« 女性にもてるということ | トップページ | 三宅宏美選手全日本選手権4連覇 »

2011年6月25日 (土)

閏二月二九日 中野重治

 1936年2月29日に書かれた中野重治の評論である。二・二六事件の直後にあたる。

 当時は北アジアに対する侵攻が企てられ、国内では右翼勢力によるテロが繰り返される過程で軍部がより力を増していた。政治的直接行動に対する禁止は共産党は言うに及ばず範囲がより拡大され、言論活動についても統制が強化されていた。

 そんななかで、進行している現実に対し、論理的、理性的な批評を加えることは著しく困難であった。しかし、中野らはぎりぎりのところで踏ん張っていた。「日本の文学世界は混沌としているように見えるけれども、それを貫く社会的論理の糸は途絶えていない。見失われることはあろうが、カオスのなかからも糸口は拾い上げられるのだ。そして社会生活の論理の糸は文学批評の論理の糸を一層弾力あるものとしずにはいないと思う。」と書いた。

 中野は小林秀雄と横光利一を批判する。彼らは、小説と批評の世界で論理的なものをこき下ろそうとしており、それはたまたまそうなったのではなく、反論理であることを仕事の根本としているというのである。中野が言いたい結論はこのことに尽きる。
 横光はこう書いている。「新しい時代の土俵は、論理の立ち得るような安穏な所にはなくなって来たのである。新聞や雑誌に満ちている問題の、どこ一つを取り上げて考えてみても、論理の立たぬ箇所ばかりだ。元来問題というもので、論理の立つ所に立った問題は、昔から問題にならぬ。」

 論理の立たないところはない。中野と同様に私もそう思う。論理を立てることを妨げているのは権力による外的圧力であって、そのことを認識せず(認識すること自体はさほど困難なことではなかったろう。)昔からそうだったのだと一般化してしまうことは、権力への迎合・加担以外の何物でもなかった。

 「あらゆる問題は論理の立ち得る『危険な箇所に』立っているのだ。反論理主義者はそれを避けたいとあせっている。」(中野)

 論理は立ち得るが、それは常に危険を伴う。それを敢えてするのが文学者の立場であるにも関わらず、小林や横光はその立場から逃げ回っているだけなのである。政治的な見解がいかなるものかを問う前に、文学者であることの自覚が先んずる。土俵を自分で作り、そこで勝手に一人相撲を取っているかぎり負けることはない。そういう姿勢を中野は許さなかった。中野はあくまで文学にこだわった人である。その土俵を政治に譲ることはなかった。

大正4年 1915 対華二十一箇条要求
大正5年 1916
大正6年 1917 石井・ランシング協定、ロシア10月革命
大正7年 1918 シベリア出兵、米騒動
大正8年 1919 パリ講和会議、三・一事件(朝鮮)、五・四運動(中国)、ヴェルサイユ条約
大正9年 1920 国際連盟(常任理事国)、普選要求大デモ行進
大正10年 1921 原敬首相暗殺
大正11年 1922 ワシントン海軍軍縮条約締結、日本共産党非合法結成、ソ連成立
大正12年 1923 関東大震災、甘粕事件(大杉栄ら扼殺
大正13年 1924 右翼団体国本社(平沼騏一郎)、護憲三派内閣
大正14年 1925 治安維持法、普選法
大正15年
昭和元年
1926 万歳デモ(朝鮮)
昭和2年 1927 昭和金融恐慌、第1次山東出兵、芥川自殺
昭和3年 1928 普通選挙、3・15大検挙、第2次山東出兵、特高設置
昭和4年 1929 4・16大検挙、ニューヨークで株価暴落、金解禁(井上準之助)
昭和5年 1930 ロンドン海軍軍縮条約、4月共産党大検挙、浜口首相狙撃
昭和6年 1931 三月事件、十月事件(桜会クーデター未遂)、満州事変、金輸出再禁止(浜口)
昭和7年 1932 上海事変、井上準之助射殺、団琢磨射殺、満州国創立五・一五事件犬養首相射殺
昭和8年 1933 国際連盟脱退関東軍華北に侵入
昭和9年 1934 ワシントン海軍軍縮条約廃棄通告
昭和10年 1935 国体明徴決議、相沢事件(永田鉄山惨殺)、高橋蔵相軍部の予算復活要求退ける
昭和11年 1936 二・二六事件、日独防共協定

« 女性にもてるということ | トップページ | 三宅宏美選手全日本選手権4連覇 »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 女性にもてるということ | トップページ | 三宅宏美選手全日本選手権4連覇 »