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2011年4月 9日 (土)

被災者の心的ストレスから考える人間の問題

 被災された方々の多くは何らかの形で健康を害されていることだろう。まず、食料の不足によって必要な栄養素が摂取できないことによる体力の低下があるだろう。避難所生活における運動不足も体力低下につながっている。衛生状態の悪化によって感染症が発生すれば一気に流行する条件がそこにある。

 一方で、心の健康の問題がある。被災した時の恐怖が心(脳)に深い傷を刻み込んだ。引き続く余震は、心の傷に塩を塗るようなものだ。また、避難所というプライバシーが守れない環境での生活は常にストレスをかけ続けている。

 こういう状態が継続すれば正常でいることが難しい。当然手をこまぬいているわけではなく、食料品の補給をおこない、マスクや消毒液の配給、体操の実施などで病気を防ごうとしているし、できるだけ顔を見知った同士が近くに位置どるようにしたりとか、ボランティアの協力で音楽を聞いたり歌を歌ったりなどしてストレスの緩和に努めている。

 ストレスは避難している人々だけの問題ではない。幸いにして自宅が無事だった場合でも地震への恐怖はいまだ消えない。またテレビなどで地震や津波の映像を繰り返し見ているだけでもストレスがかかっている。特に子供の場合は影響が大きく、ケアが必要な場合もあると聞く。直接の被害はなくても、侮れない問題があるのである。

 ところで、巨大地震のもたらした災厄はいたるところに見られるのだが、考えてみれば人間が被っている災難は地震に限った事ではない。たとえば、戦争というものの一般人への影響はどうだろうか。
 戦争は天災ではなく、人災である。人間によって意図的に攻撃されるものである。場合によっては軍事基地や施設、交通網、生産拠点など「物」の破壊が目的とされるが、「人」の殺戮も戦闘の主要な目的の一つである。また標的が「物」だったとしても、物には人が付いてくるわけだから人に災厄をもたらさない戦闘などありえないのである。

 人に狙われている、しかも恒常的に狙われている人間のストレスはいかほどのものであろうか。地震によるストレスがあのように厳しいものであるとすれば、戦争のストレスは想像を絶せるものである。そしてそれは、アフガンであり、パレスチナであり、リビアでもって今なお現実としてあるのだ。そう考えると、人間とは何という「受苦的」存在であるか、苦難を背負って生きなければならない存在であるのかと、絶望的気分に陥ってしまう。

 しかし、そんな気分に長く浸っている場合ではない。自分の生きている空間は被災の現場、戦闘の現場とつながっている。われわれの生活は、被災地の生活と、戦地の生活とつながっている。すべての現象には必ず原因がある。遠くで戦われている戦争の原因の一部は自分が所属する国家にあるのかもしれない。あるいは、自分の生活の仕方に関わっているかもしれない。

 難しい問題ではあるが、無関心ではいられない。

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