« 映画「あしたのジョー」を観る | トップページ | 出張記(札幌~東京~名古屋) »

2011年2月13日 (日)

科学と倫理性(生命の操作について)

 科学の発達は目覚ましいが、研究が踏み込む領域について倫理の面から様々な議論が戦わされてきた。不勉強なため詳細は分からないが、人間の優劣の評価にかかわり、ひいては人間の選別生命のコントロールにつながる問題が生まれてきたように思う。

 話が跳ぶが、競争馬の世界では速い馬を作るための交配が繰り返される。速いといっても、短・中・長の距離特性があるから一様ではないが、それぞれに対応する能力で秀でたものがあれば種牡馬・種牝馬として生き残ることができる。その選から漏れたものは子孫を残すことができない。

 それと同じこと、あるいはそれに近いことが人間の世界にも起こるのではないかという心配がある。身体的な特徴は遺伝に因るところが大きいし、精神的な特徴にも遺伝子の影響は大きい。そうすると、精子と卵子の組み合わせが操作される可能性がある。現に、そういうことが行われているという報道を安っぽい週刊誌で読んだ記憶がある。具体的には凍結した精子の売買の記事であったように思う。
 出産前の検査で胎児に障害の兆候が見られた場合に産む産まないの判断を迫られることがある。法定の期限内であれば、産む者の意思に任されるのだろうが、折角授かった命だから産みたいという気持ちと、障害を持って生まれることは残念ながら現在の社会では大きなハンデを背負うという現実との間で葛藤を生む。法定の期限を過ぎて堕胎すれば犯罪になるのだろうが、いつの時点から「人間」なのかという問題も科学を超えた判断の世界に属する。それは置いておくにしても、医学の発達は早期に障害の兆候を発見することを可能にするだろう。そうなれば、決して歓迎できることではないが、早々と命を絶たれる胎児が増えるのではないだろうか。

 昨日の新聞に、「脳の領域 発達順序に違い」という見出しの記事が載っていた。個人によって脳が発達していくパターンが異なることが分かったというのである。この研究をした教授は、効果的な教育のためには内容を個人に応じて変えていくことが必要と指摘している。
 この研究結果が定説となり、パターン分けが技術的に容易になったら、教育の在り方に影響を与えかねない。たとえば、幼児はA群、B群、C群に選別され、それぞれ別々の教室に所属し、別々のカリキュラムを与えられる。社会的な適応性からいえばA群がもっとも優秀であるとか、芸術的な能力ではB群が高いとかというような評価が一般化したりする。しかし、そんなことになったら、人間に対する選別がさらに強化されることになる。選別の結果は社会的な地位の差や待遇の差として現れるに違いない。

 科学の発達は、今まで未知だった領域に次々に光をあて解明していく。分からなかったことが分かるようになることは基本的に素晴らしいことであるが、分からない方が人間にとって幸せであるという領域が存在していいように思う。どうなるか分からないという不確定な条件の中で人は可能性を見出し、夢を追い続けるものだから。

« 映画「あしたのジョー」を観る | トップページ | 出張記(札幌~東京~名古屋) »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 映画「あしたのジョー」を観る | トップページ | 出張記(札幌~東京~名古屋) »