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2011年2月27日 (日)

大相撲の八百長問題再考

ブログネタ: 大相撲の八百長問題、どう思う?参加数

 私は、これまで大相撲の解体的出直しを主張してきた。その基本には、相撲を「スポーツ」として捉え、近代化しようという思いがあった。キーになる施策は部屋制度の解体である。部屋における師匠と弟子の関係、兄弟子と弟弟子との関係など旧来の封建的な関係を温存したまま「スポーツ」に値する競技は成り立ちえないと考えたからである。

 意見の分かれ目は、相撲を「スポーツ」でなければならないと考えるか、昔ながらの「興業」でよいと捉えるかのところにある。私は前者だが、後者であれば、極論すればプロレスの興業と同じように考えればよいことになる。普通に考えれば分かることだが、真剣勝負の格闘技で連日試合を持つことは厳しい。怪我の恐れが付いて回る。大相撲にしても、プロレスの選手たちもある意味運命共同体なのであって、競争関係はあったとしてもお互いに生活のために手を結ぶ必要があった。プロレスの場合はあまりに極端だが、大怪我をしない範囲で技を繰り出す必要があるし、観客を喜ばす筋書きも営業上求められる。大相撲も程度は違うにしても同じ要素が付いて回ってきたのである。

 千秋楽で8勝6敗の力士と7勝7敗の力士が対戦したときの勝敗のデータを調査した学者がいた。数字だけ見ると8勝している力士の勝つ確率は高いのだが、勝ち越しがかかっている力士の方が必死になるだろうことを考えると7勝の力士の勝率がやや高くなるかもしれない。ところがデータでは、7割程度の率で7勝7敗の力士が勝っている。
 両者にとってこの一勝の価値は全然違う。ボクシングのように同じカードが組まれる可能性の少ない競技とは違い、相撲の場合は何十回となく同じ対戦が組まれる。お互いに同じ組織で長く仕事をしてきた人間同士であったら金銭の授受はないにしても、、そこに星の貸し借りが発生しても不思議ではない。これを八百長と呼ぶなら、これを無くすのは難しそうだ。

 このようなことが起こる条件があるのであったら、社会から「スポーツ」として見られても困りますと明確に意思表示をして、これからも大相撲は興業として存続する立場に立てばよい。同時に公益法人の看板は返上する。ファンはプロレスよりも上等ではあるけれども、純粋なスポーツではないことを承知して観戦する。こういう枠組みがありうる。

 繰り返すが、スポーツ化するなら部屋を解体し、親方は辞職し、力士は個人プレーヤー化しなければならない。そうなると年に90番もとることは難しくなるだろう。

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