると誘う法律事務所の広告が目立つが、あれも如何わしいものが多いらしい。相談相手は慎重に選ぼう。公的な機関に紹介してもらうなど、とにかく金儲けでやっていないところが信用できる。

嫌われ芸人1位が江頭から伸助へ

 日経エンタテイメントの人気調査で、嫌いな芸人1位に島田伸助がランクされ、昨年まで1位を堅持してきた江頭2:50が2位に陥落した。

 島田伸助は、なかなか賢い男で、ニュース番組の司会も務めたことがある。その時は自ら二人のブレーンを雇い、新幹線での移動中にレクチャーさせていた。吉本の元常務木村政雄は伸助の才能を認め、大した奴ですよと言っていた。たしかに、頭の回転が速く、しゃべりは面白いが、力のないものをこきおろす傾向が顕著であり、また出世欲と金銭欲が表に出ていて好感が持てない。私の家内も嫌いである。過去に幾度となく醜聞があり、1位のランキングは、さもありなんと思わせる。

 一方江頭の方は、本人にとっては朗報ではない。ワースト1位は彼にとっての指定席でなければならない。世間に媚びず、自分の路線を全うする姿に彼のポリシーを感じるが、気持ち悪いと思われなくなったら存在感を失うことになる。現実とは裏腹にきれいごとばかり見せようとする芸能界へのアンチテーゼであり続けてもらいたい。ニュースでは、トラックで救援物資を運んだことで好感度を上げてしまったと報じられていたが、それは彼の人間性の表れなのか、それともそれ自体がネタなのか、よく分からない。ただ、彼の書いた映画評論の本なども書店で見かけるから、まんざら馬鹿ではなさそうなのである。

 ちなみに、好感度ナンバーワンは明石屋さんまである。彼には敵が少ない。

人間世界概観

 現在の人類の祖先は10万年ほど前にアフリカに住んでいた一集団であったとする説が有力になっている。その一部がアフリカを出て、世界中に広がっていったというのである。この説では、日本列島に人類が到達したのは早ければ5万年前になるという。残念ながら日本の土壌が強い酸性であることからそこまで古い人骨は出土しておらず、その説の裏付けはないらしい。単一の起源から説明ができるので分かりやすい説であるが、それを証明する物が十分にそろっておらず、時間の経過から考えて今後も難しいだろうと考えると、あくまで有力な説ということで受け取られるのだろう。

 さて、各地域に散らばった人類は、農耕の知恵と技術を得て5~6千年前には大掛かりな「文明」を築きあげるにまで至った。その後の変化はおしなべて緩やかなものだったと思われるが、うちに支配被支配の関係を含みつつ生産の仕組みと諸制度を構築して社会を維持発展させてきた。そして、近代における工業化の著しい進展は一気に生産力を増大させ、人口を爆発的に増加させた。また、今日に至るまで市場経済を世界中へ飽くことなく伝播させている。

 人類史の進展は、食料を始めとして生活に必要なものの生産を基礎においていることは否定すべくもない事実であるが、近代にいたるまでは政治が前面に出た社会だった。暴力的な強制力と宗教的あるいは道徳的な権威とが支配していた。ところが市場経済が膨張し始めると、それにともなって貨幣(資本)の持つ権力が幅を利かせるようになる。
 お金は力である。政治までも買えるという意味では万能の力であると言えるだろう。人間は物を手に入れるための手段としてお金を欲しがるのではなく、お金そのものの魔力に取りつかれ、お金そのものを欲するようになる。お金に対する考え方は人それぞれであり、一様ではないが、お金がないとたちまち生活が立ちいかなくなる現実は誰にも当てはまるものである。
 基本は手元にあるお金の範囲で生活を営むことであろうが、足りない分は借り入れて手当てすることになる。借りるお金と引き換えるものは自分の将来であり、もっと具体的に言えば労働である。借りると利子が付くから、自分の将来の労働を安売りしているとも言える。所得の増大が期待される局面あるいはそういう個人はいいけれども、そうでなければどんどん苦境に追い込まれることになる。お金ほど魅力的であるものはない反面、お金ほど恐ろしいものはない。

