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2011年3月20日 (日)

西村賢太 「苦役列車」

 小説は、あとで感想文を書くことを想定しないで読み進む。途中であれやこれや(文章の流れが悪いだの、言葉遣いが粗雑だの、見方が狭いだの)考えてしまうと、素朴な読後感が得られないからだ。

 芥川賞受賞の「苦役列車」は読んで面白い作品ではある。実体験に基づいているからリアリティーがあるとは限らないわけだが、この作品にははっきりとした輪郭を持って伝わってくるものがある。それは存在にフィットしたごつごつした文体のせいだろう。これが、清水が流れるような美しい文体だったら違和感を覚えるに違いない。

 西村氏を写真で見ると、中上健次を思い起こす。実際のところはよく知らないのだが、骨太で、肉体労働をしており、喧嘩が強いというイメージである。しかし、作品やインタビューなどから判断すると中上のようなスケールは得られないのかと思う。もっとも、あの大作家と比較するのは初めから無理がある。中上は「路地」の問題を抱えており、それは歴史的社会的な視点を持ち込まなければ表現しようのない難問であったからこそ生まれたスケールだったのだ。

 私小説もひとつのジャンルとして悪くはないが、それは日本に独特の限られた分野であり、時間的にも空間的にも発展性は乏しい。小説というよりは、変種のルポルタージュと捉えた方がすっきりするのではないかと思う。それもまた文学には違いない。西村氏がインタビューのなかで、「細々とやっていきます。」と答えていることは、やや謙遜が含まれているのかもしれないが、自らの限界性を自覚した発言ととらえれば評価できるものである。小粒だが光るものになる可能性はある。

 選者の評価を見ると、いつも受賞作を腐している石原慎太郎氏がこの作品を高く評価している。高評価の理由は正直よく分からないのだが、「豊穣な甘えた時代」に対する「反逆的な一種のピカレスク」だと言っている点がポイントである。彼にとっては、あくまで「豊穣な甘えた時代」が問題なのである。それは大震災に対する都知事としての発言からも読み取れる。その良し悪しについてはここでは触れないでおくが、あまりに大きな出来上がった概念でものを見ていくと、生の現実がすくいあげられないのではないかと思う。
 一方、高樹のぶ子氏はこの作品に批判的である。体験を描くのはよいが、そこから生まれる人物の内的変化こそが重要であり、そこを期待したかったと言うのである。文学の立場で言えば、非常にオーソドックスなまともな見方であると思う。もちろん、これはこの作品に限ってのことであって、高樹氏の期待に応えられるかどうかは西村氏自身の成長にかかっている。

 最後に、インタビューで触れられていたが、「フリーターの希望の星」との取り上げ方をされるらしい。しかし、西村氏の日雇い経験はバブル期前後であり今とは様子が違っている。また、家庭の特殊な事情でもって中卒後の労働を強いられている点は、今のフリーター問題と同列視できない。今の問題は、大学を出ても職がなく、希望を失って生きざるをえないという状況にある。その点では、伊藤たかみ氏の「八月の路上に捨てる」などの作品の方が現実を写している。
 もし西村氏が「フリーターの希望の星」でなければならないのなら、フリーターをしながらその悲哀を描き続けるしかないだろう。

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