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2011年4月 3日 (日)

自然と人間 無力であっても立ち止るな

 マグニチュード9という数字で表わされる巨大なエネルギーをもった地殻の変動が起こり、日本の国土を激しく揺さぶり、同時に強大な海水の塊が動くことにより沿海部の町が破壊された。これは想定外であろうがなかろうが、地球という天体の変化のなかの一現象であり、複雑ではあるが物質の運動の結果生まれた現象だと言うこともできる。

 この運動に対して人間は何らの影響力も持つことができない。確かに、人間の営みによって大気中の二酸化炭素濃度が高まり、それが原因で大気温が上昇し、氷河や氷山が溶け出して海水面を上昇させるなどの環境変化を招いていることも事実ではある。産業革命以降人間の行為がかなりの範囲で影響を与え始めたことも無視できない。とはいえ、温暖化現象を取り上げても、二酸化炭素が原因であるという説は80%正しいというのが学界の評価らしいのだが、それとは別に人間の行為とは無関係に進む自然の変化の中にも温暖化につながる要因が含まれていることも否定できないのである。したがって、自然を中心に歴史を見た場合には、人間の力などは全くと言ってよいほど無力であるという事実を認めざるを得ない。

 地震の圧倒的な威力の前にわれわれはなすすべなく、腰を抜かして佇んでいた。そして3週間あまり経過して、受け入れがたい現実を受け入れ、崩れた石を積みなおそうとしている。

 しかしだ。ここからが大事なことである。自然に対する無力を思い知ったとはいえ、自然に対して無作為無防備であってよいということにはならない。そもそも人類の出発は自然に対する作為にあった。あえて「本質」という言葉を使うならば、その自然に対する作為こそ人間の本質である。繰り返し自然によって破壊された作為であるが、それに懲りることなく新たな作為を始めるしかない。もちろん、生きていくための環境を維持するために、「自然との共生」という考えを組み入れてインプルーブした合理的な精神が不可欠である。

 繰り返すが、自然に対して無作為無防備であってはならない。こういう事態に乗じて、非合理な精神が闊歩することを恐れる。

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