 お金が世界を支配している。中国が経済的に著しい成長を遂げているが、国が直接資本を所有しているという面では中国国家の権力は絶大である。今後どうなるか分からないが、まずます力を持つことになろうし、日本のお金をも大量に保有することになるだろう。影響力はすさまじい。隣国として尊重する気持ちはあるが、その動静は能天気に眺めていられるものではない。

 とはいえ、お金の力は絶大であるとしても、唯一の力ではない。資本の行動に対して、対抗する力が働く。それは自然を守る運動であったり、反公害闘争であったり、企業の進出を阻止する運動だったりする。グローバリズムの本質が資本行動の自由化であるならば、人間の尊厳を守る立場からそれに対抗して規制を要求するのが反グローバリズムの本質であろう。市場経済の有効性を認めるとしても、それが万能であるとは誰であろうとも認め得ない。だから、市場の原理に対抗するロジックが必要なのであり、そのロジックが貫徹されるシステムが必要なのである。

 その対抗するシステムとは、少なくとも今の段階では大それたものではないだろう。マルクスやレーニンの考えた社会主義は、資本の持つ巨大な力を労働者階級のコントロール下に置こうとしたが、それはいくつかの理由で挫折した。政治権力を通じた社会の改変はいまだに必要であろうし、有効性を疑うのでもないが、それとは別の、市民のレベルで、市民の置かれた立場で、許容できないものへのノーの声を上げなければならない。

 見返りを求めない無償の行為がありうるだろう。与えるばかりでは供給過剰になるのではないかなどという近代経済学の次元での心配は無用である。世の中には、年齢から、身体的理由から、あるいは他の理由から与えられなければ生き続けることができない人たちが思う以上にいるのであり、そういう事情からすればバランスはとれる。もともと古い共同体が持っていた互助の精神が、市場経済のシステムの足り部分を補完しつつ、本体を侵食していくことが必要なのだ。

 気の遠くなるような話だが、工業化が驚くほどのスピードで進んだ結果、そのネガティブな面の露見も早かったし、その見直しもゆっくりとはしていられないだろう。

 意外に、変わる時は、予想以上に変わることがありうるのである。

2011年7月 9日 (土)

四幕劇 小林栄三さん

 しばらく前のことだが、日経の夕刊コラムに伊藤忠商事の会長である小林栄三氏の文章が載っていた。タイトルは「四幕劇」である。伊藤忠と言えば、現中国大使の丹羽宇一郎氏が思い出されるが、丹羽氏と同様小林氏も新聞や雑誌によく登場する人である。

 日本の政治経済の問題は四幕劇で語れる。第1幕:全く問題がないと対策を拒む。 第2幕:問題の存在は認めるものの矮小化する。 第3幕:問題を先送りする。 第4幕:どうしようもなくなり降参する。

 このような現象は日本だけに起こるものではない。しかし、日本の組織における弱点を語るには有効な切り口である。保守的な組織においては、既存の制度や風土を維持することが最大の価値となる。ところが、どんな組織でも変化は避けられないし、問題の発生も避けることができない。問題を解決するためには、何かを変えなければならない。変えることを躊躇すれば問題が先送りされ、矛盾が蓄積し、その結果、組織は瓦解する。

 今日の組織においては「変化」と「動き」が重要だ。現象としては、会話が活発であること、事あればすぐに集まって相談していること、現実に合わなくなった制度や仕組みはすぐにやめたり変えたりしていること、である。

 「静かな会社」は早晩つぶれる。

2011年7月 8日 (金)

「砂丘」

 高校の時に文芸部に入っており、その時に発行していた雑誌が「砂丘」というタイトルだった。ガリ版刷りの粗末なもので、詩を中心に書いていたが、おそらくひどい内容だったに違いない。

 文芸部員は面白いことに私の年代はほとんどが男子で、下の学年は大半が女性であった。過半数が女性で、ある意味恵まれた環境にあったわけだが、なにぶんにも田舎の学校だから垢ぬけた女性はいなかった。もっとも男子も同じ環境にいたので、女子から見たら格好のいい男はいなかった。

 ときどきハイキングに出かけたりした。なかでも相賀の魚飛渓が思い出深い。JRの駅からかなりの距離を歩いた気がするが、そこには巨大な岩があり、その間を清流が流れ、足を浸すと冷たかった。一晩キャンプをし、どこに恐怖があるのか分からないが男女ペアで肝試しなるものを行ったりして楽しんだ。特にハプニングも起こらず終わった。このときに限らず、男女が集まればそれなりの感情や関係が生まれそうなものだが、そうならなかったのは生真面目な青年ばかりだったのと、集団に暗黙の規律が存在していたからだろう。ペアがひと組できるだけで調和が崩れたりするものだ。

