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2011年5月28日 (土)

「人間ちょぼちょぼ論」の功罪

 ちょぼちょぼ:[形動]前者と同じであるさま。両者に優劣をつけがたいさま。「両者の力量は―だ」

 人間なんて、個人差はあるにしても、その差の大きさはわずかなものである。立派な(と言われている)人を見て、自分はだめな人間だと卑下せず、自信をもって生きようじゃないか。これが「人間ちょぼちょぼ論」の趣旨である。

 どんな立派な人間にも弱点がある。われわれが見ているのは「表向き」であって、その内実は身近にいる人にしか分からない。あるいは、本人にしか分からないこともある。
 どんな美人にも悩みはあるだろう。多くの男性から好かれていても、その気持ちの対象は単なる見かけの美しさであって、本物の人格ではない。彼女を深く愛せる男は一人しかいないとすれば、どんな男にめぐり合うかで人生の幸不幸が左右されるだろう。逆に、凡人に比べ多くの不幸を背負わなければならないのかもしれない。人気絶頂だったタレントが次第に落ちぶれ果てていく姿を見たことがあるだろう。

 大半は平凡な人間ではあるが、それぞれ相対的にすぐれた要素を持っているのであり、そのことを信じて生きていけばよい。「私だって捨てたもんじゃない」の心意気である。

 以上は、自分の存在価値を見失わないための方便として有効な「人間ちょぼちょぼ論」である。しかし、論法は使い方、あるいは使う場面を間違えると凶器に変わる。「あんな奴大したことない論」である。
 この論は、業績を残した人、成果を出した人に対する正当な評価を妨げることになる。結果の裏にはそれ相応の努力がある。才能もあるが、それだけでは結果は出ない。少なくとも継続的には出ない。その努力を認めないことは、自分の怠けへの言い訳になってしまう。こんな考え方に陥ってしまうと、未来に向かって伸びていく可能性の芽を自分で摘み取ってしまうことになるのである。

 いちばん大事なものは、自分にはまだまだ足りないところはあるが、努力次第で成長することができるという、自分に対する信頼感であり、自己愛であると思う。完成されたものとしての自己ではなく、未成熟ではあるが可能性を秘めたものとしての自己への限りなき愛である。

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