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2011年5月 3日 (火)

少数派への寛容さ へそ曲がりの効用

 プロ野球の試合開始前に、国歌斉唱と国旗の掲揚が行われる。いつ始まったセレモニーか知らないが、思い起こせば30年前によく見に行っていた神宮球場での早慶戦でも行われていたからずいぶん古くからの伝統なのだろう。とはいえ、国際試合ならいざ知らず、いつも対戦しているチーム同士の試合でそれを行うことの意味が分からない。この場面で国を意識する必要があるのだろうか。神宮でやるから君が代が要るというなら一つの理屈は成り立つように思うのだが。

 早慶戦は大概サークルの連中と観戦していたが、多くはへそ曲がりだったため、起立せず沈黙を守った。「進歩的学生」を自認する学生の伝統として、大勢に迎合することは恥であった。私は今なおへそ曲がりを通している。しかし、最近では私と同じようなへそ曲がりが減ったためだろうか、起立しない者への無言の圧力を感じるようになってきた。

 そのうちに、周りの観客から、あなたはなぜ立たないのかと問い詰められる場面が発生するのではないかと案じている。そんなことが起こりだしたら非常に怖いことだ。電車内で携帯での会話を注意されるのとは異質の問題である。起立しなくても誰にも迷惑をかけない。また、立つ立たないは、個人の信条の問題を含んでいる。セレモニーをやるのはいいとしても、それへの参加はあくまで任意でなければならない。立ちたい人が立てばいいのである。
 へそ曲がりの存在は国民の意識変化を計る試金石になるのかもしれない。そういう意味では貴重な存在だ。一定量のへそ曲がりの再生産がなされることを希望する。

 セレモニーが終わると、ご協力ありがとうございましたとアナウンスが流れる。一体だれに協力したというのだろうか。

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