 文芸部とはいいながら、たまに「砂丘」を作るだけで、文学の香りはなかった。本を読んでいないことはなかったが、議論を戦わせるだけの自論ができてもいなかったし、相手もいなかった。幸いにも公認の部であれば部室が用意され、そのことで、他愛のない話ではあっても会話の場が確保された。このことが最大のメリットだったと思う。

 あれから会わぬ者も多いが、今どうしているだろうか。あのころのありふれた男女の塊は、砂丘の中の一握りの砂であった。

2011年7月 7日 (木)

影響しあう精神

 名を成したのちに、同種の分野の著名人が集い、グループを形成することは特段珍しいことではない。仕事を通じて知り合い、交流が互いの業績にプラスに左右するなら大変よいことである。

 一方で、名を成す前に、まだ未成熟な才能が知り合い、互いに影響しあうことで一流の人物になっていく例もある。
 小説家の福永武彦と中村真一郎は中学からの同級生である。開成中学、第一高等学校、東京帝国大学と同じ道を歩く。専攻は同じ仏文である。二人の経歴を詳しく調べていないので分からないが、この二人は一方がいなければ他方が存在しえないような関係にあったのではないかと想像される。ここに一高からは加藤周一が加わって、互いに才能を開花させ、注目を浴びるようになる。世間は彼らをグループとして見ることで、一人ひとり孤立して活動するよりも認知度を高める。

 西田幾多郎と鈴木大拙は四高の同級生であった。地方都市の一隅に、のちに日本を代表する哲学者と宗教家が育ったことに驚きを覚える。(なぜこんなことが起こるのか、後日あらためて考えてみたい。)
 他に夏目漱石と正岡子規の関係などもあり、その世界で大きな業績を残す人物が同時に出現してくることがあるのだと知らされる。人間はその関係において影響しあうものなのであり、それがよい影響にあったときに奇跡を生みだす。もっとも、それぞれに成長の要素が備わっていればの話であるが。逆に、足を引っ張り合う関係もありうるわけだ。だれに出会うのか、この偶然は人生において決して小さな出来事ではなさそうである。

 自分にとって有益な出会いを欲することよりも、願わくば自分との出会いが相手によき結果を与えられることを望みたい。

2011年7月 6日 (水)

問題解決屋

 新聞や雑誌を読んでいても、テレビを見ていても、社会的な現象に対してその問題点の指摘はするが、解決策まで明確に言える人は少ない。確かに日常の生活で発生する身近な問題を解決することと違い、簡単ではないと思うが、ケチをつけるだけなら誰にでもできることである。

 いい問題の指摘は、そのなかに解決の糸口を含んでいる。客観的、構造的な問題把握は、結果、客観的、構造的な解決策を導く。

 私たちが期待しているのは、評論家ではなく、問題解決屋である。問題は口で言っているだけでは解決しない。とはいえ、実権を持たず、発言するしか手のない人間であれば、発言の中身で勝負するしかない。未来に向けて、創造性を含んだ発言は人を勇気づける。

 一番欲しいのは問題を解決できる人。社会的な問題であれば、権力や権威、リーダーシップと解決のスキルが必要になる。これは政治家や経営者が具備すべき要件であろう。ところが、この要件のいくつかが欠落している場合がある。権力は、政治家であれば選挙に通るだけでも発生するし、大臣の椅子にでも座れたら大きなものが手に入る。しかし、それ以下のものは本人の資質と努力の積み重ねによるものである。そういうことも含めて、「できる人」が育ち、活躍してほしいと思う。

 ある経営者は、幹部に評論家は要らないと断じた。本当に欲しいのは、実践する人であり、変革する人である。

 ある思想家はこう言った。大事なのは、世界を解釈することではなく、世界を変革することである。

2011年7月 5日 (火)

独立の重要性

  日本経済新聞の記事で、パナソニックのリストラ策が報じられていた。旧三洋電機を中心に1万人余りの労働者が整理されるという。当事者たちはどう受け止めているか分からないが、買収された企業はみじめである。

