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2011年4月 3日 (日)

行為(発言)の客観的な意味 知識人の責任について

 当り前のことだが、人間の行為における主体の側の意図と、その行為が持つ客観的な意味とは別ものである。

 世論に対して影響力を持つ人間の発言はできれば注意深くありたい。意図が純粋であっても、それがあらぬ方向に流れて想定しない世論を引き起こしたりする。世論はこう着した現実を動かす力を持っている。
 あとのことまで考えて発言などできない。結局は信ずるところを語るしかないではないか。もっともである。あらゆる人間が戦略家であることはできないし、その必要もないだろう。要するに自己規定の問題である。

 一般論として、少なくとも政治家は戦略家である必要がある。失言を繰り返して失脚する政治家は思慮が足りない。もっとも、よくよく考えてみると、失言とは言い間違えではなく、迂闊にも本音を口にしてしまうことなので、そういう政治家は早く姿を消してしまう方が世のためになるのかもしれないし、そういう人の心配まで私がしてやることはない。

 評論家という立場はどうだろうか。自分のことを評論家だと思っている人もいるし、職業は別にあるのだがコメンテイターとしてテレビに出ているからそう周りから呼ばれているだけの人もいる。あまりにたくさんの評論家がいるので、またあまりに質の悪い評論家が多いので、受け取る側も大概いい加減に聞いていることが多いかもしれない。それならば、大した影響力はないと思ってもよさそうだが、一般大衆がインタビューをされて発言する中身はどこかで聞いたような内容が多いので、知らぬ間に誰かの発言がインプットされているのかもしれない。もしくは逆に、大衆が考えるようなことしか評論家が発言できていないという捉え方もできる。

 評論家のなかにはきらっと光るコメントが言える人もいる。そういう人は、たまたまそういう発言ができたのではなくて、安定していい発言ができている。それは自分の拠って立つ立場が自覚できているからだろう。誰しも特定の価値観を持っていて、それを基準にして発言しているのであるが、そのことがよく理解されず情動的に語っている人がいる。
 自分の立場を理解している人は、自分の発言の客観的な意味もまたよく考えているに違いない。その場の議論が視聴者には分かりにくかったり、誤解を生むようだったら、方向を修正するために論旨の明瞭な主張を発することもできる。これはかなり高等な行為ではあるが。

 自由に発言できることは、民主主義の基本である。思ったことが口にできないでは、窮屈で発展性に乏しく相互不信の社会になってしまう。言いたいことは言うべきなのである。
 そのことと今まで言ってきたことは別の問題である。「自己規定」の問題だと言ったのはそのことである。自分と大衆との距離を自覚し、大衆とは別者としての自己を規定する。そしてその立場における責任とは何かを考える。言いたいことをいうレベルから、言わなければならないことを言うレベルへ。そして結果にも責任を持つ態度へ。これが、「知識人」として自己を自立させる道である。

  知識人という職業はない。どんな職業に就いて生活の糧を稼いでいても、同時に知識人であることができる。工場に労働者として勤務していても、一般の労働者が読まない本を読み、一般の労働者が持たない概念で社会を把握し、一般の労働者が使わない言葉で彼らに語りかけたならば彼はすでに知識人である。
 芸術家も知識人でありうる。画家ならば、絵を描くという行為とは別に、知識人としての行為が考えられる。文学者の場合は分かり辛いが、文学作品を書くという行為と肉声で社会に対して発言する行為とは別物である。

 ただし、一番厄介なのは、自他ともに評論家と認める人間である。彼らは社会に向けて発言することがそもそもの仕事である。だから仕事そのものが知識人としての行為となりうるのだ。しかし、当然ながら無条件ではない。自覚と発言の質において、基準をクリアしていなければならない。もっとも、その基準はどこかで明確に決まっているようなものではない。敢えて言えば、それは現日本の知識人層全体の水準であり、それを背後で支える世論の水準である。つまらない評論家がおのずと淘汰されるような質があるのならば、今の日本にも光明はあるのだが・・・・・。

 話がまとまらないので、メモ的に要約しておくと

1 知識人という職業はない。
2 知識人論において一番大事な観点は、自己規定の問題である。自分を特に大衆との関係においてどういう立場に置くかということ。またその覚悟を持つということ。
3 Aさんは知識人であり、Bさんは知識人ではないという評価は可能であるが、何か定まった基準があるわけではない。敢えて言えば、2で規定したような洗礼を受けているかどうかである。本人に聞いてみなければはっきりしないが。しかし、それにしても主張に質が伴っていなければ話にならない。
4 評論家の自身の発言に対する責任は重い。彼らこそ、2で規定した自覚を持ってほしい。

 以上だが、昔と違って大衆と知識人の区別などなくなっているという意見もあるだろう。高学歴化や社会全体の保守化などを背景としてその指摘は一定の説得力を持っている。しかし、世論をリードする役割の必要性まで消滅するほど大衆は塊として自立しているのではない。国家のとる政策に翻弄され、マスコミの報道に惑わされながら生きているのであるから、それに対抗してまともな道を示すオピニオンリーダーは不可欠である。
 その場合に、より自覚的な層が、自らの態度を律するために、この知識人としての自己認識の枠組みが必要だと言いたいのである。

 

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