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2011年3月 1日 (火)

日本の大学と教育(自らの経験から考える)

 1979年4月に私は早稲田大学に入学した。第一志望だった学部に合格したことで結果に満足感があったし、希望も抱いていた。

 先日書類を整理していたら、大学1年生の時のクラス名簿が残っていた。1年生だからこそできた名簿である。以降クラスというものは実体として存在しなかった。
 そこには出身高校やこれからの抱負が書かれている。ラ・サールあり、開成あり、麻布あり、学芸大附属あり、その他多くの進学校が目につく。私のように全く無名の高校から来ている者は少ない。そんななかでも入学者はいくつかのグループに層別される。まず東大が第一志望だったが落ちて不本意ながら早稲田に来た組。これは東大崩れというらしい。次に早稲田を狙い通りに突破して入ってきた組。最後はあちこち受験して上手く早稲田に引っかかった組。私は第2の組で、一番満足度の高いグループと言えるだろう。友人のK君は、自分は第3の組だと語っていたのを覚えている。全国的に著名な進学校から来ている者の多くは第1の組に入るのだろう。
 抱負は大半が前向きで、勉強したいと書いている。なかに数名、徹底的に遊ぶと宣言しているものがいるが。入りたての自己紹介だから、建前が入る。厳しい入試を通過して、はっきり遊びたいとは言わないものの、しばらくはゆっくりしたいというのが皆の本音であったと推測する。そして、テニスのサークルや旅行のサークル、スポーツの同好会などに入り、講義にはあまり出ず、小遣い稼ぎでいくらかアルバイトをこなし、試験前にノートのコピーを集めてそこそこの成績をとって卒業していったのである。

 入学して私を捉えたのは建前上社会科学を勉強するサークルだった。私のアイデンティティーは早稲田の学生であることよりもこのサークルの一員であることにあった。ここで学んだものが大きかったと今でも思う。しかし、逆に言えば、正規の講義から学んだことは皆無であった。講義に出なかったのだから当然のことである。学ぶ機会を放棄してしまったことへの反省は必要であり弁明はしないが、大学の側にも問題があった。
 「マスプロ化」という言葉があった。学部で一学年の人数が千数百人もいた。四学年合わせると6千人程度いたと思われる。これだけの学生が密度の濃い教育を受け、自ら研究に打ち込めるだけの条件はなかった。まず物理的に施設が貧弱だった。試験の期間中は皆登校するものだからキャンパスが大変混雑した。友人に言わせると、カリキュラムは何割かの学生が登校しないことを前提に作ってあったのだ。また、教授陣が質も量も貧弱だった。このことはかなり多くの学生の共通認識であったので、私も参加した有志での改善要求には強い支持が集まった。その運動がどれだけ影響を与えたか確証はないが、そんなことを考えなければならない状況にあったことは間違いない。早稲田と言えば、慶応と並んで私学の雄というイメージがあるが、実態はこんなものだった。

 ある印象的な出来事がある。私の所属するサークルは校舎の地下にあった。べニア板で囲った粗末で汚い部室だった。あるとき、そこにアメリカからの(たぶん)留学生が数人やってきた。英語でまくし立てるので意味が分からいないが、どうやら核兵器についての意見を聞きたいと言っているようだ。一所懸命聞き、答えたいと思うのだが、こちらに能力がない。そのうち、こりゃだめだという表情とポーズをとって引き上げていった。早稲田の、世間では一番優秀だと思われている学部の学生がこんなにも無能だと分かって呆れたのだろう。

 実は、これが日本の大学の正味の姿である。早稲田でこれである。当時から早稲田では凋落傾向にあると自虐的なギャグが口にされており、実際慶応に大きく水を開けられてしまったが、他の大学はもっとひどいのかもしれない。もっとも、偏差値は早稲田より低くても、まじめに教育活動に力を入れている大学もあるに違いない。とはいえ、大学経営の厳しさはどの大学でも同じだろうから、やりたくてもできない客観的条件があろう。

 大学は大衆化してしまった。だれもかれもが学問において世界的な水準に達することはない。大学は研究の場である前に、教育の場である。社会人あるいはビジネスマンとして生きていくうえで必要になる考える力と知識を身につけて卒業すればよい。そのなかの一部のとりわけレベルの高い連中が研究段階に進めばよいのである。

 問題は、最低限の能力と知識が身につく環境があるかということだ。まず学内の環境。教室や図書館やラウンジなどの基本的な施設の確保。また教員の充実。加えて、勉学に打ち込めることを保障する社会的な条件はどうか。最近では、高い授業料と生活費を稼ぐためにアルバイトに追われたり、奨学金を借りたりで大変だという。もちろん、一人ひとりの学生にしてみれば泣き言を言っている場合ではないが、社会的な視点で見ると問題は大きい。

 これまで政府の失政で税金が無駄に使われて財政が悪化し、教育予算の増額を要求しても通りにくい状況にある。日本の世界における存在感を高めるためにも人材の育成は急務であり、教育投資は欠かせないのだが厳しい。しかし、この問題は避けて通れない。活路はここにしかないのである。

 学生から知的好奇心が失われていくように見える。それは単なる誤解であればよいのだが。大人に交じってもそん色ない、あるいは大人を負かしてしまうほどの主張を期待したい。

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