  私の勤務する会社の社訓は「自助自立」である。これは、自分たちの運命は自分たちで決めるとの意志を謳ったものである。外部の資本に従属していては、行く末を自ら決めることができない。
 私の友人はある大企業の子会社に勤めている。子会社と言えども社員は700人ほどいるらしい。友人は子会社で採用されたプロパーの社員である。この彼に会うと、子会社の悲哀について語ることが多い。「親会社から、大して仕事もしないのに高給をもらって出向している社員がいる。」「子会社の仕事は親会社から請け負っている仕事が大半だが、親の業績が悪くなると安く請け負わされる。」「親会社以外のところへも事業を拡大して利益を上げたいが、経営トップも親会社から降りてくる場合が多く、そんな気概のある人はいない。」こういう話である。したがって、仕事のモチベーションがあがらない。

 取引先であるA社は、二つの企業(一つは協同組合)が共同出資してできた会社だ。この会社にながく勤めるKさんもまた子会社の悲哀を語る。親会社の意向で、ここもまた利益を上げることができない。利益を蓄積し、製品開発や設備への投資を行いたいが、それができないので発展の方向が見えず、やる気にならないと言うのだ。原料がどんどん値上がりしていくのに、売価は上げることができない。かといって、赤字の予算を立てることもできず、苦悩されていた。

 独立を保つためには、業績を拡大し、利益を出さなければならない。世の中は寡占化の動きを強めており、吸収される危険性はますます高まっている。J・ウェルチはシェア3番以下の事業を切り捨てたが、それは行き過ぎた面はあるにしても、市場の現状をよくとらえた判断だと言える。高齢の経営幹部が、自分たちのいる間だけ会社が持てばよいと考え、人も増やさず設備を入れず、当面の利益を追求することになれば、若い社員たちに未来はない。

 つねにリスクはあるが、自分たちの運命は自分たちの力で切り開きたい。

2011年7月 4日 (月)

岩瀬仁紀の起用に見る落合監督の采配

 7月1日の対巨人戦で、9回にクローザーとして送った守護神岩瀬が打たれて、なおも走者を残したところで浅尾に代えた。この采配が話題を呼んでいる。

 かつて日本シリーズでパーフェクトの山井を岩瀬に代えるという球史に残る采配があった。私は、勝利に向かってゲームをマネジメントする監督という立場に身を置いて、落合の選択を支持した。これが単にプロ野球の一ファンということで気楽に考えていたら山井の完全試合を見てみたかったという素朴な意見になっていただろう。それも間違いではない。ただ自分の身の置き方の問題である。(ちなみに、川上憲伸だったら交代させたかという質問に対し、落合は、憲伸だったら自分から降りただろうと語った。)

 岩瀬は今シーズン、セーブのプロ野球記録を打ち立てた。素晴らしい記録である。見た目からは、ソフトバンクの和田と同じく、まったくそんな力を感じさせないのだが・・・。しかしながら、いくらケアの状態がよいとはいえ、投球の力は衰えている。それを考えると、浅尾にかかる負担はより大きくなるし、二人セットで抑えきるというパターンが必要だ。必ずしも、岩瀬でゲームセットという形にこだわる必要はなくなる。特に今シーズンを考えてみても、記録の達成で一服感の出る岩瀬よりも、浅尾に比重を置きたい。

 情勢が変われば、戦い方も変わる。落合の使命は、シーズンを通して(シリーズであれば、シリーズを通して)最高の結果を出すことである。一試合だけよければそれでよいという考え方はとらない。なんとも冷静であり、また非情でもある。

 落合はプロ野球に入るまでは、まともな練習ができた時期がないと言っていいほど紆余曲折があった。高校の時は、練習をさぼって映画ばかり見ていた。おそらくそのことは監督になってから活かされているのではないか。いい映画の作り方とペナントレースの戦い方には相通じるところがあるように思うのである。

2011年7月 3日 (日)

自分自身の棚卸

 企業では一年に一回決算を行い、一年間の活動の成果を確認すると同時に、現在の実力を評価する。これは会計上および税務上必要な作業であり、やらないわけにもいかない。その際に、期末の商品在庫や原材料の在庫を数え、他のものと合わせて資産を確定させる。

