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2011年4月10日 (日)

坂口安吾 堕落論

 15年戦争は敗戦で幕を閉じた。制度とか慣習などを一回ご破算にして、生身の人間に戻ってやり直そうじゃないかという論である。人間は自然状態にとどまっているわけにはいかないから再び制度を作り、それに縛られて生きていくしかないのだが、それにしても本性を理解しておく必要がある。

 なぜ武士道なるものが存在しているかと言えば、それは日本人がそれとは遠く離れた存在だからである。一人の主君に死ぬまで仕えることなどできず、自分の都合次第で簡単に乗り換えてしまう。天皇を担ぐのも自分に権威を付けるためのいわゆる権謀術数でしかないのである。
 戦争で死に対する感覚が麻痺したのであろうか、街に人が倒れていようが無関心であり、空襲で焼けている建物を消防隊が消火しているその脇で、燃える炎で暖をとっている人々がたむろしている。あるいはまた、焼け野原になった街にあっても、若い娘たちはけらけらと笑い声を上げている。これが正味の人間であり、虚飾を捨て、この状態に一度落ちる必要がある。それを堕落とよんでいるのである。

 初めに書いたように、人間は墜ちきれない。「墜ちぬくためには弱すぎる。人間は結局・・・・武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎ出さずにはいられなくなるだろう。」と安吾は言う。しかし、新しい制度や規範は、どこかで作られた出来合いのものに置き換えるのではなく、裸になった自分自身の手で築き上げたものでなくてはならないと言うのである。

 人間の見方において私とは違うところが多いが、敗戦後の社会の再興にあたって、一人ひとりにそのあり方を問うているところに真摯な態度が見られ、また読む者に迫りくる力強さがある。それは、空襲が頻繁にある首都から逃げ出さず、現実を見続けたことから生まれる説得力ではないだろうか。

 戦後日本人は民主主義の制度と一定の自由を手に入れた。それをアメリカから授けられたものとして揶揄する向きもあるが、その解釈は当たらないだろう。戦争中に国民が失ったものは計り知れない。その代償としての解放であり、解放から自立へと向かうための手段として制度はあったのだ。しかしながら、制度としての民主主義はあり、安保闘争や労働運動などを通じて鍛えられたものの、それは文化として、すなわち意識や行動として十分に定着しなかったのではないかと考えられる。もちろん、それが不都合である勢力がそれを阻止しようとしたには違いないが、それを撥ね返せなかったところに民主的勢力の課題が残ってしまったと考えてよいのではないだろうか。

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