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2011年5月30日 (月)

「譲れない価値」

 日本人は、現世主義、実利主義が強いと言われる。集団のなかで大勢に従って生きていることが処世術の一つであり、それは安定した社会のなかでは確かにリスクの小さい生き方であったろう。

 自己の利を超えた、普遍的な理のために生きることを経験してこなかった。日本人とてお上に抗うことはあった。しかし、それは集団の利が脅かされたからであった。足尾鉱毒事件での農民の蜂起にしても、富山のコメ騒動にしてもその範囲である。さかのぼると島原の乱というものがあり、信仰の自由を守るために戦ったかのように見えるが、組織化のシンボルとして宗教が使われたのであって、実際は圧政・重税に苦しむ諸階層の蜂起であったと考えられる。

 長く続くものは容易には崩れない。かつて、「民族精神」なるものが必要ではないかとブログに書いた。それは古きよき時代の精神に戻れということではなく、また民主主義の確立というような単純なものでもない。その中身はこれからも考え続けなければならないが、利を超えたところの理であることは変わらない本質である。

 とはいえ、日本人はこれからも利で動くだろう。しかし、利でさえ動かないというのもまた日本人である。大地震で被災した人たちには生きるために(利のために)動く理由がある。にも拘わらず、テレビを観ている限りでは、首長がいろいろ要求を出してはいるものの住民はおとなしく待っているように見える。これが、最低限の生活は保障されるべきであり、その権利があるのだということを主張できれば、そこに「理」が存在することになるのだが。

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