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2011年2月28日 (月)

中東の反政府行動から考える市民の政治

 大衆、市民、労働者といった概念で表わされる人々が、日々生産と消費を繰り返して社会の基礎を維持している。これは、技術、産業構造、消費生活などがどれだけ近代化しているかにかかわらずどんな国においても同じである。

 どんな国でも国家による統治を受けている。政治の形はさまざまある。国によっても違うし、時代によっても違う。日本でも、江戸時代と明治時代と高度成長期を経た現代とでは違う。かつては共同体が統治の基本にあったが、今は共同体というものが実体としては消えつつある。特に都市においては、住民は互いに孤立し、職場や学校などと家を行き来するだけになっている。共同体は統治の基礎になっていたと書いたが、逆にそれは反統治の基礎にもなった。要するに共同体は経済の基礎であると同時に政治的な機能も持っている。

 先進国においては選挙制度があり、議会が構成されている。日本では市民の政治参加はほとんど選挙行動に限られていると言ってよい。民主主義の進んだ国では日本に比べて政治参加が進んでいると思われるが、それでもそれが日常茶飯事の行為になっているわけではなく、大半が「生活」に時間を費やしている。後進国、すなわち経済に遅れがあり、政治的にも民主主義が未成熟な国においては主体的な政治参加は全くない。独裁政権が長期にわたって統治し、支配者のための政治が横行し、市民の生活の改善は遅々として進まない。政権が発足した当時は何かしら国家の利益を守るという大義があったのだろうが、それはすぐに支配者のみが潤う体制へと転化していった。爾来、市民、大衆、労働者は抑圧され、政治的な行動の可能性を遮断されて耐え忍んできたのだが、チュニジアに始まった広範な反政府的行動が広がりを見せ始めたのである。

 この動きが始まったことの原因についてはさまざま説がある。ひとつは、徐々に拡大する貧富の差が耐えがたい水準にまで達していること。また世界的な食料品の高騰が市民の生活に危機的な状況をもたらしていること。加えて、インターネットの普及が他国の状況を伝えることによって自分たちの生活苦がきわめて理不尽なことであることを知った点も上げられているし、インターネットによる政治行動の呼び掛けの効果も力説されている。同時多発的に起こっていることの原因としては、このインターネットの役割が重要だと思われる。

 今後の展開だが、心配されるのはこれまで政治行動が抑圧されていたために現政権に代わる市民の利益を代表しうる勢力が育っていないことだ。その結果、新しい政権の運営が軍の影響下に入ることが予想される。民族自決の原則からいうと、しばらくの期間はそういう状態も甘受しなければならないかもしれない。外国が関与して無理やり形を作っても、中身のある体制は定着しないだろう。

 それに比較して日本はどうなのだろうか。選挙で議員を選ぶことができる。また世論調査の影響は絶大で、支持率の急落は政権交代を促すこともできる。しかしながら、選んだ議員、政党が期待通りに動いてくれない。多少の諦めは感じながらも、基本的にはマニフェストを基準にして選択したはずである。それが反故にされるのなら、何を信じてよいのだろうか。日本にもっと直接的な政治行動が根付いていたら、今頃はデモでも起こっていて不思議はない。ここ数年で、そういう行動を見かけたのは非正規労働者が雇用を求めて行ったデモ行進ぐらいである。革新政党や労働団体の影響力も落ちているのだろう。それ自体が日本の民主主義の衰退を表している。いや、それを言うなら国会の空転、機能低下が民主主義の危機を表しているのだ。

 中東における民主主義の成長を案じるなかで、日本の民主主義の危機を感じてしまった私だった。

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