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2011年4月30日 (土)

扶養の代償としての学び

  学生を卒業し、職に就いて自分で稼ぐようになると、過去の甘さを次第に感じるようになる。職に就く前は、生産活動に携わっていないわけで、基本的には消費だけしている存在である。学生は、扶養される代償として学ばなければならない。「学ぶ」とは、ただ授業を受けるだけではなく、本を読んだりクラブ活動をしたりすることも含めていいだろう。

 振り返れば、学生時代、特に大学生の時は暢気なものであった。今から思えば、もっと学問すべきであった。かけた時間が少ない割には良質の著作に触れたことで得るものは大きかったが、無駄にした時間は計り知れない。親に授業料を出してもらったが、その代わりとして見せられるものは極論すれば卒業証書だけである。当時の専門分野についても、卒業してから休日に少しずつ読んで理解した内容の方がずっと豊富である。知的関心を切らさなかったからそうなったので、その点ではそういうことが許される環境にいたことが幸いで、感謝したいとは思うが、逆にいえば学生時代の学びが貧困だったのである。

 昔ほど学生が大事にされなくなった。昔は進学率が低かったから希少価値があったのである。しかし、その根底には一般庶民には理解できないことを学んでいるという前提があったはずだ。いまや少子化にもかかわらず大学生は大勢いる。その知的レベルの平均値はいかほどか分からないが、息子たちを見ていると通っている大学のネームバリューに比較して決して高いとは言い難い。その原因は、大雑把にいえば、本読みが足りないことにあると思う。加えて、議論する機会の欠如にも問題がある。昔は先輩から読むべき本を含めて思想を継承するシステムがあった。この二点から、社会に対する批判的なものの見方が育たないのである。

 批判することと社会を拒絶することとは別のことである。現実はいやがうえにも受け入れざるをえない。しかし批判的に見ることで、自分との間に距離を空けることができるのである。そうすることで、発言に客観性を帯びてくる。また、これは仕事にも活きてくる。

 食わしてもらっているんだから黙って勉強していろとは言わない。しかし、勉強してからものを言えとは言いたい。こちらが知らないような議論を吹っ掛けられることがあれば、今の学生にも一目置くことができるのだが。

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