 同じように、一年に一度と限ることはないが、人間にもときどき棚卸が必要だ。かつて、コンサルタントのある先生に、自分を成長させようと思ったら、まず棚卸をやりましょうと言われた。すなわち、一言でいえばこれまでの人生の振り返りであり、より詳しく言えば、現在の自分が持っているもの、あるいは持っていないものの洗い出しである。強みと弱みという言い方もできる。

 誰しも弱みを抱えている。それは何点か上げることができるだろう。しかし、私が思うに、最大の弱点というものは、自分では分かっていても、人前でさらすことができない。ここだけは触れずに通したいのだ。それは、無理に明かすこともないように思う。だけれども、自分のなかでは明確にしておきたい。だれにも見せることもない、プライベートの手帳には書き記しておこう。それは、一遍には難しくとも、早く克服しなければ、自分の限界を超えることができないのだ。

 なんの努力もなしに、なんの障害もなしに成長していける人間は少ない。豊かな才能に恵まれ、制約条件のない環境に育てば、若くして華々しい活躍をする人物もありえなくはないが、早晩なんらかの壁にぶつかることになる。
 たまに自己評価をしっかり行い、成長の戦略を立てることができれば、才能が万全でなくとも、環境が不十分でも、確実な進歩が可能である。

 まずは己を知ることが肝要である。

2011年7月 2日 (土)

人とともに育った生き物

 自然と人間は常に敵対しているように思いがちだが、人間がいればこそ繁殖できた生物もいる。それは人間が生きるために自然を加工し、加工された状況・条件が繁殖に必要な要素をたまたま提供したからである。

 私はかつて大阪府も京都府よりのずいぶん辺鄙な場所に住んでいたことがあった。ここでは夜になるとタヌキの姿を見かけるし、冬場になると鹿の姿さえ見ることができた。ある日、田んぼのあぜ道を歩いていて、タガメを見つけた。そして、家に持ち帰り、水槽で飼うことにした。しばらくして、元の場所に放してやったが、それはタガメが近年生体数を減らし、絶滅が危惧されていることを知ったからだ。

 子どものころには農村でタガメはありふれた存在であり、珍しいものではなかった。調べてみると、タガメの生息に適する条件は田んぼなどの浅く水がたまった場所であり、人間が手を入れないと作られない環境である。稲作が広がることにより、タガメの繁殖も活発になったのである。しかし、近年では農薬を多く使うことによって個体数を減らし、絶滅危惧種に指定されている。人間とともに育ちはしたが、人間の力によって死滅しつつある生き物だ。
 同じように、カブトムシも人が作った環境で繁殖した。いわゆる里山がカブトムシの生育に適している。人が手を加えていない森林は彼らに適さない。

 鳥類ではスズメが同様の例にあたる。人が離れ廃村になった地域にスズメの姿はない。食べ物を手に入れやすいとか、巣を作りやすいとかの条件が人里にあるからだろう。最近ではこれも数を減らしているが、絶滅を心配するほどではないらしい。

 このように、生物の盛衰は環境の変化が決め手になる。そして、今もっとも大きな変化の要因は人の手による自然の加工である。生きるためには自然を活用せざるをえないが、そのことが与える影響については十分に調査して、実行すべきことかどうかを判断する必要がある。

2011年7月 1日 (金)

二つの世界記録(陸上競技女子)

 あまり知られていないが、二人の日本人アスリートが公認の世界記録を持っている。

30km 野口みずき 1時間38分49秒

100km 安部友恵 6時間33分11秒

 野口さんの記録は2005年のベルリンマラソンで優勝した時の30kmのラップが公認されたものらしい。素晴らしい記録に違いはないが、実質はラドクリフが2003年にロンドンマラソンを2時間15分25秒で走った時の30kmのラップ、1時間36分36秒の方が速い。

 安部さんの記録は、過去にこの競技そのものが数多く開催されていないので比較しにくいが、おおよそ5kmを20分のペースで走りきったことになるし、フルマラソンを2時間45分で走るスピードで100km走りきったことになる。これは恐ろしく速い記録だし、そのスタミナに驚かされる。

 日本の女子の場合、距離が延びるほど世界と戦えるようになるが、100km競走がメジャーな競技となれば力を発揮するだろう。もっとも、あまりにも過酷だからオリンピックや世界陸上では採用されまい。特に夏場の大会では倒れる選手が続出するだろう。

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