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2011年2月11日 (金)

老いるだけでは・・・

 知人のMさんからいただいた年賀状にこう書いてある。「歳をとって、歳をとれば賢くなるということが間違いだと分かりました。」

 Mさんは私より一回り以上年上であり、今はリタイアして悠々自適とまではいかないまでも一人でのんびり暮らしているようだ。三十代で離婚し、故郷に帰って私の勤め先と取引のある会社に勤務していた。ある業界紙の記者をしていた経験があり、博識であった。出張すると家に泊めてもらい、いろいろは話をした。映画の話をしても話が通じるので面白かった。今から考えると少しニヒルな面があったかもしれない。

 そういうMさんだから、歳をとるだけで賢くなるなどどは思っていなかったはずだ。それにもかかわらずあのような言葉が出るのは、「もう少しできたはずだ」という小さな悔恨があるからに違いない。

 「もう少しできた」という思いは、多くの人に共通したものではなかろうか。私は完全燃焼しましたと言える人間は、正真正銘の天才か、志の低い人ではないか。誰しも夢を抱くものだが、夢に向かって具体的に前進を始める者は少なく、そこにおいて力を出し切れる者はさらに少なく、夢を現実のものとする者はなお一層少ない。
 まっすぐ前を向くことは容易ではない。大半の人間はよそ見しながらおおよそ前に進んでいるのである。それが悪いと言いたいのではない。時に失敗したり、時に手を抜いたりしながら生きている時間のすべてが自分の人生である。最期に満足して死ぬか、後悔の気持ちを残して死ぬか、それは本人の選択の問題である。失敗や苦労の連続であったとしても、生きるに値する人生だったと思って幕を引くことは一つの自己救済であろう。
 いくら家族に看取られながら逝くにしてもこの世を離れるのは一人である。そのときに自分の人生に意味を付与するのは自分自身であり、それを絶対化してくれるのは神や仏の存在である。信仰を持たない人にとっても、最期の最期には絶対的なものが必要とされる。死へ向かうことは、科学では説明できない次元の問題であるからだ。

 さて、「もう少しできた」はずである。「やろうと思えば」という条件が付くが。しかしやらなかった。それはやることで生まれる犠牲を恐れたからだ。それも一つの判断である。すべてを手に入れることはできないのだ。政治家が「自己責任」ということばを使うのは嫌いだが、個々人がどういう生き方を選択するかは、あくまで「自己責任」の領域の問題なのだ。

 やりたいことはだれにもあるはずだ。実際にやるためには、何を捨てるか決断しなければならない。

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